46「蝿」
足止めかのー。
苦虫を噛むような顔と声で、三神さんがそう独りごちた。
聞けばこの日、残された『レジデンス=リベラメンテ』の住民たちに対し、大規模な修繕を一晩掛けて行う旨を数日前から通達してあったそうだ。もちろん修繕とはこの場合、住民たちが実害を被っている「物凄く臭いナニカ」に対する改善業務であり、それはつまり、僕らに言わせれば御祓いである。
もちろんマンション住民たちにはその悪臭が霊障であるとは伝えておらず、専門の業者を呼んで匂いの元を断つとだけ説明してあった。と同時に、薬品の散布等を行う必要があると偽って、この日一晩に限り、一時避難の協力を仰いでいるというのである。しかもそれらをマンション側の管理責任として実施する為、一晩とはいえ退去を余儀なくさせる住民に対して宿泊代を負担しているという。つまりは『今日は都合が悪いのでまた後日』というわけにはいかないのだ。
「ワシらが自由に動ける時間には、いわゆるタイムリミットがあるわけなんだ」
「となれば、あれの出現の意味するところとしては、ここから先には行かせないぞ、そういう意思表示ってわけですか」
僕の問いに、しかし三神さんは首を捻る。
「にしてもおかしい。どーにもこーにも引っ掛かる。これじゃあまるで、人間を相手にしとるようじゃないか」
「人間を…?」
考えてみれば、僕らはあの世の者といえども特定の個人を相手取っているわけではない。かつてこの地で起きた悲劇によって亡くなった、百名を超える無念の霊魂たちを鎮めようとしているのだ。
「本来人体に影響を及ぼす程の霊障というのは、彷徨える霊たちからのメッセージであるとも考えられる。私はここにいる。俺はこんなに苦しんだ。それを生きている人間に伝えているわけなんだ。それがどういう結果をもたらすかは霊障を受けた人間の強さによるだろう。だが霊たちのほとんどが、魂の浄化と安寧を望んでいるはずで、それが人由来の魂であるなら尚の事、安らぎを欲するのは至極当たり前のことだ。そしてワシらはいざ、その為に危険を承知でここまでやって来た。だがこれじゃあまるで、ワシらが邪魔者みたいじゃないか」
いかにも、他人を邪魔者扱いするなど、生きた人間の考えそうな行動と思えなくもない。
だけど…。僕は三神さんの話の内容に対して否定的な考えを捨てきれずにいた。これは何度となく自問自答を繰り返し、葛藤し、実際口に出した事もある疑問だが、本当に彷徨える彼らが悪霊ではないと、断言して良いものなのだろうか。何故なら…。
僕は先日、長谷部さんのご自宅を訪問するにあたって、どうしても彼に確認しておきたい事があった。だがその質問を口にする前に話の流れで長谷部さんは退席し、僕の中で蓄積されていた三神幻子への不満が爆発したタイミングの悪さもあって、ついには聞けず終いのまま宙ぶらりんになっていた。
今日こそ、長谷部さん及び岡本さんの二人を前にして、僕の疑念をぶつけてみるつもりでいた。そういう意味ではひょっとして、彼ら二人にとってみれば僕は邪魔者なのかもしれないが。
しかしながらここへ来て、蠅である。
数えきれない数の蠅が、霊体のシルエットだけを残して群がっている。
これも何かの嫌がらせか、それとも…これすらも三神さんが言うところの、僕達に対するメッセージだとでもいうのだろうか。
「あぁもぅ、絶対見ない」
震える手で口元を押さえながら、辺見先輩が僕の背後に回った。
「蠅。あの、ブンブン飛び回る蠅が見えるんですか?」
文乃さんの驚きはもっともだ。
実際そこに蠅はいない。だが児童公園の入り口を塞いで立つ二体の黒い影は、びっしりと体に張り付いた蠅に覆われているのだ。
「蠅の幽霊なんですか?」
いや。文乃さんの問いに、三神さんが答える。
「そもそも存在しないものだろう。死んだ蠅の霊魂が集まってくるなど聞いたこともない。要するにワシらは、奴らにまんまと蠅を見せつけられておる」
そもそも存在しないものを、見せられている…。ある意味僕にはそれが、蠅の霊魂を見るよりもはるかに恐ろしい事のように感じられた。
その時、四人の持つ携帯電話が一斉に震え始めた。あらかじめ着信音をオフにしていた為、一斉に振動したバイブ音そのものが耳に聞こえる程だった。
「ワシが出よう」
そう言って三神さんは着ていたMA-1のポケットから、白い携帯電話を取り出した。以前彼が使用していた黒色ではなくなっていた。
パコ。
三神さんが折りたたみの電話を開いた瞬間、二匹の蠅が彼の手元から飛び立った。
「…やられた」
地獄が来た。…あの地獄が来た!
それは鼻ではなく直接脳に刷り込まれる悪臭だった。
一番初めに感じるのがすえた人糞の匂いだ。
体中の穴という穴から暴力的に侵入するその匂いに目が眩み立ってなどいられない。
二度目とは言え一瞬たりとも耐える事ができない。
全くもってこれは無理だッ。
ああ、まるで肥溜めに突き落とされたようだ!
他人の糞尿で窒息して溺れ死ぬ!
死ぬ!死ぬ!死ぬ死ぬ死ぬ!
ああッ、やっぱりそうだ!
おかしいと思ってたんだッ!
やっぱり『彼ら』は…ッ!
臭い!今、誰かの唾を呑み込んだ!
ああッ、誰かの小便が口の中に広がる!
臭い!ぐざい!ぐざい!
喉が痛い!
鼻が痛い!
耳が臭い!
目が臭い!
臭い臭い臭い臭い!
グザアアアアアアッ!
勢いよく胃の内容物を吐き戻す僕のお腹を、辺見先輩が突き上げるように叩いた。ボクシングのアッパーに近いそれは不思議と打撃によるダメージが一切なく、それどころかまるで体の芯に火を灯すように、僕の意識がそこでのみ覚醒するのが分かった。
しかし辺見先輩自身は僕の体にしがみついて膝をつき、僕に放った霊力一発を最後に失神した。
だが、僕は見た。
辺見先輩が精神力を振り絞り、僕の体内に温もりを注入してくれたおかげで、ギリギリ意識を保っていられたそのおかげで、僕は確かに見たのだ。
見上げた空が、割れた。
そして割れた空の裂け目から、制服姿の三神幻子が降って来た。
「ありがとう辺見さん。おかげで見つけられました」
幻子は頭を下にして真っ逆さまに落ちて来ると、三神さんの頭頂部にちょんと手を付き、軽やかに両足から着地した。
その瞬間、彼女の付いた両足を中心にして地面が蜘蛛の巣上に波打った。そして僕らを取り囲んでいた絶望的な悪臭の繭は隆起した地面に跳ねあげられ、そのまま空の裂け目へと吸い込まれて…。
…消えた。
「まぼッ…!」
しかし僕が頭を振って辺りを見回した時、その場に幻子の姿はなかった。
隠れるような場所はない。児童公園のどこにも、三神幻子はいなかったのである。




