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うぃしゃぽなすた!  作者: 上野ハオコ 
第三部 あの日確かに見た、夜空を駆ける光を君は何と名付けるか
47/47

7 プラネタリウムの映写機って近未来ガジェット感あっていいわよね

「ふわぁ…口の中で蕩けるみたい、幸せぇ」


チョコレートピザを一口食べ、私はこの上無い幸福感を感じている。

カカオマスの上品な味わいと、薄く敷かれたマシュマロの溶けるような食感。

それらを包み込む生地はきめ細やかでまるでこちらをふわりと抱き締めてくれるように優しい。

チョコレートのピザだなんて最初に聞いた時はまたおかしなものを作ったものだと呆れたものだし、バターを揚げたりしちゃうちょっとイカレた外国人の酔狂かと思ったものだけれど、実際に食べてみればこれまでに経験したことのない種類の組み合わせの美味しさに頬が落ちてしまいそうだ。


私たち人間というものは何事も先入観で勝手に決めつけて判断しがちだけれど、偏見のないまっさらな気持ちで物事を受け入れられれば、どんなものだって素直に楽しむことは可能だ。

こと食べ物においては、五感の一柱を担う味覚を直接刺激するだけあって、食べる前に想像していた味を遥かに超えるだけの、感動さえ覚える美味しさに出会うことも度々ある。

百聞は一見にしかず…いいや、百聞は一食にしかずといったところだろうか。

これだからスイーツの新規開拓はやめられない。


「有栖ちゃん、チョコピザって初めて食べたけど、すっごく美味しいね!」


目の前でもぐもぐと口を動かしている詩葉も、その味わいに感動してとても幸せそうな表情を浮かべている。

きっと私も似たような緩みきった表情をしているのだろう。

バファリンの半分が優しさで出来ているのならば、甘いものの半分は幸せで出来ている。

間違いない。


「ええ、絶品ね詩葉。私、ちょっぴり感動してるもの」


「あれ、本当にちょっと泣いてる?」


「泣いてるんじゃないわ。言葉に出来ない想いが溢れ出ちゃっただけよ」


「そういうのを泣いてるっていうんじゃないかな?」


「いいからせっせと食べなさいな。せっかくほんのり温かくて美味しいのに冷めちゃうわよ。というかこれだけたくさん注文したんだから早い内に全部食べちゃわないと時間が間に合わなくなるじゃない」


目の前にはチョコピザ、チョコフォンデュ、チョコワッフルなど、チョコレートで出来たお菓子の数々が盛りだくさんに並んでいる。

女の子二人で食べる量は遥かに超えているような気がするが、どれもとても美味しいのでぺろりと平らげられてしまいそうだ。

女の子だもの、甘いものは大好きだ。

…いや、この言い方は差別的かもしれない。

男性だって甘いものが好きな人が多くいるのは周知の事実だし、この時代、性差でレッテル貼りをすること程愚かしいことはない。

訂正、人間だもの、甘いものは大好きだ。

…いや、この考え方もまた傲慢な考え方であるかもしれない。

動物だってフルーツなどの甘いものを食べてどこか幸せそうに微笑んでいるような素振りを見せることはある。

そもそも人間と動物を分けて考えがちだが、私たち人間だって動物の一種に過ぎない。

知性という一点でのみ人間は他種より少しだけ秀でて見えがちではあるが、そもそも生物の進化というものが環境適応の形だということを考慮すれば、ただ知性を持つことが一つの進化の分岐だったというだけで、それが優れているのだという根拠は全くない。

現代に生きている動植物全ては、ただありのまま存在している以上の価値も理由も存在しない。

それらはただの現象の羅列で、そこに意味を見出すか否かは個々人の価値観に依るものでしかないのだろう。

つまるところ、私たちはみな平等で、均等な自由を分け与えられているのだ。

そう、甘いものは自由だ。

私たちはみな甘いものを食べることにより自由を得るのだ!

…私の思考が今日もスリップを続けているのもまた自由なのだ……。


「このアリスカップ、可愛いねぇ。ドリンクミーだって?うんうん、幾らでも飲んであげるからねアリスカップちゃん、ちゅうちゅう」


私が散逸した思考に苛まれている間も、詩葉は目の前のお菓子たちに舌鼓を打っている。

詩葉が飲んでいるチョコレートドリンクはアリスカップという名前のものらしく、いやらしい表情でストローを吸っている彼女を見るとなんとも言えない嫌な感情がわき上がってくるのを感じる。


「アリスカップちゃん、どお?吸われるの気持ちいい?うふふ、もっとたくさん吸ってあげる」


ダメだ、詩葉ってば完全に自分だけの世界で妄想を繰り広げている。

彼女が両手をわきわきとしながら半目でにやにやとしている時は大抵、ありもしないいやらしい想像を頭の中で繰り広げているサインだ。

それなりに盛況な店内で、女の子が奇行に走っている様というのは存外目立つ。

現代人というものは他人に無関心な癖に、面白そうなものや変わったものがあると奇異の目を向けてくるような下卑た性質を持つ。

私の詩葉は見世物ではないし、彼女が衆目に晒されるのは何となく嫌だ。


「ちょっと詩葉、気持ち悪い声出さないでよ。周りのお客さんの目もあるんだから」


「へ?あ、そうだね。ちょっと恥ずかしいや」


私の呼びかけで詩葉は正気に戻ったようだけど、やっぱりカップを見つめては少し惚けた表情をしている。

ほんと、私の詩葉はバカだ。

愛すべきバカだし、そんな詩葉が大好きなんだけど。


今日は約束したデートの日。

私たちがこうして甘いお菓子を前にしているのは、プラネタリウムの上映時間までまだ暫くの時間があるからだ。

今回のお目当てであるプラネタリウムは座席制の観劇様式を取っている。

全席予約制であり、一日何回かのスケジュールにわけて上映する映画と同じようなシステムだ。

当然それを知っていた私は事前にチケットを予約して準備は万端。

上映時間にあわせて家を出れば待ち時間もなくプラネタリウムを楽しむことが出来る…のだけれど、それだけじゃ何だか勿体ない。

せっかくの初デートなのだ。

いくらプラネタリウムが目的とはいえ、一日掛けて外出してちょっとした非日常感を演出したいというもの。

そこで色々と調べて見た結果、プラネタリウムの施設のすぐ近くには、以前から気になっていたチョコレート専門店があることを発見したのだった。

だというのならば行かない手はない。

幸い、私たちが見る予定のプラネタリウムの上映時間は夕方ごろということで、お昼頃に家を出たとしても随分と時間に余裕がある。

ということで、私と詩葉の二人は現在、チョコレート専門店でお昼ご飯をかねたお菓子に舌鼓を打っているという訳なのだ。


「お昼ご飯抜いてきて正解だったね。ここのお菓子、どれも美味しいけど思ったよりボリュームあるよ~」


ナイフとフォークを器用に使いながら、詩葉はチョコレートワッフルを口に運んでいる。

普段はのんびりして不器用そうに見えるけど、詩葉は意外と綺麗に物を食べる。

その所作だけを見ると彼女も年相応に分別の付いた女の子のように思えるけど、ばっちり口の端にチョコレートをつけているからイマイチ決まらない。


「ほらほら詩葉、チョコ付いてるわよ」


「え、ほんと?有栖ちゃん取って~」


「全く、しょうがない詩葉ねぇ」


目を瞑って自らの顔を差し出す詩葉は子供みたいでちょっとだらしない。

そう言いながらも紙ナプキンで拭いてあげる私も私だと思うけれど。


「ありがと、有栖ちゃん。う~ん、こっちのチョコフォンデュも美味しいよ~」


ワッフルの次はチョコフォンデュに目移りした様子。


「ちょっと、拭いた傍からまた付いてるじゃない」


せっかく口の周りを綺麗にしてあげたというのに、詩葉はフォンデュピックを口に運ぶその都度新しい汚れを付けていった。


「チョコだからね。もうこの際汚れるのは仕方ないよ~。食べ終わったらもう一回拭いて、ね?その時はナプキンじゃなくて、有栖ちゃんの舌で直接舐め取って欲しいなぁ…」


「馬鹿なこと言うんじゃないわよ、この変態詩葉」


口に付いたチョコレートを舌で舐め取るだなんて、そんな倒錯的な行為を未成年がやっていい筈がない。

成年したあとならやっていいのかという疑問に関してはそれぞれの裁量と言わざるを得ないが、私たちがそのような爛れた関係になってしまえば私の両親にも、詩葉のご両親にも申し訳が立たない。

詩葉がいつも変なことばかり言うせいで、最近いやらしい夢を見てしまうことがある。

この間も思い出すのも憚られるような、変に現実感のある淫夢を見てしまって私自身とても困っているのだ。

断じて私が普段からいやらしいことを考えているからそんな夢を見るのではない。

全て、詩葉のせいだ。


「今キスしたらさ、やっぱりチョコレートの味がするのかなぁ?」


上目遣いでそう問いかける詩葉が妙に色っぽいものだから少しどきりとしてしまうけれど、それも私がいやらしいからでは絶対にないのだ。


「な、何言ってんのよ、もう!キスは特別な時だけって言ってるでしょ?」


「え~、キスくらいいいじゃない~。あの告白の日以来、有栖ちゃんってば一度もさせてくれないんだもん」


「アレは特別な誓いのキスだもの。そう簡単にできると思ったら大間違いよ」


恋人同士になることを決めたあの日に、美しい夕陽の中で交わした口づけ。

今でもあの熱を、高ぶりを、鮮明に思い出すことが出来る。

愛おしくて仕方が無くて、愛を伝えるのに充分な言葉を持たない二人がお互いの感情を確かめ合うためにするのがキスというものだ。

日常の中でそう頻繁にちゅっちゅしてしまったら何の特別感もなくなってしまう。

乙女である以上、身体も精神も出来るだけ純潔を保たねばならぬもの。

幾ら大切な詩葉と言えども、容易に触れさせる訳にはいかないのだ。

ちなみにだが、区別というものは、ポジティブな意味を持つ時だけはしてもいいものだと思っている。

男性だからダメ、女性だからダメ、というのはいただけないが、男性のここが良い、女性のここが良い、と表現するのはいけないことではないと思うのだ。

乙女である以上、というのも、自らの信念を貫く為にはあってもいい区別だと思っている。


「うん…わかったよ。有栖ちゃんが私にぞっこんなのは知ってるし、今は我慢する」


「ええ、その通り。心配しなくても私は詩葉の事しか見てないもの」


こうして素直な気持ちを口にするのはあまりに恥ずかしいけれど、想いを口にせずに後悔するよりはずっといい。

最近詩葉の物分かりがいいのも、こうやって私の愛情を常に伝えているからだと思う。

人間は言語を持ったからこそわかり合えない時もあるけれど、真摯に向き合って言葉を投げかけ合えば、大抵想いは通じるものなのだ。

それが長年寄り添った中であれば尚更、私の純粋な気持ちはきちんと詩葉に伝わっているのだと思う。


「有栖ちゃんが成人するまで処女を貫き通すっていう気持ちは、私も尊重してるからね。えっちなことが出来ないのはちょっと寂しいけど、処女の有栖ちゃんが大好きだから」


どうしてそんな綺麗な瞳で最悪の台詞を吐けるのだろうか。

そう言い返す気力も湧いてこなかったので、私はもう一度チョコピザを口に運んだ。

美味しいけどちょっと、塩辛い。


そして私たちは、プラネタリウム上映の時間まで下らない会話に花を咲かせながらお菓子の数々を堪能した。

時々あーんをし合ったりと、いつものように振る舞っていただけなのに、他のお客さんたちから生暖かい視線を向けられたのは少し不快だったけれど、ちょっぴり優越感のようなものを感じる思いもあった。

幸せなんて言う概念は曖昧で、人それぞれ全く感じ方の違うものだろう。

それを他人と比べるべきではないのもよく分かっているし、こんな風に思ってしまうのは惚気以外のなにものでもないのだろうけれど、敢えてその過ちを自分で認めるのならば、今この時間を共有している私たちはきっと、誰よりも幸せだ。



「お待たせしました!それではお進み下さ~い!」


某大型テーマパークのアトラクションにでも乗る時のような作り込まれた声色のスタッフ女性の案内を受け、私たちは薄暗闇の中に歩を進める。

薄暗闇といっても要所要所には仄かな灯りが点いているし、少し先には壁一面に色とりどりの光によって幻想的な模様が浮かんでいるから尻込みせずに軽快な足取りで進むことが出来る。

まるでファンタジー世界の秘密の洞窟にでも這入っていくような感慨だ。

ここを進んだ先には美しい動物系のモンスターとかがいそうだし、物語終盤で戦ったりすることになりそうだけど倒したら仲間になったりレアなアイテムをドロップしてくれるんだろうなぁ…だとか考えちゃうのは普段からゲームをやりすぎているからかもしれないけれど、実際に行く先に待っていたのはドーム状の天井をした可愛らしいホールだった。


「なんだか秘密基地みたいでわくわくしちゃうね」


そのホールは予想よりも少しこじんまりとしており、公共の場所と言うよりも個人で作った秘密基地のような様相を呈していた。

等間隔で置かれたソファーもさほど多くはなく、数としては小さな映画館よりもさらに少ないと言ったところ。

規模が小さい代わりにお客さんの入りもそこまで多くはなく、ある意味ではプライベートな空間が確保された落ち着いた雰囲気の場所であると言えよう。

プラネタリウムというものに感じていたイメージはもっと壮大で、私たちを待っているのはきっと開けた空のような広大な施設なのだろうと思っていただけにほんの少し面食らった気分ではあるが、これはこれで素敵な雰囲気である。


「足下気をつけなさいよ」


薄暗闇のホールの中、此方にも足下にはきちんと目印の明かりが灯ってはいるが、こういうところでずっこけたりするのが詩葉なだけに、一応注意の言葉をかけておく。

転んで怪我をしたら仕方が無いので万が一の為に手も握っておいた。

別に私が詩葉と手を繋ぎたかった訳ではない。

…嘘だ、ちょっぴり繋ぎたかった。

ちょっぴりだけ。


「有栖ちゃん、手…」


その声色から、詩葉が喜んでいるのがわかる。

正直なところ私としては人が多い場所で手を繋ぐのはなんとなく分別の付いていない愚かさを露呈しているようであまり進んで及びたい行為ではないのだけれど、プラネタリウムという絵に描いたようなデートスポットである手前、どうせ周囲はカップルばかりでなんとなく浮き足立った人たちばかりなのだし、詩葉が喜んでくれるなら手の一つや二つ繋いでやらんこともないと思ったり思わなかったり。

実際のところただ身体の一部位が触れているだけというのに顔は熱くなるし心臓は高鳴るしなんとも奇矯なり我が心身といった塩梅。


「ここが私たちの席みたいね。ほら、お先にどうぞ」


どぎまぎした心を見透かされないように、あくまで気丈な様を振る舞って詩葉を座席にエスコートする。

こういうちょっとした場面で気を利かせられるような頼れる存在でありたいなと思ってしまうのは間違いなく私の自己満足でしかないのだけれど、詩葉の方もそれはそれで満更ではなさそうだからエゴというものも時には人生を豊かにするものなのかもしれないと思わされる。


「うわぁ、すごいよ…」


この場所に入ってきた時に感じたホールへのこじんまりとした印象は、席に着くことで大きくその姿を変えた。

リクライニング式のソファーから見上げるアーチ状の天井は、立っている時に見ていたよりもずっと広く感じられ、まるでそのまま星空を貼り付けたようだ。

視点を少し変えるだけでこうも印象が変わるということは実に楽しい気付きで、どんな物事も柔軟に様々な角度から眺めてみるということの大切さを改めて教えてくれる。

近未来的なガジェットのような様相を呈した映写機から映し出される映像はまだ上映前の簡素な物でしかなかったけれど、これから始まる一時間ほどの天体ショウが素晴らしい物になるであろうことを物語っていた。


「上映前の待ち時間というのも、なかなか乙な物よね」


様々な意味で高ぶった感情を携えて、今か今かと上映を待つこの時間さえも何だか楽しい。

隣並ぶ詩葉との距離感が近いことで、先ほど繋いだ手は未だ繋がれたまま。

座席の感覚が近いのはきっと、そういうことなのだろう。

何だか主宰側の思惑にまんまと嵌まっているようで恥ずかしいことこの上無いけれど、すぐ近くにいる詩葉の体温を直に感じ取れるのはちょっぴり嬉しい。


「有栖ちゃんの手、温かいね」


囁くような詩葉の声に、心臓がどきりと跳ねるのを感じる。


「手が温かい人は心はもっと温かいんだっけ?」


つい最近詩葉とそんな話をしたことを覚えている。

あの時は状況が状況だっただけに素直に手の温もりを感じられなかったけど、今なら詩葉の熱を強く強く感じ取ることが出来る。


「こないだよりもずっと、温かいね」


きっと詩葉も同じようなことを考えているのだろう、この薄暗闇の中でも頬が紅潮していることがよくわかる。

きっと私も同じくらい…いいやそれ以上に真っ赤な頬をしているのだろう。

頭から湯気が昇るような熱さを感じる。

だけどその熱さはどこまでも心地良く、全身にどくんどくんと愛情を運んでくれているような気がする。


「ほら、もうすぐ始まるわよ」


まるで映画の上映前のように、ホール中の明かりが一段暗くなっていく。


「シーっだね」


二人で顔を見合わせて、同じように唇の前で人差し指を立てる。

馬鹿馬鹿しいけど、とても愛しいミラーリング。


やがて世界は、星の海に抱かれる。


ナビゲーターの優しい声に導かれるように、その映像は始まった。

まるで宇宙に放り出されたかのような浮遊感を感じた刹那、次々と世界が移り変わっていく。

峻険な山々、広大な草原、頑健な岩肌、穏やかな海、何処までも続いていく蒼穹、そして流れ行く星々。

夜空に掛かる天の川を中心として、無数の星が巡っていく。

小さな星の瞬きは地球の自転とともに点から線に変わり、地平線を彩る半曲線はまるで夜空に掛かった大きな橋のようだ。

光の束で出来た橋は場所と場所、時間と時間を繋ぎ、夜がやって来て、朝がやって来て、また夜がやって来る。

繰り返す時の流れは生命の息吹を孕み、そこに数え切れない輝きが瞬いていることを物語っている。

美しい星空を巡り、やがて辿り着いたのは私たちの見知った星空。

それは138億の旅路であり、連綿と繋がれてきた私たちの物語だ。

北半球の星座、南半球の星座、そこに込められた逸話と数え切れない人々の願い。

天の川銀河の成り立ち、星空に掛かる橋の意味、棒渦巻銀河。

どこか詩的(ポエティック)でありながらも現実的(リアリスティック)説話的(ナラティブ)な星空の旅は、その細部に至るまで息を飲むような美しさで精緻に描かれており、現実と見紛う程の質感で私たちの元に降り注いでくる。

光の投射が、どこまでも心を震わせる。

それは人が作りだしたものだからこそ、本物に引けを取らない美しさを纏っているのかもしれない。

全ての芸術は模倣であると、耳にしたことがある。

世界の模倣、感情の模倣、映像の模倣、音像の模倣、その形は様々あれど、美しい形には一定の法則がある。

その法則を模倣することこそが芸術の神髄であると、今の私は感じることが出来る。

膨大な模倣の集積の中から、時に人は自分にとっての本物を見つける。

そのプラネタリウム映像は確かに私たちの中では紛うことなき現実になっていた。


言葉を交わさずとも、手を繋いだ詩葉の興奮が伝わってくる。

きっと私の鼓動も同じように彼女に伝わっていることだろう。

私たちは今この時、同じ場所で同じ感情を胸に抱いている。

星空への感動、宇宙への畏怖、途方もない時間を経て出会えた奇跡への感謝、今こうして隣り合えていることの幸せ。

遠大な星々の物語を見ている筈なのに、それが私たち自身のことのように思えてならない。

この身体に刻み込まれた遺伝子の記憶がそうさせるのだろうか。

茫洋と何もない場所を漂っていた頃から私たちは知っていたのかもしれない。

私たちは一つであると、その真実をずっと悠久の昔から、本当は気付いていたのだろう。


生命とは、細胞の連なりであり、細胞とは分子の連なり、その分子も原子の連なりであり、陽子、中性子、電子を経てさらにいえばクォークやレプトン、それらさえもきっとまた私たちの知り得ない何かの連なりである。

弦を弾くようにより大きな世界に目を向けるのであれば、この宇宙は星々の連なりであり、宇宙もまた連なってなにかを形成しているのかもしれない。

それならば私たちは一体どの次点で存在を隔てているというのか。

答えは簡単だ。

隔たりなどは存在しない。

全ては一つで、それだからこそ無でもあると言える。

それは泡沫の夢でもあり、永久でもある。


全てが愛おしい。

詩葉が愛おしい、私が愛おしい、星々が愛おしい、宇宙が愛おしい、この世界が愛おしい。

それと同時に途方もない悲しみも降り注いで来る。

全ては刹那の瞬きに過ぎず、存在と非存在を重ね合わせているのだ。

北極星の輝き、南十字の煌めき。

あの永遠に思える光の連なりも、粒でしかなく、波紋を水面に落とした後に消え去ってしまう。

やがてそこに現れるのは凪いだ水鏡。

それは何を映し出す為に存在しているのだろう。


私は自問自答する。

世界は何の為に存在するのか。

そこにはどんな意味があり、理由が有り、価値があるのだろうか。

その意味を知りたいと、理由を知りたいと、価値を知りたいと思えば思う程、自分自身が何も知らないのだと、自分自身が何者でもないのだということに気付かされる。

そもそもこの世界は存在しているのだろうか。

私はこの時本当にここに存在しているのだろうか。

何もかもがわからなくて不安な気持ちがどっと押し寄せる。

私はそれらの答えを痛い程に知っている。

それらの答えは始めからからずっとそこにあって私を見下ろしていたのだ。


無とは黒なのか、白なのかという問いかけ。

無は存在しているのか、存在していないのかという問いかけ。

全ての存在が無に帰す為に存在しているのならば全てが無なのではないかという問いかけ。

その無が無であるのならば無さえもそこには存在せずこの世界には何も存在せず無により世界は存在しないという問いかけ。

存在しない世界には無がある筈も無く在るはずのない無が在る矛盾を抱える世界は存在するのかという問いかけ。


無が存在するのならば世界は存在しているという真実。


溶け出した自分自身をかき集めればそこには確かに私が存在していた。

私とは私という個ではなく、全ての可能性の集積であり、更に言うのならば繋がれた手の先に在る温もりまで含めて私なのだ。


その時初めて私は、長年心を苛んでいた恐怖を克服する糸口を見つけられたのだと思う。

自分自身の存在が無に等しく世界は存在しないのだという恐怖を克服するきっかけを。


息を飲むだけの圧倒的な感動がただそこにはあった。

機械から投射された光の連なりが、星空の模倣が、目の前で弾け、加速していく。

これは自らの内面を映し出す為に存在している。

それと同時に、自らの恐怖を克服する為に存在していた。


私は長い長い思考の牢獄から、漸くこの宇宙にやって来ることが出来たのだ。



「ご来場ありがとうございました~」


やっぱりどこかの巨大遊園地の案内じみた作り込まれた笑顔に見送られながら、私たちはプラネタリウムを後にした。


すぐ隣に驚愕すべき非日常が在ったにも関わらず、ほんの数メートルも歩けばどこでも目にするようなショッピングモールの様相が続いている。

プラネタリウムがあるのは大型観光施設の中だったから当たり前と言えば当たり前なのだけれど、世界には思いもしないすぐ近くに不思議な場所が隣り合わせているのだなぁという現実に改めて気付かされる。

今日は色々と気付かされることの多い日だなぁと思いながらふと気付けば私の手は未だ詩葉の手をしっかりと握っており、そんなことにも気付かない自分はどれだけ惚気ているのだろうということに気付かされた。

気付きがゲシュタルト崩壊しそうだ。


「本当に素敵な映像だったね、有栖ちゃん」


詩葉の方も手を繋いでいることになれてしまったのか全く気にしない様子でごく自然とそう言っているけれど、感動に瞳をきらきらさせている様は見ていてこちらまで嬉しくなる程に輝かしいものだった。


「私の語彙力じゃ上手く表現出来ないけど、ホールの天井がそのまま本物の星空になったみたいでとっても感動的な風景だったね」


詩葉は自分のことを語彙力がないと言っているが、それだけ的確に表現しているのならば充分な語彙力はあると言っていいのではないだろうか。

というか、語彙力がないという言い訳なんてしなくたって誰も人の感想を笑ったりしないのだから自由に思ったことを表現すればいいのに、どうしてわざわざ前置きする必要があるのだろう。

私は詩葉のメルヘンフィルター越しに見ている世界をとても美しく思うしそれを素直に聞かせて欲しいのだけれど…などとわざわざ言う必要もないので笑顔で頷き返して握った手の温もりをただ堪能する。


「プラネタリウムってどんなものなのかしらってくらいにしか思っていなかったけれど、思っていたよりもずっと素晴らしいものだったわね」


「ね、本物の星空に引けを取らないっていうか、プラネタリウムだからこその良さがあったよね」


「全くその通りだわ。最近の映像技術っていうのは侮れないものね」


私なんかは自分でも信じられないくらいに感化されて世界についてとか存在についてとか考えちゃったくらいだし。

思い返すと結構恥ずかしいけれど、あのプラネタリウム映像がそれだけ人の心を動かすような魅力に溢れた作品だったということは間違いない。


「これからの時代はもっと宇宙に目を向けなきゃいけないなぁって私思ったよ」


「へぇ、それは良い心がけね」


詩葉は何にでもすぐ影響されやすい性質を持っていて、何かに感動したすぐ後には私も少し驚くくらいに熱中して意欲的に勉強をしようとすることがある。

この間の動物園のあとに貸した本の内容も不器用ながら自分なりにきちんと理解していたようだし、この機会を利用して詩葉を天文学や物理学の目眩く世界に引き込むべきかもしれない。


「それじゃあ今度、興味深い本を貸してあげるわよ。アインシュタインの予言した重力波が実際に観測されたっていうのは詩葉も知っているでしょう?それについて書かれた本がとても面白かったから読んでみると良いわ。最近ではブラックホールの影を撮影したことも話題にあがったからそれ関連の本も幾つか見繕ってあげる」


「ちょっと聞いただけで難しそうだけど、私未来のために頑張るよ!」


ぎゅっと私の手を握り返す詩葉の目はやる気に満ちていたから、私の胸もなんだか温かな気持ちで一杯になる。

大切な人に、自分の好きな分野への興味を持って貰えるということはとても嬉しいことで、自分自身まで一緒に肯定して貰えたような気持ちになるものだ。

もともと詩葉が私の事をバカみたいに全肯定してくれることは分かっているし、たとえ私がどんなに彼女とかけ離れた価値観を胸に秘めていようとそれら全てをそのままに受け入れてくれるということもよく知っているけれど、実際に私の興味の一部に目を向けてそれを共有してくれようという詩葉の優しさには心動かされるものがある。


「分からないことがあったら何でも聞きなさい。私だって全てをきちんと理解しているわけじゃないけれど、どんな難しい疑問にだって答えてみせるわ」


「流石有栖ちゃん、心強いよ~。それにもしもの時はコメットちゃんもいるしね」


「うっ…その通りね」


ここで私よりも遥かに知識が多い…というか存在そのものの次元が文字通り違うコメットちゃんの名前が出てくると自分自身の無力感に気付かされるものだけど、きっと詩葉は他意があってその名前を口にした訳ではないだろうことがわかっているからこそ、ますます自らのちっぽけさに打ち拉がれる訳で。


「私は一人じゃなんにも出来ないけど、有栖ちゃんやコメットちゃん、お姉ちゃんや小夜ちゃんたちが助けてくれるからすっごく心強い気持ちでいられるんだよ」


詩葉のそのどこまでも優しい笑顔にこそ助けられている。


「みんながいてくれて、みんなが支えてくれるから私は私でいられるんだと思う」


私もみんなのことが大好きだ。

近くにいてくれている人たちにこれ以上ないくらい支えられていることはよく分かっている。

よく分かっているから、私という個の無力さを味わわされてしまう。

私一人では決して、詩葉のことを支えられない。

私だけでは一番大好きな詩葉を守ってあげられない。


「でもね、やっぱり私の一番は有栖ちゃんなの。今日一緒に過ごして、それが改めてわかったよ。有栖ちゃん、今日はデートに誘ってくれてありがとう。大好きだよ」


幸せで、胸が苦しい。

無力感で、胸が苦しい。

ずっと逃げてきた感情だから、どう受け止めたらいいのかまだよくわからない。

私も詩葉が大好きなのだという率直な気持ちをただ伝えたいだけなのに、想いをどうやって表現したら良いか分からずに上手く言葉が出てこない。


「大丈夫だからね、有栖ちゃん。大丈夫」


何が大丈夫なのか、なんて聞かなくても十分に分かっていた。

詩葉はきっと私の胸に蟠る想いを理解して、それを口にしてくれているのだろう。


「本当に詩葉ってば、詩葉よねぇ」


私は泣きそうになる心を奮い立たせて、満面の笑顔で隣り合う詩葉の表情を真っ直ぐに見つめる。


「な~に?私は私だよ有栖ちゃん」


悪戯っぽくはにかむ彼女のほっぺたがあまりに無防備だったから、私はほんの一瞬、そこに愛情の全てを口付ける。


「あ、有栖ちゃん…」


「一瞬の間が生死を左右するのよ。戦場で気を抜いたらこんな風に打たれるんだからね、ば~ん」


冗談めかして銃の形にした人差し指を詩葉に向ける。


「ダメです有栖ちゃん軍曹…軍曹の可愛さに胸を射貫かれて死んでしまいそうです」


「そのまま死になさい、詩葉二等兵」


「有栖ちゃんは無慈悲な戦場の悪魔…ガクっ…」


特別な時しかキスしないとか言った手前簡単にほっぺにちゅうなんてするべきじゃなかったかもしれないけれど、毎日がエヴリデイで特別なのだからいつだってキスのチャンスはそこら中に転がっているのだということにしておこう。

サーイエスサー。

悩み事全部、バカみたいに思えて、私はもう一度ぎゅっと繋いだ手を強く握った。


というのが私たちの初デートの顛末で、やっぱり特別な事なんて何一つ起こらないのが私たちなのだ。

だけどそれがどこまでも愛おしいし、何もなくたってただ詩葉といられることを心から嬉しく思う。


私は私自身から目を背け続けてきて、歪んだもう一つの人格さえ生み出してしまった。

苦しいことから逃げ出して、ただがむしゃらに毎日を頑張ることで自分を保ってきた。

それで得られた物もたくさんあるし、今の自分自身を否定することは未来の私たちを否定することになるから私は全ての私を肯定したいと思うのだ。


ねえイリス、きっとこんな日常は貴女の望んでいた世界とは違うのだろうけど。

詩葉以外にも、みか姉がいて、コメットちゃんがいて、小夜先輩や千佳たちがいる、大切な人に囲まれた退屈な毎日は、嫌になるくらい、幸せだよ。


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