11 イリス×アリス
予感はあった。
この世界に来てからというもの、私は恐ろしい怪異たちに幾度となく出くわして来たけれど、彼らが私に危害を加えようと向かってくるようなことは一度としてなかった。
最初は、彼らにとって明確な脅威である有栖ちゃんを排除することに必死で、此方まで手が回らないだけなのだと思っていた。
どれだけ怪物たちに行き逢っても、どんな場所から怪異たちが現れても、彼らが戦いに向かっていくのはいつも有栖ちゃんの所だけだった。
まるで此方を傷つけるつもりがないかのように、怪物たちは私の横を素通りしていくことさえあった。
どうやらこの世界に於いて、私は何処までも安全で、彼らからの敵意を向けられないことが確約されているようだ。
結局の所、私は彼らを怖がる必要などは一切なかった訳で、涙を流したり、汚物を吐き出したり垂れ流したりしていたのは全部、此方の勝手な思い込みによる全くの無意味なものだったということなのだ。
「様々な非礼を、お許し下さい」
それでもやっぱり、あの薄暗いトンネルで出会った、銀色の少女が私に傅いているなんてこと、到底信じられる訳もないのだけれど、其れが現実起こっているのだから、受け入れる他ないのだろう。
「詩葉様に危害を加える気など、私たちには一切ありません。どうか、ご同行をお願いします」
片膝立ちで銀色の少女は、恭しく頭を下げている。
その後ろに控える例の黒衣の者どもも皆平伏して、まるで一国のお姫様に敬意を表す兵士じみた様相を呈している。
どうしてこんなことになっているのか、自分自身正直かなり混乱している。
コメットちゃんがこの世界を去った後、私はただ、有栖ちゃんがまだ何処かにいるかもしれないという一縷の望みにかけて、異国情緒漂う街中を手当たり次第に歩き回っていた。
もう一度有栖ちゃんに会いたいという、ただその一心で手掛かりも何もないままに、ただ覚束ない足取りでそこら中を探し回っていた。
勿論そんな場当たり的な捜索が功を奏すはずもなく、本当に有栖ちゃんがこの世界にまだ存在しているかもわからないのに、一人きりで彼女を広い世界の中から探し出さなければいけないという現実に打ち拉がれそうになっていた時、気が付けば私の周りには、銀色の少女と黒衣の集団が現れていた。
遂に私にも終わりの時が来たのかと思った。
何だかもう心身共に疲れ切っていて、このまま終わらせてくれるならそれでもいいかなという考えさえ湧いてきた。
だけれど、万に一つでも有栖ちゃんに会える可能性が残されているのならば、まだ死ぬ訳にはいかない。
相反する思考が頭の中を巡る中、混乱する私を前にして、彼女らは突然傅きだしたのだった。
恐怖の対象でしかなかった銀色の少女と黒衣の集団が、私に向けて恭しい態度を取っていることに、ますます思考は混迷を極めた。
しかしどうやら話を聞くに、彼女らが私に対して敵意を持っていないこと、むしろこの世界では私はそれ相応の立場にあるということ、彼女らが私を何処かへ連れて行きたいのだということなどがわかった。
其れらは俄には信じられる筈もなかったけど、確かに彼女らからは敵意のようなものを感じなかったし、あのトンネルでの出来事を深く謝罪してくる銀色の少女の様子は何処か切実な感情さえ伝わってくるものだったから、一時だけ、彼女らの言葉を素直に聞いてみてもいいかなという気分になった。
「それで貴女たちは、私を何処へ連れて行きたいのかな?正直やっぱり、怖いんだよね」
目の前の少女や黒衣の者どもが此方に対する害意を持っていないということがわかっても、一度感じた恐怖を払拭することは難しい。
夥しい数の死体を目の前にして艶然と笑っていた少女のあの表情は今も脳裡に焼き付いて離れないし、私たちを取り囲んで見下ろしていたあの黒衣の恐怖は思い出すだけで身が竦むようだ。
「私たちを恐れるのは、無理もないと思います。あれが必要な事だったとは言え、外の世界の人々には衝撃的なものだったでしょう」
申し訳なさげに語る少女の表情は、痛烈ながらもそこに感情が通っているのをわからせるようなもので、あのトンネルの中で出会った時の澄み切った狂気とはかけ離れた、ある意味温かみのある色彩をしていた。
「私たちの願いはただ、我らが主に会って頂きたいということです。私たちが詩葉様をお連れしたいのは、我が主の御座す場所。詩葉様に身の危険が及ぶ可能性は万に一つもありません。どうか、ご同行を」
彼女らの主ということは、その人物ないし存在は、この世界を作り出した者だということだろうか。
何らかの意図でもって、有栖ちゃんを変質させるという世界を作り出した張本人。
一体其れは、誰だというのか。
「貴女たちの主、っていうのは誰なの?私の知っている人?」
彼女たちの主が有栖ちゃんに関与する為にこの世界を作り出したというのならば、それはきっと、有栖ちゃんの身の回りの者に他ならないだろう。
もしそうならば、それは私の知っている親しい人であるのかもしれない。
其れが誰かさえわかれば、私はその人物に会ってみてもいいと思っている。
そして、その人物がこの世界を作り出した本当の訳を、聞きたいと願う。
「其れを、私の口から語ることは出来ません」
「どうして?私に伝えることが、何かその人にとって不都合でもあるの?」
私に存在を知られることが、彼女たちの主にとっての不利益に繋がるとでもいうのだろうか。
其の存在そのものに、何か後ろめたいところがあるのか。
「申し訳ありません、詩葉様。主はただ、詩葉様を想っている。それくらいしか私には、伝えることが出来ないのです」
彼女たちの主が、私を想っている。
その言葉を信じても良いものか、胸の裡に葛藤が生まれる。
彼女らの私への平伏した態度は全て演技で、何らかの目的の為に私が必要なので上手く口車に乗せて利用しようとしていることも考えられる。
だがしかし、不可思議な力を持っている彼女らならば、有無を言わせずに私を恐怖で支配することが可能だった筈だ。
私が恐怖に怯え身を竦ませる姿を既に見ている訳だし、それならば彼女らが私に対して敬意を払うような態度を示す必要はない。
信じるも信じないも、有栖ちゃんの居場所の手掛かりが何もないことは確かだ。
彼女たちに付いていくことで、事態が変わるというのならば、それは必要な事なのかもしれない。
ひょっとしたら彼女らが連れて行きたいという場所にこそ…
「其処に、有栖ちゃんはいるの?」
「はい、います」
今度はあっさりと、銀色の少女は答える。
「それじゃあ、有栖ちゃんはまだ生きているってこと?」
「まだ確かに生きています」
「わかった。付いていくよ」
少女の口から有栖ちゃんが生きているということを聞けた。
有栖ちゃんが、彼女らの主と共にいるのだということもわかった。
それだけで私は、彼女らに付いていく決心をした。
もしかしたら全てが、嘘かもしれない。
有栖ちゃんはとっくに死んでいて、この世界の何処にも存在しないのかもしれない。
ただ私は敵の策略に嵌まり、利用されるだけなのかもしれない。
だけど私は、まだ有栖ちゃんが生きていることを信じてみようと思う。
もしかしたら絶望的な現実を叩きつけられて、今より更に心が打ち拉がれることになるかもしれない。
それでも私は、有栖ちゃんにもう一度会えるかもしれないという希望を捨てることは出来ない。
私を助けてくれたコメットちゃん。
彼女は死に至る程の、それ以上の破滅的な痛みを感じながらも、何度も私を探しに来てくれていた。
彼女が必死に伝えてくれた、有栖ちゃんがまだ生きていて、私だけが彼女を救えるのだという言葉を私は信じたい。
これから行く先にどんなに残酷な現実が待ち受けていても、私はもう逃げない。
今度こそ、目の前で大切な人が苦しむ姿をただ呆然と眺めて、何も出来ないような自分とは別れを告げなきゃいけない。
だから私は、有栖ちゃんの為に、有栖ちゃんとの幸せな日常を取り戻す為に、もう一度だけ、頑張る。
私は頑張るっていう言葉が嫌いだ。
出来るだけこの言葉を使わないように毎日を過ごしている。
押しつけがましいその激励の言葉に含まれる意図が私には受け入れ難い。
人は誰しも、いや、人ではなくたって動植物も、ただ生きているだけで精一杯だ。
ただ生きているだけで一様に皆、頑張っているのだ。
そこに頑張れと追い打ちを掛けるような行為が、私は嫌いだ。
頑張れ、頑張るよ、そんな言葉のやり取りがむず痒くて仕方が無い。
誰に言われなくたって、頑張ろうだなんて思わなくたって、誰しも皆既に頑張っているのだ。
だから私は、頑張りたくない。
毎日を、それなりの力でそれなりに生きれればいいと思っている。
必要以上に頑張らずに、ただ平穏無事な日常を過ごせればいいと考えている。
其れが私の人生観で、私がこれまでの人生で得た教訓でもある。
けれど、やる時はやらなきゃいけないんだ。
たとえ無力だとしても、なんの力も持ち合わせていないとしても、頑張らなきゃいけない時が絶対にやってくるんだ。
それがきっと、今なんだ。
この世界にやって来たことは偶然なんかじゃなくて、誰かの意志によるもので、私はその誰かに試されているのだと思う。
ここで頑張れなきゃきっと、私は一生後悔することになる。
だから有栖ちゃん、コメットちゃん、私はもう一度だけ、頑張るよ。
みんなともう一度、退屈なくらいに平穏で幸せな素敵な日常を生きる為に。
銀色の少女の導きにより、私たちは何処ともしれない目的地へと向かう。
先頭に二人の少女、その後に黒衣の集団が続くという風景は実に不可思議なもので、異国めいた街中に異様な葬列が続くような妖しさがあった。
しかも私は血塗れの体操服を着ているのだ。
一体このパレードは何の為に練り歩いているのか、もし目撃するような人が居れば、恐怖に戦きさえするかもしれない。
当人としてもやはり気恥ずかしさがあるというか、銀色の少女並びに黒衣の者どもも、仰々しく私に敬意を払ってくれるのはちょっぴり優越感のようなものが在る気もするのだけれど、それ以上に自分の巻き込まれている状況への混乱がずっと勝ってしまってなんとも言えない気持ちで石畳の道を歩いている。
時折、これまでに出会ってきたような怪物たちの姿を目にすることがあった。
そんな時彼らは此方を見て皆一様に頭を垂れる。
まるでお偉方に出くわした時のように、平伏して自らが敵意を持たないことを示してくれるのだ。
異形の見た目をした怪物たちとはいえ、彼らにもやはり思考する能力があり、敵対していない相手に対してはそれなりの対応をするだけの社会性を持ち合わせているのだろう。
有栖ちゃんが手当たり次第に攻撃を仕掛けなければ、ひょっとしたらあの異形たちと戦わずに街中を歩き回ることも出来たのかもしれない。
思えば始めに出会ったナイトゴーントだって、明確な害意を持ち合わせて向かってきた訳ではなかった。
そしてまた薄々気付いていたことだが、この街にずっと人影がないのもよく考えてみれば当たり前のことだった。
そもそもこの街自体が、怪物たちの暮らす街だったのだ。
よくよく見れば、異国情緒漂う街の作りは少々歪で、人間が暮らすには少し不便な形をしているような建物も見受けられる。
結局私たちが殺してきたのは、どこからともなく現れた得体の知れない怪物たちと言うことではなく、この街で平和に暮らしている異形の民たちだったのだ。
次から次へと私たちは、街中を行き交う住人たちを虐殺して回っていたのだ。
それらに気付いていなかったとはいえ、私たちのやって来たことはそのまま一種のテロ行為であり、ただ普通に暮らす怪物たちの平和を乱し、全てを破壊し尽くすあまりに残虐な行動だった。
「本当に、ごめんね」
胸の呵責に耐えきれず、横を歩く銀色の少女に謝罪の言葉を掛ける。
「何が、でしょうか?」
「全部。私たちがこの世界に来なければ、みんな何事もなく幸せに暮らせたんだよね」
たとえ私たち人間とは異なる見た目をしている怪物たちだって、彼らにとっての幸せや平和が存在するのだ。
ただ見た目が違うだけで、どちらが善でどちらが悪だのということが決まるはずもない。
彼らの日常を壊したのは、紛れもない私たちなのだろう。
「詩葉様が謝ることは一つもありません。全ては、なるべくしてなったのですから」
少女の表情に影が差す。
その意味を測りかねて私は、暫くの間何も言えなくなってしまう。
この世界はきっと、彼女にとっては唯一無二の彼女の世界なのだ。
彼女がどんな存在であれ、この世界に所属する以上、様々思うところもあるのだろう。
静寂に耐えかねた私は、新しい話題を探す。
そう言えば、まだ少女の名前すら聞いていなかったことを思い出す。
「貴女の名前は、なんていうの?」
「私の、名前ですか?」
「うん、そうだよ。貴女の名前を教えて」
「その、私の名前を知ることが何か詩葉様の利益になるのでしょうか?」
少女は戸惑いと驚きの入り交じったような表情をしている。
そんなに私に名前を聞かれたことが驚きだったのだろうか。
「一応、可愛い女の子の名前は聞いておきたいなって思って」
薄暗いトンネルで出会った時は恐怖からあまり良く少女の事を観察することは出来なかったけれど、改めて見ると彼女はお人形さんのような均整の取れた顔立ちをしている。
思ったよりも目尻は穏やかに下がっているし、ちょっぴり幼げな表情が可愛らしさを醸し出している。
「か、可愛いなど、そのような言葉は私に相応しくありません」
「え~、普通に可愛いけどな。髪の毛も銀色で綺麗だし」
トンネルの中では血糊でべったりだった髪の毛も、今は清潔に保たれていてさらさらと歩く度に流麗に揺れるように月光を反射させて輝いている。
絹糸のような其れは、思わず手櫛を入れたくなるような美しさを纏っていた。
「全く勿体ないお言葉、そのような言葉は我が主にお掛け下さい」
「あんまり褒められ慣れてないのかなぁ?大丈夫、貴女は可愛いよ。自信持って」
「うぅ…」
赤面して俯く少女は、やっぱりとても可愛い。
訳のわからない世界で出会った少女とは言え、私的には可愛い女の子の可愛い反応が見られるだけで満足なのである。
私ってば、有栖ちゃんを助けに向かっている筈なのに、他の女の子に現を抜かして、何だか浮気性な人みたいだなぁ。
違うんだよ、可愛い女の子を可愛いと思うのは至って普通の反応であって、そこに深い意味がある訳でも、下心がある訳でもないんだよ。
私の一番は、有栖ちゃんだからね。
…謎の罪悪感に駆られて心の中で何故だか言い訳をしてしまうけれども、今このシーンを有栖ちゃんが見ている訳でもないのだから別に気にすることないんだよね。
「それで、貴女の名前はなんていうの?」
少女の可愛さに話題が少し脱線してしまったが、元々は彼女の名前を聞きたいだけだったのだ。
「はい、私の名前はクララです」
元の無表情に戻った少女は、今度はすんなりと名前を教えてくれた。
何処か怜悧な印象のある彼女が温かみのある名前をしているというのはギャップ萌えっぽくてこう、グッと来るものがある。
「そっか、クララちゃんって言うんだね。素敵なお名前だね」
「はい。この名前は主に頂いた私の最も大切とするものです」
名前を褒められたのが嬉しかったのか、クララちゃんはちょっぴり誇らしげに頬を綻ばせている。
「クララちゃんと、その主さんっていうのはどういう関係なの?」
彼女に名前を与えたと言うことは、その主との間には何か複雑な事情があるということは間違いないのであろう。
その関係性を紐解くことで、彼女の主がどんな存在なのかを知る手掛かりが掴めるかもしれない。
「我が主は、いつ如何なる時も私に愛情を注いで下さいました。私たちが外の世界から忘れ去られようとも、主だけは、私たちを見捨てずにいて下さったのです」
彼女の抽象的な言葉から何かを窺うことは酷く難しい事のように思えたが、主との関係性が根深いものであることはなんとなく彼女の口ぶりから伝わってくる。
何よりも彼女は、主に対して絶対の信頼を寄せているような、そんな雰囲気を醸し出していた。
「クララちゃんは、主さんのことが好きなんだね」
「はい、主こそが私の全てで、主の為ならばこの命すら差し出すことも容易いです」
きっぱりとそう言ってのける彼女の表情には、一片の曇りもないその強い感情が現れているように思えた。
「有栖ちゃんとクララちゃんは、何か関係があるの?」
この世界が有栖ちゃんを変質させる為に存在しているというのならば、この世界の存在足るクララちゃんも、何か有栖ちゃんと何かしらの縁を持っているのではないか。
そもそも、クララちゃんという存在が一体どんなものであるのか、それすらも不可思議である。
彼女もひょっとしたら、本当はそこに命が通わない、NPCのようなものなのかもしれない。
そう考えるとちょっぴり悲しい気持ちになるけれど…。
「有栖様は私にとって…そうですね、それを語るべきではないのかもしれません」
「それは、クララちゃんの主さんにとって不利益になるような情報なの?」
「そうかもしれません、しかしそうとも言いきれないかもしれません。私の口からはあまり多くを語るなと言うことが、主の厳命です。申し訳ございません」
「うん、わかったよ。それじゃあこれ以上聞かない」
「よろしいのですか?少しでも情報を欲しているのでしょう?」
「この世界が何なのかとか、クララちゃんたちの存在のこととか、出くわした怪異たちは一体何だったのかとか、そりゃあ聞きたいことはたくさんあるけどさ。いいよ、あんまりクララちゃんを困らせるのも可哀想だしね」
わからないことも、知りたいことも山程在る。
其れらの答えを目の前の少女が持っているのだとしたら、それに縋りたくなる気持ちだってある。
だけれど結局、遅かれ早かれこれから向かうところできっと、其れらの多くを知ることになるのだろう。
彼女たちの主に対峙した時、この世界の正体は露わになるのだ。
それならば私は、クララちゃんを困らせてまで無理に質問を続ける必要はないと思う。
有栖ちゃんの命が危ぶまれている今の切迫した状況で、こんな風に悠長な態度を取るのはひょっとしたら間違っているのかもしれない。
形振り構わずに様々な情報を手に入れる為に必死になることこそが、今の私がすべきことなのかもしれない。
コメットちゃんはこの世界から消える前に、私だけに出来ることがあると言った。
有栖ちゃんを救えるのは私だけだとも言ったのだ。
きっと其れは、私が正しいと思うことを為すべきだということなのだと思う。
ただ有栖ちゃんを助ける為に、いつもの私自身を見失ってしまえば、それこそ有栖ちゃんを助けることが出来なくなってしまうかもしれない。
この世界が有栖ちゃんを変質させる為に存在しているのならば、きっと私は絶対に変わってしまってはいけないのだ。
たとえいつもの私なんていうものが、弱い私自身が作り出した幻想だとしても、それをロールプレイする事こそが、有栖ちゃんと一緒に元の世界に戻る事に繋がるのだと思う。
だから私は、もう恐怖に怯えたり、取り乱したりはしない。
何が起きても、いつもの峯崎詩葉でいたいと思うのだ。
「その代わりさ、目的地に着くまで、クララちゃんがどれだけ主さんのことを好きなのか聞かせてよ。それくらいならいいでしょ?」
「ええ、それくらいであればお話し出来るとは思いますが…其れが詩葉様の知りたいことなのですか?」
「うん、私結構、人の惚気話聞くの好きなんだよね」
「詩葉様は本当に…いいえ、何でもありません」
「ええ~、なんて思ったの?聞かせてよ~」
「その、失礼ながら変わった人だと、思いまして…」
「大丈夫、よく言われるよ~」
私はこんなやり取りに、ちょっぴり楽しさを見出している。
私や有栖ちゃんの置かれている状況から考えたら、味方かどうかもわからない少女と和気藹々と話すことなんて、すべきではないのかもしれない。
もっと真剣に振る舞って、この世界からいち早く元の世界に戻る為に行動すべきなのかもしれない。
でも私は、いつもの私ならば、どんな時だってマイペースにその場を楽しむことを優先させると思うのだ。
クララちゃんの言葉を信じるのならば、幸い、まだ有栖ちゃんは生きているという。
きっとまだ時間的猶予は残されている。
だから私は、この世界を好きになる努力をしてみようと思う。
其れが何に繋がるかはわからないけれど、この世界を作った誰かの意図を受け取ることで、事態は少しでも好転していくんじゃないかと思うんだ。
有栖ちゃんを変質させるために存在するというこの世界は、ひょっとしたらつい最近出来上がっただけの、ハリボテの世界なのかもしれない。
そこに存在する全てのものにさほど意味など無く、ただNPCや背景に過ぎない取るに足りないものなのかもしれない。
だけど私は、出会ってしまった以上、彼女らを軽んじることは出来ない。
どうかこの世界が、意味の存在する温かい場所であることを願わずにはいられない。
もし有栖ちゃんを助け出すことが出来て、全てが終わったら、クララちゃんたちともきちんと仲良くなれたらいいなって思う。
そんな風に考えてしまう私は間違っているのだろうか。
誰しもが笑い合って過ごせるような世界がそこに在ることを願ってしまうのは、イケナイことだろうか。
○
「こちらが、目的地です」
クララちゃんたちに連れられてやって来た私の目の前には、瀟洒な洋館じみた建物が聳え立っている。
冒涜的な三つの満月を背景に輪郭を映し出すゴシック建築。
青白く浮かび上がる其れは、異国にしても異様な威容を湛えていて、あからさまに作られるべく作られたような、何処かリアリティを欠いたような雰囲気をしていた。
たとえて言うのならば、遊園地の中の建物。
その見た目を重視するあまり、細部が機能的ではなかったり、縮尺に少し違和感を感じるみたいな、得も言えぬ不気味さを醸し出している。
ただ暗闇の中にあっても、その全容は意識に直接訴えかけてくるように理解する事が出来、其れがどんな建物なのかを直感的に理解する事が出来る。
「アーカム精神病院…」
その建物は、病院だった。
外国の寺院じみた見た目をしているけれど、紛うことなき病院だった。
何故だか、それがよくわかる。
ただ玄関に設えられた金属板に掘られたその名前を読むだけで、ここが一体どんな病院なのかを直感的に理解する。
精神外科というものが在る。
いや、精神外科というものが在った、と言った方が正しいのかもしれない。
ロボトミー手術と言えばあまりに有名で、医療の分野に詳しくない私のような人でも其れを耳にしたことがあると思う。
精神病の患者を治療する為に、脳味噌に外科手術を行うということ。
当初は即効性の在る安全な技術であり、まるで夢のような治療法に思えた。
しかし、其れにはあまりに多くの欠陥があった。
前頭葉白質切除により現れる副作用は情動の過激化、はたまた人格崩壊や種々の発作の発現など、重大なものばかりだったという。
今日では精神病の治療は薬物にとって変わられ、精神外科という分野は廃れてしまった。
勿論これらの知識は有栖ちゃん経由で得た知識ではあったが、私にとって些かショッキングだった其れを、一時期詳しく調べてみたりもした。
調べれば調べる程に、精神外科というものの歪さを知り、手術後に患者の辿った軌跡を追うだけでも胸が痛むような想いをしたのを良く覚えている。
アーカム精神病院という名も、その中で目にした記憶がうっすらとある。
確か其れは、ロボトミー手術発祥の地と言われている病院ではなかっただろうか。
一昔前に解体され、その姿を見ることは適わない精神病院の亡霊。
そんなものがこの場所に在るということが何を意味しているのか、何となくその理由を推測する事が出来る。
この世界が有栖ちゃんを変質させる為の世界であるということ。
そこから導き出せるのはつまり……。
「この中で我らが主が詩葉様をお待ちしております」
クララちゃんは恭しい態度で建物の扉を開いてくれる。
扉の先に現れたのはこれまた暗闇。
其処に何が潜んでいるのか知れない、不気味な闇がただ広がっている。
「ここまでありがとうね、クララちゃん。後ろのみんなも、付いてきてくれてありがとう」
「いいえ、滅相もございません。この場に詩葉様を連れてくるのが私たちの使命でしたから」
「それでもありがとうだよ。ここまで来るまでクララちゃんとお話し出来て、結構私楽しかったんだ」
有栖ちゃんとコメットちゃんが居なくなった後、ずっと一人きりだったら私は今よりも沈んだ陰鬱な気持ちを心に抱えていただろう。
嫌なことばかりが頭の中を巡り、考えるべきではない様々な負の思考が浮かんできたように思える。
そう言う意味では、この場所に来るまでずっとクララちゃんという話相手が居たことは幸いだった。
すぐにネガティヴな方向に進みがちな私の思考は彼女への興味を示すことで平穏を保つことが出来たし、何よりも人と話すことで多少の不安を解消することも出来た。
「もしまた会うことがあったらさ、今度はお友達として会えるといいね」
彼女がこの世界の住人だと言うことはよくわかっている。
私たちが元の世界に戻れば、もう二度と会えないのかもしれないことも重々承知している。
だけど、ほんの少しの時間でも同じ時を共有した女の子との間に生じた絆を、私は大切にしたいと思う。
彼女がどんな存在であれ、私に出会ってくれたという現実は揺らぐことがないのだ。
「きっとすぐに、会えますよ。その時私は違う姿をしているかもしれませんが」
目の前の少女は、とても優しい微笑みをしていた。
これまでのどの表情とも違う、心からの親愛が其処には在るような気がした。
クララ…その名前を私は何処かで聞いたことがあるような気がする。
ひょっとしたら彼女とは、遠い昔何処かで出会っているのかもしれない。
「私たちが付き従えるのはここまでです。どうか、詩葉様一人でこの先はお進み下さい」
「わかった、それじゃあまたね」
「はい。お元気で」
クララちゃんの開けてくれた扉から、建物の中に入る。
一度振り返ると其処には、誰の姿も残されていなかった。
「ちょっぴり、寂しいな」
あのクララという少女に初めて抱いた感情は恐怖でしかなかった。
此方に害を為す、異形たちの仲間にしか思えなかった。
だけど、この場所まで彼女に連れられて来る間に言葉を交わした限り、一見怜悧な表情を浮かべる彼女の心の中には確かな温かさが在ることを知った。
其処に私は、一片の友愛を見出してしまった。
彼女の言った通り、またすぐに、会えるといいな。
暗い廊下を、一人歩く。
豪奢な扉を潜った先の内装は思ったよりもずっと近代的な病院に近く、外観とその内側に大きな隔たりがあることを感じさせる。
そのアンバランスさこそが、この場所をこの場所たらしめる所以なのかも知れない。
思えばこの世界には、皮肉や矛盾が多く込められていたように思える。
トンネルの中の怖がらせるだけで姿を現さない怪物、虚仮威しの黒衣の集団、明けない夜と平和に暮らす異形たち。
それらはもしかしたら、歪んだ内面世界を抱える彼女のイタズラたっぷりな冗句だったのかもしれない。
何となく、この世界の成り立ちを理解し始める。
この世界は、有栖ちゃんの夢の世界なんかでは決してない。
おそらくはもっと単純で、だけど複雑な問題なのだ。
有栖ちゃんを変質させる為の世界。
其れは有栖ちゃんの為の世界で、私の為の世界。
総ての概念が、ただ一つの結末を迎える為に作られており、ただ一つの結末を切望している。
其処に辿り着く道筋が既に決められているものなのだとしたら、私は私なりに其れを滅茶苦茶にしてやりたい気分になる。
有栖ちゃんの中の誰かの思い通りになんてさせない。
私は有栖ちゃんと一緒にちゃんと元の世界に戻るんだ。
平穏無事な毎日を取り戻して、大好きで大切な有栖ちゃんと一緒にとびきり退屈で幸せな日常を生きてやる。
誰の案内がなくたって、なんとなく辿るべき道筋を理解する事は出来た。
この場所はアーカム精神病院。
だけれどその中身は、近代的で、私の見知ったものだった。
そう、あの遠い日に、両親たちの遺体と対面した、私の街の総合病院に酷似しているのだ。
と言うのであれば、自ずと目的の場所はわかって来るというもの。
きっとあの私たちの始まりの場所こそが、最終目的地であることは間違いない。
リノリウムの廊下に足音が木霊する。
緑色した不気味な非常灯だけが照らす病院の廊下。
ホラー映画の一場面のような風景に恐怖を感じない訳ではないが、何故だか頭はスッキリと冴えて、ただ目的地までの道程を淡々と進んでいく。
その廊下の壁面には、等間隔で額縁が飾られている。
その額縁の中にはいつも、写真が一枚ぽつんと貼り付けられている。
その写真に映る少女は、どれも顔を真っ黒に塗りつぶされており、平穏な日常を切り取った筈の写真に酷い不気味さを付与されている。
その顔を塗りつぶされた少女は勿論、有栖ちゃんだ。
この場所に飾られているのだから、有栖ちゃんしかあり得ない。
歩みを進める毎に、写真の中の有栖ちゃんは徐々に成長していく。
黒く塗りつぶされた部分もその範囲を広めていき、やがては彼女の全身が真っ黒に塗りつぶされたようになった。
ここまで来れば、それが何を意味しているかなんていうのはあまりに明白だった。
これこそが有栖ちゃんの抱えていた感情に他ならない。
自分自身が、真っ黒に塗りつぶされていく感覚。
ああ、彼女はこんなにも歪んだものを、ずっと抱えてきたのか。
一筋、涙が頬を伝うのを感じる。
廊下の突き当たり、大きな扉の横に飾られていた写真は、真っ黒な写真だった。
よく見れば、総てが真っ黒な訳ではなく、浮き出るように一人の少女が真っ黒な何かに寄り添っているような構図であることがわかる。
それは勿論、私だった。
彼女の真っ黒な世界にただ平然と存在するのは、私でしかなかった。
零れる涙を拭き、私は目の前に現れた扉と真正面に対峙する。
これから彼女に会うというのに、こんな顔してられない。
彼女の前では、とびきりの笑顔でいたいって思うんだ。
そうすればきっと、彼女も笑ってくれるから……。
恐る恐る、大きな扉を開く。
現代的な、横スライドさせるタイプの扉。
金属製の大きな取っ手を掴み、右方向に開いていく。
部屋の中から溢れてくるのは、ひんやりとした冷気。
化学薬品と思しき香りのする、冷たい空間が其処には広がっていた。
其れは紛うことなき、私の記憶の中に存在する、遺体安置所だった。
壁面一杯に遺体を収納する棚が存在する、大きめの部屋。
遠い昔、私が両親たちの亡骸と対面した、あの薄ら寒い部屋。
その場の雰囲気を感じるだけで、心までもが冷えていくような気持ちがする。
「来たよ。私が、貴女の望みなんでしょう?」
部屋の中央には、大きな医療用と思しきベッドが設えられていた。
其処には、横たえられた少女と、その少女に寄り添うようにして佇むもう一人の少女が在った。
どちらも、同じ顔をしている。
どちらも、私の大好きな、有栖ちゃんの顔をしている。
「来てくれたのね、詩葉。嬉しい…」
有栖ちゃんの顔をした少女は、心からの喜びを体現したような表情で笑っている。
有栖ちゃんと同じ顔で、笑っている。
だけれどその歪さは、見ているだけでおぞましさを感じるものだ。
まずなにより、その少女の全身には包帯が巻かれていた。
手首、腕、腹、太股、足首など、身体の至る所に分厚く包帯を巻いている。
それらの包帯は皆一様に赤く染まっており、今この時も傷口からじくじくと血を滲ませていることを窺わせるような痛ましさを携えていた。
有栖ちゃんと同じ黒髪は、ぼさぼさで縮れており、白い肌はどこか艶がなく乾燥したような印象がする。
何よりも恐怖を掻き立てるのはその瞳だ。
暗く淀んだ胡乱な色彩を湛えた黒瞳は一切の光さえ許さないような闇色をしている。
その瞳で見つめられただけで、背筋にぞわりとした感覚が走り、肌が粟立つのを感じる。
「貴女は、有栖ちゃん…でいいのかな?」
「ううん、アリスはこっち。詩葉の知ってるアリスはこんな表情しないでしょ?」
少女は、隣に横たわる有栖ちゃんを指さして言う。
「そうだね。私の知ってる有栖ちゃんは、そんな表情しないよ」
それは、あの怪物たちを殺すことに酔いしれていた時の有栖ちゃんの浮かべていたような表情。
あの表情は、決して、有栖ちゃんの浮かべるものではなかった。
「詩葉は私の事を知らないわよね?」
「ごめんね。有栖ちゃんじゃないなら、貴女が誰なのかわからないよ」
「ううん、いいの。悪いのは全部アリスだから」
少女は忌々しげな視線を有栖ちゃんに向けて。
「これからは、イリスがアリスだから。ううん、アリスがイリスになるのよ」
イリス、アリス。
入栖有栖。
そうか、彼女の名は。
「なんとなくわかったよ。貴女は、有栖ちゃんじゃなくて、イリスちゃんなんだね」
「うん、そう!そうだよ!」
本当に幸せそうな、嬉しそうな表情を彼女…イリスちゃんは浮かべる。
有栖ちゃんと同じだけど、何処までも歪んだ笑み。
それを私は酷く、悲しいことのように感じる。
「やっと、やっと、やっと詩葉に名前を呼んで貰えた!そうだよ、私はイリス!イリスっていうの!」
身体を震わせながら、自分自身で自分自身を強く抱き締めて、彼女は嬉し涙さえ浮かべている。
「これまで、気付いてあげられなくて本当にごめんね。全部全部、私のせいなんだよね?」
「違う、違うわ。詩葉のせいなんかじゃないよ。全部全部、アリスのせいだから。悪者は全部アリスなんだから!」
怒りさえ籠もった声が、部屋に木霊する。
きっと彼女は、ずっと苦しみを抱えてきたのだ。
ずっとずっと、ただ悲しみばかりを押しつけられて、その存在すら秘匿され、冷たい場所に縛り付けられて来たのだ。
「解離性同一性障害、っていうのかな。知らなかったよ。ずっと知らなかった。きっと私がきちんとしていたら、気付いてあげられたんだよね?」
解離性同一性障害。
所謂多重人格。
有栖ちゃんがそんなものを抱えているなんて、これまで気付きもしなかった。
気付いてあげられなかった。
一番傍に居た私が、気付いてあげなきゃいけなかった筈なのに。
今私の目の前にいるイリスちゃんとは、おそらく、有栖ちゃんの別人格なのだ。
苦しみや悲しみから解放される為に有栖ちゃんが生み出した人格。
負の感情を一方的に押しつける為だけに生み出された、歪んだパーソナリティ。
きっとそれが、イリスちゃんという存在なのだろう。
「ここは、有栖ちゃんの精神世界なんだね」
イリスちゃんという存在を受け入れることで、この世界の成り立ちが何となくわかってくる。
総てが歪で、何の為に存在しているのかわからなかったこの世界の目的が明白になってくる。
何故この世界では有栖ちゃんの見た目をした女の子が二人いるのか、何故目に見える形で、今この場所にイリスちゃんという人格が顕現しているのか、それはこの世界の正体を見出すことで説明することが出来る。
「うん、そう。正式には、私たちの精神世界。この世界総てが私たちであってアリスなの」
世界という概念について、有栖ちゃんと話し合ったのが思い出される。
人の見る夢も、一つの世界と言えるのではないかという推測から、この世界が有栖ちゃんの夢の世界なのではないかというのが、私たちの共通認識だった。
それは間違いで、おそらく、そう間違うように最初から仕向けられていたのだろう。
そうじゃなければ、有栖ちゃんはきっとこの世界の真実に気付いていた。
其れに気付かれてしまえば、イリスちゃんやクララちゃんたちは自由に動けなかった。
私たちは、彼女のミスリードにまんまと引っかかっていたという訳だ。
「世界とは一体何なのか、詩葉は考えたことある?うん、あるよね。アリスとそんな話を何度かしていたもんね。もし世界が私たちの脳味噌を迸る電気信号が見せている幻想に過ぎないのならば、夢も一つの世界と言えるのではないか…笑っちゃうくらい馬鹿げた思考だけど、案外其れは真理を突いていたのかもしれない。だけどそこからもう少しだけ考えを巡らせて、もう一つの可能性にももっとはやく気が付くべきだったの。そもそも一個人という概念が、一つの世界を内包しているのだということに。世界は無数に存在する。それは量子的な意味に囚われない遠大な意味を包摂した真理だということを、きちんと考えるべきだった」
「私たちも世界の一部で、一部だというのならそれは世界そのものだっていうこと?」
「まあ、そういう受け止め方で間違ってはいないと思うわ。アリスがそれに気付けなかったのも結局、私を否定し続けていたからなんだけどね」
「イリスちゃんを、否定し続けていた?」
「そうだよ。詩葉、アリスに違う人格があるだなんて、今の今まで気付かなかったでしょ?おかしいと思わない?そんな異常を抱えている人間が周りに気付かれもせずに普通に過ごせると思う?」
有栖ちゃんは、イリスちゃんという別人格を心の中に抱えていた。
その事実に気付いていた人なんて、おそらく一人も居なかった。
私は勿論、有栖ちゃんの家族だって、これまでそんなこと考えすらしなかった。
有栖ちゃんはいつも有栖ちゃんだった。
私の前でも、学校でも、どんな場所でも、ただ有栖ちゃんは有栖ちゃんで有り続けた。
そう、いつも有栖ちゃんは有栖ちゃんだったのだ。
他の人格を抱えているだなんてことを窺わせるような行動をたったの一度とて、私たちに悟らせたことはなかった。
其処で漸く気付く。
総ては、逆だったのではないか、と。
ぞわりと、気持ち悪い感覚が胸の奥から去来し、全身を震わせる。
「まさか…有栖ちゃんは…」
「気付いた?気付いちゃった?」
有栖ちゃんが、イリスちゃんという別人格を胸の裡に抱えているという訳ではなく、私の知っている有栖ちゃんこそが、彼女の作り出した別人格なのではないか。
そう考えてしまう方が、ずっと自然だった。
「そういうこと、なの?ずっと有栖ちゃんは、演じていたっていうの?」
周囲からの評価を気にし続け、期待に応え続けるために、彼女は本来の自分とは違うもう一つの自分を作り出し、それを演じ続けていた。
私が見ていた有栖ちゃんは総て、作り物であり、彼女にとっての本当の人格とは、イリスちゃんの方だったのではないか。
「詩葉、そんな悲しそうな顔しないで。確かに最初はそうだった。だけどね、何かを演じ続けるっていうことは、外側から見れば継続的な人格が其処に在り続けるっていう事でしょ?本物か偽物かの違いなんて、何処に在るのかしら。答えは明白、そんなもの観測者次第で決まるのよ。だからね、詩葉が大好きだったアリスも、間違いなく私なのよ。最初に居たのは確かにイリスだけど、どちらも紛うことなき私自身で、私たちは私なの」
偽物か、本物か、確かにそれを一元的な意味合いで捉えることは難しいものかもしれない。
特に人格そのものを定義するには、確固たる評価基準だって存在しない。
だというのならば、私が長年連れ添ってきた有栖ちゃんという人格だって、確かな有栖ちゃんなのだろう。
その現実を受け止めることで、私は今一歩自分自身を保つことが出来ていた。
「人間の人格って、何処から発生するものなのかしらね。それは誰しもが生まれ持ったもので、始めから全部決められているもの?三つ子の魂百まで、だなんて言うくらいだし、人間は魂の段階で総ての個性が決めつけられていて、なりたい自分にはなれないのかしら?」
自嘲気味に、彼女は語る。
「嘘よ。そんなの全くもってナンセンスだわ。人格、ないし意識というものは、後天的に発現するもの。人間は周囲から受ける影響や、出会った物事から多くの最適解を導き出し、其れらを集積して、人格という行動の擬似的中枢機関を作り出すに他ならない。赤ん坊の時の鮮明な記憶を持っている人はいるかしら?多くの場合、持っていないか、朧気な記憶の断片のようなものを辛うじて持っているくらいでしょ?それは何故?答えは明白。人はみな赤ん坊の段階では、周囲の環境を記憶するための意識や人格を持たないからよ。幼年期という生命の発生当初の数年間を費やすことで、人は人格の雛形を作り出す。それから成長過程に於いて様々な外的要因から多くの事を学び、確固たる人格というものを形成していく」
「その人格形成期に発生したのが、有栖ちゃんであり、イリスちゃんである、っていうこと?」
「その通り。人格というものが後天的に発生するものなのだとしたら、それが一つの肉体に一つしか宿らないなんてことはないの。人格形成期に相反する思考を得たのならば、偏った幾つかの思想が新たな人格の核となり、もう一つの人格が萌芽していくだなんてごく自然なこと。誰だって、心の中には矛盾を抱えているもの。いつ何時でも同じ事を考えて同じ行動を取るような人はいないでしょ?さも聖人のような笑顔を浮かべる裏で、心に人を殺したい葛藤を抱えて生きるような人だって珍しくはないわ。イリスとアリスが私たちで私なのだって、ほんの少しその状態が違うだけに過ぎない。まあ、私たちの場合そこに大きな偏りがあったということは間違いないんだけどね」
たとえばだけど、と彼女は続けて。
「嬉しいこと、これはアリスの感情。楽しいこと、これもまたアリスの感情。苦しいこと、これもギリギリアリスの感情なの。だけど、悲しいこと、これはイリスの感情。辛いこと、これもまたイリスの感情。胸がはち切れそうになるようなこと、其れらは総てイリスの感情。なんとなく法則性がわかってくるわね?」
それじゃあ、これは?
「テストで良い点数を取った…アリスの感情。テスト勉強を努力した達成感…アリスの感情。勉強の代わりに犠牲にした時間への後悔…イリスの感情」
これはどうかしら?
「美味しいお料理が出来た…アリスの感情。ちょっぴり指を切ってしまって絆創膏を巻いた…アリスの感情。だけれどまだまだみか姉には適わない…イリスの感情」
これは、わかる?
「詩葉と一緒にいて楽しい…アリスの感情。ずっと詩葉の傍に居たい…アリスの感情。詩葉の事が好き…イリスの感情」
わかる、かしら……。
「わかる?わかるかしら?その感情たちが如何にして分画されているのか。うん、わかるよね。優しい詩葉なら分かってくれるよね?それがどういう意味を持つのか、わかってくれるよね?じゃあじゃあ、これは、どうかな?どっちだと思う?親から与えられるプレッシャー…周囲の私を見る目…大切な人を失った悲しみ…自分の近くで失意に打ち拉がれる最愛の人…変わらなければいけない事への焦燥…上手くいかない事への怒り…なれない自分との乖離…なりたい自分への羨望…未来への絶望…世界への失望…ただ生きているだけで明日がやって来る現実…また明日も頑張らなくてはいけない現実…周囲の期待に応えることと…隣に居てくれる人を元気づけなければいけないこと…いっその事この人と一緒に死んでしまおうか…どうして私はこの人が好きなんだろう…いつからこの人の事が好きなんだろう…何故好きになってしまったのだろう…こんなに苦しいのなら好きにならない方が良かった…いっそのことこんな気持ち事全部忘れてしまいたい…何もかも苦しくて仕方が無いのにそれでもまだ好きなんだ…それならばいっそのこと戻りたい…何も考えなくても良かったあの幼い日に帰りたい…帰りたい…帰りたい…帰りたい」
「もういい、もういいよ!」
私は思わず、目の前の少女を抱き締めていた。
其れが総てだった。
彼女の抱えてきた感情とは即ち、痛みだ。
胸が引き裂かれるような痛みを彼女は、受け入れ続けてきたのだ。
いいや、違う、押しつけられ続けてきたのだ。
ただイリスちゃんという人格は、有栖ちゃんに耐えきれない痛みを一方的に押しつけられてきたのだ。
そうしなければ、有栖ちゃんが有栖ちゃんという人格を保てなかったから、きっと彼女はイリスちゃんという人格を、ただ自分の悪感情を吐き出すための場所として使い潰して来たのだろう。
だから私の腕の中の少女は、今も包帯をぐるぐる巻きにしながら、全身の傷口から止まらない血を流し続けているのだ。
文字通り、血の涙を流し続けているのだ。
「ごめんねぇ、気付いてあげられなくて、ごめんねぇ」
この場所に来て何度目かの謝罪。
それを口にする私はどうしようもなく震えて涙を流し続けている。
こんな涙が贖罪になる訳でもない。
イリスちゃんという少女が抱えてきた苦しみを和らげてあげられる訳でもないのに、私はただ彼女に謝り続けている。
そうしなければ、彼女の苦しみに気付いてあげられなかったことへの罪悪感でおかしくなりそうだった。
「いいよ。私、詩葉を恨んだことなんて一度も無いから。ずっとずっと詩葉の事が大好きだもの。もう謝らないで?ね?」
私の腕の中の少女は、優しく私を抱き締め返してくれる。
私よりもちょっぴり大きな体軀の少女は、だけどとても幼い少女のように思えて。
「私、もう間違えないから。これからはちゃんと愛すから。私も、貴女の事が大好きだから。だから、ずっと一緒に居ようね」
彼女にもう一度会えたら、もう間違えないと誓った。
私は私の気持ちを、きちんと彼女に伝えると誓った。
「イリスちゃん。私、貴女のことが一番大切なの。心から、愛してる。だから、ね?帰ろう?」
真正面から、彼女…イリスちゃんのことを見つめて告げる。
心からの想いを、隠すことなく素直に伝える。
私は、イリスちゃんのことが、大好きだ。
世界で一番…いや、世界で唯一愛している。
今ならその気持ちを自分自身を偽らずに素直な気持ちで口に出すことが出来る。
思考が少し靄がかっているが、それはきっと大した問題ではない。
「やっと、詩葉の気持ちが聞けた……。嬉しい、嬉しいよ」
目の前の少女は、もう一度私に抱き付き、温もりを確かめるように胸に顔を埋める。
「うん、帰ろう。帰ろうね詩葉」
イリスちゃんが私たちをこの世界に呼んだのはきっと、私に自らの存在を伝えたかったからだったのだろう。
有栖ちゃんの中に苦しんでいるもう一人の人格がいる事に、気付いて欲しかった。
その上で、私の気持ちをきちんと確かめたかったというのが、今回の事の結末のように思える。
結局の所、私が彼女のことを愛しているということだけきちんと伝えられればよかった。
ただそれだけの物語だったのだ。
私を強く抱き締めていた腕をほどくと、イリスちゃんは、すぐ近くのベッドで仰向けに寝ている有栖ちゃんのもとへと駆け寄る。
気が付けばイリスちゃんの右手には剣、左手には銀色の杯が握られていて。
「それじゃあ詩葉、あの頃へ帰ろう」
そう一言呟くと、イリスちゃんは、手に持った剣を、有栖ちゃんの胸に突き刺す。
信じられないくらい真っ赤な液体が、冗談みたいに噴き出す。
有栖ちゃんの豊かな胸から、噴水みたいに、景気よく血飛沫が噴き出していた。
この世界に来てからと言うもの、残酷な光景に幾度なく出くわしていたからか、私は其れを見ても暫く何の感情さえも湧かなかった。
怪物たちが細切れにされるので血飛沫なんてものには半分慣れ始めていたし、コメットちゃんという大切な人が足下から徐々に挽肉にされていく様を克明に見せつけられた後では、その過激さという点では一歩劣っていたように思えた。
私の目の前には有栖ちゃんの顔をした少女が二人いたのだし、どちらがどちらなのかを深く考えもせず、その一方が満面の笑みで此方を見ているから安心していたのかもしれない。
私は、倒れ伏すもう一人の有栖ちゃんの身体から迸る生命の飛沫を、とても美しいと思っていた。
人がよく見る血液が黒く濁っているのは、それが静脈血で、身体を巡った後の不要物を多く含んでいるからなのだ。
身体の体表には基本的に動脈は流れていない。
何故なら、それを傷つけられてしまうと人体に致命的な影響が出てしまうからで、大抵動脈というのは身体の深部を走行することになる。
静脈血が赤黒いのに対し、動脈血は新鮮な赤色をしている。
それは当然、酸素を多く含んでいて、身体に必要不可欠な栄養素を全身に運ぶ為だ。
何が言いたいのか?
答えは明白だ。
有栖ちゃんの胸から上がる血飛沫は目の冴えるような赤色をしていて、力強く噴射を繰り返している。
それはつまり、有栖ちゃんの負った傷が何処までも致命的で、彼女の命の期限がもう幾許も残されていないということ。
真っ赤な色をした絶望の花が、其処には咲いていた。
「イリスが願ったのは、意外と最近のことなのよ。私は確かにずっと辛い思いをしてきたし、何度も悲しみに打ち拉がれそうになったことはあった。だけどね、詩葉がただ近くに居てくれて、詩葉だけは私の事を絶対に裏切らないっていうことがわかっていたから頑張ることが出来た。でも、最近になって突然、詩葉の周りに訳のわからない女が三人も増えたでしょ?そのうち一人はまあ、許せるとして、他の二人の女はダメ。絶対に許せなかった。私の大切な詩葉を拐かす女をどうにかして殺してやろうと何度も思ったわ。だけど、その気持ちをアリスは受け入れられなかった。自分がただ詩葉の事だけを想う気持ちを受け止められずに、他の女たちと仲良くする詩葉を許そうと決めたのよ。その時の気持ちは全部イリスに押しつけて、自分だけはさも公明正大な常識人ですよと言わんばかりに、憎い女たちと交友を深めることを選んだの」
返り血で全身を染めながら、少女は訥々と語る。
「そんなのはいつもの事だった。アリスはいつもイリスに想いを押しつける。自分の受け止めきれない感情からいつだって逃げて、イリスに全部丸投げするの。自分はアリスだからって、こんな感情を抱くのはイリスの方だからって、そんな風に自分の本当の気持ちから逃げ続け、イリスばかりが辛い思いをするのよ。だけどね、今回はダメだった。イリスはそれを許容しきれなかった。心がね、壊れちゃったの。気が狂いそうになる嫉妬で、胸がはち切れそうになった。ううん、ぱぁんって心臓が爆発して、総ての機能が停止しちゃったのかもね。だから決めたのよ」
アリスを殺してイリスが有栖になると。
「どうしようもなく弱いアリスに有栖を任せていたら、いつか本当の意味で私は破滅を迎える。近い将来きっと、とんでもなく取り返しの付かないことをしてしまうと思ったの。たとえば、詩葉を殺しちゃう、とかね。よくあるでしょ、愛する人が私を愛してくれないなら、その人を殺して永遠に私のものだけにしたい…みたいなやつ。まぁ、アリスの場合はそこまで即物的な考えじゃなくて、どっちかというと死体そのものの方に興味があったみたいだけど。世界一愛おしい人の死体が腐っていくところを時間を掛けて観察して絵に描きたいってやつ?そう、ドグラ・マグラのあれね。まあ、それが本気にしろどうにしろ、私という世界の終焉が其処までやって来ていたことだけは間違いないかな」
有栖ちゃんは血を流し続けている。
「あの動物園の日、詩葉は言ってくれたよね、有栖ちゃんは私の大好きで大切な幼馴染みだよ…って。あれがね、最後の引き金になったんだと思う。アリスは苦しんだわ。アリスにとって詩葉は幼馴染みなんて言葉では決して語れない、唯一無二の存在なのに、詩葉にとっての有栖は、幼馴染み程度でしかないんだって。世界の総てが音を立てて崩れていくような絶望感を感じたみたいね。勿論その感情は全部イリスに押しつけられた訳だけど、イリスの許容量はもうとっくに満杯だったから、その感情は溢れ出して、世界の外側に流れていったの。そしてイリスは、計画を実行に移した。有栖の精神世界でアリスを殺して、イリスが、イリスだけが本当の有栖になるという計画をね」
イリスちゃんは、左手に持った銀色の杯で、有栖ちゃんの身体から迸る血液を受け止めている。
「でも、どうして其処に詩葉が必要だったの?そう思うでしょ。アリスを殺すだけならば、ただイリスとアリスだけで完結するだけのお話し。それは自分自身の葛藤という形で、傍から見れば思春期の女の子が抱える自意識の変革くらいにしか思われない下らない方法で決着が付くじゃない。だけど、それだけじゃ不十分だった。それじゃあ有栖の本質は変わらない。結局またもう一度人格の分離を起こして似たような事を何度も繰り返すだけで終わってしまうわ。イリスはそれを望んでいない。もっと抜本的に、根本から解決しなければいけない問題だったのよ。その解決策がこれだった」
手に抱えた杯をうっとりと眺めながら彼女は。
「始めはこれが何なのかわからなかった。こんなもの有栖が持っている筈もなかったし、イリスだって、当然アリスも知らないものだった。だけど何となく理解出来たのよ。これがこの世の理を超えたところにある何かだということが。何故だか直感的にそれがわかった。そして、その使い方も分かった。これの名前は、ヨグ=ソトースの杯。満たすことで、極限的に世界を、時間を意のままに操ることができる。条件次第では世界を破滅させる力さえ持った恐るべき代物ね。勿論、イリスは世界の破滅なんて望んでいない。変えたい世界はただ二つしかなかった。そう、有栖と詩葉。ただそれだけ」
杯が、満たされていく。
「こういう長口上を敵役が垂れる時って、大体全部準備が整った後でしょ?イリスがこんな風に長々と語っているのだって、それだけ余裕があるって事なのよ。全部全部、もう準備は整っているの。というか、だいたいアリスとクララがやってくれたから問題なかったのよね。杯が求めるのは、ただ純粋な血液。この精神世界で流された血液こそが、杯を満たす贄となる。そうそう、アリスが殺してた怪物だけど、あれ、なんだと思う?答えは明白よね。あれは全部アリスの人間性。知らず知らずのうちにアリスは正気ってやつを殺していたって事ね。その方が都合良かったし。怪物の形をした人間性ってちょっぴり皮肉が効いていて良い感じでしょ。この世界でアリスは自分自身の人間性を徹底的に殺してきた。どんどん残酷さが増していくアリスの姿ってば、滑稽だったわよね」
哄笑を湛えて、少女は。
「いけないいけない、イリスってばすぐ話が脱線しちゃうのよね。結局はイリスもアリスも有栖だから、根っこの部分は変えられないのだわ。そうそう、それでね、このヨグ=ソトースの杯を使ってやりたかった本当の目的っていうのは、あの頃に帰る事よ」
世界で一番幸せそうに。
「まだ苦しみや悲しみを言葉でしか知らなかったあの頃。詩葉の両親が亡くなる前のことね。有栖と詩葉の時間をあの時まで巻き戻すことが出来れば、きっと私たちは素直な気持ちで愛し合うことが出来る。そう、思わない?」
少女が掲げた杯が、鈍く光を放つ。
その刹那、世界が、急速に色を失う。
一瞬の眩い閃光の後、総てが、真っ白に溶けていく。
○
どこか近くの世界。
水平線に巨大な月が沈む幻想的な海。
浅瀬で波音を聞きながら、私はただ何をするでもなく佇んでいる。
足首まで、生温かな海水の中に浸りながら、広大な紫色の空を見上げている。
何をするでもなく、というのは間違っていたかもしれない。
潮騒の中に、少女が笑う声が聞こえる。
私はそれを聞いているのだ。
これはそう、いつか夢にみた光景。
そうか、あの少女は、イリスちゃんだったんだね。
悲しそうに啜り泣いていた少女は、私のすぐ近くに居たんだ。
気付いてあげられなくて、ごめんね。
ずっとずっと、傍に居たのに、抱き締めてあげられなくて、ごめんね。
貴女の思いを聞いてあげられなくて、ごめんね。
ごめんね、ごめんね、ごめんね、たくさんのごめんねが浮かび上がってくる。
「もういいよ、詩葉。詩葉はこの場所に来てくれたのだから、イリスを選んでくれたのだから」
少女は、私の知っているよりもずっと幼い容貌をしていた。
ひょっとしたら、記憶にある遠い過去の姿かもしれない。
そういえば私の視線も、いつもより低いところにある。
視界に映る自分の身体を見つめてみても、見知ったそれよりも、幼く弱々しい見た目をしている気がする。
だけどそんなこと、些細なことだよね。
ずっと泣いていた女の子が、今は笑っていてくれるんだもの。
彼女の笑顔より大切なものはない。
「イリスね、ここに来るまで随分頑張ったんだよ。たくさんたくさん辛い思いもした。悲しくて、いっその事死んでしまいたいと思ったことだってある。だけど、今こうして詩葉と二人きり居られるから、全部全部、それでよかったんだと思う。イリスの感じた絶望の一つでも欠けていたら、この場所には来られなかったんだよね…」
笑顔だった少女が、また泣き出しそうになる。
だけどその涙はきっと、悲しみじゃなくて、幸せの涙だから、今だけはそれを受け止めてあげたいなって思うの。
「いいよイリスちゃん。たくさん泣いて。私の胸の中で気が済むまで泣けば良いよ。だってここには、私たちしかいないんだから。私たちだけの楽園なんだから。誰の目も気にせずたくさん泣けば良いよ。これまで泣けなかった分、全部私に頂戴?」
彼女が流したくても流せなかった涙を、全部全部共有したい。
総ての罪を共有して、空に還せば、きっとそこには純白な幸せだけが残っている筈だから。
「うん、うん、詩葉…詩葉ぁ…」
私の胸の中で、幼い少女は声を上げて泣いた。
小さくて、今にも壊れてしまいそうな、儚げな印象の少女。
大きくて頼りになると思っていた彼女とは正反対なその姿に、不思議な納得を得る。
私が縋っていた少女は、本当はただ一人のか弱い女の子でしかなかったんだ。
強くて格好良い王子様なんかじゃなかった。
私を守ってくれるって言ってくれた時は、本当に嬉しかったし、最高の幸せを感じたけど、本当は私が彼女を守らなければいけなかったんだ。
「これからは私が守るからね、イリスちゃん」
ずっとずっと、私が愛し続けていた少女。
その名前はイリスちゃん。
何度も飽きる程呼んだ、だけれど、その名前を呼ぶだけで胸の奥から温かな幸せが湧き上がってくるような感覚を覚える。
ただ貴女の名前を呼ぶだけで、こんなにも胸が温かくなる。
ただ貴女に名前を呼ばれるだけで、こんなにも幸せが溢れてくる。
イリスちゃん、イリスちゃん、イリスちゃん。
何度もその名前を呼ぶ度に、私は世界で一番幸せな女の子になれるんだ。
イリスちゃん、イリスちゃん、イリスちゃん。
その名前は、イリスちゃん。
イリスちゃん、イリスちゃん、イリスちゃん。
イリスちゃんで、いいんだよね?
私が大好きなのはイリスちゃんで、世界にはイリスちゃん以外のものはいらない。
其れはイリスちゃん?
イリスちゃんで、よかったんだよね?
「どうしたの、詩葉?」
イリスちゃんが心配そうな顔で此方を見つめている。
「ううん、何でもないの。私はただ、イリスちゃんと一緒に居られるだけで幸せだよ」
「知ってる。私も詩葉のこと、大切だもの」
その言葉をくれたのは…。
「あれ?どうしてだろう」
訳もわからず、涙が溢れてくる。
こんなにも幸せで満たされているのに、ただただ狂おしい程の感情と一緒に、止め処なく想いの奔流が溢れ出してくる。
「あ、あ、あ…」
あり…。
「あ、あ、あ、あ…あり、あ…」
あり、あり、あ……
「あり…す…あ…りす…」
あり、す、ありす。
「ありす、ありす、ありす」
ありす、ありす、有栖。
「有栖。有栖ちゃん…」
有栖ちゃん。
「有栖ちゃん!」
有栖ちゃん、有栖ちゃん、有栖ちゃん、有栖ちゃん、有栖ちゃん!
「私が好きなのは、有栖ちゃんだよ…ねぇ、どこに居るの?有栖ちゃん。有栖ちゃんっ…!」
幸せな世界が崩壊していく。
目の前の少女はイリスちゃんだ。
私が本当に愛している有栖ちゃんじゃない。
会いたい、会いたい、会いたい。
ただ有栖ちゃんに会いたい。
有栖ちゃんに、私の想いを全部聞いて欲しい。
有栖ちゃんの想いを、全部聞かせて欲しい。
私が好きなのは有栖ちゃんだけ。
イリスちゃんじゃない。
ただ、有栖ちゃんだけなんだ。
自分自身の感情が抑えられなくなる。
目の前のイリスちゃんという少女がどんな想いを抱えてきたのか、それがわかっていても、私が愛しているのは有栖ちゃんだけ。
他の誰にもその代わりは出来ない。
たとえ同じ身体を共有していて、同じ表情をしていようとも、私が求めているのはただ有栖ちゃんだけなのだ。
有栖ちゃん以外はいらない。
私は有栖ちゃん以外、欲しくない。
「どうして、詩葉?イリスを選んでくれたんじゃないの?イリスを愛して?イリスを、愛してよ…」
悲痛な声色で切実に語りかけてくる彼女の言葉に、胸が苦しくなる。
彼女も私の事を想ってくれている。
これまでずっとずっと苦しんできて、ただ私を求めてくれていたのだろう。
その気持ちを想像するだけで、はち切れそうな感情が湧いてくる。
だけど、この少女はイリスちゃんなのだ。
有栖ちゃんじゃない。
私はただ一人、有栖ちゃんだけを愛すると決めた。
有栖ちゃんじゃなきゃいけないんだ。
「詩葉はイリスのこと見捨てないよね?イリスは誰からも、アリスからも愛されない子だけど、詩葉だけは、愛してくれるよね?」
彼女は、愛に飢えている。
自分自身からも愛されない自分自身を、愛してくれる誰かの存在を求めてやまないのだろう。
だからそれを強く私に望んだ。
その歪んだ感情から、自分自身さえも歪めてしまった。
「ここまでして、ダメなの?」
幻想の世界が、大きな音を立てて崩れ始める。
空は剥がれ落ち、海は割れ、巨大な月は粉々に砕け散っていく。
強烈な振動と共に、やがて世界は赤黒い闇に包まれる。
夥しい数の骸が世界に磔にされている。
空に、大地に、遍く世界に、有栖ちゃんの顔をした無数の死体が現れる。
「こんなに、好きなのに。こんなに愛しているのに…」
イリスちゃんの声に応えるように、死体たちの虚ろな瞳から血の涙が流れ始める。
世界を覆い尽くすような数の死体が流す涙は、あっという間に世界を染めて、総てが赤く、赤く染まっていく。
「詩葉も、私のことを愛してくれないの?」
やがてその血液はイリスちゃんを中心に集まっていく。
赤黒い液体は球を為し、世界に浮かぶ血の惑星へと変貌する。
涙を流し続ける惑星は、ぶくぶくと表面を沸騰させ、さらにその姿を変える。
其れはおよそ形容することの出来ない、冒涜的な異形の巨人で、指先を振るうだけで世界そのものを無に帰すことが出来るような、遙かなる宇宙規模の恐ろしさを纏っていた。
「誰も、私のことを、愛してくれないの?」
恐るべき巨人と一体と化した少女は、色彩のない黒瞳を此方に向けている。
ああ、これこそが、終焉の風景なのか。
今からあの巨人がこの世界を壊して、総てが終わるのだ。
不思議と、頭は冷静にその現実を受け止めていた。
結局の所、最初からこうなる運命だったのだろう。
私はあまりにも深く、有栖ちゃんを愛してしまっていた。
そしてその愛から逃げ出して、ずっと見て見ぬ振りを続けていたから、こんなことになったのだろう。
精神世界の崩壊とは、何を意味するのだろう。
きっとそれは、自我の崩壊。
人格の死。
きっとこれで、私の有栖ちゃんは完全に死ぬ。
そして、それに巻き込まれて私という人格もきっと、この場所で死ぬのだろう。
有栖ちゃんと一緒に死ねるのならば、それでいいかな。
そんな風な思考が頭を巡る。
一度は有栖ちゃん本人に否定された感情。
だけど有栖ちゃんの居ない今なら、そう思うことだってきっと許されるよね。
私たちの人格が喪失した後、私たちはどうなるのだろう。
新しい人格がまた其処に芽生えるのか、それとも、二度と意識を取り戻さぬままに、ただ身体が朽ちていくのを待つのか。
この場所で死ぬ私には関係の無いことだけれど、どうか死した後の私の傍に、有栖ちゃんが寄り添ってくれていることを願う。
二人の眠り姫だなんて、お伽噺みたいでちょっぴりロマンチックじゃないか。
「私が、愛す…わよ」
其れは、もう二度と聞く筈のない大好きな人の声。
「私が、イリスのこと、愛してあげるから…!」
総てが赤黒く淀んだ世界の中に一筋さす美しい光。
「有栖ちゃん!?」
胸を貫かれて殺された筈の有栖ちゃんが、私の目の前に立っている。
もう永遠に失ってしまったと思った愛しい少女が、すぐ手の届くところにいる。
驚愕より何より、ただそれだけで心の中にぽかぽかとした温かい気持ちが溢れてくるのを感じる。
「どうして、アリスがここに居るの…殺した筈なのに…!徹底的な絶望を与えて、その上で心臓を突き刺したのに!」
「ここは私の精神世界なんでしょ。この世界がまだ形を残している以上、私が死ぬ訳ないのよ」
この世界が有栖ちゃんの精神世界そのものだとするなら、世界が存在しているだけで有栖ちゃんは何処にでも遍在することになる。
ただ見た目だけ有栖ちゃんをした依り代を殺したところで、彼女は何度でも蘇るといったところだろうか。
きっとこの世界では、何人も、イリスちゃんさえも、有栖ちゃんを消し去ることは出来ない。
「確かにこの世界で起こった事は絶望的だったし、あの邪神をけしかけたところまでは上手くやっていたと思うわ。だけどね、最後の最後でタネ明かしをしちゃったのがまずかったわね。イリス…あんたが話してたこと全部聞いてたもん」
「まさか、気を失っていた振りをしていたの?」
「ええ、馬鹿みたいな方法だけど、この世界の正体を知るには一番確実性のある方法だと思ったからね。私は私自身のことをわかっているし、詩葉の事もよく知ってる。きっとあんたは詩葉を前にしたらべらべらと色んなこと話すだろうなと思ってたら、想像以上に色々と話してくれるもんだからちょっぴり笑いそうになったわよ」
有栖ちゃんは私の方を振り返り。
「詩葉、ごめんなさい。そういう訳で、今回の事全部引き起こしたのは私だったみたい。笑っちゃうでしょ?こんな下らない理由でたくさん詩葉のこと苦しめてしまったわね。どれだけ謝っても、許せないかもしれない、本当にごめんなさい」
「ううん、この世界に来て私、たくさん大切なことに気がつけたから。そう言う意味では、私にとっても、有栖ちゃんにとっても、良い機会だったんじゃないかな」
「ありがとう詩葉、本当に詩葉ってば…詩葉なんだから」
「なにそれ、私は私だよ」
先ほどまでの絶望は何処へ行ってしまったのか、私たちはグロテスクな世界で平然と会話を交わしている。
当然其れをイリスちゃんは見逃す筈も無く。
「何を、何を悠長に話してるのよ!この世界は、有栖は全部、イリスのものなんだから!許さない、許さない!」
圧倒的質量を持つ異形の巨人の手が、私たちに迫り来る。
縮尺感覚のおかしくなる程に巨大な手の平は、轟音を立てて恐るべき速度で近付いてくるが、
「消し飛べ」
有栖ちゃんがそう一言呟くだけで、何もなかったように其れは無に帰した。
「イリス、もういいわ。貴女をたくさん苦しめてしまった私がこんなことを言うのは間違っているかも知れないけど、大丈夫、イリスは十分頑張った。貴女が感じていた苦しみも痛みも、本当は全部私のものだったんだもんね。ごめんね、ありがとう」
赤黒く染まっていた世界が、真っ白な光で浄化されていく。
何もかもから開放されたかのように、歪んだ情景は、美しく淡い色彩の景色へと変貌していき…。
「私がずっとイリスのことを否定してきたから、こんな風になってしまったんだよね。ずっとずっと有栖がアリスであろうとしていたから、代わりにたくさんイリスが苦しんだ。私の代わりにたくさん頑張ってくれて、ありがとう」
異形の巨人は光の粒となり溶けて、其処にはイリスちゃんという一人のか弱い少女だけが取り残される。
「今さら、何を言ったって、遅いのよ…!イリスがこれまで感情は消えて無くならない!イリスがアリスに感じていた恨みも、悲しみも、嫉妬も、全部全部、イリスだけのものなんだから!」
自らを傷つけるように、少女は叫び声をあげる。
その姿は何処までも弱々しくて、今にも崩れてしまいそうな脆さを感じさせて……。
「ううん、これからは私たちのもの。イリスも、アリスも、一人の有栖なんだもの。どちらか一方が悲しんで、虐げられるなんて、そんなことあってはいけない。これまで私が押しつけた分、全部一緒に背負うから。私が私として知らなければいけなかった感情から、もう逃げない。だからお願い。私に私を愛させて?」
「嫌よ、どうして?どうして今さら、そんなこと!これまで私に気付きもしなかった癖に!」
美しい世界の中、総ての苦しみが一点に凝集したかのように、イリスちゃんの周りだけ深淵を煮詰めたような暗闇が漂っている。
それはイリスちゃん自身を守るように、世界を拒絶するかのように堅牢な檻のような闇を形作っていく。
きっとそれは彼女にとっての、最後の拒絶だったのだろう。
これまで自らを苦しめてきたアリスという人格を簡単に受け入れられる筈もなく、ただ、自分自身の檻の中に閉じこもってしまう。
「もういらない、なにもかも、いらない。望まない、欲しない、希望なんて、抱かない。イリスは其れを、許されないから」
「私が、其れを許すわ」
有栖ちゃんは一歩ずつ、暗闇に近付いていく。
「怖い、怖い、怖い、何もかも、全部イリスを傷つける。世界の外側には、悲しみしかない、痛みしかない。イリスは其れを知りたくない」
「私が、教えてあげる。世界には喜びがたくさん溢れている事を」
その足取りは、何処までも力強く。
「誰も愛さない、誰も愛せない、イリスを愛してくれる人なんて誰も居ないから、イリスは、イリスが大嫌い、イリスすらも、イリスを愛せない」
「私が、私を愛すから」
有栖ちゃんが檻に触れる。
世界にぽつんと取り残された最後の闇はいとも簡単に綻び、遠くの空に、消えていった。
「私たちは一つだから、アリスもイリスも関係ない。全部大切な自分自身で、全部愛しい自分自身なの。私はもう、自分自身から逃げない。感情から逃げない。これからは何があっても、私は、私を愛すから!」
総てを頑なに拒絶していた少女は、総てから解放されたような表情で一筋涙を流し、呟く。
「ああ、私に愛して貰えるのって、こんなにも幸せなんだ…」
二人の少女は暫く無言でお互いを見つめ、抱き締め合う。
お互いがお互いのことを認めて、受け入れるかのように、二人の身体は溶け合い。
そして其処には、一人の少女が立っていた。
「ぅ…ああ、あ…ああ、ああああああぁああああ!」
まるで産声を上げる赤ん坊のように、少女は大声で泣いた。
世界に産み落とされたことを悲しむように、苦しむように、だけどその現実から決して逃げ出さないように、何度も何度も大粒の涙を流して、彼女は泣いた。
ただ純然たる白の溢れる世界で、ただ一人の少女が泣いていた。
だから私は、その少女の事を優しく抱き締める。
今度こそもう絶対に離さない。
私は自分の感情から逃げない、貴女から、逃げない。
「有栖ちゃん、帰ろう」
私たちの日常に帰ろう。
きっと其処にはいつもと変わらない平穏無事な世界が待っていて、だけど、愛しい人と一緒にいられるとびきりの幸せで溢れている。
自分の気持ちに気付けたから、貴女の苦しみを知れたから、私はその幸せを受け入れることが出来る。
「うん、詩葉…」
そして再び世界は眩い光に包まれる。
総ては柔らかに溶け出していって、やがてその世界自体が形を失っていく。
私は最後の瞬間に、少女が安らかな笑顔を浮かべたのを見た気がした。
きっとそれは、勘違いでも何でもなくて彼女の心からの想いを表していたのだと、私はそう思う。
 




