12 言葉を超えて感情を伝えられる方法
「う~ん、このチーズタルトってば本当、絶品ね!」
お洒落な雰囲気の、純喫茶じみた洋菓子屋さんのカフェスペースで、私たちは一緒にチーズタルトを食べている。
「この鼻を抜けるような芳しいチーズの香り、蕩けるような舌触りに、程よく上品な甘味。何もかもが完成され尽くしているわ」
瞳をキラキラと輝かせて、有栖ちゃんは幸せそうにもぐもぐと咀嚼している。
私は何だかその姿を見ているだけで思わず頬が緩んでいくのを感じる。
有栖ちゃんの精神世界から帰ってきた私たちを待っていたのは、にこやかな表情で迎えてくれる洋菓子店の店員さんだった。
思えば、洋菓子店の扉を開いたところで私たちはあの世界に落とされたのだし、全てが終わった後に帰ってくるのがこの場所だということは当然だったのかもしれない。
ふと気が付いたら目の前に美味しそうな洋菓子が陳列されているその事態に大変混乱したものだけど、心配そうな瞳で此方を見つめてくる気の良さそうな店員さんに迷惑を掛ける訳にもいかないし、そもそも最初からこの場所に来ることを目的として愛の逃避行をしたのだし、せっかくなので結局私たちはチーズタルトを食べていくことにしたのだった。
「何ぼおっとしているのよ詩葉、こんなに美味しいもの食べずに置いておくんだったら、私が代わりに食べちゃうわよ?」
「ううん、食べるよ、食べるから!ねえねえ、せっかくだから有栖ちゃんにあーんして貰いたいなぁ」
「全く、詩葉はしょうがない詩葉ね。ほら、口開けなさいな、あーん」
有栖ちゃんから差し出されるフォークにかぶりつき、チーズタルトを口に入れる。
「ん~、本当に美味しいね有栖ちゃん!有栖ちゃんに食べさせて貰ったからより美味しさが増したような気がするよ~!」
「ふん、当たり前でしょ、私の愛情がたっぷり詰まっているんだもの」
「へ?」
冗談で言ったつもりの軽口。
いつもだったら有栖ちゃんが赤面して「なに馬鹿なこと言ってんのよ」とかいう答えが返ってくる筈のところに、思いがけないド直球ストレートの返答が来たことに思わず呆然としてしまう。
「何を驚いた顔してんのよ。そういう顔されると、私としてもすっごい恥ずかしいんだけど」
結局有栖ちゃんは私の前で赤面してもじもじとしているけれど、その視線は何処か熱っぽくて、私を見つめる視線に隠しきれない愛情が含まれているような気がする。
私は驚き半分、嬉しさ半分で、何だか彼女の方を見るのがとても恥ずかしいことの様に感じてしまう。
「ちょ、ちょっと、なにか答えなさいよ!いよいよ私、恥ずかしい子みたいじゃないのよ!」
ぷりぷりと頬を膨らませる有栖ちゃんが可愛すぎる。
おかしい、心臓がどきどきと跳ね上がり、今にも口から出てきそうなくらい脈打っている。
ああ、私は本当に有栖ちゃんのことが、大好きなんだなぁ。
「あのさ、有栖ちゃん。その…イリスちゃんはどうなったの?」
あの世界での最後の時、有栖ちゃんとイリスちゃんは一つになったように見えた。
精神世界で二人の人格が合わさって一人になる…みたいなのは物語でよくあるようなお話しだけれど、果たして彼女たちの人格は一体、どうなったのだろうか。
「何というか、説明しにくいんだけど、結局はイリスも最初から私の一部だった訳で、特別何かが変わったって感じはしないのよねぇ。ただこう、私の内側にきちんとあるべき感情があるような気がするっていうか、欠けていた心が元の形に戻ったっていうかそんな感じ?」
「そう。それじゃあ有栖ちゃんは、有栖ちゃんなんだよね?きちんと私の知ってる有栖ちゃんなんだよね?」
有栖ちゃんが私の知らない有栖ちゃんになっているのではないかと、そんな不安な気持ちが胸の中に渦巻く。
あの世界では様々なことがあった。
有栖ちゃんを変質させる為に生み出された世界。
たとえそれが有栖ちゃんの精神世界だったとしても、何か致命的な変化が彼女に起きているのではないかと心配してしまうのは仕方が無いことだ。
「そんな心配そうな顔しなくて大丈夫よ。というか、私が別人になったように見えるの?」
「その、さっきあーんしてくれた時とか…」
「あ、あれはその、そう!冗談だから!いや…冗談ではないんだけど、うん…ええと…」
有栖ちゃんはあたふたと赤面して、両手を振り乱して不可思議な動きを見せている。
この反応を見れば大丈夫。
目の前の有栖ちゃんが正真正銘、私の大好きな有栖ちゃんだということがわかる。
「よかった。有栖ちゃんは有栖ちゃんだね」
「そうよ。私は私なんだから。ずーっと変わらずに詩葉の傍にいる私よ」
「ふふふ、安心したよ」
心の中に、ぽかぽかとした温かい感情が湧いてくる。
私の有栖ちゃんは、いつだって傍にいてくれた有栖ちゃんは、昔から変わらずずっと有栖ちゃんのままでいてくれているのだ。
あの世界の中だって、有栖ちゃんは必死に私を守ろうとしてくれていた。
結果的にそれが彼女の作り出した世界だったということは分かってるけど、それでもやっぱり、有栖ちゃんが私を想ってくれた事が、とても嬉しく感じる。
「有栖ちゃん、この後まだ時間あるよね?」
「何?別に時間ならあるけど、あんまり遅いとマ…お母さんが心配するから用事があるなら早めに済ませてよね」
「うん、大丈夫。そんなに時間は取らせないからさ。私、有栖ちゃんに伝えなきゃいけないことがあるの」
「それって、ここじゃ言えないこと?」
「一般的には」
「わかった。それじゃあ食べ終わったら、出ましょうか」
それからはお互いに無言で、チーズタルトを食べることだけに集中していた。
時折視線が会う度に、気恥ずかしくて目を逸らしてしまう。
きっと有栖ちゃんも、何となく感じ取っているのだろう。
あの世界は有栖ちゃんの精神世界そのものだったのだ。
きっとあの世界で私が散々口にした想いだって、十分に伝わっている。
あとは私がきちんと逃げずに、真正面から彼女に想いを告げるだけ。
怖いけど、大丈夫。
私はあの世界で、たくさんの大切なものに気付けたのだから。
○
何処か気の利いたお洒落スポットみたいなものを、なけなしの女子高生パワーを総動員して探してみたのだけど、私がそんな素敵な場所を知っている筈も無かった。
一応乙女として、年相応の女の子が好きなものだとかはある程度網羅しているつもりだけれど、私とて正真正銘のド処女、恋愛経験なんてこれまで全く無い訳で、恋人だったり、その他それらしい関係の二人が愛の言葉を囁き合うような場所に言ったことも無く、こういう時にどういう場所でアレしたりアレするのかなんて頭がわちゃわちゃしてうわわわ~んな感じなのだ。
そう、私は今、相当に緊張して脳味噌が正常に働いていない。
考えが纏まらずに浮ついた気持ちばかりが思考を占領して、どうしたら彼女が喜んでくれるだとか、そんな事に考えを回すだけの余裕が全く無いのだ。
こういう時にド処女だと色々苦労するのだなぁと少し反省するし、こうなるくらいだったら有栖ちゃんをエスコートする為にそれなりの経験とか積んでたほうが良かったのかなぁと思わないこともないけど、全てを有栖ちゃんと一緒に一つずつ経験していけるということはとても尊いことのように思えるし…ってまだ一緒に経験出来るかどうか決まった訳でも無いのに有栖ちゃんの気持ちもわからないじゃないむにゅゆううううわんんぬ。
すぅ、はぁ、深呼吸。
そんな訳で私たちは、夕暮れの河川敷へと来ていた。
私たちの暮らすマンションからほど近い河川。
毎日通る、変わり映えのしないなんてことない風景。
だけど視界の開けたそこは、綺麗に夕陽が沈んでいくのを眺めることが出来る。
土手を下りたところ、数人が腰掛けられるちょっぴりお洒落なベンチに、有栖ちゃんと横並びで座る。
赤く赤く燃える太陽を、手で庇を作りながら見つめる。
ちょっぴり目に痛いのは、その風景がちょっぴり心に刺さるからだろうか。
一日の終わりを感じさせる、儚いながらも美しい、いや、儚いからこそ美しい景色。
私はこの夕陽というものが大好きだった。
そしてそれと同じくらいに、大嫌いだった。
綺麗過ぎて、涙が出てくるのだ。
ただ夕陽を見ているだけで何故だか言葉に出来ない気持ちが胸の中に溢れて、一抹の不安感を抱く。
今日という一日が終わってしまうことへの悲しみか、明日が来るかわからないことへの焦燥か。
様々な言葉でその感情を表してみたけれど、結局それを上手に形容出来る言葉は未だに見つけられていない。
「夕陽がとっても綺麗だね」
隣で一緒に見つめる有栖ちゃんに語りかける。
彼女の横顔は、オレンジ色に染まってとても綺麗だ。
美しい夕陽よりも、ずっと、ずっと。
「そうね。とっても綺麗。…あ、それって月が綺麗ですね的な事!?」
「ち、違う違う!そういう意図があった訳じゃないよ…!」
「は、はは、そうよね~。私ってば何言ってんだろ」
お互いに、その場の微妙な空気を感じ取ってしまって、一言発することも一言受け取ることも何処か難しい事のように思える。
これから何が起こるのか、私が何を言おうとしているのか伝わっているからこそ、きっと有栖ちゃんも私の発言を裏読みしてしまうのだろう。
絶妙に気まずい雰囲気が二人の間を漂い、暫しの間何をするでもなくぎくしゃくとしたまま、ベンチに座って心地良い風を感じていた。
「それにしてもさ、今日は大変だったね」
気まずい空気に耐えきれなくなり、突貫で会話を始める。
「え、ええ。そうね。本当、私のせいで色々と巻き込んでしまって、大変な思いをさせてしまってごめんね…」
「あ、そう言う事じゃないの!私としては貴重な体験も出来たし、それなりに充実してたよ!」
私の言葉で有栖ちゃんを悲しげな表情にしてしまったことに、今さらながらそれが今するべき話題ではなかったことに気付く。
なんというかもっと、平和で幸せな話題を振るべきだと考えてみても、こんな時に話せるような内容、咄嗟に出てくる訳も無い。
第一、私たちはずっと一緒にいるのだ。
お互いの生活の殆どを共有しているのだから、特別な話題などないし、情報のソースだって大体一緒だから、新鮮味溢れるような話題を提供する事も出来ない。
こういう時に、距離が近すぎるというのも問題なのかもしれないなぁと思わされる。
といっても、その距離感で一緒にいないと、きっと私は有栖ちゃん不足でおかしくなってしまうだろう。
…あ、こういう気持ちを素直に伝えれば、いいのかなぁ。
「ねぇ詩葉?」
「な、何かな?」
必死になって話題を探している最中、有栖ちゃんからの助け船が来たことに一安心してしまう。
いつだって私を助けてくれるのは有栖ちゃんだ。
さあて、有栖ちゃんはどんな話題を振ってくれるのかな。
「好きよ」
美しい夕陽を背景にして、彼女は一言呟いた。
「私、詩葉の事が好き。それは、幼馴染みだとか、家族とかの好きじゃなくって、恋人としての意味で好き。ずっと昔から、詩葉の事が好き。これまで素直になれなくて言えなかったけど、私、本当に詩葉の事が好きなの…」
涙さえ流さんという揺れる瞳で、彼女は私を見つめている。
目の前の少女は何処までも儚く、触れただけでも壊れそうなくらいに弱々しくて、私が見てきたこれまでのどんな表情よりも、美しい。
その表情はまるで夕焼け空に輝く一番星のように、煌々と輝いていた。
「あ、あのさ…私が告白する感じの流れじゃなかったっけ?」
この場所に彼女を連れてきたのは私だし、始めにそれらしい雰囲気を醸し出したのも私だ。
当然その流れで私がきちんと有栖ちゃんに想いを告げるべきなのだと思っていたから、予想のしていなかった状況に思わず唖然としてしまう。
「だ、だって、いつまで経っても詩葉ってば告白して来ないんだもの!もしかしたら私の勘違いだったのかなぁって不安になるし、今日きちんと気持ちを確かめ合わなきゃまたなあなあになっちゃいそうだったし、必死の想いで正直に気持ちを伝えたんじゃない!悪い?というかさっさと返事を聞かせなさいよ~!」
ほっぺたを真っ赤にして、ぷりぷりと怒る有栖ちゃんが可愛い。
遠くに沈んでいく夕陽よりもずっと真っ赤な頬。
ああ、私はこの人が好きなんだと改めて思わされる。
「ほんと、私たちって大事なところで決まらないよね」
「しょうがないじゃない、私と詩葉なんだもの。ばっちり決まる訳がないわ」
「そう言ってる間に、野良猫さんがやって来たよ」
「あらほんとね。可愛いわ」
何か餌でも探しているのか、私たちの周りを野良猫がぐるぐると徘徊している。
最初からムードなんて何もなかったけれど、完全になんかもう、アレだ。
茶番って奴だ。
「あの猫さんもさ、きっと好きな猫がいるんだよね。好きな猫の為に必死になって生きて、好きな猫の為に死んでいくんだと思う。なんかそういうのってさ、いいよね」
猫の生き様に、人生を重ねてみる。
それはひょっとしたら不釣り合いなのかもしれないけど、そういうアンバランスさこそが、私っぽくて、私たちっぽいのかなぁと思う。
「私、有栖ちゃんと一緒に生きたいよ。ずっと有栖ちゃんと一緒に人生を過ごして、とびきり退屈で、特別なことなんてな~んも起きない最高に平穏無事な幸せを手に入れたい」
これまでずっと逃げてきた本当の感情。
これ以上の悲しみを背負わない為に目を逸らしてきた、これ以上の幸せ。
自分から逃げて、有栖ちゃんからも逃げて、私はこのままでいいのだと、ずっと言い訳をし続けてきた。
失うことは怖い、だけど、今手を伸ばさないことの方がずっと怖い。
だから私は、勇気を振り絞って言うのだ。
「有栖ちゃん、私と付き合って下さい」
それが、私の素直な願い。
私の描く、一番の幸せ。
私が求める、ただ一つの幸せ。
「ちょっとそれじゃあ、私の告白の答えになってないじゃない」
ご自慢のツインテールを揺らして、彼女は頬を膨らませる。
時が止まったかのような、永遠の一瞬がそこに広がる。
お互いの気持ちを伝え合ったからこそ、心臓が高鳴って、彼女の挙動全てが夕焼けの中に溶けていく。
この時間が、距離が、全てがもどかしい。
次に彼女の発する言葉を期待して、全身が燃えるように熱い。
ああ、私の想いに、彼女はどう答えてくれるのだろう。
私を好きだと想ってくれる彼女は、私とこれからもずっと一緒に居たいと想ってくれるのだろうか?
わかっていても、不安になる。
言葉にしなきゃ、想いは伝わらないから。
口にしないと感情は、実を結ばずに消えてしまうから。
……だけど、言葉を超えて感情を伝えられる方法が、この世界に存在している事を、私は知った。
突然ゼロになる二人の距離。
どくんと、一際高鳴る心臓。
私の大好きな人の顔が、信じられないくらい近くにある。
優しい口づけ。
一瞬の唇と唇との邂逅。
遅れてやってくる甘いシャンプーの香りと、唇に残る柔らかな感触。
「有栖、ちゃん…」
そして、私の大好きな笑顔を浮かべて彼女は。
「死ぬまで、離さないからね」
その笑顔は、間違いなく、世界で一番幸せな笑顔だった。




