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うぃしゃぽなすた!  作者: 上野ハオコ 
第二部 夢世界旅行記 後編
38/47

10 もう一度貴女に会えたなら

知らない星座が其処には輝いていた。

立ち込めていた霧が晴れ、暗澹たる雲は消え、私はただ力なく石畳の道に横たわり星空を見上げている。

普段私が見ている北半球の星空では、確実にない。

南十字の輝きをよく知らなくても、南半球の其れでないことも自ずと知れる。

何故なら空には出鱈目な大きさの冒涜的な月が三つ輝いており、天の川よりももっと強烈な光の帯が北東から南西に伸びているのだ。

ここが私の全く知らない世界で、おそらく既知の物理法則やその他の理論もまるで役に立たないような世界であることをこれでもかという程に物語っている。

きっとこの世界では私たちのような矮小な存在などあってないようなものなのだろう。


私の目の前で有栖ちゃんが消えてしまったように。


慄然たる邪神に鷲掴みにされた有栖ちゃんは、まるで最初から其処に居なかったかのように、邪神と一緒に虚空へ消え去った。

何の前触れもなく、当たり前のように、音さえ立てずに忽然とその姿を消した。

其れは紛うことなき、存在の消失。

私の大好きな有栖ちゃんは、私の目の前で消えたのだ。


ただひたすらな無力感が襲う。

何も出来なかった。

私はただ地面に這いつくばって、有栖ちゃんが消えるのを指を咥えて見ていることしか出来なかった。

必死に地面を搔いた指先は血が滲んでじくじくとした痛みを放っているし、宇宙的恐怖に苛まれた全身は自らの思ったように動いてはくれない。

仰向けに大の字になって星空が流れていくのを眺めている。

どうしようもないくらいに、身体が動かないのだ。

心の空虚さが私の思考を苛んで止まない。

枯れる程に流したというのに、次から次へと大粒の涙が頬を伝うのを止められない。

有栖ちゃん、有栖ちゃん、有栖ちゃん、何度も大好きな名前が浮かんで、彼女の最後の表情が脳裡を占める。

彼女は、微笑んでいたのだ。

あの圧倒的な恐怖を纏った邪神に捕らえられながらも、最後の最後まで、私を見つめて微笑んでいたのだ。

涙を流しながら此方を見て、優しく微笑んでいたのだ。

その最後の表情が、ずっと私の頭の中に張り付いて消えない。

あの微笑みは、自らの死を受け入れたような、そんな不思議な安らかさを湛えたものだった。

とても残酷で、何処までも綺麗な微笑みだった。

其れを思い出すだけで、止め処なく溢れる涙を止めることが出来ない。

私の大好きな有栖ちゃん。

私の大切な有栖ちゃん。

私の愛しい有栖ちゃん。

きっと私はもう二度と、彼女の優しい微笑みを見られないのだろう。

その現実を嫌という程に思い知ってしまっているから、空っぽの心の中に、透明な雫が満ちていくのだ。

この感情を悲しみなんていう陳腐な言葉では表せない。

総てが虚ろで、まるで自分自身が自分自身でないかのような、隔絶した自我と肉体を受け入れることも出来ずに力なく横たわることが精一杯で。

だからただ、星空を見上げることしか出来ない。

無力に涙を流しながら、星の光を滲ませるくらいしか出来ない。

煌々と輝くあの星が総て、堕ちてくればいい。

憎たらしいくらいに綺麗で、さも穢れを知らないように居丈高に輝き散らす傲慢な星々なんて、全部この地表に堕ちてしまえ。

恒星も、惑星も、衛星も、この場所を中心として回っているように、全て私目掛けて堕ちてくれば良いのだ。

そうすればきっと、私はそれに巻き込まれて、苦しむ間もなく死ねるだろう。

圧倒的重量の星々に潰されて、きっと死体すら残さずに逝ける。


死んでもいいだなんて二度と言わないと、私は有栖ちゃんと約束した。

だから敢えてこう言おう。

有栖ちゃんの居ない世界なら、私は生きていたくない。

有栖ちゃんに会えないこの世界に、有栖ちゃんの微笑みを見られないこの世界に、有栖ちゃんと手を繋げないこの世界に、一片の未練も存在しない。

私の総ては有栖ちゃんだった。

私を構築しているものは、有栖ちゃんへの愛情だけだった。

皮肉にも彼女がいなくなった今、それを痛烈に思い知っている。

私は有栖ちゃんを愛していて、有栖ちゃんの為だけに存在していたんだ。

その現実を今になって、苦しいくらいに実感している。

今いるこの世界が何処かなんてどうでもいい、私たちの元いた世界がどうのこうのなんて、そんなこと総て、何の意味もない。

有栖ちゃんがいなければ、私が生きている意味なんて一つもない。

有栖ちゃんのいない世界に価値は存在しない。

今すぐ死ねば、天国でもう一度有栖ちゃんに会えるかもしれない。

そう思えば、死ぬことがとても素敵なことのように思えてくる。

普段は死後の世界なんて考えもしない癖に、いざという時にはそんな下らない世界に縋るのだ。

私は矮小で卑小な腐れリアリストに過ぎない。

唯物的思考を信条としていながらも、都合の良い時だけは死後の世界を盲信する。

矛盾を孕んだ自我で、もういない有栖ちゃんを其処に見る。

だからもう一度有栖ちゃんに会う為に、私は力の入らない脚を叱咤して立ち上がる。


「ねえ、誰か居ないの!?私を殺して!今すぐに、私を殺して!」


あれ程に夥しい数の怪物が跋扈していたのだ。

一匹くらい残っていてもおかしくはないだろう。

私にとっては、たった一匹でいい。

それだけで事足りる。

たった一匹、私を殺してくれる怪物がいれば、それだけで救われる。

何の価値もないこの世界から、有栖ちゃんが待ってくれている世界に飛び立つのだ。


「お願い、誰か居るなら出てきて!私を殺して!お願いだから!」


異国めいた街並みを歩きながら、声が嗄れる程に叫び続ける。

当て所なく彷徨い続け、私を殺してくれる誰かを探し続ける。

心の底から、死にたくて死にたくて仕方が無いのだ。

死んだ先に有栖ちゃんが待っているかも知れない、たとえそうじゃなくても、死ねばこの苦しみから解放される。

思えば私がこの感情を抱くのは、初めてのことではなかった。

両親たちが死んだ時だって、私は幼いながらも死というものを強く意識したように思える。

たまたまその時は、傍にいてくれる有栖ちゃんがいた。

だから私は一歩思い止まって生き続けることが出来た。

だけどその有栖ちゃんはもう居ない。

それならば私は、もう生きていくことは出来ない。

単純な話なのだ。

私を生かしてくれた有栖ちゃんが居ないのならば、私がこれ以上生きていける筈も無い。

得体の知れないこんな世界で一人ぼっち、生きていく意味なんて何も存在しないじゃないか。

命の重みは等量だと、私は思っていた。

命は総てかけがえのないもので、ただそれが存在しているだけで価値が備わっているものなのだと勘違いしていた。

きっと、命の重みが等量だということは間違いではない。

しかし、そこに価値が存在しているかどうかは観測者によって変わっていくものなのだろう。

価値は備わっているものではなく、与えるものなのだと、昔、有栖ちゃんが言っていたことが思い出される。

漸く私は、その意味を理解することが出来た。

総ての価値は私が与えるものであり、それは無慈悲に奪われるものでしかない。

一番大切な価値を失った世界では、総ての価値が消失するのだ。

私の世界には、もう一つたりとも価値が存在していない。

私の目に映るこれらは、何の価値もない抜け殻だ。

命を失った世界の骸でしかない。

だから私は、強く死を願うのだ。

こんな価値のないものを視界に入れているだけで吐き気さえしてくる。

私のこの虚ろな世界を、今すぐに終わらせて。


「誰も、居ないの?」


私をこの最低の世界から救ってくれるようなものは誰も居ない。

覚束ない足取りで古式めいた街を探し回っても、私の命を終わらせてくれるような怪物は一匹たりとも現れない。

もうこれ以上何の価値もない世界で生き続けるのはうんざりなのだ。

一秒でも早く、この空っぽの世界から解放されたい。


「お願い、誰か、誰でもいいから……」


弱々しい呟きは、夜闇に霧散霧消する。

それを聞いているものなど誰もおらず、私はただ一人きりで立ち尽くしている。

有栖ちゃんが消えてしまった世界で、どうして私は生きて居なきゃいけないのだろう。

あの邪神は何故あの時私も一緒に、連れて行ってくれなかったのだろう。

有栖ちゃんと一緒なら、何処にいたって怖くないのに。

有栖ちゃんと一緒なら、死ぬことも怖くないのに。

一人きりは、怖い。

一人きりは、苦しい。

一人きりは、嫌だ。

一人きりは、寒い。

一人きりは、死にたい。

もう、死にたい。


気が付けば目の前には、異形の星空を背景にして、高い尖塔が突き出していた。

鐘楼が設えられた、高い建造物。

何の為に存在しているのか分からない、忌々しい建築物。

まるで価値のない癖に、さも自分は特別だとでも言うような傲慢さで反り返るバベルの塔。

有栖ちゃんと一緒に見ていた時は、この街の建築物たちも美しいもののように思えた。

普段見慣れないような様式の街並みに、心さえ躍ったものだった。

しかし一人で見る其れは、薄汚れて、古くさい黴の生えたつまらないくそったれの煉瓦の塊にしか見えない。

侮蔑するように冷たい目で尖塔を睨めつける。

あんなもの、壊れて倒れて堕ちてしまえばいい。

穢い内臓をまき散らして醜態を晒す自殺者の様に、地上に堕ちれば何もかも、崩れて潰えるのだ。

そう、何もかも。

その時脳裡に浮かんだ考えは、単純明快で、素晴らしいものだった。

どうして今この時私の目の前にあの高い尖塔が現れたのか。

考えてみれば単純な話だったのだ。

総ては繋がっていて、案外自らの都合の良いように世界は出来ていると言うことだ。

終わった世界は、自分なりの終わらせ方というものを提示してくれるものなのだ。

この世界も案外、捨てたもんじゃないなと思わせられる。

私が私を救う為の舞台装置が最初から用意されていたのだから。


私を殺してくれるものが居ないのなら、自分で死んでしまえばいい。


あの高い尖塔に昇って、飛び降りればいい。

そうすればきっと簡単に、死ぬことが出来るだろう。

ほんの少し勇気を出すだけで、手軽に気軽に逝くことが可能なのだ。

なんて冴えた考えなのだろう。

自分自身の賢さに身震いさえする思いだった。

自分で自分を褒めてあげたい。

そう思えるくらいに、自殺という行為が今の私にとって最適な選択肢だということは明白だ。

尖塔の頂上への道は開かれていて、誰でも簡単に昇ることが出来そうだ。

あそこの頂上へと昇ればきっと、私はもう一度有栖ちゃんに会える。

あの場所こそが、私の求めていた安息の地だったのだ。

よく見れば尖塔の周りは光り輝いていて、まるで天上の光が差し込んでいるような美しさを湛えていた。

天使の喇叭も聞こえるし、楽園への階段も続いているし、今すぐにでも彼処へ行きたいといううずうずとした気持ちが湧いて、気が付けば私は駆け出していた。

心がすっと楽になり、踊るように階段を昇る。

足取りは軽く、背に翼が生えたように軽々と身体は上へ上へと進んでいく。

螺旋階段を一段飛ばしで駆け上がる。

二重螺旋の生命の真理が其処にはあった。

万物は皆、死を求めているのです。

自死はとても喜ばしいことで、本来其れは誰しもが追い求める至上の安らぎを与えてくれる素晴らしきものなのです。

遍く生命は死ぬ為に生まれてくる。

生まれながらにして死を宿命付けられて、無から無へ向かうだけの壮大な浪費。

其処には意味がなくて、無味乾燥な現象の羅列が続いて行くのみ。

生命が発生したその時より、意味を成せたものなどただの一つもない。

だけど私は、私の見つけた大切なものを携えて、この虚無を彩りもう一度幸せを手にするのです。


有栖ちゃん、待っていてね。

私、今すぐに行くから。

もう一度貴女に会えたら、話したいことがたくさんあるの。

その時は笑わずに聞いてね?

ううん、やっぱり笑っていて。

私、有栖ちゃんの笑顔が大好きだから。

笑った時の世界一可愛い瞳で、私の事を見つめていてね。

私の本当の想い、きちんと聞いてね。

ねえ有栖ちゃん、私を優しく抱き留めて。

今其処へ、飛び降りるからね!


ふわりとした感覚が全身を包み込み、落下していく感覚がする。

ああ、これでもう一度……


目を瞑って墜落の瞬間を待っても、いつまでもその時は来なかった。

人一人の命が潰えるのだ、いくら簡単に死ねるとは言え、地面に激突する瞬間の痛みは壮絶なものだろう。

其れを想像して固く瞑られた瞼が、固く握られた拳が、痛みに震える瞬間はどれだけ待っても訪れない。

現実は何処まで残酷だというのだ。

必死に飛び降り自殺しても、この意識を消失させること一つ出来ない。

無限に続く負の思考ループを止めること一つ出来ないというのか。

或いは私はもう死んでいるのだろうか。

案外死の瞬間というのは想像するよりもずっと安らかで、痛みなどなくただ純粋な終わりが其処にあるだけとでもいうのだろうか。

ここは既に死後の世界で、安らかで停滞した微睡みの中に私は居るとでもいうのか。

それならば私の目の前には有栖ちゃんが笑ってくれているかもしれない。

「私を追って自殺するなんて馬鹿みたい」とか言って、優しく笑いかけてくれるかもしれない。

もう一度、有栖ちゃんに会えるかもしれない。

でももし私が死んだままの姿だったら、飛び出た内臓や破裂した眼球なんかを彼女に見せびらかすことになるかもしれないなぁ。

ひょっとしたら腕や脚から骨が飛び出て滑稽な見た目をしているかもしれない。

よく首吊り死体は糞尿垂れ流しというけど、飛び降り死体はどうなんだろう。

安らぎの代償として、糞便を見せなきゃいけないっていうのは、少し倒錯的が過ぎるよね。

女の子として、身体の中身や汚物を見られるってことはちょっと恥ずかしいけど、有栖ちゃんなら少しグロテスクな見た目をしていたって、私のことを愛してくれるよね。

胸の中でゲロ吐いても、抱き締めてくれたんだもん、きっと大丈夫。

…そうだったらいいな。

恐る恐る、閉じた瞳を開いてみる。

其処に映ったのは、変わらず空虚な世界。

続いて失望が、くらくらとした浮動性の目眩となって襲ってくる。

地上から遥か遠くの夜空に私は浮かんでいる。

尖塔から飛び降りた瞬間と全く同じ景色が、私の視界に広がっている。

飛び降りる前と後で、何も変わらない状況が、私の前に横たわっている。

ただ一つ、誰かに抱き留められているということを除いて。


「間一髪、というところですね」


よく知った少女の声。

私が死んでいないのは、彼女に抱き留められているから?

確かに彼女なら、中空で静止するなんてことも可能かもしれない。

でもどうして彼女が?

そんな疑問が頭の中を巡ると同時に、自らの生を実感した自我が、高ぶっていた神経が、急速に活動を緩めるのを実感する。


「随分待たせてしまったのですよ、詩葉」


「コメット、ちゃん?」


「はい、そうなのです。貴女を助けに来ました」


その声を聞いただけで、私は心に安堵を感じてしまう。

先ほどまで死のうとしていた癖に、コメットちゃんの声を聞いて私は心からの安堵を感じてしまっているのだ。

私は縋るように彼女の胸に抱き付き、声を上げながら泣いた。

それを彼女は、ただ優しく受け止めてくれる。

死にたくて死にたくてしょうがなかったのに、自分で飛び降り自殺をしたのに、自分がまだ生きていることに、深い安堵感を得ている。

こんな浅ましい自分自身が気持ち悪くて仕方が無いのに、ただコメットちゃんを抱き締めている事が、これ以上ないくらいに安心するのだ。


「あり、すちゃんがっ…ありすちゃ、んがぁっ!」


何度も声にならない声を上げながら泣きじゃくる私を、ただ優しくコメットちゃんは抱き締めてくれる。

温かくて柔らかくて、自分が生きていることを実感させられる、そんな安らぎが其処にはあった。

こんな温もりを、自分で捨てようとしたのに、何も考えず、ただ目の前の苦しみから逃げて死んでしまおうと思っていたのに、私はどうしようもないくらいに、自分が生きていることを喜んでいるのだ。

在るかも分からない死後の世界でもう一度有栖ちゃんと会うべくして、満たされながら自らの死を選んだのに、それでもやっぱり、生きていたいと思ってしまう。

どんなに苦しくても、死にたくても、結局自らの死を受け入れることが出来なかった。

恥も外聞もなく私は、ただコメットちゃんの胸の中ではしたなく涙を流し、生を享受して悦びに震えているのだ。


ねえ有栖ちゃん、私は一体どうすればいいの?



「あまり時間がないので、手短に話させて貰うのです」


泣き止んだ私を抱えて地上へ降りると、矢継ぎ早にコメットちゃんは話し始める。


「良く聞いて下さい。この世界は有栖の為に存在して、有栖の望むものがある世界。だけれど酷く歪んでいて、彼女自身を変えてしまう力に溢れた世界なのです」


この世界が有栖ちゃんの為に存在している?

一体コメットちゃんは何を言っているんだろう。

訳の分からない妄言に、失笑が零れる。

もし本当にそうなら、これまで私たちが辿ってきた道があんなに苦しいものであった理由がないじゃないか。

あんな暗闇に落とされたことも、長いトンネルを歩かされたことも、黒衣の集団に行き逢ったことも、怪物たちの跳梁跋扈も、この場所に来てから最低なことばかりだ。

あれらが総て有栖ちゃんの為に存在していたなんて、そんな訳絶対にない。

有栖ちゃんがあんなものを望んでいた訳がない。

第一、私の目の前で有栖ちゃんは消えてしまった。

恐ろしき威容の邪神に捕まって、この世界からすっかり居なくなってしまった。

そんなことが起こる世界が、有栖ちゃんの為に存在している世界な訳がない。


……でも確かに、この世界に来て、怪物どもを殺すことに楽しみを見出した有栖ちゃんは、私の知らない有栖ちゃんだったような気もする。

怪物たちを無惨に殺し続けていた時に彼女の浮かべていた表情が、この世界に歪められ変容されたものなのだとしたら、この世界が有栖ちゃんを変えてしまう力を持っているということだけは、納得出来るかもしれない。

だがしかし、この世界がどんなものなのかなんて考えたところで、今さら後の祭り。

もう有栖ちゃんは帰ってこないのだ。

私は話を聞きながらも、変わらぬ無力感に苛まれ、コメットちゃんの問いかけに答えるのも億劫で、ただぼおっと其処に立ち尽くすだけで精一杯だった。


「詩葉、しっかりして下さい!このままだと本当に大変なことになりかねないのですよ!」


大変なことになりかねない、とは言うが、私にとって有栖ちゃんが消えること以上に大変なことなんて何一つだって存在していないんだよ。

これ以上何が起こったって、私には正直どうだっていい。

もう全部、終わってるんだ。

私も、私の目の前に広がっている世界も、ただ抜け殻で存在していてもしていなくてもそんなものさして変わらない、大きな問題じゃないんだ。


「私にはあまり時間がないのです!この世界には何度もアプローチしていますが、一定の時間が経つと異物を排除する機構が動き出して追い出されてしまうのですよ!こうして詩葉と話してる間にもきっと奴らは近付いて来ているのです!詩葉、手遅れになってからじゃ遅いのです」


「もう何もかも、手遅れだよ。何もかも、遅すぎたんだよ。コメットちゃん、助けに来てくれるの遅すぎるよ」


もう少し早くコメットちゃんが来てくれていれば、有栖ちゃんは助かったかもしれない。

コメットちゃんの力をもってすれば、あの邪神にだって太刀打ち出来たかもしれない。

だけど現実、あの時あの場にコメットちゃんは居なかった。

私一人助かったところで、何の意味もないのだ。

コメットちゃんが私たちを助ける為に尽力してくれていたであろう事はよく分かるけど、もう全部遅いんだ。

コメットちゃんが観測者だとか調停者だとか、どんなに凄い力を持っていたって、居なくなった人間をもう一度作り出すことは出来ないでしょ。

もし出来るとしたって、それは私の有栖ちゃんじゃない。

私の有栖ちゃんはもう帰ってこないんだ。

私の愛しい人は、もう居ないんだ。


「ごめんね、コメットちゃんが悪いんじゃないことはよく分かってるの。だけど、もう有栖ちゃんは居ないの。だって私の目の前で消えちゃったんだもの」


ぽろぽろと、涙が零れ落ちる。

私の目の前で有栖ちゃんは邪神に捕らえられ、その姿を消してしまったのだ。

何もかもがもう手遅れ。

もう彼女は、助からない。

酷い喪失感で胸が一杯だ。

感情で一杯の筈なのに、だけど何処までも空虚で。

心の中には価値のない、私には必要のない感情だらけで、それ以上もういらないってくらいに、破裂しそうなくらい、無慈悲な虚ろさがぱんぱんに詰まっている。


「いいですか詩葉、良く聞いて下さい」


コメットちゃんは私の肩を両手で強く掴むと、真剣な瞳で此方を見つめる。


「有栖はまだ、生きているのですよ」


目の前の女の子は、何を言っているんだろう。

あまりに下らない甘言に、思わず笑いが零れる。

きっと、あれを実際に見なかったからそんな馬鹿げたことが言えるのだ。

あれは、あまりに圧倒的な恐怖は、有栖ちゃんがまだ生きて居るだなんてこと絶対に考えられないような威圧感で私の心を握りつぶしたのだ。

私の前で有栖ちゃんを、消し去ったのだ。

有栖ちゃんがまだ生きているだなんて、そんな訳、ないじゃないか。

あれほどまでに恐ろしい光景を、コメットちゃんは見たことがないからそんなことが言えるのだ。

人間が到底適うことのない存在に、世界で一番大好きな人を消されること以上に恐ろしいことがあるとでも言うのか?

あんな絶望を目にしてしまえば、有栖ちゃんが生きているだなんてこと、考えられる筈も無い。


「そうだったら、いいのにね。でもねコメットちゃん、もう有栖ちゃんは居ないんだよ。私の大好きな有栖ちゃんは、もう居ないの!」


叫び声と一緒に、より一層たくさんの涙が溢れてくる。

こんな意味のない液体の滴り、今すぐにでも止めたいのに、自分じゃ制御出来ずに次から次へと眦から不愉快なものが流れ出てくる。


「有栖ちゃんは死んじゃったんだよ!私の目の前で、死んじゃったの!何も出来なかった!助けられなかった!私は其処に居たのに、怖くて何も出来なかったんだよ!」


喉が焼け付くように痛い。

思えば今日は随分と、叫び声を上げていた様な気がする。

何の意味もないのに、どうして私は声を荒げているのだろう。

自分自身の感情がわからない。

私は何を怒っているのだろう。


「私が弱いから!有栖ちゃんを苦しめた!たくさん有栖ちゃんに辛い思いをさせて、そして死なせちゃったの!私が殺したの!私が!こんな私なんて死ぬべきだったのに、どうして助けたの!?コメットちゃんなら私を殺せるでしょ?ねえ、殺してよぉ!」


懺悔しても、何もかも遅いのに、私は自分自身の心を痛めつけて悦に浸っている。

さも自分が世界で一番不幸で、世界で一番悲しみを感じているかのように振る舞って、まるで自分こそが悲劇のヒロインのように演じているんだ。

そうすればほんの少し、楽になるから?

そうすれば有栖ちゃんを亡くした喪失感から逃げられるから?

私は、私を卑下することで、自傷行為に走ることで、私自身を保っているのかもしれない。

或いは本当にコメットちゃんが私を殺してくれることを、切望しているのかもしれない。

こんな時でも、私は醜い。

何処までも利己的で、自分のことが一番可愛いのだ。

やたらめったら当たり散らしたせいで、私の目の前の女の子は苦しそうな表情を浮かべている。

こんなことに、何の意味があると言うのだろう。

助けに来てくれたコメットちゃんにまで八つ当たりして、一体私は何がしたいというのだ。

口では大好きだ、大切だ、なんて言っても、私は自分の周りの人々のことを軽んじ続けてきたのではないか。

心の弱い部分は隠し通して、作り上げた上っ面の歪んだハリボテみたいな自分を操っていただけなのではないか。

安全圏から世界を見渡して、さも自分が普通の幸せな女の子のように振る舞っていただけ。

私はあまりに弱くて、醜くて、なんの価値もない人間なのだ。


「私を信じて下さい、詩葉」


今まで聞いたことのないような震えた声で、彼女は言う。


「有栖はまだ生きている。まだ助けられるのですよ」


今にも泣き出しそうな弱々しい声で、切実に。


「この世界が存在していることが何よりも、有栖自身の生命が脅かされていない証拠なのです。今ならまだ、有栖を救い出すことが出来る筈です。この歪んだ世界は、有栖自身を変質させる為の世界なのです。このままでは、私たちの知っている有栖はいなくなってしまうのですよ!」


無理矢理に微笑んで、彼女は。


「きっと有栖のことを助けられるのは、詩葉だけなのです。だから詩葉、もう一度だけ…」


いつの間にかコメットちゃんの足下には、無数の赤黒い腕が存在していた。

地獄から這い出る亡者のように、苦悶に喘ぐような生理的嫌悪感を掻き立てる動きをして、夥しい数の腕が犇めいている。

いつからそんなものが其処に在ったのか。

あまりの唐突さに目を疑うが、思えばここは信じられないようなことが次々と起こる世界だった。

異形をした、粘着質のグロテスクに蠢く腕たち。

コメットちゃんの脚に絡みつくように其れらの腕は這い上がり、そして、彼女の白い肌を陵辱していく。

ある腕は、爪を立て、皮膚を剥がしていく。

ある腕は、剥がれた皮膚の下に覗く筋繊維を引き千切っていく。

ある腕は、骨を握りつぶす。

其れらが少しずつ、少しずつ、まるで楽しむように、嘲るように、脚の先端から破壊を繰り返しながら這い上がっていくのだ。

肉を攪拌し、血飛沫をあげ、無数の腕はコメットちゃんを足下から破壊していく。


「それは、何…」


呆然としてただ、コメットちゃんの白くて細長い綺麗な脚が、挽肉と血溜まりになっていくのを見つめている。

一体目の前で何が起こっているというのだ。

どうして彼女は悲鳴さえ上げずに、それを受け入れているのだ。

見ているだけで悶絶する程の、苦痛に喘ぐ痛みを感じさせるのに、どうして表情一つ変えずに平気な顔をして居られるんだ。


「これが、この世界から異物を排除する機構という奴なのですっ…!何度かこれに捕まっているのでっ、もう慣れたものなっ…のですよ」


苦悶の表情を浮かべまいと努めながら、叫び声を噛み殺しながら、コメットちゃんは脂汗を滴らせて無理矢理に笑っている。

ぐちゅりぐちゅりと、音を立てながら赤黒い腕たちは彼女の身体を這い上がっていく。

やがてそれは太股の高さまで達し、立てる音量も、まき散らす血飛沫の量も、耳や目を覆いたくなる程に壮絶なものになっていく。

コメットちゃんは何度かこの世界にアプローチして漸く私を見つけたと言っていた。

それはつまりその度に彼女はこのような拷問を受けてきたということなのか?

何度も何度も、こんな苦しみを味わい続けて、私を助けに来てくれたというのか?


「コメットちゃんっ…!」


私は其れに気付いてようやく、彼女の身体を這い上がる残虐な腕を引き剥がそうと必死に駆け寄る。

しかし赤黒く蠢く腕たちを上手く掴むことも出来ず、圧倒的な力量で彼女を陵辱し続ける其れらに太刀打ちすることが出来ない。


「もう、時間切れという奴なのっ…です…!色々試してみましたがっ、この世界に居る以上、これっ…らの腕にはっ…何をしても適いっこない、みたいっ!…なのですよ」


次第に勢力を強めていく腕たちの拷問は、既に彼女の下腹部にまで達していた。

生きながらにしてコメットちゃんは、身体を破壊され、その内臓さえも引き摺り出され、完膚なきまでに全てを犯され尽くしている。

目の前でこんなに彼女が苦しんでいるのに、また私は何も出来ない。

形振り構わずグロテスクな腕に抵抗してみても、其れらはびくともせずに彼女の身体を破壊していく。


「コメットちゃん!コメットちゃんっ!」


どうして私の大切な人ばかりが、こんな目に遭っているのに、私だけは無事で居られるのだろう。

目の前で起こる冗談みたいに悪趣味な催しに二度三度と嘔吐感が湧き上がるのを感じる。

しかしもう吐き出すものはとっくの昔に吐ききってしまっている。

ただ痙攣しながら、喘ぎながら、半狂乱になりながら、コメットちゃんを破壊する腕を引き剥がそうとする。

そんな私の頭を優しく抱き締めて、彼女は囁く。


「大丈夫、詩葉っ…元の世界に戻れば、私の身体は元通りっ…!これは、侵入者をっ…痛めつけて二度と…この世界にっ…近づけなくさせる虚仮威しに、過ぎませんっ」


「ごめんねぇ…コメットちゃん、私、何も出来なくて…ごめんね、ごめんねぇ…」


馬鹿みたいに謝罪の言葉を吐いたって、コメットちゃんの感じているであろう痛みが和らぐ訳でもないのに、私はただ滂沱に震えながらその言葉を繰り返す。

変われるなら、変わってあげたい。

私の為にこんなに苦しい思いを何度もして助けに来てくれた彼女の感じた痛みをほんの少しでも味わえるなら、私は喜んでこの身を差しだそう。

だけど私は今も尚、何の痛みさえ抱えずにコメットちゃんに抱き締められている。

なんて私は弱くて、無力なのだろう。


「大丈夫なのですっ…大丈夫なのですよっ…こんなのへっちゃらなのです…!痛くも、痒くもっ!ないの…です。詩葉はっ…詩葉にしかできっない、ことをして…下さいっ…!


「私にしか出来ないこと?私になんか、何もできないよ…」


何も出来ないからこそ、私は目の前で有栖ちゃんを失ったのだ。

そして今こうして、コメットちゃんの壮絶な苦しみを傍で見ていることしか出来ない。

私に出来ることなんて、何もないのだ。


「いいえ…有栖の本当のっ…気持ちを分かって、あげられっ…るのは、詩葉だけなのですっよ…だから詩葉っ…!もう一度っ…立ち上がって、有栖っの…!本当のっ気持ちを…聞いて、あげって…くだ、さいっ」


赤黒い腕たちはついにコメットちゃんの上半身にまで達し、私を抱き締めてくれていた両腕にまで酷たらしく絡みついていく。

既に彼女の身体は半分以上がただの肉塊と化している。

私は其れから目を逸らすことも出来ずに、彼女が苦しむ姿を見ながら、力なく震えている。


「本当の気持ちを聞くって言ったって、有栖ちゃんは居なくなっちゃったんだよ…」


この世界が存在している以上、有栖ちゃんの命は脅かされていないのだと、コメットちゃんは言った。

たとえ其れが事実だとして、有栖ちゃんは私の目の前で消えてしまったのだ。

彼女が生きている生きていないに関わらず、その居場所が分からないのだから何もしようがない。

結局無力な私なんかがこの世界で出来ることなんて何一つとしてないのだ。


「いいですか、この世界がっ…存在しているっ、のは、有栖自身を、変質させる為だと、言いましたねっ?詩葉にならっ、その意味が分かる筈っ、です…有栖は、詩葉の為にっ変わろうと、している…全てはっ詩葉の為に、この世界…」


遂に赤黒い腕は、コメットちゃんの顔面にまで達する。

言葉の途中で彼女は、言葉を発することが出来なくなり、ただ苦しそうな瞳で私に何かを訴えかけていた。


「コメットちゃんっ!」


そして私の目の前で、コメットちゃんは完全に消失した。

赤黒い腕たちに陵辱され尽くし、ただその場には人一人分の肉塊が積まれているだけだった。

最期の瞬間、コメットちゃんは微笑んでいた。

ただ私を見つめて、微笑んでいたのだ。

否が応にも、有栖ちゃんの最期のシーンが思い出される。

私の目の前で立て続けに、二人の大切な人が居なくなった。

一人は異形の怪物に連れ去られ、一人はおぞましい腕に挽肉にされた。

二人とも、最期の最期まで、私を見つめて微笑んでいた。

どうして彼女たちは、こんな私に微笑みかけてくれていたのだろう。

ただ無力で何も出来なくて、助けることが出来なかった私に、どうしてあんなにも綺麗な微笑みをくれたのだろう。


「わからない…わからないよぉっ!」


私はどうすればいいの?

私は何をすべきなの?

こんな世界で一人きり、何をしたらいいかなんてわかる訳がない!

有栖ちゃんはまだ、生きているの?

本当に生きているの?

私はまだ、有栖ちゃんを助けられるの?

何が本当なのか、何もかも訳がわからない!

コメットちゃんは、こんな私に何を求めたの?

最期に伝えたかったのは、一体何なの?

わからない、わからない、わからない!


「全然、わかんないよ!」


人の気持ちなんて、わからない。

自分の気持ちなんて、もっとわからない。

私は私の事も、私が大切な人たちの事も、何一つわからないんだ。

本質を何にも理解してないのに、表層だけを取り繕って、わかった気になっていた。

周りにいてくれる人たちの優しさに甘えて、私は彼女たちのことをきちんと理解する努力から逃げてきたのだ。

その結果がこれだ。

私は大切な人たちを苦しめて、自分自身を苦しめている。

最初からもっと彼女たちのことを考えて、彼女たちの本当の気持ちに触れることを怖がらずにいれば、こんな風にはならなかったのかもしれない。

だけど弱い私は、何もかもから逃げ続けてきたのだ。

人の心に必要以上に入り込むのは怖かった。

人は簡単に死んでしまうから、いずれ失う時の事を考えたら、必要以上に愛するのが怖くて仕方が無かった。

だから私は、本当の心に鍵を掛けて、人の気持ちから一歩遠ざかったところで、自分のフリをした自分を操っていたのだ。

天真爛漫な楽天主義者の峯崎詩葉を作り出して、家族ごっこやお友達ごっこをしていただけ。

全てが自分のせい。

結局何もかもが、私のせいなんじゃないか。


「有栖ちゃん…」


私には、一つだけわかっていることがあった。

私がどうしようもないくらいに、有栖ちゃんのことを愛していると言うこと。

もう随分前から、それには気付いていた。

自分のその気持ちを理解していた。

だけどやっぱり怖かったのだ。

いずれ失ってしまう温もりを知ることが怖かった。

有栖ちゃんが私の事を想ってくれていることだって知っていた。

きっと私と有栖ちゃんの想いの矢印は同じ方向を向いていて、お互いが正直になればその想いが成就するということも、わかっていた。

それでも私は、人が人である以上絶対に避けられない死別という当たり前の悲劇から逃げて心に蓋をした。

これ以上の悲しみをを知らない為に、これ以上の幸せを拒絶した。

自分の気持ちからも、有栖ちゃんの気持ちからも、ずっとずっと逃げ続けてきたのだ。


「もう一度会いたいよ、有栖ちゃん」


有栖ちゃんに、もう一度会いたい。

会ってたくさん話がしたい。

彼女の微笑みを見つめたい。

出来ることなら抱き締めたい。

彼女の香りと優しさに包まれたい。


「何処にいるの、有栖ちゃん?」


貴女はまだ、生きているの?

この世界の何処かで、苦しんでいるの?

まだ私は貴女を助けられるの?


もう一度貴女に会えたなら、今度こそ間違わないから。

だから、どうか……


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