素直は美徳
「そんなからっぽの頭でターナー侯爵家の女主人になるつもりなのか? サリィ」
婚約者から放たれた辛辣な言葉に、わたしはぽかんと口をあけた。
マックスはしかし、わたし以上に顔をしかめるとつづける。
「エイヴォン家といえば、国王陛下の母方の御血筋だ。王暦521年、当時の内乱を治めた功績あるお家柄で、いまでも王族のミドルネームにとられるほど――」
興がのったのか、声色は徐々に甲高く耳ざわりなものになる。
頭ごなしに語るマックスのうんちくを聞きながら、わたしは状況を思い返していた。
今日呼びだされたのは、ターナー家の次期当主がマックスに決まったことについて説明を受けるためだった。
マックスのお兄様はもともと病弱なお方で、それでも当主の座に就く予定であったのだが、先日ついに医師から絶対安静の診断を下されてしまったのだ。
体力を回復するのに数年はかかる見込みのゆえ、家督はマックスに譲るつもりだ――ということを、両親ともども屋敷に招待されたわたしはマックスのお父様から聞いた。
マックスはターナー侯爵家の次男、わたしはアンテロープ伯爵家の長女。
幼いころから家族ぐるみで付き合いのあった両家で、年齢の近いわたしとマックスは常にセットで扱われ、結婚もそうなるらしかった。
当主継承権がマックスに移ったことでついに腐れ縁が途切れるのかと思ったけれど、今回のことで婚約について影響はないらしい。
家督についての説明のあと、婚約者であるマックスとも二人で話を、と言われて、部屋に来たのだけれども。
開口一番マックスが口にしたのは、「エルムリッジ領を治めるのは誰だ?」という質問だった。
そしてわたしはそれに答えられなかったのである。
「ぼくだからよかったものの、王族の耳に入れば不敬で罰されてもおかしくないぞ、サリィ。学院に入れば一年生のうちに習う、我が国の歴史の基礎の基礎だ。お前は侯爵夫人になるんだぞ、自覚を持て。王族の前に出ることだってあるんだからな」
なるほど、マックスは叔父上の子爵領地を継ぐ予定だったのが、侯爵位を継ぐことになったのだ。となればわたしも侯爵夫人、王族への謁見の機会は増えるのね。
「ぼんやりするな! そんなことでは婚約は破棄させてもらうしかなくなるぞ」
ニヤニヤと唇の端をつりあげながらマックスが言う。
どうしましょう、なんと答えようかしら。
わたしはそれでもいいけれど、でもやっぱり、おバカすぎて次期侯爵様から婚約破棄された娘なんて、お父様とお母様が困るわよね。
「わかったわ、マックス。少し考えるわね」
「サリィ! ぼくのことは今度からマクシミリアンと呼んでもらおう。それにぼくに対しては敬語で話せ」
「わかりました、マクシミリアン様」
そんなことをしたって、わたしたちも、この関係も、変わるわけじゃないのに。
「そうだ、それでいいんだ。それじゃあな」
言うだけ言って満足げにうなずくと、マックスは部屋を出ていってしまった。
もとから人の言うことを聞かない性格だったけれど、次期当主のプレッシャーで悪化したようね。
さいわいにもいまは新学期前の休暇期間で、学院は入学を受け付けている。
屋敷へ戻るとわたしは両親に「学院へ通いたい」ときりだした。
もちろん財政が苦しいのはわかっている。わたしの下には弟が三人もいて、彼らが王宮で職に就くためには学院を卒業したという証明が必須だ。伯爵家とはいえアンテロープ家の財政ではそれだけでいっぱいいっぱいなのである。
「積み立てていた嫁入り資金を入学金に充ててください。足りなければわたしのドレスと宝石を売ります。一年以内に奨学金の資格がとれなければ、二年目からは通いませんから」
おバカのままではどうせ嫁に行けなくなるのだから、ここで使ってしまったほうがいいだろう。
両親はひどく驚いたようだが、そこまで言うのならとすぐに許してくれた。
***
無事に学院への入学を果たしたわたしは、寮と学院を行き来するだけの生活をくりかえした。
まず補強すべきは歴史の知識だ。
授業が終われば、あとはひたすら図書館にこもる。
貴族然とした子息令嬢たちがキラキラと空気を輝かせながら社交にいそしんでいる歓談スペースを通りすぎ、個人用のスペースに歴史書を運ぶと、読み漁る。
恥ずかしながら生まれてこの方、こんなに本がある場所を見たことがなかった。アンテロープ家にある図書室は父の書斎とくっついていて小さなものだ。
これでは世間知らずなわたしを見てマックスが恥ずかしくなるのもわかるというもの。
本当にわたしの頭はからっぽだったんだわ。
その日もわたしは本をかかえてお気に入りの個別スペースにこもっていた。
人の少ない、壁際のはじっこの席。
〝大陸史全集〟を読破するのがわたしの当面の目標だ。大陸全土の国々の変遷から王族、主要貴族の成り立ちまでが網羅されている全四十巻の大作。
本なんてまともに読んだこともなかったけれど、読んでみると面白くて止まらなくなる。
一日三冊を目標に、閉館の時間まで黙々と読むのがいまの幸せだった。
さて今日も歴史の世界に没頭しましょう――。
けれど、わくわくとひらいたページに、黒い影が落ちる。
「マックス……」
「マクシミリアンだ」
顔をあげれば眉を寄せたマックスがいる。
いつもわたしに向かい合うときのうすら笑いは浮かべておらず、それどころか怒りの見える表情だった。
手に持っていたペンでテーブルをコンコンと叩きながら、マックスはため息をついた。
「ぼくを追いかけて学園までやってきたのは褒めてやろう。しかしなぁ、これ見よがしに小難しい本を積みあげて! 勉強してますアピールか? お前なんかに、こんなに読めるわけがないだろう」
マックスは大声を張りあげ、今度はペンでわたしの頭を小突いた。
ただでさえコンコンのせいで周囲から視線を向けられている。あぁ、ここ、わたしの一番お気に入りの場所だったのに。いづらくなってしまう。
「……申し訳ありません。今後は一冊ずつ運びます。マクシミリアン様」
規定では五冊まで持ち込み可なのだけれど。
わたしは小さな声でそう答えた。
「わかればいいんだ。お前の醜聞は侯爵家の恥になるからな。婚約破棄されたくなければ――」
いつのまにかサリィとすら呼ばれず、わたしは「お前」になっていた。顔をあげれば怒りの消えた顔でマックスはいつもの笑みを浮かべてわたしを見下ろしていた。
ため息をつけばまた怒鳴られるだろうからうつむいたままマックスが飽きるまでをやりすごす。
互いの屋敷や領地ではなく、学院という外の場所で出会ったマックスは、なんだかとても疲れる存在だった。
***
今日もマックスとの約束どおり、一冊ずつ本を運んで読んでいる。
お気に入りの窓際の席は目立ってしまったのと往復が大変なので、書架の近くのソファで読むことにした。
さすが王族も通う学院、ソファはふっかふかで、あまりリラックスしすぎないように気を配らねばならないほどだった。新しいお気に入り席の発見に、マックスとのやりとりは忘れつつあった。
一冊を読み終わり、次の巻をとりにいく。
〝大陸史全集〟の二十四巻。
けれど、棚の上の段にある本をとろうとしてふと気づく。
踏み台がない。
周囲を見まわせば、先ほど使った踏み台は隣の棚に移動されていた。それはいい。
問題は、その上に座りこむ人物。
……マックスだ。
歴史の知識不足だと言ったのは自分なのに、どうしてこうも邪魔をするのか。
ソファ席も奪われてしまいそうな予感に頭が痛くなる。
仕方なくわたしは背伸びをして腕をのばした。
がんばれば指先は届く位置だ。ただし、重厚な装飾を施されたハードカバーの歴史書は、片手でやっと持てるかという重さ。
スカートの中で足を肩幅にひらくと限界までつま先立ちをし、なんとかバランスをとる。
本の背表紙を親指と中指でしっかりつかんだ。あとは、ゆっくりと引きだして――。
けれど、安堵しかけたわたしの視界に飛びこんできたのは、ぐらぐらと揺れる二十五巻。
わたしのつかむ二十四巻と一緒に移動してしまっていたらしい分厚い本が、棚からすべり出してこぼれ落ちる。
「……あっ」
動揺した手はつかんでいた本まで離してしまった。無理な姿勢をたもっていた身体もバランスをくずす。
それぞれ一キロ弱はある物体がふりかかってくる衝撃を予測し、わたしはぎゅっと目を閉じた。
――けれど。
本は降ってこなかったし、わたしが倒れることもなかった。
「……あぶなかったね」
おちついた、それでいてどことなく威厳を感じさせる声が頭上から囁かれた。
視界には、わたしの手に重なるようにして本を支えているひとまわり大きな手。
後頭部から背中にかけては、壁のようなものに受けとめられている。
いや、壁にしてはやわらかい。というかこの体勢では、答えは一つしかない。
ふりむけば、そこには、見知らぬ青年がほほえみを浮かべていた。
「……!?!?」
しゅばっと彼と本棚のあいだから抜けだすと、彼はものやわらかな笑顔のまま二十四巻だけをとって差しだしてくれた。
「これだろう?」
「は、はい、ありがとうございます。……それに、申し訳ありませんでした。お見苦しい真似を」
本を受けとり、礼をする。
顔をあげて今一度見れば、わたしを助けてくれた彼は驚くほどに気品にあふれた佇まいをしていた。
さらさらと流れる亜麻色の髪に、ふかみのあるダークブルーの瞳。シャツやベストは一目で仕立てのよいものだとわかる。汚してしまってはいないようだが――……。
「たまたま見ていたらバランスをくずしたものだから驚いたよ。まにあってよかった」
「本当にありがとうございます。わたくし、サリィ・アンテロープと申します」
自己紹介をして頭をさげると、彼は目を瞬かせた。
「俺のことは知らない?」
「……えっと……申し訳ありません」
どこかで出会ったのだろうか。思い出そうとするのにさっぱりわからない。
自分の家よりも爵位が上であろうことはわかる。侯爵か、もしかすると公爵家の方かもしれない。
ふと周囲を見まわすと、さささっと視線が逸らされた。
注目されている。それは本をとろうとしてバランスをくずした間抜けな令嬢への視線というよりは、目の前の彼への視線のように思えて、わたしはますます頭をかかえた。
「申し訳ありません、本当に……自分でも嫌になるほど世間知らずで、社交などにも疎く……」
「いや、すまない。気にしないでくれ。ロベルト・エイヴォンだ」
「エイヴォン様……」
「ロベルトでいいよ」
「では、ロベルト様とお呼びしますね」
彼――ロベルト様はにこりと笑って名を教えてくれた。
そう聞けば、どこかで……?
記憶の底から同じ響きをすくいあげられそうな気がしてわたしはうつむく。しかし思考はすぐに当の本人によってさえぎられた。
「この前、あそこで何か言われていたろう? あれは君の婚約者なのかい?」
「見ていたのですか……!?」
「うん、まぁ……」
以前使っていた窓際の席を指さし、ロベルト様は苦笑を浮かべる。
わかっていたことだけれど、誰かに見られていたことをはっきりと知らされるととても恥ずかしい。あの場を見ていたのなら、先ほどのこともマックスが原因だとわかっているはずだ。
「も、申し訳ありません……もう図書館は使わないようにします」
これ以上騒ぎを起こしては周囲にも迷惑だろうし、マックスの家にも自分の家にもよくないことになるかもしれない。
「どうして?」
そう思って言ったのに、ロベルト様は首をかしげた。
「楽しそうに歴史書を読んでいただろう? あの笑顔が見られなくなるのはさみしい」
「み、見て……!?」
そんなところまで見られていたのかと顔が赤くなる。
もしかしてわたしは自分が思う以上に恥をさらしているのではないかしら。そう思えば今度は血の気が引いた。
呆然としたまま赤くなったり青くなったりしているわたしをなだめるように、ロベルト様はふっと笑いを漏らした。
「すまない、じろじろ見ていたわけじゃないんだ。人の様子を見るのが好きで……腕いっぱいに本をかかえている姿がかわいいなと思ってたんだよ」
「はぁ……」
くすくすと笑うロベルト様になんと言葉を返せばよいのかわからない。
貴族の子息というのはこういう人々なのだろうか。
家族をのぞけば、相手の性格がわかるほど会話をした男性はこれまでにマックスしかいなかった。
マックスとはまったく異なるやさしい笑顔でロベルト様は笑っている。
けれどもどことなくただよう気品が、彼の笑顔をそれ以上のものにしていた。早い話が、なんとなく逆らえないのである。
「気にせずおいで。君が悪くないことはみんなわかっているさ」
「で、では、お言葉に甘えまして……」
わたしは頭をさげると、そそくさとその場を逃げ出した。
なんだかとてもいたたまれなかった。
***
学院の図書館で会うのが面倒なのだ、寮の談話室でだって、マックスと会うのは苦痛になりつつあった。
以前は互いの屋敷にそれなりの距離があったので会うのは月に一度あるかないかだったのに、寮ならば毎週末のように呼びだしを受ける。これだけは学院のデメリットだと思う。
「女が学問なんかして何になる?」
今日の開口一番はこれだった。
胸の中に重たい塊が落ちてきたような気分になる。表情に出ないよう、スカートの影でぐっと拳を握った。
機嫌の悪い理由はわかっている。
歴史学の授業でレポートの提出があり、わたしのレポートはマックスをさしおいて学年で金賞をとった。女学生が金賞をとるのは数年ぶりのことだという。
講評には「まだ未熟な部分はあるが情熱を感じる大作」と書かれていた。
マックスは口をへの字にまげながら爪でテーブルをコンコンと叩く。
「そんなことをしていて家のことがおろそかになるようでは本末転倒だ。ちゃんと家政はこなせるんだろうな?」
「はい、花嫁修業でひととおりは学んでいます」
「安心した。〝花嫁〟になる気がないのかと思ったぞ」
ふん、と鼻で笑うマックス。
そういえばわたしが倒れそうになったとき、マックスはどうしていたのかしら。
すっかり忘れていたけれど、声をかけてくれなかったということはもうその場にいなかったのだろう。
マックスが何を考えているのかわからない。
昔からそうだったにしても、侯爵家を継ぐことが決まってから拍車がかかっている。結果的にわたしは学院に通い、勉強に楽しみを見出した。だからよかったとも思うのだけど……。
「マックス、わたし……」
「ぼくに意見がしたければ、馬でも乗れるようになってから言え」
「……え?」
「学問ができて、だからなんだというのだ。男と張り合いたくば武芸も磨け」
「……」
別に男と張り合いたいわけじゃない。
そうではなくて、婚約はもう白紙に戻してもいいかしら、と、そう言いたかった。
どうしてそうなるのよ、とは言う気力が起きなかった。言えばまたマックスを怒らせるのが目に見えていて、わたしはうつむいて口をつぐんだ。
「で、どうしてこうなっているのかしら……」
白馬の背に揺られながらわたしは頭を抱えた。轡をとってくれている女性から「手綱は両手でお持ちください」とお叱りが飛ぶ。
「す、すみません」
あわてて姿勢をただし、わたしは馬上からあたりを見まわした。
想像以上に動物の背中というものは揺れる。かっぽかっぽとゆったりした足どりをしているだけでも身体が左右に振れるのだ、早駆けなどさせた日には振り落とされるだろうというのは想像に難くない。
こんな技術も必要なら、たしかに学問だけではない。
それに、ここには女性しかいないけれど付き添いの女性も馬の面倒を見ている女性も、もちろんわたしも、みんながドレスではなく乗馬用の服装をしていた。
つまりはスカートではなくズボンなのだ。スカートでも乗れるのだけれど、慣れないうちは服装から整えたほうがいいそうだ。
はじめてズボンに足を入れるとき、わたしの心は高鳴った。まるでこれまでとは違う世界が展開されるようだった。
令嬢として成長し、マックスと結婚して、屋敷の中で人生を終えるのだと思っていたけれど。
この世界はそんなに単純なものではないらしい。
教えてくれたのはロベルト様だった。
馬に乗れるようになれと言われた、と打ち明けたわたしの言葉に、ロベルト様はぽかんとした顔をしてから肩をふるわせて笑った。
歴史書には、馬に乗った女性の逸話が数々出てくるけれども。
戦争もなく平和ないまの世では、乗馬は貴族の嗜みではあるが、武術に数えられているわけではない。
やっぱりそうよね、おかしなことよね、と顔を赤くするわたしに、笑いすぎてにじんだ涙をぬぐってロベルト様は尋ねた。
「で、どうするの?」
「え?」
「乗馬術、教えてあげられるけど。やる? やらない?」
「……やりたいです!」
わずかな葛藤はあったものの、ロベルト様の楽しそうな笑顔を見ていたら、つい本音が出てしまった。
「男女二人で、変な噂が立ってはいけないから」
そう言ってロベルト様は乗馬場には現れなかった。
ただ寮に迎えの馬車だけを寄こし、従者に「連れていく先は我が家の領地内だから安心するように」という手紙を持たせてくれた。
場内に女性しかいないのも配慮のゆえなのだろう。
その日わたしは、身体中が痛くなるまで乗馬を楽しんだ。
***
とはいえ、馬が乗れるようになったからといってマックスが話を聞いてくれるわけじゃない。
乗馬場へ行くために談話室への呼びだしを断ったら、教室で会ったときにネチネチと文句を言われてしまった。ご友人の子息に注意されて渋々と離れてくれたものの、背中にじっとりと突き刺さる視線は神経を疲弊させた。
「疲れた……」
無意識に口からこぼれ出る本音に身体を起こす。いけない、こんなことを言っていたら淑女としてはしたないわ。
疲れを癒すには図書館ね。
本を読んでいるあいだだけは現実を忘れることができる。
わたしはいそいそと本棚に向かった。
〝大陸史全集〟も残すところあと三巻。歴史は最近の百年にまで近づきつつある。
けれど、踏み台に立って本をとろうとして――わたしは聞きなれた声に気づいた。
「いったい何を考えておられるのですか?」
相かわらず人を憚らぬ声。いえ、これでも憚っているのでしょう、普段よりは幾分ひそめられているような気もする。
少し高い、責めるような声色はマックスだ。
何を考えているのか――だなんて、マックスでも思うことがあるのね。
問いに対して、今度は明らかにひそめられた声が答えを返した。
聞き取りづらくて内容はわからないけれど、わたしはその声も知っていた。
「畏れながら――ロベルト殿下。サリィはぼくの婚約者です」
殿下?
驚きのあまり身体が硬直した。重心が変わったのか、踏み台がみしりと軋みをあげる。その音でわたしはようやく自分が盗み聞きをしていることを理解した。
立ち去らなければ。
「婚約者に対する扱いとは思えないけどね」
ロベルト様の声は少し大きくなった。怒っている……のかもしれない。なんだかそう思わせる口調だった。
マックスはハッと嘲るような笑いを漏らす。
「サリィはぼくの言いなりなんです。あいつが逆らうなんてありえない」
「それは愛じゃない。ただの諦めだ」
本をとると、わたしはそっとその場を離れた。
わたしがいない場所でも、ああしてマックスはわたしを蔑んでいるのね。
わかってはいたけれど現実に見てしまうと心が痛い。わたしにだけ言うのであれば、まだ幼なじみの甘えかとも思えたのに。
けれどもそれ以上に気になったのは。
マックスが呼んだ、「ロベルト殿下」という敬称。
ドキドキと脈打つを鼓動をかかえながら久しぶりに窓際の席へ行った。こちらのほうが目立たない。
本を冒頭から順に読むいつもの習慣を今日だけは変えて、まず目次から我が国の章を調べた。
王家の歴史が解説されているページをひらき、自分のよく知る名をさがす――〝エイヴォン〟を。
「……!!」
エイヴォン家。その歴史はきちんと綴られていた。
王家に次いで古い家柄であること。宰相から学者まで様々な人物を輩出した。また女性も王家へ輿入れした者が多く、賢妃と呼ばれる方もいる。
その功績をたたえ、第二王子のミドルネームはエイヴォンと名づけるのが慣習である。
「バレちゃったか」
「!!!」
笑いを含む声に驚いて顔をあげると、そこにはたったいま思いえがいていた人物、ロベルト・エイヴォン様が立っていた。
服の仕立てもいいはずだ、お忍びの乗馬場も持っているはずだ。
この方は我が国の第二王子だったのだから。
わたしはあわてて立ちあがると頭をさげた。
「申し訳ありません、わたし、ひどい粗相ばかり……!」
「気にしないで。わざとミドルネームを名乗って家名をぼかしたのは俺だからね。立場を気にせずに君と仲よくなりたかったんだ」
それでも自国の王族の顔を知らないなんてありえないことだ。領地にいたのならそれでもいいが、もう学院に入学してからふた月になる。社交をないがしろにし、図書館にこもっていたわたしの落ち度だった。
「本当に気にしないで。頭をあげてくれないか?」
困ったような笑顔を浮かべるロベルト様に、わたしはようやく顔をあげた。
まだ緊張で心臓がばくばくと鳴っている。
王族の前に出たことなどなかった。自覚はあるのか、と言っていたマックスを思い出す。やっぱりマックスにもただしい部分はある。わたしはなんて自覚が足りなかったのでしょう。
ロベルト様が第二王子の立場にある人なら、ますますマックスやわたしの面倒に巻きこむわけにはいかない。
「マックス・ターナーの分まで、非礼をお詫びいたします。どうか忘れてくださいませ」
「……それは、もう関わらないでほしいってこと?」
そうはっきり言われると返答に困ってしまう。
わたしは無言のまま顔を伏せた。ロベルト様を拒絶する意図はない。でも、お手を煩わせるのはあまりにも申し訳ないのだ。
「そうは言わずに、関わらせてほしい」
「どうしてそんなに気にしてくださるのですか?」
尋ねてはいけないかと思いつつ、つい口から出てしまった。
わたしはただの伯爵家の娘。それは変わった言動もするけれど、王族の方に興味を持たれるほどではないと思う。
けれどもロベルト様はふっと笑った。やさしいほほえみだった。
「人目も気にせず、なんにでも挑戦する君が素敵だと思ったんだ。応援したい」
「それは……ただ、マックスの言うとおりにしていただけですわ」
「いや、君の素直すぎる行動は、彼の予想の斜め上をいっているよ」
……褒められているのだろうか。
そうは言われても、なんでも否定ばかりのマックスがわたしの行動を気にかけているはずがないとも思う。
わたしの中の疑念を見透かしたように、ロベルト様は首をかしげた。
「マックスは君のことが好きだって言ったら、信じるかい?」
「え……」
信じられない。
そう言葉にすることもできなくて、黙って首をふる。
ロベルト様の口元がゆるんだ。
そして、
「じゃあ俺も君のそういうところが好きって言ったら?」
さらなる信じられない発言が、降ってきた。
***
マックスの機嫌は最悪だった。
週末になるとすぐに寮の談話室に呼びだされる。
テーブルを叩くいつもの癖はすでに威圧を表していた。
部屋に入るなりドンと鈍い音が響いて身をふるわせる。握った拳を何度かテーブルに打ちつけ、マックスはイライラと身体を揺すった。
「ロベルト殿下と親しいようじゃないか」
「親しいというほどでは……何度か言葉をかわしたくらいです」
「ふん……どうだか。内心では舞いあがっているんじゃないか? こんなチャンスはめったにないからな。まさか学院に入ったのはそれが目当てか?」
「そんなことはありません!」
ついカッとなって言い返せば、マックスは瞠目した。
それから驚いた自分に腹が立ったのか、視線はさらに剣呑なものになる。
怒りをたたえたまま、マックスは唇を無理やり笑みの形に歪めた。どうしてもわたしを貶めたい、そんな欲求が見え隠れする表情だった。
いつのまに二人の関係はこんなにねじくれてしまったのだろう。
マックスが一歩前に出る。思わずあとじさると、優位を確信したマックスの笑みがさらにふかいものになる。
「だいたいお前、自分の姿を鏡で見たことがあるのか? その流行遅れのドレス! 野暮ったい化粧! 貧弱な装飾品!」
わたしを頭のてっぺんからスカートの裾まで指さし、マックスは怒鳴った。
談話室の外にいた人々が何事かとふりかえるのが窓越しに見えた。
「侯爵夫人でも分不相応なのに、妃になんかなれるわけがないだろう!!」
答えを返すことはできなかった。
これ以上聞いていることもできなくて、わたしは談話室を飛びだした。背後から聞こえる「おい!!」という叫びをふりきって、女子棟に駆け戻る。
部屋に入ると、わたしの青ざめた顔にばあやが小さな悲鳴をあげた。
小さなころからずっと私の面倒を見てくれて、今回の入学でも屋敷からついてきてくれたばあや。
マックスの言ったことはやっぱりただしい。
入学のためにドレスや宝石を売り払ってしまったわたしの手元には、値のつかなかったものしか残されていなくて。
友人をつくろうとしなかったわたしにはお化粧の話題をする相手もいなくて。
毎朝わたしの身なりを整え、お化粧をしてくれるのはばあやだ。
学院で見かけたかわいらしい同級生のお化粧をばあやに説明しようとしたけれど、わたしにすらよくわからないものがばあやに伝わるはずはなかった。
眉や目元はもっとくっきりと強調されていた気がする。でもわたしがやろうとしてもお化けのような痛々しいお化粧にしかならなくて、結局はいつもどおりの格好になった。
週が明けて、変わり映えのしない装いで授業に出たわたしは、はじめて図書館に行かなかった。
その次の日も次の日も、わたしは授業が終わるとすぐに寮に戻り、ぼんやりとすごした。
マックスに会いたくなかったというのもある。
でもそれ以上に、ロベルト様に会うのが怖かった。
授業の終わりを知らせる鐘が鳴る。
そそくさとテキストを片付けると、わたしは立ちあがった。
教室から校舎を出て、中庭を抜けた先が寮だ。目立たぬよううつむいて、走るのははしたないので早足で人気のない道を行く。
――はずだったのに。
突然、教室の中を歓声と騒めきが吹き抜けた。
おまけにそれらの声の中に、自分の名が囁かれている。
何事かと顔をあげて。
わたしは目を見開いた。
「ロベルト様……」
「少し、話ができるかい?」
そこにいたのはロベルト様。
生徒たちの好奇の目を避けるように、ロベルト様はすぐに歩きだしてしまう。もとより何か言えるはずのないわたしは小走りに駆け寄るとあとについて歩いた。
避けていたのに。
わざわざ教室を調べて、会いにきてくださったのだ。
結局ご迷惑をかけてしまったと、胸が痛む。
「ごめん、俺が焚きつけたせいだ」
人気のない場所までくると、ふりむかないまま、ロベルト様は告げた。
あのときの会話を言っているのだろう。
謝らなければならないのはわたしたちのほうなのに。
「いいえ……わたしがきちんとマックスに向き合わなかったせいです」
それはマックスについて考えて、私が出した結論だった。
ここまで関係がこじれてしまった理由。
幼いころからあの調子で、反論するだけ無駄なのだと理解したわたしは、いつも口をつぐんでいた。マックスから話しかけられなければ、自分から話しかけることもなかった。
いつしか、どんなに手酷い言葉を投げつけられても動じなくなっていた。それが余計に彼を怒らせていたのかもしれない。
侯爵家を継ぐと決まった日、驚くほどの鋭い言葉を向けてきたのは、わたしに対する不満を積み重ねた結果だったのだろう。
そして、わたしも。
凍りついていたはずの感情がいまになって揺さぶられているのは、ロベルト様に出会ったからだ。
マックスが原因ではない。それもまた彼のプライドを刺激するのだ。
「今度は何を言われたの?」
「いえ……」
そういえばロベルト様はまるでわたしの心を読んでいるようだ。
避けていた原因がマックスにあると、そしてマックスの爆発はロベルト様によって引き起こされたものだとわかっている。
「当ててみせようか。そのドレスや化粧だろう?」
「!」
思わず息をのんだわたしに、ロベルト様はうなずいた。
「彼の誹謗はことごとく俺がいいなと思った部分を突いてくるからね。感性は似てるんだろうなぁ」
金髪をかきまわしながらため息をつくロベルト様。
わたしはやっぱり何も言えない。
聞き違いでなければいま、ロベルト様は、わたしのこの古めかしい姿を褒めてくださったのだろうか。
「そのドレス、先王時代に流行したものだろう? 母上がいつも着ていらしてね、なつかしくて……それに襟や袖の部分はきちんと今風に修繕されているじゃないか。お化粧だって、おちついた、たおやかな女性のものだ」
そう。
このドレスは、お母様が思い出のドレスを手ずから直し、刺繍を入れてくださったもの。
お化粧は、お嬢様はお肌が綺麗ですから余計な派手さはいりませんと、ばあやがほどこしてくれたもの。
ロベルト様はいつも、本当に心を読んでいるかのように、わたしの欲しい言葉を贈ってくれる。
「ありがとうございます……」
「うん」
涙をにじませるわたしを前に、ロベルト様はにこりと笑ってポケットから書状をとりだした。
押されているのはよく知る刻印。
ターナー家のものだ。
「これは……?」
「時間はかかってしまったけど、準備は整った。君には怒られるかもしれないけどね」
ニッと、悪戯っ子のような笑みを浮かべて、ロベルト様は言った。
「婚約者様を見返してやろうじゃないか」
***
アンテロープ家の一室で、わたしはマックスを待っていた。
そういえば彼がアンテロープ家に足を踏みいれるのは久しぶりのことだ。こちらが出向くのが当然というように、彼はいつも侯爵邸にいた。
こちらでございます、と案内をする執事の声が、扉の向こうから聞こえてくる。
ゆっくりと扉がひらかれて。
わたしをとらえたマックスの目が、驚きに大きく見開かれた。
ドレスは元の形を残したまま、パニエを小さなものにかえ、あまったスカートの生地を集めてリボンにあつらえた。レースの手袋と新調した装飾品で華やかさを添え、以前よりもぐっと歳相応のかわいらしさのある装いに。
お化粧も自然さを残すばあやのものと今風なはっきりとしたものの中間をとり、ドレスに合わせてワンポイントに明るい色をのせた。
なによりゆるく巻いた髪は半分をアップに、半分を肩にたらして、まるで高貴なお方のよう。
これらはすべてロベルト様が手配してくださったのだった。
王宮からお越しになった侍女の方が考案し、ばあやに手ほどきをしてお化粧の仕方を教えてくれたのである。
「綺麗だ……」
「……ありがとう」
わたしもまだ自分で信じられないくらいだった。本当に鏡に映っていたのはわたしなのかと。
マックスはそれよりも驚いた顔でしばらく放心していたが、やがて頬を染めて褒めてくれた。
褒められたのなどいつぶりだろうかと思う。
わたしたちはきっとお互いに、どうせ結婚するのだからと色々なことをあきらめて、互いをよく見ることさえ放棄していたのだ。
「マックス、婚約のことなのだけれど」
先日さえぎられてしまった話題を、わたしはもう一度始める。
マックスは嬉しそうにへらりと笑った。
「なんだ、お前がそこまで心を入れかえて頼むなら……婚約破棄などしない。脅すようなことを言って――」
「いいえ、違うの。わたし、婚約を解消してほしいの」
言ったとたん、マックスの表情が、笑顔のまま硬直した。
沈黙は、苦ではなかった。
あぁ、聞こえたのだ。ちゃんと聞いてくれたのだ。
まずはそのことに安堵する。
やがて、マックスの唇がわなわなとふるえだした。顔は赤く、目は爛々と輝いて……そのときはじめてわたしは、マックスの瞳をよく見た。
ひらいた瞳孔の向こう側には、恐怖があった。
髪をふり乱し、歯を食いしばって。
「なんだと――お前、ここまでの姿になったのは誰のおかげだと思って――!!」
「彼女の努力の結果、だろう。少なくとも君のおかげじゃないよ」
やがて獣のように吠えたマックスの背後から、凛とした声がかかった。
マックスはあわててふりむくと、絶望の色を顔に浮かべた。
扉のそばに立っていたのは、ロベルト様。
学院でのカジュアルな格好とは違う、金銀の縫い取りがされたジャケットに身をつつみ、まっすぐにマックスを見つめている。
このお姿を目にしたものは誰でも、ロベルト様が高貴な生まれであることを理解するだろう。
「ロベルト殿下――!」
「隣の部屋にまで大声が筒抜けだったよ。すぐに駆けつけられてよかったけどね」
「やはり……やはりあなたが、サリィをあやつっているんだ!! そうでなければ、サリィが、こんな……!!」
「あやつる? なんのことだ。彼女は常に自分で道を選んできただろう。学問も、武芸も」
激昂するマックスと対照的に、あくまでおちついたロベルト様。
「彼女を学院に連れてきてくれたことは感謝するよ。けれど君はやり方を間違えたな」
ロベルト様がマックスに向かって書状をつきつける。先日見たものだ。封蝋を砕き、ロベルト様は中を見ることなくマックスへと放った。
手紙をとりだすと視線を落とし――マックスは息をあらがせてうめき声をあげた。
顔は激しく歪み、目には涙が浮かんでいる。
「そこに書いてあるだろう? ターナー家はアンテロープ家と結んだ婚約を解消するつもりだと。大声で相手の御令嬢を中傷する息子の様子を、友人が教えてくれたそうだ」
「婚約を――解消……?」
思わず口に出したわたしをマックスが睨みつける。
それはまさに望んでいたことだった。
けれど、マックスの性格上、そして両家の体面もあり、ほとんど見込みのない望みだと覚悟して切りだしたのに。
「お兄様の一件は聞いたよ。君のご両親は、息子に思いがけぬ心労をかけてしまったのだろうと心を痛めておられる。いい親御さん方だ。学業を休んで家で療養してもよいそうだ」
おだやかな、それでいて威厳に満ちた声は、有無を言わせぬ迫力があった。
マックスはふるえるだけで言葉を発さない。
わたしもまた、あまりの急展開にロベルト様のおっしゃることを理解するのに精いっぱいだった。
入り口からしずかに部屋の中央へ歩み寄ると、ロベルト様はマックスの肩に手をおいた。
「もとより君は婚約破棄を望んでいたし、ターナー家も納得済みだ。とはいえ、君の婚約者を奪うような形になってしまったのも事実だ。ターナー家に対して今後の便宜は図るつもりだよ」
それはほほえみ――けれど、ぞくりとするような微笑だった。
視線は冷えきって、凍りついたように重い。
「王家の地位を笠に着て君を貶めようなんて思っていない。それじゃあ君と同じだからね」
「……!!!」
「どうした? 顔色が悪い。肩を貸してやろう。まったく、こうなることを予期していなかったんだとしたら、君の恋愛は児戯にすぎるな」
侯爵家の子息。
とはいえ、絶対的な階級はロベルト様がはるかに上だ。
その相手に腕を支えられ、マックスはびくりと身体を跳ねさせた。膝がふるえている。でもロベルト様を巻き添えに倒れこむことなど許されない。
ふらりふらりと幽鬼のような足どりでマックスは部屋を出た。
人を呼ぶ声が聞こえ、やがて何事もなかったかのようにロベルト様が戻ってくる。
「……ロベルト様」
なんと言えばいいのかわからない。
礼なのか、詫びなのか。
それよりも一瞬見せた鋭い目つきが、まるで肉食獣のような目つきが、わたしの心をざわめかせていた。
けれど。
「……大人げなかったかな」
眉をさげて申し訳なさそうに笑う彼はいつものロベルト様だった。
その瞬間、わたしは理解した。
ロベルト様もまた、わたしと同様に。
これまで持っていなかった感情に揺り動かされて行動しているのだと。
そしてその感情の名を、恋というのだと。
「この前の返事、聞かせてくれる?」
それが告白のことを指しているのだと気づく。
とたんに心臓が鼓動をとり戻した。まるでいままで止まっていたかのように激しく、部屋中に響きそうな勢いで――。
わたしは真っ赤になった顔を伏せた。
「も……申し訳、ありません。……あまりにも驚いて、考えられなくて……」
「うん、まぁ、そういう反応だと思っていたよ。いま婚約を申しこんでも、受け入れてくれないだろう?」
「は、はい……」
頭の中がぐらぐらとして、眩暈を起こしそうだった。
婚約――ロベルト様と?
受け入れられる日はくるのだろうかと自分を訝しんでしまうほどに突拍子もない話だ。
あわてふためくわたしを意に介さず、ロベルト様は手をとった。
レース越しに口づけが落とされる。さらさらと艶めいた髪が手首をくすぐり、やわらかな感触が手の甲にふれた。
「大丈夫。こういうのは時間がかかるものなんだ。俺は努力の方法を間違えないようにするから、よろしくね」
それはもう、答えを言う前から答えが決まっているような口ぶりだと思うのですけれど――。
にやりと笑ったロベルト様の視線からは、逃げきれそうにはなかった。