イカスミ小僧奮闘日記
「もうおいら、イカスミはくだけの仕事なんていやだよぅ! 大将、おいらにも包丁にぎらせてよぅ!」
海の上に浮かぶレストラン、『アズーリ』にて、イカスミ小僧が大将のタコはっちゃんにからみつきました。
「こらっ、やめろってんだ! パスタをゆでてんのに、邪魔するんじゃない!」
タコはっちゃんは、イカスミ小僧の十本の手足を、タコ足一本でバシバシバシッと軽くはたいていきました。いつもながらの腕前に、タカアシガニのタカさんや、シャコのシャ子ちゃんが「おぉっ」と歓声をあげます。イカスミ小僧には、それも面白くなかったようで、大将が一番気にしていることを、つい口走ってしまったのです。
「ちくしょう、八本しか足がないくせに、エラそうにしやがって! おいらは十本足なんだ! おいらが包丁にぎったら、大将よりも二本分早く仕事ができるから、大将おいらに包丁にぎらせてくれねぇんだろ? ひでぇよ!」
「なんだとっ、この小僧っ子が! いいか、お前のイカスミは、まだまだひよっこなんだ! そんなひよっこが、イカスミを極めてもいないひよっこが、一人前みたいな口を利くんじゃない! せめてイカスミが、あいつぐらいになってからいえ!」
これにはさすがの大将も、がまんがならなかったようで、八本の足すべてでイカスミ小僧をからめとり、そしてレストラン『アズーリ』から、海へほうり投げたのでした。
「ちっとは海の底で頭冷やしてこい! この小僧っ子が!」
「いわれなくてもそうしてやるぜ! おいらに包丁を握らせてくれる店を探してやる! 見てろよ、大将以上の料理人になって、おいら、見かえしてやるからな!」
イカスミ小僧は、海の底へとぐんぐん泳いでもぐっていくのでした。
イカスミ小僧が最初に向かったのは、和食の専門店である、海の底の『竜宮レストラン』でした。
「頼もーう! おいらをどうかやとってください! 十本の足で、テキパキ仕事をこなしますよ!」
イカスミ小僧が元気よく店の厨房へ声をかけました。厨房から、とんでもなく長い、リュウグウノツカイが現れました。
「ほほう、君はイカかね? ちょうどよかった、うちは相当な人気店でね、マグロやスズキといった回遊魚たちが、よく食べにくるんだよ。だが、全然知らない者にいきなり厨房をまかせるわけにもいかないから、試験を受けてもらうよ」
「おぉ、望むところだ! おいらのすごさを見せつけてやるぜ!」
イカスミ小僧は、ぴゅうっとイカスミをはいて気合を入れるのでした。
「それじゃあ試験についてだが、ワカメ森に生えている『親玉コンブ』を取ってきてもらおう」
「えっ、料理の試験じゃないのか?」
料理とは全然違う試験の内容に、イカスミ小僧はイカスミをはいて抗議します。リュウグウノツカイはじろりとイカスミ小僧をにらみつけ、そして答えました。
「うちの店じゃ、料理人が仕入れも全部やっているんだ。当然おいしい食材を取ってこなければ、いい料理も作れない。それとも試験はやめるかな?」
「うっ、それは……」
こういわれてしまえば、もうイカスミ小僧は挑戦するしかありません。イカスミ小僧はビュウウッと勢いよく水をはいて、ワカメ森へとひと泳ぎで行くのでした。
「ここがワカメ森か。ちぇっ、『アズーリ』じゃ、仕入れとかは全部タカさんがやってたからなぁ。おいら、どれが『親玉コンブ』なのか知らねぇよ。でも、確かタカさんいってたな」
イカスミ小僧は、ずっと昔にタカさんがいっていた、『親玉コンブ』の見分けかたを思い出しました。
『いいか、イカスミ小僧、いい料理人ってのは、いい材料をそろえる目利きができねぇといけねぇ。うちの大将も、今でこそパスタ屋さんをやってるが、昔は和食でぶいぶいいわせたもんだ。おれは大将に目利きを教わったけど、いまだに大将にはかなわねぇ』
タカさんがいっていたことを思い出し、イカスミ小僧はけっとイカスミをはきました。
「ふん、そんならおれが、大将を超えてやるんだ! 『親玉コンブ』は、とにかくでっかいやつだろ。あと、なんかタカさんがいってた気がするが、関係ねぇぜ!」
イカスミ小僧はワカメ森をスイスイ泳いで、大きなコンブらしきものを発見しました。
「へへっ、これだな。よし!」
十本の足を器用にからめて、イカスミ小僧はなんとかそのコンブらしきものを引っこぬいたのです。そして、意気揚々と『竜宮レストラン』へ戻ったのですが……。
「残念ながら不合格だな」
「そんな、どうしてだよ! おいら、ちゃんと一番大きなコンブを持ってきたぞ!」
「まったく、そんなことも知らなかったのか? 『親玉コンブ』は、大きいだけじゃなくて、そのまわりから、とてもいいダシの香りがするのだ。普通のコンブは海の中でダシを出すことはないが、親玉コンブは別なのだ。……そんな基本的なことも知らないやつを、やとうことはできないな」
イカスミ小僧はがっくり十本足を落とすのでした。
次にイカスミ小僧がやってきたのは、シャ子ちゃんが昔つとめていたというファミレスの、『マリリン』でした。ファミレスだったらすぐにでもやとってもらえると、甘いことを考えていたイカスミ小僧ですが……。
「やとってほしいなら、ちゃんと試験を受けてもらうからね」
「えっ、また試験かよ」
「いやならいいけど、どうする?」
マリリンの店長であるクルマエビににらまれて、イカスミ小僧はしぶしぶ試験を受けることにしました。
「それじゃあ試験だけど、ちゃんとお皿を時間内に運べるか、やってもらうよ」
クルマエビは、厨房にずらっとお皿を並べてイカスミ小僧にいいました。
「うわっ、すげぇ量だな。ま、でもおいらにはこの十本の足があるから、こんなの簡単だけどな」
イカスミ小僧は自信満々に、それらのお皿を持ちあげました。しかし……。
「うわっ、お、重い……」
お皿をいっぺんに持とうとしたからでしょうか、イカスミ小僧は重さにたえきれず、お皿を全部落っことしてしまったのです。ガシャガシャガッシャーンッと、お店じゅうにお皿の割れる音がひびきわたりました。
「こらぁっ! なんてことしてくれたんだ! お前なんかやとうもんか! 帰れ帰れ!」
クルマエビにどなりつけられ、イカスミ小僧はほうぼうのていで逃げ出すのでした。
「……はぁ、おいら、全然役に立たないんだな……。足が十本あるから、テキパキ仕事できると思ってたけど、全然だし、料理のこともなんにも知らなかった。こんなんじゃどうにもならないよ」
暗い海の底を、イカスミ小僧はトボトボと歩いていました。『アズーリ』の厨房からただよう、懐かしいパスタのにおいを思い出し、おなかがグゥゥッと鳴ります。しかし、イカスミ小僧は頭をブンブンッと勢いよくふりました。
「ダメだダメだ、こんなんで戻ったら、それこそいい笑いものだ。とはいったものの、どこに行こうか……」
フラフラになりながら海の底をただよっていると、レストラン『マリンスノー』と書かれた看板を見つけました。
「あっ、こんなところにレストランが。もうダメもとだ! ここで働かせてもらうぞ! 頼もーう!」
とびらを開けて中へ入ると、そこには小さな小さなイカが、コックぼうをかぶって弱々しく、「らっしゃい」といっていたのです。そのあまりの頼りなさに、イカスミ小僧は心配になってお店の中を見まわしました。
「なんだこりゃ、誰もいねぇじゃねぇか」
「すまないねぇ。実はこの店、今日で店じまいするんじゃよ。わしは店長のダイオウイカ、いや、今は、ショウオウイカといったほうがいいかのぅ」
店長のその小さなイカが名乗るのを聞いて、イカスミ小僧は目を丸くしました。
「ダイオウイカだって? あのでっかい、海の底に住む凶暴な、あのダイオウイカ? あんたが?」
「ほう、わしを知っておるか。そういえばお前さん、わしと同じイカじゃのう。そう、わしも昔は暴れん坊じゃった。だが、あるとき海の底で、巨大なタコと出会ってのう。それで、そのタコがわしにこういったんじゃ。『そんなに暴れる元気があるなら、おれとともにレストランを開かないか』ってな。包丁すらにぎったことないわしは、そんなのはいやだといったんじゃ」
ダイオウイカ、いいえ、ショウオウイカは、ふぅっと小さく水をはきました。わずかにイカスミがまじっています。
「それでもそのタコは、わしをなんとかレストランの店員にしようとしてな、ついにわしも、わしに勝ったら店員になってやってもいいといったんじゃ。タコとの戦いは、三日三晩続いた。わしは足が十本あるから、得意になっておったんじゃが、そのタコの強いこと、強いこと。ついにわしは負けてしもうた。それで、わしはタコに聞いたんじゃ。どうしてそこまでしてわしを料理人なんかにしたいのかってな」
気がつくとイカスミ小僧は、ショウオウイカの話にじっと耳をかたむけていたのです。ショウオウイカは続けました。
「タコはいった。わしのイカスミは、自分たちにはない、強い風味を持っていると。それをきたえれば、誰にも負けないおいしい料理ができると。わしはやつの信念に負け、店員となった。あのころは楽しかった。やつはわしのイカスミを、いつもほめてくれおった。だが、わしもだんだんと老いていき、ついにイカスミがほとんど出なくなってしまった。それでもなんとかイカスミをはき続けていたが、そのために大きさも、こんなショウオウイカといっていいくらいになってしまったんじゃ」
ショウオウイカは、もう一度さびしそうにイカスミをはきました。とても薄いイカスミが、イカスミ小僧の鼻をくすぐりました。
「……できることなら、あのタコの大将、タコはっちゃんのもとで、もう一度働きたい。じゃが、それももうかなわん。わしももう長くはないじゃろうが、もう一度大将に会いたかったなぁ」
ショウオウイカの目が、きらりとうるんで輝きました。イカスミ小僧はなにもいえず、静かにショウオウイカの目を見ていました。
「……おいら、もう戻るよ」
「ん? 食べていかんのか?」
「うん。だっておいら、もうあんたから、最高のごちそうをもらったからさ。……おいら、もう一度戻って、大将にあやまる。イカスミを極めて、あんたに負けないイカスミを出せるようにがんばるよ」
イカスミ小僧は、ごしごしと十本の内の一本の足で、目をぬぐいました。
「……前よりは、ちっとはましなイカスミがはけるようになったな。だが、まだまだこれからだぞ! あいつ以上のイカスミをはけるように、精進しろよ!」
「がってんだぜ大将! おいら、絶対ショウオウイカ以上にうまいイカスミをはけるようにがんばるぜ! そうなったら、今度はおいらがショウオウイカにごちそうしてやるんだ! うまいイカスミスパゲッティを!」
海の上に浮かぶレストラン『アズーリ』で、イカスミ小僧が気合をこめてイカスミをはきました。