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「文乃」  作者: 新開水留
43/56

43「母」


 本当の理由…。

 僕の力を『拝借』することが…?

 それはつまり、…霊穴を開くということか…?


 君は一体なにを…。

 口を開いた僕の言葉を遮るように幻子が立ち上がり、三歩後退する。

「なんだよ」

「心配はいりません。成功するはずです。そう見えましたから」

「何をするつもりだ」

 幻子は再びふわりと腰を降ろしてその場で正座すると、前のめりに一歩を踏み出す僕に向かって両手を突き出した。

「そこにいてください。動かないでください」

「何をするつもりだ! ここは長谷部さんのご自宅なんだぞ!」

 幻子はニッコリと笑って頷いた。

 心得ている、そういう事だろうか。

 僕たちのいる場所は十畳ほどの和室だ。おそらく普段ほとんど使用されておらず、確かに家具類は置かれていない。一人、二人で寝泊りするだけなら広々とした印象である。しかしだ。

 僕が思い出す場面は二つある。

 一つは、『レジデンス=リベラメンテ』のエントランスへと続く、バス通りから伸びている道路だ。

 文乃さんの安否を確認すべくマンションへと向かった僕の両脇を、数えきれない程の幽霊が歩いていた。

 そして二つ目が、辺見先輩が入院した病院の総合待合室だ。幻子との対話で興奮した僕が呼び出したというこの世に非ざる者達は、そこにある待合の椅子、全ての上に出現した。

 豪邸とは言え、ここは個人宅の一室である。こんな所で、幻子は霊穴を開くというのか?

 いや、問題はきっとそこじゃない…。


「開けるのか、本当に?」


 思わず独り言ちた僕の呟きに、幻子は再び微笑んだ。

 ところがだ。かつて化け物と謗られた『神の子』ですら計算違いの出来事が起こった。

 いや、その出来事は起きなかった、と表現するべきか。

 正座し、胸の前で合掌している幻子の目に、動揺が浮かんだ。

 彼女の視線が左へ流れ、そしてまた瞼を閉じる。

 眉間に皺を寄せて目を開け、僕を睨む。

 怒っているというよりは、拗ねているようにも見えた。


「抵抗されている? …なぜそんなことが」


 幻子は僕に尋ねるでもなくそう囁き、首を傾げた。

 どうやら幻子の算段では、既にこの部屋に霊穴は開いているはずらしかった。

 僕は自分の周囲を見渡し、そしてなんの変化も見られない事を確認する。

 突然、幻子が左耳を押さえた。

 押さえた指の隙間から、ひと筋の赤い糸が垂れた。


「血が…ッ!」


 幻子は右手を上げて僕を制し、人さし指を立てた。やがてその指が、幻子自身の唇にあてがわれる。その間幻子は右下方、畳の染みらへんを見つめていた。それはまるで、何かに聞き耳を立てているかのようだった。

 幻子が目を閉じ、何ごとかを音もなく呟く。

 …と、瞼を開けた幻子の両目から勢いよく涙が流れた。

 零れたのではない。滝のように溢れ出たのだ。


「…わたしは…」


 幻子がゆっくりと両手で顔を覆い、そして言った。


「私は、大きな思い違いをしていたのかもしれません…」


 僕は何も言えず、ただ幻子を見つめた。

 思い違いとはなんだ。

 やはり霊穴など開かない、そういう事で良いのか?

 だったら何も卑見することは…。

 

 幻子が顔を覆ったまま立ち上がった。

 まるで天井から吊り上げられるマリオネットのように。


「新開さん、お詫びします」


 何だ。

 何だ。

 得も言われぬこの悪寒は、どこからくるんだ。

 

「新開さん」


 やめろ。

 やめろやめろやめろ。


「霊道を開いていたのは新開さんじゃなかった」

 

 幻子は顔を覆っていた手を退け、涙ながらに僕を見据えた。

 噛み締める彼女の唇は、後悔をにじませ、打ち震えていた。


「やめろ」

 僕の口を突いて、ようやく本音が飛び出した。

「何を言うつもりだ。…何をするつもりだ」


「大丈夫」

 幻子はそう言い、天井を見上げるように顔を上げた。

 顔にかかったままの長い髪が、高い鼻と濡れた唇以外に、まだらな筋を作った。


「おいでませ…」

 幻子は言った。

 確かにそう言った。

 呼んでいる。

 彼女は呼んでいるのだ。

 目を見開いたまま瞬きを繰り返す僕の目の前で、幻子は音を立てて合掌した。


「おいでませぇッ! 新開御母堂ォッ!」


 雷鳴のような雄叫びをあげる幻子の髪が、天井に向かって逆立った。

 突如、天井を突き破って真っ黒な雲が降り注ぐ。


「あッ…!」


 それが雲などではなく、長い黒髪を振り乱した女の幽霊であると気づいたのは、それが天を仰ぐ幻子の顔面にぶつかる寸前だった。

 思わず目を背けた僕の耳に、幻子が畳に倒れ伏せるような音だけが聞こえた。

 見やるとそこには、確かに高校の制服を着た三神幻子が座っていた。

 だが、彼女の長い黒髪はさらに長く伸びて畳に到達し、白く露わな太腿の上で 動いて いた。

 まるで幻子の髪は、それ自体に意識があるかのようにウネウネと蠢いているのだ。

 腰を抜かしてへたり込む僕に視線を合わせるように、幻子が伏せていた顔を上げる。


 オオオオオオオオオオ…


 地鳴りのような声だった。

 僕は喉を詰まらせたような悲鳴を上げたが、それ以外指一本動かす事が出来なかった。

 幻子の顔は絡み合った蔓のような髪に隠され、その表情は見えない。

 しかし真っ赤な唇が綺麗な楕円を作り、虚空を思わせる真っ黒な穴が、その音を放っていた。


 オオオオオオオ…

 ホオオオオオオオオオ…


 低く、地の底から響くような声は、やがて溜息のように細く掠れて消えた。

 耳を塞いでガタガタと震える僕をじっと見据えて、幻子がガクリと頭を左に倒した。

 潤んだ真っ黒な瞳が見え、二つのそれが高速で震えながら僕を見つめていた。

 僕は恐怖のあまり絶叫し、頭を抱えて亀のように蹲った。

 何故誰も来ない!どうして誰も助けに来てくれないんだ!


 オオオオオオオオオオ  キク

                  …ナ ネ   エエエエ


 オオオオオオ  クウウウ

              ナッ    アアアア…           エエエエエエ…


 大きくなった? そう言ってるのか?

 僕は抱えていた頭を起こして幻子を見た。

 幻子は両手を体の左右に開いて、ゆらゆらとバランスを取りながら立ち上がろうとしていた。

「今、なんて言ったんだ?」

 喋ったのか?

「君は、幻子、なのか?」

 片膝をついて立ち上がった幻子の身体が、グラリと左に傾いた。

 僕は思わず手を差し伸べて彼女の腕を掴んだ。


 声でなく、だが叫びにも似た思念が僕の体内でこだました。

 僕は自分が泣いている事にも気づけない程混乱し、感情が溢れ、畳に両膝をついて、そして幻子の腕を握りしめた。

 温かい腕だと思った。

 細く、しかし柔らかく、それは温かな、生きている人間の感触だった。

 僕が今、触れているのは。


「母さん?」


 例え違っても良い。

 噓でもいい。

 僕はそう呼びかけたくてたまらなかったのだ。


「母さん。…母さん。僕は」


 どうやら僕の目は壊れたようだ。

 体中の水分が全て涙になったように溢れ、獣を思わせる咆哮を上げてむせび泣きながらも、僕は幻子に心から感謝していた。


 僕にはお母さんがいる。

 僕にはお母さんがいる。

 僕にも、お母さんはいたんだ!


 この世に産み落とされて十九年が経ち、僕はこの日初めて、母を愛おしいを思ったのだ。

 幻子曰く、霊道を開いていたのは僕ではなく、母よりこの方だという。理に叶った説明は出来ないけれど、子を思う強い気持ちが現実世界に穴を開けたのだと考えれば、それで良いじゃないかという気もしてくる、と。

 あの世なんてなかったんじゃないのかい? という意地悪な僕の質問に対しては、幻子は平然と頷き、こう答えた。


「彼女らに時間の概念はありません。亡くなられてからずっとあなたを見つめ続け、そして思いを積み重ねて来たというわけではないのです。彼女があなたに伝えた思いというものはつまり、彼女が亡くなる間際に抱いていた新開さんへの思い。その、残留思念です」


 その日、幻子の体を借りて僕の前に初めて姿を現した母、よりこ。

 無理矢理呼び出されることに抵抗していたきらいもある母の、僕の中にこだました確かな思いは、今振り返れば文乃さんの声に似ていた気がする。




『好きなことをたくさん学びなさい。人の役に立つ人間になりなさい。私はいつでも側にいます。大きくなってね。大きくなってね。大きくなってね、ミトメ』




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