2 おかえりを言ってくれる人
「おかえりなさい。うたちゃん、有栖ちゃん」
優しい笑顔でおかえりを言ってくれるのは、勿論私の大好きなお姉ちゃん。
最近流行っている感じの、細いフレームの丸めがねをかけて大人っぽい可愛さが普段の1.5倍くらい(私調べ)になっていてとっても魅力的だ。
お姉ちゃんは、帰宅した私たち二人をわざわざ玄関まで迎えに来てくれた。
私と有栖ちゃんが一緒に帰宅した仲良し夫婦なら、お姉ちゃんは家政婦さん?
…それじゃあなんだか可哀想だし、お姉ちゃんはお姉ちゃんだから、お姉ちゃんでいいかな。(わけわかんないけど)
「ただいま、お姉ちゃん」
「ただいま、みか姉」
私たちもそれぞれの呼び方で、お姉ちゃんにただいまを言う。
おかえりとただいまを言い合える関係。
それってとっても素敵だと思うんだ。
以前から有栖ちゃんはちょくちょくうちに来ていたけれど、学校から帰ってまでずっと一緒にうちで過ごすなんてことはそんなに多くなかった。
いつでも一緒にいるのだから、わざわざ平日の学校終わりまで一緒に過ごすこともないだろうし、同じマンションのお隣に住んでいるのだからなにかあったらすぐに会いに行けるという安心感があったからだ。
だけど最近では、学校から一緒に帰ってきて直接そのまま有栖ちゃんがうちに来ると言うことが半ば当たり前になっている。
今日はたまたま有栖ちゃんの用事で先にお姉ちゃんたちは帰ってしまったけど、普段はみんなで一緒に帰る。
そしてお互いにおかえりとただいまを言い合うのだ。
「あらあら、今日も二人は初々しい新婚さんみたいで可愛いわねぇ。お姉ちゃん、なんだかちょっぴり興奮しちゃうわぁ…!」
頬に手を当てて微笑むお姉ちゃんは、ちょっぴり変態ちっくな表情を浮かべている。
いつ如何なる時もお姉ちゃんは基本的にブレない。
「ちょっとみか姉、新婚さんって、私たちまだ結婚した訳じゃないんだから…!」
「まだ、ってことは、有栖ちゃんはそのうちうたちゃんと結婚するつもりがあるってこと、よ・ね?」
そう言うとお姉ちゃんは私に向けてウィンクをする。
二人で有栖ちゃんを可愛がろうという合図だ。
「有栖ちゃん、そうなの?私、有栖ちゃんとならいつだって結ばれたいって思ってるよ?どうする?式の日取りはいつにしようか?」
「有栖ちゃんとうたちゃん、どちらが新郎さんで、どちらが新婦さんなのかしら?ううん、二人とも純白のウエディングドレスに身を包むのがいいかもしれないわね。ああ、想像しただけでお姉ちゃん、なんだか鼻血が出そうになってくるわ~~~」
「ねぇ有栖ちゃん、せっかくだからドレスはお姉ちゃんに選んで貰おうか!きっとお姉ちゃんなら、私たちにとっても似合うドレスを選んでくれると思うよ!」
「ふふふ、任せて頂戴。式の間に何度もお召し直しして、一生に一度の最高のファッションショーを繰り広げましょう!」
「あはははは~」
「うふふふふ~」
赤面して何も言えずに、ぷすぷすと頭から湯気を上げる有栖ちゃんの周りを、私たち姉妹は手を取り合って回りはじめる。
さながら舞踏会のように、軽快なステップでダンスホールを駆け巡るように、ぐるぐる、ぐるぐると。
「有栖ちゃんと結婚、早くしたいな~~~」
「うたちゃんと有栖ちゃんの花嫁姿、早く見たいわ~~~」
赤面を通り越して既に目を回している有栖ちゃんをよそに、私たち姉妹のダンスパーティは終わらない。
主賓の有栖ちゃんをからかう…もとい、喜ばせる為に私たちはいつまでも踊り続けるのだ。
「あ、わわわ、二人とも、気が早すぎるのよおぉぉぉ!」
恥ずかしさが頂点に達したのか、有栖ちゃんはここがマンションの一室だということを忘れてしまったかのような大音量で叫び声をあげる。
普段からしっかりと運動して肺活量を鍛えている彼女の声量は割と真剣にご近所迷惑になりかねない程に強烈だったから、思わず私たちも吃驚仰天して優雅な舞踏を止めてしまう。
「ちょっと有栖ちゃん、私たちがからかったのが悪いけど、声大きすぎるよ~」
人差し指を唇に当てて、しーっのポーズ。
「だって、詩葉とみか姉が馬鹿なこというから…でも、大きな声出して悪かったわ…ごめん」
いまだなお、有栖ちゃんの頭はぷしゅぷしゅと煙を上げているけれど、流石の有栖ちゃん、切り替えが早いし、すぐに謝れてえらい。
責任は完全に私たちの方にあるのでむしろ謝るのはこっちなんだけど。
「ごめんね、お姉ちゃんたちが意地悪だったわね」
お姉ちゃんは謝罪がてらすかさず有栖ちゃんの頭をなでなでしている。
有栖ちゃんの方も満更じゃなくそれを受け入れてるから嫉妬心がむくむく湧いてくるというものだ。
「ちょっとお姉ちゃんズルい!有栖ちゃんは私のものなんだから!」
「うふふ、有栖ちゃんはお姉ちゃんのものよ。ね、有栖ちゃん」
「私は誰のものでもないんだけど。それに、どっちかと言われたらそりゃあ詩葉のものってことになるしもにょもにょ…」
「やった~有栖ちゃん、ちゅきちゅき~」
「ちょっ、急に抱き付くんじゃないわよ詩葉~~~!」
私とお姉ちゃんが結託して、有栖ちゃんをからかう…こんな具合にお馬鹿なやり取りをするのが私たちの日常で、私たちの当たり前になっていた。
これらのやり取りからもわかるように、私と有栖ちゃんが付き合い始めたことを、お姉ちゃんは知っている。
有栖ちゃんの精神世界を旅して、私たちは正式に付き合うことになった。
人生にこんなに幸せなことがあっていいのかと思うくらいに毎日が幸せで、私自身、これが夢なんじゃないかと思うくらいには浮き足立っている。
些細なこと一つとっても何もかもが新鮮で、許されることならいついかなる時も有栖ちゃんと一緒にいたい。
有栖ちゃんがいてくれるだけで心が満たされて、それだけで生きるのが本当に楽しい。
だけど当然、世界は私たち二人きりで成り立つ筈がない。
他にも大切な人がたくさんいてこその世界だ。
私の世界は有栖ちゃん一人でも成り立つけれど、欲張りな私は、私の近くで私を支えてくれている他の大好きな人たちも傍にいないと嫌なのだ。
だからこそ、周囲の人々…特に親しい人々に私たちの関係を告げるかどうかは正直かなり悩んだ。
お姉ちゃんやコメットちゃん、小夜ちゃんたちに、私たちが付き合い始めたことを伝えたら一体彼女たちはどう思うのだろう。
優しい彼女たちのことだ、きっと受け入れてはくれるだろう。
祝福の言葉はかけてくれるだろうけど、本当のところ彼女たちがどう思うかは私にはわからない。
最悪、私と有栖ちゃんのせいで気まずくなって、彼女たちとこれまで通りの関係を続けていくことさえ難しくなってしまうかもしれない。
そう考えれば怖くて怖くて仕方が無かった。
私は彼女たちのことを信じていたけど、これまでずっと見たくないことからは目を逸らしてきた。
彼女たちに向き合ってきたつもりで、本当は自分が傷付かないようにびくびく顔色を窺っていただけ。
心の中にある本当の感情をさらけ出すことを躊躇して、上辺だけを繕ってきた。
彼女たちの想いを知っているつもりで、その実、本質を何も知ろうとはしなかった。
あの世界で…有栖ちゃんの精神世界で自分自身を知ることでそれに気付いてしまったから、改めて彼女たちと真正面から向き合うことがどうしても怖かったのだ。
人は言葉というものを持ったからこそ、気持ちを伝えることが難しくなってしまったのだと、私は思う。
伝えたかった想いの伝え方を、言葉選びを誤ってしまって、上手く感情が伝わらないなんてとはよくある。
本当の感情とは裏腹な言葉が口から零れ出てしまい、少しの綻びから関係性が大きく変化して気付いた時にはもう手遅れ…なんていう経験は何度もしたことがある。
私は自分自身の感情を知悉している訳ではない。
むしろわからない感情だらけで、それを適切に言語化し相手に伝えることが苦手なのだ。
大好きという感情一つ取ったって、上手に伝えることにたくさん苦労してしまう。
今の今まで、有栖ちゃんに本当の気持ちを伝えることだって出来なかったように。
何度も苦しんだ。
何度も間違えた。
何度も泣いて、自分のことが嫌になるくらい悩んで…。
でも、その結果辿り着いた場所は、幸せな景色だった。
たくさん辛い思いもしたけれど、私は今確かに、有栖ちゃんと一緒にいる。
無駄なことなんて一つもなかった。
遠回りしたからこそ、私と有栖ちゃんの関係はより強固なものになったのだろう。
それに改めて気付いたことで、不安はいとも簡単に消え去った。
単純なことだったのだ。
一人じゃ怖くても、有栖ちゃんがいる。
一人で悩んで見つけられない答えも、二人なら導き出せる。
一人じゃ無力な私だって、有栖ちゃんと一緒なら何も怖くはない。
だから私は、私たちは、きちんとお姉ちゃんたちと向き合って、自分たちのことを伝えることにした。
二人が付き合っているという事実を隠して日々を過ごすなんて、ちっとも幸せじゃない。
私たちのことを認めて貰った上で、大好きなみんなと一緒に過ごせるからこその幸せなのだから。
有栖ちゃんと一緒に真剣に考えて、なんてことないいつもの学校の帰り道で私たちの関係を打ち明けた。
特別だけど、特別じゃないから、形式張ってしまうのは嫌だった。
だから何気ない日常の中で、それを伝えることにしたのだ。
緊張でぶるぶる震えて、みんなの表情を真っ直ぐ見るのが怖かったけど、手を握ってくれる有栖ちゃんがいたから、勇気を持って打ち明けることが出来た。
私の告白を受けて、彼女たちは拍子抜けするくらい簡単に、私たちの関係を受け入れてくれた。
笑っちゃうくらいにすんなりと、さして驚きもせず、ずっと以前から知っていたかのように彼女たちはそれを容易に受け入れて、そして祝福してくれたのだ。
嬉しかった。
ただただ嬉しかった。
私が思っているよりもずっと、お姉ちゃんは、コメットちゃんは、小夜ちゃんは、私たちのことを見てくれていた、見守ってくれていた。
わかっていた筈なのに、実際におめでとうの言葉を受け取るまで、私はそれを本当の意味で実感出来ていなかったのだ。
お姉ちゃんは、私たちの為に泣いてくれた。
私たちの幸せが自分の幸せなのだと、そう言って温かな涙をくれた。
それを見ていたら、私も有栖ちゃんもつられて泣いてしまった。
コメットちゃんや小夜ちゃんさえもちょっぴり泣いていて、なんだかおかしくなって、今度はたくさん笑った。
私の周りには一緒に泣いて笑ってくれる人がこんなにもたくさんいてくれるんだ。
そう思うだけで胸が一杯になって、今度はまたたくさん泣いた。
私はきっとあの日のことを、初夏の陽射しが暑いくらいに照らす帰り道を、生涯忘れることはないのだと思う。
だけどどうしても、心配なことがある。
心に蟠った不安が確かに存在する。
お姉ちゃんは、心の奥底でどんな風に思っているのだろう。
私たちのことを本当に祝福してくれていることは間違いない。
これでも双子なのだ、お姉ちゃんの気持ちくらいある程度はわかっているつもりだ。
彼女が人の幸せを自分の幸せと同じくらいに喜ぶことが出来る、本当に優しい人なのだということはよくわかっている。
そう、わかっているからこそ、知っている。
彼女が私に向けてくれている感情の正体を。
お姉ちゃんは私のことを愛している。
ずっと寄り添ってきた姉妹としてではなく、恋愛感情の好きという気持ちで、私を想ってくれている。
それをわからないと、知らないと言ってしまえたら、どんなに楽なことだろう。
私に向けられていた感情の全てを、姉妹間のコミュニケーションに過ぎなかったのだと、冗談めかして笑い飛ばせてしまえたらよかったのに。
ただの姉妹愛なのだと、そう片付けてしまえたら、きっとこんなことに悩まなくても済むのだろう。
お姉ちゃんが私を愛してくれていることを知っていて、私はその愛に甘えていた。
自分自身を愛してくれる存在が傍にいるのを良いことに、彼女の愛を利用して承認欲求を満たしていたのだと思う。
結局これは、私の歪んだ自己愛が招いた結果なのだろう。
問題を先延ばしにし続けたせいで、お姉ちゃんの中の感情をそのままに何処までも肥大化させてしまった。
きっとこれまでの私だったら、ここで思考を止めていた。
何も行動に移さないままに、ただ現状を受け入れたつもりで諦めて、目を閉じ耳を塞ぎ、有栖ちゃんとの幸せな日々に耽溺していったことだろう。
だけど私はもう、大切な人たちから逃げないと決めた。
それはつまり、自分自身からも逃げ出さないということだ。
だから私は、私が有栖ちゃんと付き合い始めたことで、その光景を見せつけ続けられることで、お姉ちゃんが辛い思いをしているのではないかと、正直に聞いた。
それが彼女を傷つけることになるかもしれないこと、それと同じ分だけ自分自身を傷つけることになるかもしれないことを覚悟した上で何度かそう尋ねてみた。
けれどお姉ちゃんは、いつもの優しい笑顔ではぐらかすばかりで、まともに請け合ってはくれないのだ。
心配しなくても大丈夫だと、いつでも自分は元気なのだと、私の大好きな笑顔を浮かべて。
私の勘違い、なのかもしれない。
お姉ちゃんは本当に素直な気持ちでただ私たちを祝福してくれているのかもしれないし、私に向けられていた感情も姉妹愛の範疇に過ぎないものだったのかもしれない。
全ては万事悉く上手くいっていて、私の悩みなんて杞憂に過ぎないのではないか。
時々浮かべるお姉ちゃんの憂鬱な横顔は、いつだってネガティヴな方向に考えてしまう私の悪癖が見せている、ただの幻影に過ぎないのではないか。
仮にお姉ちゃんの苦しみが真実だったとして、無理矢理に彼女の感情を引き出すことが一体何になるんだろう。
ただ悪戯に彼女に辛い思いを強いるだけなのではないか?
全ての元凶であろう、私自身が彼女にそれを認めさせることこそが、一番残酷なことなのではないか…そんな風にも考えた。
でもきっとこのままじゃ、お姉ちゃんはお姉ちゃんの幸せを手に入れられない。
彼女はこれからも自分自身を蔑ろにして、人の幸せの為だけに生きることに終始してしまう。
優しすぎるお姉ちゃんは、自分の感情に蓋をして、私たちの隣で傷付き続けてしまう。
それじゃあ、嫌なのだ。
こんな気持ち、私の一方的な感情の押しつけに過ぎないのかもしれない。
人の心には、それ以上踏み込んではいけない領域があって、私はお姉ちゃんのそれに土足で踏み込もうとしているのかもしれない。
私がやっている行動は、誰にも見せたくない心の奥の奥を曝こうとする残酷かつ非道な行いなのかもしれない。
だけど私は、お姉ちゃんに、自分自身の幸せを見つけて欲しい。
「うたちゃん」がいなくても、お姉ちゃんがただそのまま素直に笑ってくれる未来を一緒に作り上げたい。
その為に、何度挫けても、何度苦しんでも、お姉ちゃんの心の強固な壁に立ち向かおう。
たくさんの人の力を借りて、「お姉ちゃん」を、ただの峯崎美歌子に引き摺り落とす。
これは、そんな物語なのである。




