ノア③
「聞かなくていい。聞かなくていいからね……」
毒で苦しくなる中、俺の耳を塞いだ彼女の手の温もりや声色に、涙が出そうになった。
たぶん、『俺は何も悪くない』と言ってくれているような気がしたから……。こんなにも俺の存在を認めてくれる心強い味方がいるんだと、思えたからだ。
この黒髪のせいで『気色悪い』とか、『汚い』だとか、散々言われてきて、今更何を言われたところで俺はどうとも思わない。慣れてる。……でも、震えた手を俺の両耳にあてた時の姉さんの表情は、怒りと哀しみが入り混じっていて、まるで俺の苦しみ全てを一緒に抱えてくれているみたいだった。
本当に、なんなんだろう。ずっと不思議なままだよ。
それでも姉さんのそばは、とても居心地が良くて、心が満たされる。離れがたい。
いつのまにか俺にとっても、セリンセという不思議なお嬢様は、何にも変えられない唯一無二で、かけがえのない存在になってしまった。
「お兄様、その解毒剤もう一本ある?」
毒がまわり意識が朦朧として、視界に映る彼女の姿がボヤけはじめていたその瞬間……
「っ」
ふと気づけば、俺の唇に柔らかくて温かい感触が伝わる。その初めての感触に驚いて、重かった瞼が徐々にもち上がった。姉さんは俺に、口移しで解毒剤を飲ませようとしていたのだ。
なん…っ、で…………
そこまでして俺を助けようとする彼女に、ひどく胸が締め付けられた。
どうして俺なんかのために、こんなことができるというのだろう。
いくら俺達双子が未来に授かるという、戦士の力を利用して地位を得ようとしているとしても、ここまでする必要はない。
違う…、本当はもうとっくに気づいてる。姉さんがそんなこと関係なく、俺達のことを大事に思ってくれていること。毎日一緒に過ごし、彼女のことを見ていればわからないはずがなかった。
お嬢様らしくない言動はいつも不思議だけど、見ていて飽きない。
日頃からピピとアレク兄さんを二人にさせようとするのも、二人を仲良くさせようとしているとわかったけど、なぜか毎回思い通りにいかずに空回りしていた。そして俺は慌てる彼女をこっそり見て笑うのだ。
二人に取り合いにされ、わかりづらいけど困った顔がまた可愛くて、そんな彼女をしばらく眺めては、「ノアっ」と俺に助けを求める姿に心臓が高鳴る。
そんな、昔では考えられないような、日常の幸せというものを。姉さんが教えてくれた。
人の多い所が苦手なはずなのに今日の祭典に行くと言い出したのには、何か理由があると思った。一人で行くことを強調していたから、好きなやつにでも会いに行くのかと思って俺は少し苛立っていたような気がする。だから断固として譲らなかった。姉さんが恋をしていそうな人間を見つけ次第潰してやろうと思っていた。
しかし実際に城下町を回っていても色恋めいた素振りはなく、それとは別の緊張のようなものを感じて、無意識に毒味をした串刺しを彼女の口に入れてしまう。そんな無礼なことをしたにも関わらず、彼女は顔を真っ赤にして食べると言ってくれたので、しばらく俺は調子が狂っていた。
この時の俺はすっかり浮かれていて、姉さんがなぜこの場所に来たかという、本当の理由を知らなかった。
小広場で姉さんの様子が突然おかしくなり、俺と兄さんに先に帰っていてほしいと告げた後、わざとひとりの少女にぶつかった。その独特の甘い雰囲気を纏った少女が、暗殺者に狙われていることをわかっていたからだろう。
姉さんは稀に、まるで未来を知っているのかのような行動を取ることがある。もしかしたら再びなんらかの神のお告げを見て、この祭典に来たのかもしれない。
そしてもう一人の暗殺者に吹き矢を向けられたその少女。姉さんが咄嗟に庇うようにして地面に倒れ込もうとした瞬間、俺の体は勝手に動き、「セリィ!」と彼女の名前を叫んでいた────。
黒い髪をした俺に口移しをするという思わぬ衝撃の出来事に、周りからは悲鳴が聞こえ、また罵倒する声も聞こえてきた。
「なんて穢らわしい」
「よくあんなことができるわね」
「二人して汚いからお似合いじゃねぇ?」
やめろ、姉さんは汚くない……穢らわしいのは俺だけだ。俺の大事な人を傷つけるのはやめてくれ……
そう叫びたくても声がうまく出ない。俺の中を黒い気持ちが支配しそうになった時──
「ノア、帰ろう?」
俺の顔のすぐそばでそう言った彼女の一言に、不思議と全てがどうでもよくなった。
……彼女から溢れる優しさは、どこまでも心を見透すような優しさだ。
取り繕った優しさでも、気を遣った優しさでもない。その輝きは、闇をもろともしない。
あぁ。このおもいは、本当に言葉にならない。言葉にできないな……
解毒剤の効果で呼吸が落ち着いた俺は、ひどい眠気で目を閉じる。そんな俺をアレク兄さんは背中に担いだ。
「セリィを守ってくれてありがとな」
そう声が聞こえた。
愛、しかない。この家系は、愛が深すぎて心底泣きたくなるんだ。
助けた少女と話していた姉さんの言葉も全て聞こえていた。
どこがカッコ悪いのか、ほんとに教えて下さいよ……
そんなことを思いながら、振り返っていたアレク兄さんの横顔がうっすらと見える。どこかを見つめ、初めて見たような嫌悪感に溢れた表情の兄さんを見ながら、俺は完全に目を閉じた。




