9 パレード
体操服姿の少女が二人、異国情緒ある美しい街並みを歩いている。
それも一人は金属バットを携えているのだ。
およそこの場所にはそぐわない格好の二人だ、文化遺産を壊して回ろうという奇特かつ冒涜的な二人組に見えてもおかしくはないかもしれない。
とはいえ、其れを咎めるような通行人もいないので、色彩豊かな煉瓦造りの美しい建築物に見下ろされながら、石畳の道を私たちは自由に進む。
広い通りを、周囲を見渡しながらぞろ歩く気分はまさに海外旅行の観光客と言った具合で、普段は見慣れない外国らしい風景に胸躍らされる。
夜闇の中、霧立ち込める風景に聳え立つ建築物の数々は、ホラーゲームに出てくるような幽霊屋敷然とした妖しい雰囲気を纏いながらも、ただそこに存在しているだけで文化を体現しているような、古めかしい歴史の香りを漂わせて見る者の心を感嘆させる。
この世界の成り立ちが未だ謎に包まれているのもあって、それらの視覚的な印象が正しいかどうかは全く分からないけれど、一般的な常識に照らし合わせるのであれば、その街並みは随分と長い間その姿を変えぬままにその威容を誇示しているように思えた。
闇に佇む建物たちと、街路に等間隔に設えられた角燈の仄明るい光が生み出す陰影はまるで絵画のようで、霧の中ぼやけたコントラストがまたより一層世界の蠱惑的な美しさを際立たせている。
濃霧で拡散された灯火が時折虹色に煌めくのは、自然現象で形作られたプリズムのよう。
ちらちらと輝くフレアがイルミネーションのように街中を彩る。
詩的な表現をするのであれば、宙を舞う妖精たちの羽がそこら中で煌々と反射していて、どこまでも幻想的な世界がそこには広がっている。
訳の分からないままにこの世界に連れて来られ、様々な恐怖に襲われた後の現在であっても、私たちが見ている街並みはとても綺麗で、眺めているだけで心が躍るような魅力で溢れている。
こんなにも素敵な景色の中を、有栖ちゃんと二人で自由に歩けるということ一点に於いては、この世界に来て良かったと言ってもいいかもしれない。
そう思えるほどに、その街並みは素晴らしい芸術性を備えていた。
見上げた空に暗雲が立ち込めているせいで、其処にどんな星座が瞬いているのかは知れないが、現在時刻はおそらく、真夜中過ぎなのだろう。
そもそも私たちの言う時間という概念がこの世界に存在していて、二十四時間の概念が適応されるのかは分からないが、周囲の建物には灯り一つ点いておらず、通りを歩く人影の一つもないことから、何となく深夜の時間帯なのではないかということくらいは推測出来る。
既に唾棄すべき黒衣の集団と出会っていることもあるし、この世界が全くの無人ということはないだろう。
この街にもきっと普通に暮らしている人がいるのだろうし、日が昇ればそれなりに活気のある生活風景が見られるかもしれない。
ただ残念なことに、朝日が昇る気配はまだほど遠く、暫くはこの闇が支配する時間が続きそうだ。
「それにしても、良い景色ね。私も建築物については詳しくは分からないけれど、この辺りはなんとなくヴェネツィアとか、その辺の街並みの雰囲気がするわ」
「そう思うとちょっと潮風を感じる気がするね。そこら辺の狭い路地を抜けたら水路があったりして。ゴンドラに揺られながら火星猫と戯れたいなぁ」
「それじゃあヴェネツィアじゃなくてネオ・ヴェネツィアじゃないのよ」
有栖ちゃんと一緒にゴンドラに揺られながら、美しい水路を堪能するのを想像してみる。
きっとそれは、陽光煌めく水路と咲き乱れる花々、古式めかしい風合いの建物の中を泳いでいくようでかけがえのない最高の経験になることだろう。
「有栖ちゃん昔、アリアカンパニーのゴンドラに乗ってみたいって言ってたよね」
幼い頃二人、アリシアさんのゴンドラに乗って観光してみたいねなどと語り合った記憶が鮮明に思い出される。
当時の私としては、アリア社長のもちもちぽんぽんを堪能したいという気持ちの方がひょっとしたら強かったかも知れないけれど。
「確かにそんなことを言っていた時期もあったわね。でも今は、どっちかと言えば私はオレンジぷらねっとのゴンドラに乗りたいわね」
「名前的な意味で?」
「そうよ。昔から色んな意味で、シナジー感じているのよね」
「寧ろ有栖ちゃんこそが黄昏の姫君だね」
「ふふ、詩葉の水先案内人になってあげようか?」
ここに本当に水路があれば、有栖ちゃんが魔法でゴンドラの一つでも作って浮かべてくれそうなものだけど、現実、水場の一つも傍にないのが実に惜しい。
運動神経の良い有栖ちゃんのことだ、練習を積めばあっという間に流麗な操舵技術を手にしてしまうだろう。
狭い水路もなんのその、ぐいぐいと風を切ってゴンドラを操舵する有栖ちゃんの横顔はきっととても絵になる。
ご自慢のツインテが地中海の風に吹かれて靡いてる姿は容易に想像出来るものだ。
「ゴンドラはないけれど、船謳くらいなら歌ってあげるわよ?」
「だ、大丈夫かな!」
「なんでよ、もう!」
有栖ちゃんのカンツォーネはレイクイエムになりかねないからね。
「ねえ有栖ちゃん、帰ったらまた一緒にARIA見よっか。アニメ一期から三期まで一気見するの」
「一気見って、全部で何話あると思ってんのよ」
「寝ないで見れば大丈夫だよ!」
「大丈夫じゃないわよ!というか私、ARIAは見たら絶対泣いちゃうから一緒に見るの恥ずかしいんだけど」
「うんうんわかるよ、すっごい幸せな気持ちになって感極まって泣いちゃうよね。二人で泣けば怖くない!問題ないよ!」
涙には様々な種類がある。
哀しい時や悔しい時に流す涙も確かに美しいけど、幸せな時に流す涙こそがこの世界でもっとも美しい雫だと私は思う。
アニメを見て流す涙が、どれだけ美しいものなのかに関しては、議論の余地があると思うけど、ARIAを見た時の感情の高ぶりは、日常生活ではなかなか経験することの出来ない種類の感慨深さだと思うのだ。
ああ、今すぐにでも見たくなってくるよ。
「まったくもう。まあ、一気見は別として、一緒に見ることに関してはいいわよ。平日はあんまり時間が取れないし、今度の週末にでも私の家にいらっしゃいな」
「うん、行く行く!絶対見ようね!有栖ちゃんのこと寝かせないから!」
「だから、一気見は別として、って言ってるでしょ!」
有栖ちゃんのお家で一緒にアニメを見る。
そんな他愛ない約束が、きっと今の私たちにとってはとても大切なことなのだ。
この世界からいつ元の世界に戻れるかは分からないけれど、あの平穏無事で幸せな日常に帰ることを強く意識しておかなければ、自分を保つことさえも難しい事のように感じる。
二人で一緒に、灯里ちゃんのプリマ昇級試験を見てたくさん泣こう。
遙かなる蒼に、幸せの涙をたくさん流すんだ。
○
「詩葉、下がって…」
「う、うん…」
二人でのんびりとお話ししながら、濃霧がちょっぴり妖しさを纏う綺麗な街並みをぞろ歩く長閑な時間も、そう長くは続く筈も無かった。
この世界は恐怖や謎や未知のものに溢れていて、私たちを安心させたと思ったらまたすぐに手の平返しでその牙を剥くのだ。
そんなことはあの長く続く薄暗闇のトンネルの中で十分に学んだし、黒衣の集団や銀色の少女、無貌の異形たちを目にした時から、私たちのすぐ隣には死が寄り添っているということも重々承知していた。
しかしながら、石畳の広い街路を曲がったその先に、異形の存在が待ち構えているのに出くわせば、心構えの出来ていた筈の思考はすぐに恐怖一色に染まってしまうもので、私はただ有栖ちゃんに言われるまま、そそくさと彼女の影に隠れる事しか出来ない。
私たちの前に突如として立ちはだかったのは、震える蝙蝠のような巨大な皮膜の翼を生やした、人型の怪物である。
全身を肥厚した赤黒く筋張った皮膚が覆っており、蠢く尻尾は時折痙攣しながら地面を這い回っている。
頭部と思しき部分には牛のような角が生えているものの、顔にあたる場所にはほんの少し起伏があるだけで目や鼻や口などの感覚器官は持ち合わせていない。
時折首を傾げながらも此方を睨めつけるその様は、どう見ても飛びかかる機会を窺っているような、明確な害意を向けているように見える。
厄介なのは、その所作に何となく知性を持ち合わせている雰囲気を漂わせていることだ。
始めに一個体が私たちの気を惹きつけて、背後から他の個体が襲いかかるチャンスを待っているなんていう、ヴェロキラプトルのような狡猾さで私たちを包囲しているのではないかという嫌な想像に駆られてしまう。
彼我の距離は十分に開いているとはいえ、あれだけ大きな翼で羽ばたけば、一瞬にしてその距離を縮めることが出来るであろう。
油断すれば私たち二人とも、瞬きの間にやられてしまうなんてことにもなりかねないような恐ろしい雰囲気を目の前の怪異は持ち合わせている。
「ナイトゴーント…かしら?夢の世界には打って付けの怪物っていう訳ね」
「有栖ちゃん、あいつを知ってるの?」
「ええ。随分とポピュラーな怪物よ。奴らは此方が抵抗しない限りは、擽ってくるくらいで大した凶暴性を持ち合わせている訳ではないわ」
「擽る?なにそれ。なんだか間の抜けた怪物なんだね」
見た目のおぞましさに反して、その実、攻撃手段が擽りなどという嬉しいような嬉しくないようなギャップに思わず面食らう。
真剣なのか巫山戯てるのかイマイチ分からない怪物に、思わず警戒心も薄れるものだ。
「擽られるのって結構、辛いものよ。自由に呼吸が出来なくなって苦しみに喘いであわや窒息死なんてことにもなりかねないわ。それに、注意しないと何処か遠くの危険な場所へと連れ去られてしまうかもしれない」
この世界の全貌が分からない現状、どれだけ危険な場所が待ち受けているかはわからない。
ナイトゴーントとかいうあの怪物は、あれだけ大きな翼を持ち合わせているのだから、私たちみたいな女の子を抱えて飛び回ることくらい、なんてことないだろう。
何の力も持ち合わせていない私一人、有栖ちゃんと離ればなれになって千尋の谷や険しい山脈なんかに取り残されることがあったらそれこそ絶体絶命だ。
「あいつがもし、小説の世界と同じような性質を完璧に持ち合わせているのだったら、何者かの支配を受けている可能性が高いわ。この世界を作り出した何者かが、私たちに害意を向けてあいつをけしかけたのかもしれない」
この世界がもし、有栖ちゃんの夢の世界だというのなら、その世界を作った何者かというのは、一体どんな存在なのだろう。
私たちの近親者か、或いは私たちを知っている人間か、はたまた何の関係性も持たない第三者なのか。
いずれにせよ、何らかの因果で超常の力を行使出来るだけの環境にあることだけは間違いないだろう。
あの未曾有の彗星の引き起こしたという事態が世界をどれだけ不思議な状況に陥れたのかは分からないが、あんな怪物を現実のものにしてしまうだけの恐ろしい力が今この場に働いているということだけは間違いない。
「ねえ、あんた。人間の言葉は理解出来るんでしょ?もしあんたに指示を出しているような誰かがいるんだったら、そいつの所に連れて行ってくれない?私がぶっ飛ばしてあげるから」
有栖ちゃんの言葉に、異形の怪物はほんの少し興味を持っていたようだが、此方に対して何らかの返答をすることはなく、ただ二度三度その翼を震わせるだけだった。
そもそも言葉を発する口がないのだ、コミュニケーションをするだけの知性を持ち合わせていたとしても、意味のあるやり取りをする事は酷く難しいだろう。
何も言わないながらも、何処か嘲笑うような雰囲気を纏って此方を睨めつけるような所作が、生理的嫌悪感を抱かせる。
有栖ちゃんはそれに焦れたように、手に持った得物を掲げながら冷たく言葉を放つ。
「返事がないってことは、あくまで私たちは敵対関係って事かしら?私は早く元の世界に戻りたくて苛々してるのよ。悪いけど、命の保証は出来ないからねっ…!」
有栖ちゃんの掲げた金属バットの周囲に魔方陣が青白い光を放ちながら展開し、其れと同時に、後方にいる私の周囲に堅牢な氷の障壁が出来上がる。
「危ないから詩葉はそこで見てて!多分、一瞬だから」
透明な氷の壁の中から、有栖ちゃんが敵に向けて駆け出すのが見える。
その速度はあまりに人間離れしたもので、彼女が運動神経が良いことを考えても、おそよ信じられない程の速さで、夜闇の中を雷が如く駆けていく。
「足の裏に氷を展開、同時に炎で融解、蒸発させることによって圧縮された水蒸気の推進力でこのスピードが出るのよ!凄いでしょ!」
嬉々として有栖ちゃんは自らの速さの理由を語っている。
そんなことが可能なのか眉唾な理論ではあるが、実際にそれが出来ているのだから何の問題もないだろう。
そんな間も一歩一歩、跳躍するかのように彼女は怪物との距離を詰め、さらに一瞬の隙を突いてその背後を取る。
初手で私の為に身を守る氷の障壁を作ってくれたのも余裕の現れだったのか、怪物が碌に行動を起こすことも出来ないような目を見張る速さで有栖ちゃんの攻撃は繰り出される。
彼女が金属バットを敵の背中に押しつけたと思った刹那、
「あっけないものね」
瞬く静寂の後、大音声が辺りに鳴り響く。
目の前で何が起こっているのかさえわからないまま、ただ其処には砕け散った氷の塊が転がっていた。
「有栖ちゃん!まだ来るよ!」
案の定敵は一匹ではなく、夜空から、二匹、三匹と、ナイトゴーントの群れが立て続けに有栖ちゃんの頭上に襲いかかる。
其れにたじろぎもせずに彼女は腰だめに姿勢を取ると、まるで刀を居合い切りする剣士のように、金属バットを体側に構える。
「そっちが数で来るんだったら、私はただ圧倒的な力で迎え撃つ!」
構えたバットの周りに再び魔方陣が展開、連鎖するように柄の根元から直線上に光が迸ると、そこに長大な氷の刀身が現れる。
バットを軸として形作られたその刃は大きな日本刀のような片刃の刀身で、ぎらりと夜闇に鈍く妖しい光りを反射させる。
「喰らえっ!」
掛け声と共に、氷の長刀が振るわれる。
音速の刃は見事に怪異の群れを一刀両断し、その後には血飛沫ならぬ氷飛沫が辺りに霧散する。
舞い散る氷は粉雪のように降り注ぎ、街路に等間隔で設えられた角燈の橙色の灯火を乱反射させる。
それは紛うことなき命の散華する煌めきであり、恐ろしくも美しさを感じさせるように夜の街を彩る。
次々と湧いて出てくる怪物の群れを、有栖ちゃんは何の躊躇もなしに滅殺していく。
現れてくる異形はどれも抵抗する暇さえなく氷漬けにされ、やがてその身体はあっけなく砕かれる。
氷細工を作っては壊し、作っては壊しを繰り返すその様は、到底そこに温かみのある命が宿っている事を感じさせないように冷たく透き通っていて、ただ何の感慨もなく作業のように延々と続けられていく。
スローモーションのように、氷飛沫が辺りに舞い散り、次第に空気さえもが冷え切っていくような絶対零度の無感動な情景が、淡々と繰り返される。
異形たちの命が、何の価値もないように潰えて終わる。
有栖ちゃんがこの場で氷魔法を多用することはおそらく、それが好きだからという理由だけではない。
血飛沫さえも氷らせて、返り血で自らを汚さない為だ。
有栖ちゃんはきっと、敵の命を奪う罪悪感よりもずっと、自らの身体が血で汚れることを厭う気持ちの方を強く感じているのだ。
それに気付いた時には既に怪物たちの猛攻は終わり、そこら中にはただ虚しく氷の山が築かれており、延べ十数体と思えるナイトゴーントは物言わぬ骸に成り果てていた。
その原型の一片さえ留めないままに、氷の塵となって。
本当に、一瞬だった。
有栖ちゃんは宣言通り、異形の怪物をものともせずに、一瞬の間に倒してしまった。
何の苦労もせずに、いとも簡単に殺し尽くしてしまった。
それがとても心強いのと同時に、何処か恐ろしい感情が胸の裡に去来することを感じる。
どうして有栖ちゃんはあんなにもあっけなく、命を刈り取ることが出来るのだろう。
たとえここが異世界であろうと、相手が怪物であろうと、そこに命があることは変わらないのだ。
普段の有栖ちゃんは、虫一匹殺すことさえ躊躇うほどに、命の尊厳を重んじる子だ。
私はそんな優しすぎる有栖ちゃんが大好きだし、ずっとそのままでいて欲しいと思っている。
幾ら私たちに仇為す怪異どもであろうと、そこに命の重みがあることを、彼女は忘れていないだろうか。
恐怖と死に常に晒されているとはいえ、それは決して忘れてはいけないことなのではないだろうか。
「有栖ちゃん、奴らを殺してしまう必要はあったのかな?」
「どうして?」
不思議そうに彼女は此方に近付いてくると、私の周囲の障壁にそっと触れる。
それもまた一瞬のうちに氷の塵になり、潰えた怪物たちの骸氷の上にうっすらと降り積もるのだった。
「確かにあのナイトゴーントたちは此方に害意を持っていたのかも知れないけど、わざわざ殺さなくたって少し痛めつければ逃げていったんじゃないかな?命まで奪うのは、可哀想だなって思ったよ」
人間と怪物にどれだけの違いがあるというのだろう。
たとえその見た目が大きく異なっていたとして、行動理念が全く異なっていたとして、どちらも連綿と繋いできた命を持ち合わせている。
命の重さに違いなんて無い筈だ。
私たちも、あの怪物たちも等しく生命を謳歌する権利を持っていて、何人たりともその権利を侵害することは許されない。
「おそらくここは私の夢の世界よ。私の夢に出てくるような怪物ならば、いくら殺してしまっても現実世界に何の影響もないわ。可哀想とかそういう以前の話。無限にポップしてくるようなモンスターに命の尊厳だとか考えるだけ無駄よ?何より、あいつらを倒すのって、ゲームみたいですごく楽しいのよ」
そう語る有栖ちゃんの表情は、まるで蟻を踏みつぶす子供のような無邪気な狂気を孕んでいた。
それを見た私は、酷くおぞましい感情が奥底から沸いてくるのを感じる。
「奴らに何もさせずに殺してやったの、詩葉も見てたでしょ?私ってばやっぱり戦いのセンスがあるんじゃないかしら?ね、詩葉もそう思うでしょ?」
「うん、そうだね」
何処までも楽しそうにしている有栖ちゃんの様子に、私は何て答えたら良いのか分からず空返事をすることしか出来ない。
ここが有栖ちゃんの夢の世界だとしても、彼女の言うように本当に怪物たちを倒すことが現実世界になんの影響も与えはしないのだろうか。
私は何故だか、彼女が致命的な間違いを犯しているように思えるのだ。
私を守ろうと、躍起になってくれているのは分かる。
怪物たちを倒すことをゲーム感覚で行っているとは言え、先ほどのように、私へ危険が及ばないように氷の障壁を作ってくれたりと気を回してくれるのはとても嬉しいことだし、有栖ちゃんに守って貰えることはただ一人の乙女としてまるで物語のヒロインになったような気さえするものだ。
だけど、私は有栖ちゃんが目の前で怪物たちを殺していくのをこれ以上見たくはない。
ヒロイズムに酔って怪物を倒す度に、有栖ちゃんが何か、大切なものを失っていくような、そんな気がしてならないのだ。
これがただの杞憂であるのならば、いいのだけれど。
それからも、有栖ちゃんの殺戮ショウは続いた。
行く先々で様々な恐ろしい異形の怪物が現れ、私たちの行く手を阻んできたのだ。
無定型の身体を持つ、ゼリー状のおぞましい怪物がいた。
それらは氷魔法とは相性が悪かったようで、一瞬のうちに氷漬けにされては、ただ金属バットで殴打されることによって死んでいった。
円錐形の身体に円筒形の頭部を持つ、鋏のような腕を蠢かせる怪物がいた。
氷魔法に少しばかり耐性があったばかりに、全身を業火で焼かれて消し炭と化した。
星型の頭部を震わせる、巨大な肉塊のような怪物がいた。
児戯の如く身体を真っ二つに裂かれて、大量の血飛沫を上げながら絶命した。
昆虫のような甲殻とかぎ爪を持つ、気持ち悪い化け物がいた。
一本一本足趾をもがれては、その傷口から氷漬けにされて死んでいった。
屍のように、半分腐った身体で這いずる人型の怪物がいた。
片っ端から燃やされて、腐臭を放つ暇もなく火葬された。
それらの怪物はまだ良い方だ。
奴らにだって此方を襲ってくるという意図があったのだし、害意持つものが倒されることは少なくとも、道理に適ってはいる。
命の重みが其処に存在するとはいえ、私たちだって生き延びなければいけない以上、此方に害為す怪物たちを蹴散らす必要はあったのだと思う。
けれど有栖ちゃんは、敵意を見せない怪物さえも目に入った瞬間に片っ端から殺していった。
たとえ逃げようとも、降参する素振りを見せようとも、そんなことは関係なく、悉く全ての怪物を、いとも簡単に、赤子の手を捻るように、それよりももっと簡単に次々とただ楽しむように殺していったのだ。
私たちの通った後には夥しい数の異形の骸が散乱し、まるでパレードのようにただ殺戮ショウが続けられる。
何処までも、誘われるように、淡々と怪物殺しのパレードは続いていく。
確かに私は最初、跳梁跋扈する怪物たちに出くわす度、有栖ちゃんが魔法を楽しそうに使っているのを見て正直興奮したし、アニメや小説、漫画、ゲームの世界でしか起こり得ない奇跡を目にしていることが嬉しかった。
有栖ちゃんの振るう氷魔法は芸術的で美しかったし、何よりそれを使う彼女の表情がただただ天真爛漫に煌々と輝いていたのは見ていて眩しいくらいに魅力的だった。
手を変え品を変え、様々な魔法を行使していく様はマジックショーを見ているような興奮さえ感じるものだった。
だけれど、奴らを殺し続けて暫く経った今の有栖ちゃんは、怪物たちを殺すことそのものを目的として魔法を行使しているように見えてならない。
異邦めいた美しい街の情景を、怪物たちの死骸で彩ることだけを目的として殺戮パレードを繰り広げているように思えてならないのだ。
「あはは!詩葉、今の見た?派手に内臓が飛び散って凄かったわね!汚い花火みたいだって、ああいうのを言うのかしら?」
緑の体色の子鬼のような怪物を爆散させながら。
「エンターテイメントは過激じゃないとねって、ゴア・スクリーミング・ショウが言っていたの、今ならその気持ちがよ~くわかるわ!」
蠢く触手の様なもので怪物を引き裂きながら。
「怪物たちの血が赤いのは、やっぱり鉄分を多く含むからなのかしらね!変わった血の色の怪物がいたら、じっくり調べてその組成を解き明かしたいものだわ!」
圧搾機で血液を搾り取るように。
「重力子というものがあるのだとしたら、それを過剰に集めることによって、こんな風に身体をぺしゃんこにする事も出来るのかしらね?そこに事象の地平面が出来るのならば、人工のブラックホールも夢じゃないかも!」
怪物たちは潰される。
「人間の耐えられる電圧と、怪物の耐えられる電圧に相違はあるのかしら?そもそも体組成が違えば、流れる電流にも差が現れる訳で…」
雷が落とされる。
「ロードローラーだッ!これやってみたかったのよね」
無駄ァ。
宙を舞うように、踊るように、有栖ちゃんの魔法のステッキは優雅に怪物たちを物言わぬ骸の山へと変貌させていく。
どんな者も、彼女の前に現れてしまえば、挽肉にされる運命からは逃れられない。
血と肉と油で出来た、慄然たるオブジェが何処までも続いていく。
日の昇らない地平線の彼方まで、腐臭漂う赤黒い肉塊で飾り付けられた道が伸びていく。
異国情緒溢れる街並みは、鼻をつく異様な臭気と、吐き気を催す肉片から垂れ流れる血液の大河で覆い尽くされていく。
たまには有栖ちゃんがちょっぴり苦戦するような、強靱な怪物が現れることもあった。
多数の触腕を持ち、全身を粘性のある体液で覆った、異形の翼を背に生やすどこか艶めかしい娘めいた威容の怪異なんかがその一例だ。
柘榴のようにぱっくりと割れた頭部と思しき部分の左右からは宝石の瞳が覗いて鈍く輝いていたが、その瞳で的確に有栖ちゃんを捉え、巨体に似つかわない速度で触腕を振るう猛攻を繰り返す様は見ているだけで心胆を震わせるおぞましさだった。
怪異の攻撃を躱すことに必死になって、有栖ちゃんはなかなか反撃の糸口を見つけることが出来なかったようだが、炎魔法が弱点であることを看破すると、一定の距離を保ちながら何度も火球を投げ続けることで苦労の末に撃破する事に成功した。
苦戦を強いられたことに腹を立てたのか、彼女は動かなくなった怪物の骸を、癇癪を起こしたように金属バットで叩き続けていた。
私が止めるまで、何度も、何度も、死体が原形を留めていられなくまで執拗に叩き続けていた。
私は目の前で繰り広げられる殺戮ショウに、次第に感情が鈍麻していくのを感じていた。
どんな怪物もみな、有栖ちゃんの手によって無惨に殺されていくのだ。
一つの例外もなく、ただ残酷に、ゲーム感覚で次から次へと命が散華する。
およそ人間が考えられる域を脱したような酷たらしい方法で、その残虐性はどんどん過激さを帯びていった。
最初はそれに胸を痛めるだけの感情を持ち合わせていた筈なのに、胸をむかつかせる気持ち悪さを抱えていた筈なのに、次第に興味そのものを失っていき、どれだけ楽しそうに有栖ちゃんが殺戮を続けていても、「ああ、またか、どうして飽きもせずそんなに殺し続けられるのだろう?」という風に思えるくらいのもので、虐殺される怪物たちへのほんの少しの憐憫さえ感じなくなってしまった。
いつまでこの地獄は続くのだろう。
有栖ちゃんはどれだけの怪物を殺していくのだろう。
これが悪夢ならば、そろそろ終わりにして欲しい。
終わりのない悪夢だというのならば、せめていい加減、朝がやって来ないものか。
ただ虚ろな精神で、霧立ち込める異邦の街並みを進む。
有栖ちゃんは、既に身体を清潔に保つことを諦めたのか、氷魔法で血飛沫を氷漬けるなんてことはせず、全身を血と肉と油で汚していく。
むしろその異様こそが、自らの殺した怪物の数を証明するハンティングトロフィーになり得ることに気付いたのかも知れない。
私は何もしないでも、彼女の後ろをただ歩いているだけで夥しい返り血を浴びて体中を赤で染めていた。
せっかく私を気遣って作ってくれた体操服は、最早、はじめ何色をしていたのかの判別さえ出来ないほどに真っ赤だ。
まあ、作ったのも汚したのも同じ有栖ちゃんなので、不平不満を言うこと自体間違っているのかも知れないけれど。
しかし、髪まで血飛沫でべったりなのは気持ち悪さを通り越して空笑いが漏れてくる。
いつ如何なる時でもすぐお風呂に入りたいと言う、しずかちゃんの気持ちがちょっぴり分かった気がした。
違うか。
「楽しいわね、詩葉!」
怪物を虐殺する手を止めることなく、こちらを一瞥することもなく有栖ちゃんは言う。
背中越しでも、その表情が怪物たちを殺す事への嬉々を湛えた歪んだ微笑みをしていることが伝わってくる。
「始めはこんなくそったれな世界に落とされて、堪ったものじゃないと思っていたし、恐怖でおかしくなりそうにもなったけど、こんな風に楽しい事が出来るならずっとこの世界にいてもいいかなって思うわ。だってそうでしょ?元の世界ではこうやって怪物たちを気持ちよく蹴散らしていくことなんて出来ないもの」
いつになく饒舌な早口で、彼女は続ける。
「ゲームでモンスターたちを倒すのとは訳が違うわね。このリアルな質感!視覚だけじゃなくて聴覚にも嗅覚にも触覚にも訴えてくる怪物たちのおぞましさと、それを打倒した時の爽快感ったらないわ!生温かな血飛沫や肉片を浴びるのさえちょっとクセになるくらい不思議な気持ち良さがあるものね。あーあ、詩葉も一緒に魔法が使えたらよかったのになぁ。見てるだけじゃつまらないわよね?人のプレイしてるゲームを延々と見せられたって本来の面白さの半分も伝わらないみたいに、この楽しさもきっとやってる当人にしか分からないものだと思うわ」
その声色は心からの歓喜を感じさせるもので、私は少し、彼女を怖いと思ってしまう。
大好きで大切な私の一番の幼馴染みが、私の知らない何か別の生き物へと変貌していくような、そんな足下から掬われるような得体の知れない恐怖感に襲われる。
あくまで有栖ちゃんは、ゲーム感覚で怪物たちを殺すことに楽しさを感じているだけなんだ。
その残虐性だって、知的好奇心の強い彼女が様々なやり方で敵を倒す方法を模索しているに過ぎない。
有栖ちゃんが、命を刈り取る行為そのものを楽しんでいる訳がない。
彼女がそんな猟奇的で非人道的な快楽に酔うような、おぞましい性質を持ち合わせている訳じゃないこと、私は良く分かっている筈だ。
有栖ちゃんはつんつんしてるけど心に深い愛情を抱えた女の子で、他人の気持ちを慮る優しさを持っている。
だから、どれだけ怪物たちを殺すことを楽しんでいたって、殺戮パレードに興じていたって、それは非日常の、普段は決して体験すること出来ない遊戯に浮き足立っているだけなのだ。
「ねえ詩葉、殺すのってとっても楽しいわ!」
此方を振り返る血塗れの艶然とした微笑みが、角燈の灯火をゆらゆらと反射させていた。
果たして私が見たそれは、本当に私の知っている有栖ちゃんだったのだろうか。
○
何故、怪物は私たちを襲ってくるのか、その理由も判然としないまま、ただただ怪物たちの跳梁跋扈する夜闇の街路を進んでいく。
言わずもがな、怪物たちは有栖ちゃんの魔法によって、出会い頭で無惨に散華する。
殺す相手を愛する人や想う人がいることは忘れろ、と言うのが、戦争においてPTSDを発症しないための一つの方策であるらしい。
そうすることで戦いの最中、自らの心を鈍磨させ、現実から目を背けることで胸に渦巻く罪悪感を消して、敵を殺すことを躊躇わない戦士になれるのだ。
敵が人であるならば、大概の人が攻撃することを躊躇するものだ。
手に持った銃を相手に突きつけても、その引き金を引くまでには多くの葛藤が生まれる。
たとえ敵だとしても、相手にも同じ血が流れているのだ。
それを意識外に追いやっても、脳裡を掠める人を殺める事への罪悪感を完全に消すことが出来る人など、そう多くはないのだろう。
だがしかし、相手が怪物だとしたらどうだろうか。
自らとは全く違う見た目で、その行動理念も、存在理由さえも分からない異形が相手だとしたら、私たちは思ったよりも簡単に引き金を引けるものの様に思える。
彼らにも彼らなりの生きる意味があって、確かな命を持って世界に存在しているというのに、容姿や種族の違いだけで人は簡単に、それらを仇為す怨敵と認識し、害すことを厭わないのだ。
世界に生まれ落ち、生を謳歌し、やがて子を為し、老いて死んでいく。
どんな生き物だって、辿る大筋の道は変わらない。
私と、野を駆ける獣と、路傍の花に、どれだけの違いがあるというのだろう。
私と、あの怪物たちの間に、どれだけの違いがあるのだろう。
どれもただ、精一杯生きて、ただ生きる為に、生きている。
私たちは命の重みに変わりは無いというその口で、家畜の肉を食み、愛しい人に触れる手で、庭の花を手折るのだ。
それらに意味があるのだと言うことも、自らが弱肉強食の円環に囚われていることも分かっている。
全ての命は他の命によって生かされているし、死すれば次の命を生かす為の土壌を作る礎となるのだ。
死は決して逃れられるものではなく、どんな者に対しても等量に降り注ぐ。
それは抗えぬ現実で、其処に善悪の概念は存在しない。
怪物たちが有栖ちゃんの手によって無惨に殺されていく事に関して、私は其処に意味を見出すことは出来なかった。
ただ快楽の為に殺されていく怪物たちは、一体何の為に私たちの前に立ちはだかるのか、それを理解する前に、全てが殺されていくのだ。
私はもう、どんな顔で其れを見ていればいいのかさえ分からなくなっていた。
延々と繰り返される、命を手折る遊戯を、殺戮のお飯事を、どんな感情で受け止めればいいのか、完全にその答えを見失っていた。
だから私は、ここ暫くぱたりと怪物たちの姿が現れなくなったことに、安堵していた。
どれだけ街路を進んでも、此方を襲ってくる怪物や、逃げ惑う怪物の姿が見られなくなったことに、心の平穏を感じていた。
きっとそれは、怪物たちの命を儚んでではない。
ただ単純に有栖ちゃんが、私の目の前で怪物を殺す為の魔法を行使しないことに大きな安堵感を得ていたのだ。
「あーあ、つまらないわね。此処いらの怪物は私が全部倒しちゃったってことかしら?」
有栖ちゃんは魔法のバットを肩に担ぎながら、大仰に脚を振り回しながら駄々を捏ねる子供のように頬を膨らませている。
その全身が夥しい数の血肉で汚れていなければ、私は彼女をいつものように可愛いと思えたのかも知れない。
ここに至るまで、有栖ちゃんはあまりに多くの怪物たちを屠ってきた。
魔法が想像以上の威力を誇っていたこともあるだろうが、それを行使する有栖ちゃんが賢すぎたのが問題だったのだろうか。
彼女は目の前に現れた怪物を一匹たりとも取り逃がしはしなかったし、それらの総てを例外なく、残酷かつ無慈悲に滅殺してきたのだ。
有栖ちゃんは、奴らの事を無限にポップするモンスターと呼称していたが、実際のところその数は有限であったのかも知れない。
もしかしたら本当に、この街周辺の怪物たちの悉くを殺し尽くしてしまったのではないかという程に、辺りは不気味なまでの静寂に包まれていた。
「私たち、一体何処へ向かっているのかな?」
怪物の現れるまま、私たちは誘われるようにただ街中を歩いてきた。
明確な目的地がある訳では決してなく、有栖ちゃんの気の向くままに淡々と殺戮を続けながらに進んできただけなのだ。
私には最早、自分がどちらから来たのかも分からなくなっている。
「そもそも有栖ちゃんは、どうしてあれだけの怪物が私たちを襲ってきたんだと思う?」
最初に出くわしたナイトゴーントに始まり、名前も知れぬ異形の怪物たちが次々と私たちの前に現れた。
其れには何か明確な理由が有り、何らかの意図が介在していたのだろうか。
「うーん、私に殺される為、かしらね?」
それが冗談なのか、本気なのか、有栖ちゃんの表情から読み取ることが出来ない。
いつもなら、彼女の気持ちは手に取るように分かるのに、血濡れた容貌が其れを妨げるのか、私は今、有栖ちゃんがどんな感情を胸に抱いているのかを判別出来る力を持たなかった。
それが酷く悲しく、酷く恐ろしい事のように思える。
私の大好きな有栖ちゃんが、私の知らない有栖ちゃんに変わってしまったかのような感覚。
「有栖ちゃんは、私を守ってくれるんだよね?」
「ええ、約束したじゃない。何があっても詩葉のことを守るわ」
「ありがとう、嬉しいよ。それじゃあ有栖ちゃんは、私を守ってくれる為に怪物たちと戦っていたんだよね?」
「それは……」
答えに戸惑い、伏せられた瞳が揺れている。
きっと彼女自身、気付いていなかったのだろう。
始めは私を気遣って氷の障壁や身を守る為の魔法を使ってくれていたのに、途中からそんなことは忘れてしまったかのように、ただ怪物たちを殺すことに夢中になって、私の方を碌に振り向きもしなくなっていた事に。
「有栖ちゃんが守ってくれるって言ってくれた時、私、本当に嬉しかったよ。ただ有栖ちゃんが傍にいてくれるだけで、恐怖心が和らいでいって、こんな訳の分からない世界でも何とかなるかもって思ったの」
あの薄暗いトンネルの中、這いずる恐怖に怯えていた私を奮い立たせてくれたのは、何処までも真っ直ぐな有栖ちゃんの言葉だった。
私は有栖ちゃんの事を、私だけの王子様みたいに感じたし、彼女がいてくれればそれだけで幸せなのだとさえ思った。
「ねえ、有栖ちゃんは有栖ちゃんだよね?私の大好きな有栖ちゃんだよね?」
私を守ると言ってくれた有栖ちゃんと、怪物たちを嬉々として殺していった有栖ちゃん。
私はその間に、大きな隔たりを感じてしまっている。
得体の知れない感情が渦巻いて、私の大好きな有栖ちゃんが別の何かおぞましい存在へと変貌を遂げていっているような恐怖心に苛まれているのだ。
「お願い有栖ちゃん。もうこれ以上、怪物たちを殺さないで。私、怖いよ」
襲いかかってくる怪物たちを殺すなというのは、無理があることなのかもしれない。
だけどきっと、頭の良い有栖ちゃんなら、奴らを殺さずに退けるような手段を取ることだって出来ると思うのだ。
私はこれ以上、命を弄んで悦に浸る彼女の表情を見たくない。
有栖ちゃんには、私の大好きな、優しい有栖ちゃんでいて欲しいのだ。
「私を守るなら、心まで守ってよ…」
其れは私の、心からの嘆願だった。
「詩葉…」
暫くの間有栖ちゃんは立ち止まって、此方を窺うように、考えを巡らせていた。
ただ夜闇を静寂が支配する。
有栖ちゃんの綺麗な瞳が、私の表情をじっと見ている。
今私はどんな顔をしているだろう。
もしかしたら、酷く悲しげな表情を浮かべているかも知れない。
彼女を不安にさせるような、痛烈な色彩を湛えているかも知れない。
本当は笑顔でいたいのに、胸の中の感情がそれを邪魔する。
いつだって有栖ちゃんと一緒にいる時は、平穏で、幸せに満たされた感情でいたいのに。
思えばこの世界に落とされる以前から、ずっと私は有栖ちゃんに対して罪悪感を抱き続けていた。
あの動物園の日以来…その前から、私は暗雲立ち込めるような不安を抱え続けていた。
どうしたらこのもやもやは消えるのだろう。
どうしたらもっと、素直な気持ちで笑いかけられるのだろう。
「ごめんね詩葉。そんな顔、させたい訳じゃなかったのに…」
弱々しい声色で、彼女は呟く。
「詩葉、私ね…」
意を決したように、一呼吸置いて言葉を続けようとした刹那。
「え?」
私の目の前から、有栖ちゃんが消えた。
あまりの唐突さに、理解が追いつかなかった。
想像の埒外にあるものを目にしてしまった時、人間はただ驚愕に言葉を失うほかない。
そしてその少し後にやって来る絶望という名の運命に、ただ身を委ねるのだ。
私たちは、何故この場所に怪物たちがいなかったのか、もっと深く考えるべきだった。
いや、正しくは、怪物がいないと錯覚していた事を、きちんと疑うべきだったのだ。
遥か頭上、見上げる其処には、有栖ちゃんがいた。
雲間から覗いた冒涜的なまでに黄色い月を背景にして、有栖ちゃんのツインテールがゆらゆらと揺れている。
全貌の知れぬ程に視界を占める暗黒の影が、月明かりを逆光にして輪郭を浮きだたせる。
節くれ立った暗褐色の、何処までも巨大な拳に鷲掴みにされて、有栖ちゃんは其処にいた。
古めかしい、ゴシック建築の壁面に、其れは張り付いていた。
昆虫を思わせるような六肢の腕と筋張った細長い足趾を使って、蜘蛛の如く、古めかしい屋敷の壁に張り付きながら、幾何学めいた複雑な起伏に富んだ頭部を擡げて、ただ其れは其処に在った。
どれも規格外の質量を誇った其れは、異様なまでにその威容を暗闇に湛えていて、ただ見ただけで気が遠くなる程の恐怖を纏っている。
怪物、というのも烏滸がましい。
其れはもはや、そんな領域の存在ではなく、私たち人間がどうあがいても適いっこないような、神話の世界に足を踏み入れた畏怖で此方を見下ろしている。
其れは、視界に入れただけで生命の終わりを感じさせるような、圧倒的な威圧感を周囲に放っていた。
邪神というものが存在するのだとしたら、あのようなもののことを言うのだろう。
在る筈のない、在ってはならない存在。
宇宙的恐怖を感じさせる、全き未知の暗澹たる深淵の権化。
あまりの隔絶した恐怖感に、私の目の前で起こっている現実を理解するまで暫くの時間が掛かった。
有栖ちゃんを鷲掴みにしているのは、あの名状しがたい存在の腕で、今まさに彼女は、ただ月光射す夜空に掲げられている。
一体これは、何なのだろう?
私が目にしているこれは、何なのだろう?
どうしてあんな慄然たる邪神が目の前に存在していて、有栖ちゃんを鷲掴みにしているのだ?
「離せっ…!」
必死に抵抗しながら、有栖ちゃんは身を捩らせている。
だがしかし、彼女を戒める五本の指はピクリとも動くことなく、頑強に閉じられたままだ。
それはそうだ、あんな圧倒的な存在を前にして、人間の、それもか弱な女の子に出来ることなんて何一つない。
目眩すらするような絶望感に押し潰されそうになる。
もし、あの有栖ちゃんを握る拳にほんの少し力が入ったら、一体彼女はどうなってしまうのだろう。
何を目的としているかは分からないが、今はただ彼女が、其処に捕まえられているだけだからいい。
だけど、もし、あの邪神がほんの少し気を違えて、あの腕にちょっと力を加えるだけで、有栖ちゃんの身体は……。
想像したくもない想像が頭から離れない。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
其処に存在している何もかもが恐怖になって私の心を蝕んでいく。
もし、もし、有栖ちゃんが、もし、もし、もしもしもし。
あ、あああ、あああああ、ああああああああああっっっ!
「ぁり、すちゃ、んっっっ!」
言葉にならない言葉を、悲鳴にならない悲鳴を、自我亡失のままに叫んでいた。
其れが自分の声なのかも分からない程、ただ必死に手を伸ばして、無様に涙を流しながら、唾をまき散らしながら、割れた音声を馬鹿みたいに繰り返した。
震えを通り越して弛緩した脚は一歩だって動かせない。
それでも少しでも彼女の方へ進もうと、地べたを這いつくばりながら、腕に裂傷を作っていく。
届かない、届く訳ない、届く筈のない腕を、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、夜空に瞬く星のように遙か遠くの有栖ちゃんに向けて伸ばす。
「詩葉、逃げて?」
苦悶に満ちた掠れた声が耳に届く。
その声が酷く聞き取り辛かったのはどうしてだろう。
ああ、そうか、さっきからずっと叫び声が続いているんだ。
誰の?
分からない。
「お願い詩葉、逃げて?」
そう言って有栖ちゃんは、邪神と共に虚空に消えた。
私の目の前で、唐突に、突然に、忽然と、姿を、消した。




