5 人生の分岐とは平行世界の分岐に他ならない
「さて、どちらへ行ったものかしらね」
ずっと真っ直ぐな薄暗闇の中を進んできた私たちの前には、今、初めての分岐路が佇んでいる。
右と左、二股に分かたれた道は一見すれば何の違いも無く、何の変化も無く、これまで来た道と殆ど同じような暗闇がその奥に続いているだけだ。
ただ、道が二方向に分かれているだけ、どちらの方が正しそうだと推論するだけの特徴も無ければ、鏡で映したようにそっくりな分岐路が其処に在るだけ。
これまでやって来た道から見てY字方向に道が続いている、所謂三叉路。
これから向かう先への選択肢は二つしか無いのに、三叉というのは、少々今の状況を皮肉ったように思える。
「人は二つの道が在った時、思わず左の方を選んでしまうものだって聞いたことがあるよ」
「なんかの漫画の受け売り?そういうの聞くと、変な反抗心が生まれて右に行きたくなるわね」
腕を組んで有栖ちゃんは、両方向を交互に見比べている。
私もそれに倣って慎重に観察を続けて見るも、だがしかし其処に明確な違いを見出すことは出来ない。
後ろから今尚、深淵を這いつくばって異形の怪物が近付いて来ている。
彼我の移動速度に於いて幸いにも此方が少し勝っていたことからその距離を大分開くことが出来たと思うけれど、時々暗闇に木霊するあの唸る咆哮を聞いてしまえば自ずと肩を竦ませてしまう。
時間的猶予は多少あるものの、出来るだけ早く決断を下して進む方向を考えなければいけないだろう。
「仮にどちらかが行き止まりだったとして、其処から引き帰してもう一つのルートを辿るだけの余裕が今ならまだ在るように思えるわ。勿論、この先が思ったよりも長い道程なのだとしたら行き止まりに辿り着いた瞬間にお終いだけどね」
「まだ、どちらかが間違った道だって決まった訳じゃないよ。どちらも別の方向の出口に繋がっていて外に出られるって可能性も在るんじゃない?」
「そりゃあ、そうだったらいいなって思わないことはないけれど、こういうY字路でどちらも正解っていうことは少ないんじゃないかしら。それに、この先に出口があるかも定かではないわ。二つの出入り口が一本に収束するトンネルと、一本の出入り口が二股に分岐するトンネル、どちらの方が自然だと思う?」
「どちらかというと、入り口が一つの方がそれっぽい気がするね。でもそしたら、私たちが進んできた道そのものが間違っていたってことにならない?」
もしこのトンネルに、出入り口が一つしかないというのならば、私たちの後方から這いずるあの怪異がいる方向こそが正解の道ということにならないだろうか?
そうならば、完全にこの状況は詰みということになってしまわないか?
どちらに進んだとて、その最終到達地点が行き止まりだというのならば、私たちの運命は今この時点で決められてしまっているということになる。
「まあ、そもそも分岐点がここしか無いと言うことも分からないのだしね」
これから先、枝葉のように分岐の続く迷宮のような道が続いているという可能性も捨てきれない。
このトンネルの規模がどれだけのものであるのか、殆ど手掛かりがないのだ。
どれだけ推測したところで、先に進んでみなければ何もわからないだろう。
「このトンネルは一体、何のために作られたトンネルなんだろう」
この世界がひょっとしたら有栖ちゃんの夢から作られた世界なのかもしれないという推測はしていたが、そもそもこのトンネルが何を目的にして作られたものなのかはこれまで全く考えていなかった。
何処かと何処かを繋ぐための通路であるのか、何らかの鉱物を掘り出すための坑道であるのか。
考えてみても、私の知識ではこのトンネルが何のために存在しているのか、推測することが出来ない。
「何かを運び出すための線路や運搬用の資材みたいなものも一切見ない訳だし、炭鉱路のようなものでは無さそうね。下水なんかが流れてるような感じもしないし、特別な機構が見られる訳でもないし、いよいよもって何が目的で作られているのかわからないわね」
有栖ちゃんも頭を捻って考えてみてくれてはいるが、彼女にもこの場所がどんな目的に為に存在しているのか推論しかねるようだ。
この分岐点に至るまで、何か特別な物を見つける事はなかったし、何か人の持ち物のようなものが落ちていることもなかったのだ、圧倒的に手掛かりになるようなものが少なすぎる。
ただ分かるのは、このトンネルがコンクリートのような素材で出来ている事と、それなりに経年劣化をしていそうだという事くらいだ。
「少なくとも、あまり人が出入りしている感じじゃないっていうのは確かだわね。まずもって怪物がいるような薄暗いトンネルに好きこのんで入ってこようっていう物好きがどれだけいるのかって話だわ」
「それこそ、ファンタジー世界の戦士でもなければ近寄りそうもないね」
「そうね。私たちはまだ、怪物の事を直で見た訳ではないけど、あんな唸り声をあげる生き物を倒せるのはよっぽど強くないと無理そうだわ。それこそ、私たちの世界の人間たちじゃとても敵いっこないでしょうね」
「でもさ、怪物がいるこの世界になら、そういう物語の中に出てくるような強い戦士がいたりしないかな」
怪物には、それを倒す英雄が付きものだ。
ひょっとしたら遠くに聞こえるあの唸る咆哮を上げる化け物を倒せるような戦士もこの世界には存在しているのではないかという淡い期待が浮かんでくる。
「詩葉はこんな時でもメルヘン脳なのね」
「そりゃあだって、誰だっていつでもヒーローに憧れるものでしょ?私たちを守ってくれる格好良いヒーローが現れないかなぁ」
「夢見るのはいいけど、現実逃避するのはやめなさいな。それに言ったでしょ、詩葉は私が守るって」
「ありがとう。守ってね、私の王子様」
「う、うん」
少し気恥ずかしげにはにかむ有栖ちゃんがとっても可愛い。
こんな隣り合わせの恐怖に脅かされる状況だって、彼女のはにかみ笑顔は私にたっぷりの幸せをくれるのだ。
つんつん成分が少し減っちゃってるのは悲しいけど、でれでれの有栖ちゃんもそれはそれでいいものだ。
もし元の世界に戻っても、有栖ちゃんは私のことを守るって言ってくれるのかな?
そしたら私は有栖ちゃんのお姫様…なんちゃってね。
「ところで有栖ちゃんの夢では、どっちの方に進んだか覚えてる?」
唯一手掛かりになり得る、有栖ちゃんの見たという夢。
殆ど記憶に残っていないというそれに、この分岐路へのヒントが隠されてはいないのだろうかと、一縷の望みに賭けて尋ねてみる。
「朧気に、こんな道を進んでいたような記憶はあるんだけど、どちらの道を選んだかは覚えていないわ。だけど、或いは…」
「或いは?」
彼女は頤に手を当て、しばし考えている様子。
何か思い当たるところがあるのだろうか。
「何でもいいよ、気になることがあるなら教えて。もしかしたら何か手掛かりになるかもしれないし」
「さっきからずっと、必死に夢の内容を思い出そうとしているんだけど、そもそも、私の見た夢って言うのがね、薄ぼんやりと覚えている限り、以前読んだ小説の内容と重なる部分があったような気がするのよね」
「それってひょっとしたら、すっごく重要なことなんじゃない?」
夢の内容には、それを見た者の記憶や体験した出来事が大きく関わっているという。
小説を読むという行為そのものが、普段はあり得ない仮想現実を体験するということなのだとしたら、脳味噌にとっては、それも一種の事実になり得るのではないか。
物語の中で起こった出来事がそのまま、夢に現れるという経験をしたことのある人は少なくないと思う。
私もよく、見た映画のワンシーンが夢に出てくるなんて言うことがある。
特に怖い映画を見た日の夜は悪夢を見る事も度々ある。
それは映画に関わらず、漫画や小説などの創作物にも言えることだろう。
というのならば、有栖ちゃんの見た夢と、有栖ちゃんの読んだ小説の間に深い関係があっても決しておかしくはない。
その小説の内容を紐解くことによって、これから私たちが直面する出来事が分かるかもしれない。
「有栖ちゃん。その小説の内容、詳しく話してくれない?」
「良いけれど…」
暫しの逡巡の後、彼女は、
「内容を話すことは、歩きながらでも出来るわ。まずはこの分岐路をどちらに進むかを決めてしまいましょう。残念だけどその小説の中で、こんな分岐路に立たされるシーンはないのよ。後ろから来ているアレの事もあるし、とにかく先に進んでからこの話はしましょう」
至極真面目な表情を浮かべてそう言う。
有栖ちゃんの見たというその小説の中に分岐路へのヒントが隠されていないのだったら、確かに歩を進めながら内容を確認していった方が得策のような気がする。
今尚、怪物は暗闇の中を這いずって近付いて来ているのだ。
先ほどから立ち止まって話をしている間に、彼奴の立てる音は少しずつ確実にその大きさを増している。
ここで小説の内容を確認しながら無駄な時間を使い果たすよりも、さっさと進むべき道を決めてしまうのが得策なのかもしれない。
だがしかしそれ以上に、有栖ちゃんが、小説の内容に触れたくないような素振りを見せているのが少し気になる。
その物語の中に、彼女の触れたくない何かが隠されているとでも言うのだろうか。
その何かが、私たちの行く末を致命的に決定せざることを、祈らずにはいられない。
「それじゃあ有栖ちゃんは、どっちへ行きたい?」
「どちらへ行くべきか、じゃなくて、どちらへ行きたい?」
「うん、そうだよ。有栖ちゃんの行きたい方向に行こうよ」
「私たちの命運が掛かっているかもしれないのに、そんなあやふやな決め方でいい訳?」
「私、有栖ちゃんの事信じてるから。有栖ちゃんの決めた方ならどちらへ行っても後悔しないよ。そのどちらかへ行くべきかの判断材料がないならさ、直感的に行きたい方に行くべきだと思う」
あれこれ悩んで分からない時は、直感に頼るしかない。
こういう時の直感というものはあながち侮れないもので、意外と当たったりするものだ。
大切な選択を有栖ちゃんに迫るのも少し残酷な気がしたが、私は有栖ちゃんの出した答えになら全幅の信頼を置くことが出来る。
たとえその先に残酷な現実が待ち受けていようとも、有栖ちゃんが傍にいてくれるのだから平気だ。
一人で死ぬのはとっても怖いけれど、有栖ちゃんと一緒に死ねるのだとすれば、それも悪くないかなって思える。
勿論、怖いものは怖いし、二人で一緒に元の世界に戻っていつも通りの幸せな日常に帰るのが一番の目標だけどね。
「ほんとに詩葉はしょうがない詩葉ね」
呆れたように有栖ちゃんは、私の大好きな微笑みを浮かべる。
少しの間考えを巡らせた後彼女は、
「それじゃあ、私のこと信じて付いてきなさいよ!左に行くわよ!」
力強く、そう言った。
そして再び私たちは手を繋ぎ、暗闇の中自らの進路を決める。
「この先何があったって、もう後悔しても遅いんだからね」
少しだけ有栖ちゃんは気弱そうに言うが、私は彼女が決めた道にどんな困難が待ち受けていたとしても、後悔することは決してない。
彼女の選んだ未来なのだから、何だって受け入れることが出来る。
「大丈夫だよ、言ったでしょ。有栖ちゃんのこと信じてるって」
「その言い方だと何かあった時すっごい責任感じちゃうんだけど?」
「えへへ、じゃあこういうのはどう?私は有栖ちゃんと一緒になら、死んでもいいよ」
「それだともっと責任重大じゃないのよ!」
ぷりぷりと頬を膨らませて怒る有栖ちゃんがやっぱりとても可愛い。
繋いだ手をぶんぶん振っているものだから肩が脱臼しないかちょっと心配だけど、彼女に外されるんだったらきっと私の肩も本望だよね。
「その、私と一緒に…って思ってくれるのはさ、ほんの少し嬉しいけれど、間違ってももう、死んでもいいなんて言わないで。お願いよ」
隣で私を見つめる有栖ちゃんの瞳が、悲しそうな色を湛えてゆらゆらと揺れている。
確かにこの状況で死んでもいいなんて言うものじゃなかった。
私たちはただ生きて帰るためにこの道を選択したのだし、何があったってあの幸せな日常に戻らなければいけないのだ。
始めから死んでもいいなんて思っていたら、生きて元の世界に帰れる訳もない。
今考えるべきは有栖ちゃんと一緒に何が何でも生き抜くということだけだ。
安直で楽な、死に身を任せるという道を選んでいい筈がない。
恐怖に屈して、それ以上の狂気に染まらないために死を受け入れるだなんて、もし私の両親たちがこの場所にいたら、今の私になんて言うだろう。
遠いあの日、幸せの中、生きたくて仕方なかった未来を失った両親たちが、今の私を見たらどう思うだろう。
きっと酷く悲しむに違いない。
彼女たちは私が生きるのを諦めるのを許してくれるなんてこと、絶対にない筈だ。
お姉ちゃんが今の私を見たら、なんて思うだろう。
私を大好きでいてくれて、いつだって私を肯定してくれた大切な彼女ならばきっと、私に何としても、どうしても、生きていて欲しいと言ってくれるのではないか?
だから私は、今この時確かに生きているこの私は、彼女たちの想いに報いるためにも絶対に有栖ちゃんと一緒に生き残らなければいけないのだ。
彼女たちから繋がれたこの命を、大切に生きなければいけないのだ。
それに、私の両親たちの死を悼んでいるのは私だけじゃない。
人の死を怖がって、心に痛みを抱えているのは決して私一人だけじゃない。
隣でずっと私の傍にいてくれる有栖ちゃんだって、きっとその痛みを抱えているのだ。
私と同じ苦しみを胸に抱えているのだ。
有栖ちゃんだって、私の両親たちのことを大切に思っていてくれた。
自分の家族のように慕ってくれていたのを私は良く覚えている。
彼女だって、大切なものを失った悲しみを強く心に刻んでいるのだ。
そして、これ以上大切なものを失いたくないという痛烈な感情を、今だって胸に抱いている。
それは私と同じ形の傷跡。
同じ痛みを私たちは、確かに共有しているのだ。
それをよく知っていた筈なのに、有栖ちゃんの前で、冗談でも死んでもいいだなんてことを言ってしまったことが、酷く罪深いことのように感じられる。
「ごめんね、有栖ちゃん。私もう、死んでもいいだなんて絶対に言わないから。私は有栖ちゃんと一緒にいたいから絶対に生きるよ。何があっても、有栖ちゃんと一緒に帰る。だからこの手を離さないでね?」
繋いだ有栖ちゃんの手を、今一度ぎゅっと握る。
「嫌だって言っても、離さないから」
有栖ちゃんが力強く私の手を握り返す。
私より少し大きくて、しなやかで綺麗な、だけどとても力強い温かな手。
この温もりが私に勇気をくれる。
心の中に、どんな恐怖にも屈しない優しい光を灯してくれる。
私にとっての有栖ちゃんは今この時、確かな生きる希望として存在している。
彼女の存在を感じるだけで、生きねばという本能が奮い立たされるのを感じる。
もし私がこの場所に一人でいたのならきっと、暗闇から這いずる恐怖に押し潰され、そのままに命を諦めてしまっていただろう。
一人きりだったら、暗闇の中を這い寄る怪異への恐怖に身が竦んで動けなくなったままだっただろう。
だけど今、私の横には有栖ちゃんがいてくれる。
有栖ちゃんが隣にいてくれるだけで私は、生きていたいと思える。
私のためにも、彼女のためにも、生きていかねばいけないと思える。
私の命は、私だけのものじゃない。
人と人の間に絆が生まれる時、相手の心の中に小さな自分が生まれるのだ。
その小さな自分は成長してやがて大きくなり、本当の自分自身と同じだけの命の重みを得る。
有栖ちゃんの中には、もうとっくの昔から私がいる。
私の中にも、有栖ちゃんは息づいている。
お互いに、お互いの中にお互いを感じている。
私の命は、有栖ちゃんの命でもある。
だから大切にしなくちゃいけないし、絶対に守らなければいけないのだ。
「有栖ちゃんの手、温かいね」
「詩葉の手もね」
「昔ね、手が冷たい人はその代わりに心が温かいんだって聞いたことがあるの」
「何?手が温かい私は逆に心が冷たいんだとでも言いたい訳?」
「違うよ。手が温かい人はね、心はもっと温かいんだよ」
「それじゃあ詩葉の心も、すごく温かいってことになるわね」
「えへへ、そういうことになるね」
「そこは否定しないのね」
繋いだ手の温かさが、心にまで伝わってぽかぽかと優しい気持ちが溢れてくる。
ただお互いの手を握っているだけなのにどうして、こんなにも幸せな想いに包まれるのだろう。
こんなに強い想いを感じさせてくれる有栖ちゃんの存在はどうしたって私にとって必要不可欠なものなのだ。
ただ、彼女に対する感謝の気持ちがじわりと湧いてくる。
本当に有栖ちゃんがいてくれてよかった。
いつも隣にいてくれるのが、有栖ちゃんでよかった。
今この時だけではない。
ずっとずっと彼女は、私のことを支えてくれているのだ。
私が両親たちを失ったあの日から、あの灰色の病室で呆然と立ち尽くしていたあの時から、今の私たちは始まった。
交通事故だった。
テレビのニュースで、インターネットで、新聞で、はたまた漫画や小説やアニメの中で、交通事故で人が亡くなるだなんてことは最早当たり前になっていて、ありふれたどこにでもある日常のように思っていた。
まだ死というものを言葉でしか知らなかったあの頃。
人はいつか老いて死ぬのだということは何となく分かっていたけど、自分にとっての死はあまりに遠く実感の湧かない物で、本当にそんなものが自分に降りかかることがあるのだろうかと疑問に思っていたほどだ。
幼い頃の私は、日常は永遠に続いていて、自分は死なんてものから隔絶されたところにあるものだと思っていた。
毎日人が死んでいる現実を俄には信じられなかったし、ひょっとしたら自分は、自分だけは何があっても永遠に生き続けるのではないかという空想に囚われもした。
だけど現実はあまりにも残酷で、両親たちの死をもって、私に死という言葉の意味を色濃く刻み込んだ。
交通事故なんていう、そんな何処にでもありふれた原因で、人はこんなにもあっけなく死んでしまうのだと、命はあまりに儚く簡単に潰えてしまうものなのだと、幼いながらも私は痛烈に理解した。
それまで知らなかった死の本当の意味を理解した時、私は得体の知れない赤黒い感情が初めて心の中に芽生えたことを識った。
その感情の名は恐怖。
未だ人間が地を這う獣だった頃から持ち合わせていた原初の感情。
私は死と恐怖が切って離すことの出来ない関係にあることを識った。
自分の物ではないと思っていた死が、鮮烈な恐怖という感情が心の裡に渦巻くことが、ただただその時の私を責め苛んだ。
薄暗い病室に横たわる両親たちの骸を見つめながら、私はただ滂沱に崩れ落ちた。
それは、思ったよりもずっと、綺麗だった。
それは、だけどぴくりとも、動かなかった。
私を見て笑ってくれたあの表情も、私を撫でてくれたあの手も、私を抱き締めてくれた腕も、全部全部、青白く濁っている。
死者と生者の間にある隔たりが、そこに明確に存在していた。
彼女らの亡骸を見るだけで理解してしまった。
ああ、もうこの人たちは二度と動かないのだと。
そして漸く私は、自分が失ったものの重みを識った。
自分が当たり前だと思っていた日常が、大切だと思っていた毎日が、こんなにも簡単に壊れてしまうものだということを私は識らなかった。
識りたくもなかった。
だけど、幸せが壊れ物だということを識ってしまった以上、私はそれまでの私ではいられなかった。
いられる筈もなかった。
大切なものを亡くした喪失感に打ち拉がれて、私は半身を失ったように生きていた。
何をしていても憂鬱で仕方がなかったし、ふとした時に思い出す幸せの風景と現実の乖離に心が耐えきれなくなってよく泣いていた。
どうしたらいいかなんてわからなかった。
大切な人が死んだ時にどうすればいいのかなんて、学校では教えてくれない。
人の死をどうやって受け入れて、どうやって立ち直ればいいかなんて、幼い私には分かる訳がなかった。
自らが生きているのか死んでいるのかさえもあやふやになり、淀んだ視界で世界をただ虚ろに眺めていた。
でも、そんな失意に苛まれて、日々を鬱々と過ごしていた私の隣には、ずっと有栖ちゃんが寄り添ってくれていた。
彼女だって同じように辛かった筈なのに、悲しみに暮れる沈む私のことを励ましてくれた、支えてくれた、いつだって微笑んでくれた。
ひたむきな彼女の想いが、私の鬱屈とした感情を、喪失感を、凍り付いて動かなくなった心を、徐々に溶かしてくれた。
悲痛に喘ぐ心を甘やかに包み込んでくれた。
彼女の優しさに触れて、温かい心に触れて、少しずつ私の心は鮮やかな色彩を湛えるようになっていった。
灰色に淀んだ視界が、美しい色を取り戻し始めたのだ。
一度は、自分が生きているのか死んでいるかさえ分からなかったというのに、私は有栖ちゃんのおかげでもう一度自分の生を歩き始めることが出来た。
彼女の不器用な笑顔があったから、私はこれまで生きてこられたのだ。
彼女のおかげで、私は今もこうして生きていられる。
いつしか彼女は私の失った半分を埋めてくれて、今では決して失うことの出来ない、本当に大切な私の一部になっている。
私は有栖ちゃんに生かされて、今この時も有栖ちゃんのおかげで生きていられるのだ。
彼女なしではきっと、私は私を保つことが出来ない。
だから私の命は、私だけのものではなく、有栖ちゃんのものでもある。
有栖ちゃんが埋めてくれた私の半分には、確かに彼女の命が息づいている。
私はそれをとても愛しく思うし、この命を大切に育んでいかなくてはいけないのだということを識っている。
私はこれからも、有栖ちゃんと一緒に生きたい。
ずっとずっと、彼女と一緒に寄り添いたいのだ。
この薄暗闇に囚われ、恐怖がそこまで近付いている状況だからこそ、改めてそれを強く感じる。
私は何としても、有栖ちゃんと生きよう。
絶対ここから出て、元の幸せな日常に戻るんだ。
その時はもう、逃げない。
本当の気持ちを……。
 




