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うぃしゃぽなすた!  作者: 上野ハオコ 
第二部 夢世界旅行記 後編
32/47

4 夢世界

有栖ちゃんとのごにょごにょがあって、周囲を観察するのが遅れてしまったが、あの暗闇の中から巨大な窖を落ちて私たちがやって来たのは、薄暗いトンネルのような場所であるようだった。

陽射しなどの光源は一切ないというのに辺りを見渡すことが出来る薄暗闇。

明かりが灯っている訳でもないのに、このトンネルの中はそれそのものがそこにあるだけで意識に直接訴えかけるような、不思議な感覚でもって、周囲を確認することが出来た。

高さは三メートルほど、横幅は更にその二倍といったところだろうか。

天井部はアーチを描いて少し威圧的に閉塞感を醸し出している。

コンクリートのような素材で出来た壁は、所々穴が穿たれていたり、何のものかは分からない赤黒い飛沫で汚れていたり、継ぎ目から錆が浸みだしていたりと、この場所が出来てから暫くの時間が経っていることを想像させられる。

見る限りでは分岐の無い一本道であるが、後ろも前も見える範囲ではどこまでも果てしなく道が続いている。

遠くに行けば行くほど暗闇はその濃度を増していき、底のない窖を覗いているようなお腹の辺りをぞわりとさせる感覚を覚える。


「私たち、何処から落ちてきたのかしらね」


そこら中を見渡しても、私たちが落ちてきたようなあの大きな竪穴を見つける事は出来ない。

あの暗闇から落ちた後に転がってここに辿り着いたのだとも思えない。

そもそも、あれだけの竪穴から落ちてきて怪我も無しに二人ともぴんぴんしているなんてこと普通だったらあり得ないだろう。

あれが予想通り、なんらかの改変によって起こされた現象だと言うのならば、今いるこの場所も、その異変の真っ只中であることは間違いない。

普通の物理法則が成り立たないような、そんな世界に私たちはいるのかもしれない。


「私たちが落ちてきたあの穴は、ひょっとしたらワームホールとか、次元の裂け目みたいなものだったのかな?それに飛ばされて、ここにやって来たとか」


「そんなSF見たいなこと、ありえるかしら?突然時空断裂に飲み込まれてこの場所に飛ばされた?誰が何のために何の意味があってこんなところに連れてくるのよ」


「異世界転生ものでいうところの、神様的存在、かなぁ。でも私たち、トラックや電車に轢かれた訳でもないし、チート能力を得たりもしてないもんね」


「そもそもがそんな都合のいい話、ある訳無いのよ。何の苦労もしないで力を得られる筈がないわ」


「まあ、それを有栖ちゃんが言うなら説得力があるよね」


私的には苦労せずに強大な力を得て異世界で無双出来たら楽しそうだなって思うけど、有栖ちゃんはそういうズルっぽいの嫌いそうだもんなぁ。


「とにかくまずは、私たちがこんなところにいる理由をきちんと考えなければいけないわね。そこに誰かの恣意的な介入が在るにせよ無いにせよ、こんな事態に巻き込まれるに至った原理を解き明かさなければいけない」


「そうは言っても、私たちはきっと普通の感覚では推し量れないような出来事の中にいるんだよ?必死に色んなこと考えたって、前提としてこんな異質な状況への知識が少なすぎるから、答えを導き出せるとは思えないよ」


私たちを包んだあの暗闇。

あれは人間が作り出す事なんて到底不可能であろう根源的恐怖を伴ったものだった。

あんな暗闇を経験してしまえば、常識が通用するような状況ではないということが嫌でも分かってしまう。

自分たちが直面しているのは、慄然たる不可思議な事象であるということを否が応にも認識させられる。


「確かにまあ、それはその通りだわね。コメットちゃんという存在自体が、高次元や平行世界の存在を示唆していた訳だし、想像も付かないような状況に巻き込まれている事だけは確かだわ。だけど、思考を止めてしまえばそこでお終いよ?」


私たちは既にコメットちゃんに出会ったことによって、この世界の普通や常識が通用しない世界が存在していることを知っている。

今直面しているこの異常事態もきっと、それらの超然とした原理によってもたらされたものなのだろう。

それを否定する材料を、残念ながら私は持ち合わせていない。


「まさかこれは、夢って事はないよね?」


有栖ちゃんと二人で下校して洋菓子屋さんへ向かったこと自体が総て私の見ている夢に過ぎず、今この時もただ夢を見ているだけではないのか?

再三再四感じている現実的な感覚や恐怖に目を瞑れば、今直面している状況が丸っきり夢なのだと信じることは容易だ。

そもそも洋菓子屋さんに入ったと思ったら其処は暗闇に包まれて、気が付いたら大きな窖に落とされてこんな薄暗いトンネルのような場所に辿り着いたなんていう脈絡も無い突飛な状況、まるで夢を見ている時のように混沌とした性急さではないか。

そう思ってほっぺたをつねってみるも、確かに感じる痛みは鮮明で、今この場所にいる状況が酷く現実的な感覚に基づいている事が分かってしまう。


「やっぱり、夢じゃ無いかぁ」


「ほっぺたをつねるなんて、またベタなことをする詩葉がいたもんね」


「そりゃあ、夢かどうか確かめて見るなんて、自分でほっぺたをつねるか、夢確かめ機を使うしかないよ」


「秘密道具に関してはまあ別として、それはどうなのかしらね?詩葉は夢の中で現実的な感覚を感じた事ってないかしら」


私は夢の中であたかも現実かと思うような感覚を覚えたことあるわよと、有栖ちゃんは言う。

そう言われてみれば、夢の中で感じている感覚は全部、その時は現実のように感じたりするもののような気もしてくる。

普段、現実だと信じ切っている総ての現象も、結局は脳味噌が外部からの刺激を受け取って電気信号を迸らせているだけでしかないのだ。

どんな現実的な感覚も、脳味噌の感じている事象に過ぎない。

それならば、夢と現実の間にどれだけの違いがあるというのか。


「こうやってほっぺたをつねることさえも、夢の中の出来事なのだということを完全に否定することは出来ないわ」


自らの頬をつねりながら有栖ちゃんは続けて、


「私にとっては、これが私の夢の出来事ではないのだと、断言する事が出来ない」


「それじゃあ有栖ちゃんは、これは夢の出来事だから直に醒めるんだって言いたいの?」


有栖ちゃんが言う通り、これがただの夢の中だというのならどれだけいいだろう。

どんなに不可思議なことが起こったって、怖いことが起こったって、それが夢の中の出来事だというのならば、目覚めてしまえば総て元通り。

私の平穏無事な日常はこれからも変わらず続いていくし、有栖ちゃんやコメットちゃんや小夜ちゃんたちと一緒に幸せで穏やかに過ごすことができる。


「ううん、そう言いたい訳じゃ無いの。私が言いたいのはね、ここが夢を元にして出来た世界なのではないかということ」


「夢を元にして出来た世界?それって結局、夢って事じゃ無いの?」


夢の世界と、夢を元にして出来た世界、果たして何が違うというのだろうか。

どちらも、寝ている間に見ている幻想に過ぎないのではないか。


「違うわ、そうじゃない。今私たちの置かれているこの状況が、夢の世界の出来事を具現化した、誰かの意図で作られた世界なんじゃないかっていうことよ」


「私たちの夢が現実になっている、っていうこと?そんなこと、あり得るのかな。そもそもどうして、有栖ちゃんは夢だって思うの?」


今置かれているこの状況が、悪夢のような状況なのだということは分かる。

だがしかし、私たちの夢が元になってこの世界が形作られているなどと、何故言えるというのか。

少なくとも私は、こんな夢を見たことはない。

この場所が、例の彗星の力によって繋げられた平行世界と仮定するのならば、あくまで私たちが本来いる世界とは別の可能性を辿った因果の一つであるに過ぎない。

夢の中の出来事が具現化するだなんて、まずあり得ないだろう。

しかし、小夜ちゃんの吸血鬼化の事が思い出される。

そういえばあれも、平行世界の同一化とは違う、歪められた原理に基づいて巻き起こされた出来事であった。

だというのなら、夢の中の出来事が現実になるなんてことも、あり得るのだろうか。


「私がこんな夢を、見たことがあるかもしれないからよ」


苦々しげに有栖ちゃんは言葉を吐き捨てる。


「明確に覚えているって言う訳じゃないけど、こんな風な悪夢を見たことが朧気に思い出せるのよ。夢って、醒めた後は大抵それを明晰には覚えていないものでしょ?だけど何となく、この場所を夢に見たような記憶があるのよ」


「つまり、ここは有栖ちゃんの夢によって形作られた場所だっていうこと?」


「そう断定するには根拠薄弱が過ぎるし、まだそうだと言い切れる訳もないけれど、可能性の一つとして考慮しておくべきかもしれないわね」


有栖ちゃんが夢に見たかもしれないという曖昧な根拠ではこの場所が彼女の夢に基づいて形作られているなどとは言い切れない。

けれど、もし万一それが真実なのだとしたら、私たちは一つ重要なヒントを得たと言って良いかもしれない。

有栖ちゃんのその朧気な記憶の中に、この状況を打破するヒントが隠されているのではないか?

ほんの少し、光明が見えたような気がする。


「有栖ちゃん、何かその夢について覚えていない?もしかしたらほんの些細なことが糸口になって元の世界に戻れるかもしれないよ」


「悪いけど、正直殆ど夢の内容を忘れてしまっているのよ。夢が進む度に次から次に得体の知れない怪物のようなものが襲ってきたような気はするんだけど、定かではないわ」


有栖ちゃんの夢の中に、怪物が出てきたというのなら、この世界にも、そう言ったこの世のものとは思えない存在が跋扈しているかもしれないということだろうか。

この道の先、暗闇の中に、蠢く恐怖の影が存在しているのかもしれない。

そう考えただけで、身震いするような恐怖が足下から這い上がってくるのを感じる。

有栖ちゃんの記憶から得られたのは、光明などではなく、さらに一段階濃度を濃くした暗闇であった。


「下手に動いたりしたら今よりずっと厄介なことになるかもしれないね」


「それもそうだけど、こんな場所で待っていたって何も解決しないわよ。さっきだってただ暗闇の中であたふたしてるだけでこんな場所に落とされて来ちゃった訳なんだから、じっとしてても安全だなんて保証は何処にもないわ」


「それじゃあ、歩き回るの?この中を」


確かに今この場所が安全だという保証は何処にもないが、ぽっかりと口を開ける暗闇の中を意気揚々と進んでいくだけの勇気は私には無い。

身を竦ませる恐怖がすぐ隣に寄り添っているというのに、何か行動を起こそうと思える訳も無い。


「私だってこんなところにいるのは嫌だけどさ、下手に動き回るよりこの場所で動かずにいた方がいいと思うんだ。その方が、コメットちゃんも私たちを探しやすいと思うし」


小夜ちゃんの吸血鬼化に巻き込まれた時だって、コメットちゃんが私を助けに来てくれた。

今回だって暫く私たちが家に帰らなければ、彼女はきっと私たちの居場所を探しに来てくれるに違いない。

この暗闇の中で歩き回って自ら危険に遭遇しに行くよりもずっと、現状身を害すものの無いこの場所に止まった方がずっといいような気がする。

ここが有栖ちゃんの夢によって形作られた世界であれどうであれ、コメットちゃんの救助を待つというのが私たちの助かる一番確実な方法のように思える。

彼女の観測者で調停者たる力を行使すれば、多少時間が掛かったとしてもこの場所を探し当てることだってきっと出来るだろう。

些か他力本願が過ぎるような気がするが、こんな状況に巻き込まれて、非力な女の子二人で出来ることなんてある筈も無い。

素直に人智を越えた存在の助けを待つことが賢明なのではないだろうか。


「コメットちゃんの助けを待つっていうのは、確かに賛成だわ。でも、詩葉には聞こえないの?」


「何が?」


「耳を澄ましてみなさいよ」


有栖ちゃんの言う通り、暗闇に耳をそばたててみる。

始めは何も聞こえず、一体彼女は何のことを言っているのかと訝しんだが、次第に私の耳は鈍く幽かな音がそこにあることに気付いた。

何か重たいものを引き摺るような音と、その後に何かを引っ掻くような金属的な響きが続く。


「ほら、今もまた聞こえたでしょ?この音、ほんの少しずつだけど、大きくなっている気がするのよね。ねえ、あの音、一体何の音だと思う?」


私の驚愕した顔色に音を聞き取ったことを確認したのか、有栖ちゃんは少し恐ろしげな感情が含まれたような声で言う。


「わ、わからないよ。でも、確かに、さっきよりも少し音が大きくなっている気がする。それって…」


特定の周期で聞こえる何かを引き摺るような粘性の鈍い音と、何かを引っ掻くような金属的な音。

それらは少しずつだけれど確実に、大きくなってきている。

徐々に大きくなる、不可思議な音声。

正体不明の、生理的嫌悪感を催す音色。

暗闇に反響し、這いつくばる、暗澹たる空気の振動。

頭の中で、嫌な想像が膨れあがる。

その想像は具体的な形を取りながらも、正体不明な慄然とした感情を伴い、私の思考を支配する。

ああ、私は気付いてしまったのだ。

その不快な音声が、どうして少しずつ大きくなっているのか。

鈍く低解像度なぬめりとした音が、どうして名状しがたいヴェールの中で膨張を繰り返しているのか。

私の空想好きな性質が徒となり、頭の中で朧気な虚像が次第に明晰に形取っていく。

夢想に耽る夢見がちな脳味噌は、想像を確かに現実のものへと変化させる。

その音は、少しずつであるが、着実に、此方へと近づいてきているのだ。

一定の間隔でもって鳴らされ続ける音声は、徐々に此方へ、這い寄ってきているのだ。

それはつまり、この特定不明の音声を発する何か得体の知れないものが、暗闇の中、身を捩らせて此方へ向かってきているという事なのでは無いか?

それに気付いてしまった瞬間に、全身の肌がぞわりと粟立つのを感じる。

恐怖に総毛が逆立ち、自らの意図しないままに身体が小刻みに震えていく。


「有栖ちゃん、ねえ、ひょっとして…」


「きっと何かが、此方に近付いて来ているんでしょうね」


そう言う有栖ちゃんの表情にも、うっすらとだが、確かに恐怖が滲み出ているのがわかる。

得体の知れないあの音声を聞き始めた時からきっと、彼女の中でも私と同質の慄然とした感情が芽生え始めたのだろう。


「あんな音を立てて近付いてくるのが、人間だと思う?私はもっと、禍々しくて、恐ろしい何かにしか思えないわ」


冷静を装ってはいるが、内心、相当の恐怖と戦っているのだろう。

彼女の声は少し、震えていた。


私たちが今いるこの場所は、全く正体のわからない暗澹たる恐怖感に支配されている。

誰かの思惑があったなしに関わらず、あの慄然とした暗闇から奈落に落とされやがて辿り着いたここが、人間世界の道理が通用する場所かどうかなんてわからない。

有栖ちゃんの言う通り、鈍く不快な音を立てて此方へ向かってきている何者かが果たして、人間であると誰が言えようか。

闇に這いつくばる、醜悪な見た目をした異形であると考える方が自然であるとさえ思えてしまう。

この世界が有栖ちゃんの見た夢に基づいて出来ているというのならば、朧気な記憶の中で彼女を襲ってきたという怪物が、あの暗闇の中を這いずって此方に向かってきているのだと、嫌でも考えてしまう。

私は今、正気を保てているのだろうか。

既に私の思考はとっくに狂気に染められてしまって、聞こえるはずの無い音を暗闇の中に見出しているだけなのだと、あれは私の恐怖が作り出した幻聴で、実際この場所にあるのはただ虚ろな静寂だけなのだと、必死に自分に言い聞かせてみても、ただ残酷にあの身をぞわりと撫でつける音声は、酷く現実的な感覚で私の耳朶を振るわせる。


「どうしよう、有栖ちゃん?」


泣きつくように有栖ちゃんに縋ってみても、彼女が現状を解決するだけの力なぞ持ち合わせていないことは重々承知している。

だけど私は、身近にある見知った平穏を手繰り寄せなければ、今すぐにも泣き出してしまいそうな、そんな恐怖に取り憑かれてしまっている。

きっと有栖ちゃんだって怖くて怖くて仕方ないのに、私は有栖ちゃんの足下でただ無力に蹲っている。

圧倒的な恐怖に全身の力が抜けて、上手く身体を動かすことさえ困難になる。


「ひとまず、あの音とは逆の方向に逃げましょう。この場所で立ち止まっていたら、それこそ……」


苦々しげに言葉尻を切った彼女はその後に本当は何と言おうと思ったのだろうか。

同じ恐怖に苛まれている今の私ならそれが容易に分かる。

きっと有栖ちゃんはこう思ったのだ。

このままこの場所にいてしまっては、あの肌をぞわりと粟立てる音を立てて近付いてくる何者かに、得体の知れない暗闇を這いつくばる恐怖の正体に、


殺されてしまう、と。


「今の、聞こえた?」


「う、うん」


その時、確かに暗闇の彼方に、咆哮とも唸り声ともつかないグロテスクな音声が木霊するのを聞いた。

その音は何処までも残虐に響き渡り、心胆を振るわせる陰惨さを持ち合わせて私の鼓膜に到達する。

先ほどまでの這いつくばる音声とは一線を画した現実的な死の芳香を漂わせた咆哮は、ただ純粋な恐怖を孕んで、私の感情を真っ黒に染め上げる。


「えへへ、私、腰が抜けちゃったよ」


力なく笑ってみても、一度心に芽生えた恐怖が簡単に消える訳も無く、暗澹たる深淵を這う者への恐れはただそこに我が物顔で傲慢にも居座り続けていた。

有栖ちゃんが怪物に襲われたのは、あくまで夢の中の話だった。

それは決して現実に干渉することなど無く、夢の中ではどんな怪我を負おうが殺されようが、起きてしまえば元通りだ。

しかし、今この場所で、おぞましく醜悪な化物に襲われ、もし万が一、命を落とすような事があれば、それは私たちにとっての確固たる現実になり得るのではないか?

夢のような出来事だとしても、決して夢では無い。

たとえここが平行世界であれ、誰かの作り出した歪んだ世界であれ、害為す意志を持った何者かに出会って生きて帰れる保証が何処に在ろうか。

未知なる異形に、深淵からやって来る名状しがたいものに、出会ってしまえばきっとそこで総てがお終いだ。

私の願う幸せな日常は、大切な人と過ごす未来は閉ざされ、もう二度と私の前には現れない。

力持たざる私たちは、ただ残酷に、陰惨な現実を受け入れることしか出来ないだろう。

あの慄然たる咆哮を上げる得体の知れない怪物に、抵抗さえ許されず無惨に殺されるという現実を。


死の恐怖がすぐそこに迫っている。

だというのに私は、その場所から一歩も動けずにいた。

脚に力が入らない。

ただ蹲って、すぐ傍にいてくれる女の子のことを見上げることしか出来ない。

そんな私を見て意を決したように拳を強く握ると、彼女は、私の前にしゃがんで、じっと此方を見つめてくる。

その瞳は、どこまでも真っ直ぐに透き通っていて、さっきまで彼女が感じていたであろう恐怖が何処かへ行ってしまったかのように力強い美しさで煌々と輝いていた。

まるで天上の至宝を思わせるその瞳は私の心臓を射貫き、彼女は毅然とした声色で一言、


「私が、詩葉を守るから」


私の肩を両の手でしっかりと掴んで、そう言ってのけた。


「だから詩葉は、何も怖がることなんてないの。私が詩葉の恐れるもの総てから守るから。ただ、私の隣にいて」


特別な力など何も持たない非力な女の子に、こんな状況で一体何が出来るというのか。

何も、出来るはずがないのだ。

訳の分からないままにただ恐怖に潰されて、打ち震えるしかない。

それが至って普通の反応だと思うし、現実私はこうして、怪異を恐れるままに崩れ落ちてしまっている。

だというのに、有栖ちゃんは、私を真っ直ぐ見つめて、守るからと、力強く言ってのけた。

今だって彼女は、その綺麗な瞳でじっと私を見つめている。

その瞳は恐怖に揺れていても、決して曇ることの無い、信念のようなものを感じさせられる、見ているだけで少し、勇気の湧いてくるような光を湛えていた。

こんな状況でも彼女は、決して諦めていないのだ。

今にも足下から這い上がってくる恐怖感に抗い、光を絶やしてはいないのだ。


「立って。私が、支えるから」


彼女は精悍な笑顔で、私に手を差し出す。

それは紛うことなき、暗闇に差し込む一筋の光である。

今この時私は、天上の光を目にしている。

ただ心を奮い立たせ、這い寄る混沌の闇を払い除ける光。

じんわりと胸が、温かくなっていくのを感じる。

先ほどまで感じていた恐怖感の総てを消し去れた訳では無いけれど、ほんの少し胸の中に仄かに揺れる光が灯り始める。


私は有栖ちゃんの手を取り、脱力して腑抜けた両脚を叱咤し、恐る恐る立ち上がる。

彼女の手に支えられながら、まだ少し震えてはいるけれど、両の足で自らの身体を支えることができた。

よかった。

まだ歩けるだけの力は私に残されていたようだ。

近付いてくる恐怖が現実感をいや増して濃厚な死の香りを運んでくる。

それは確実に、今この時も一歩一歩此方へと向かって這い寄ってきている。

粘性の這いずる音と、引っ掻く金属的な音を立て此方へ近付く唸り声を上げる得体の知れない怪異。

私たちはそれから、逃げなくてはいけない。

こんな場所で、自分たちが何に巻き込まれているかも分からないまま、深淵から湧き上がる恐怖に殺される訳にはいかないのだ。


「ありがとう有栖ちゃん、ちょっと勇気が出たよ」


喉から出たのは、笑ってしまうほどに震えた怯え声。

未だ圧倒的な恐怖は心に蟠っているし、きっとこの場所にいる限りはその恐怖が晴れることもないのだろう。

そんな感情に押し潰されてしまう前に、私たちは元いた世界の大切な日常に帰らなければならない。

その為にはまず、一歩踏み出して、這い寄ってくる怪異から逃げ果せる必要がある。

私の隣には有栖ちゃんがいる。

怖くて怖くて仕方が無いけれど、彼女が隣にいてくれれば、私はほんの少し強くなれる気がする。

だから私は彼女の手をしっかりと握り、その瞳を見つめる。


「逃げよう、有栖ちゃん」


今度はしっかりとした声で、私は言った。


「今この時も後ろから何かが近付いて来ているのは確かだわ。まず私たちはそれから逃げなきゃいけない。そして、出来るだけ早くこのトンネルの出口を探して外に出ましょう。向かう先にまた別の危険が待っていないとも限らないけれど、こんな逃げ場も無い閉塞的な場所にいるよりずっとマシだわ」


暗闇の中を、出来る限りの早足で進みながら、これから私たちの取るべき行動を考える。

幸いなことに、此方に這いずって来ている様子の怪異は思ったよりも鈍間で、私たちが離れる速度の方が些か早く、徐々に音が遠ざかっていくのを感じる。

だけれど、このトンネルの構造が全く分からないということが、拭い去れない不安感とこの先待ち受けているかもしれない新しい外敵への恐怖を心に塗りたくる。

先ほどから分岐も無い真っ直ぐな道を進んできてはいるが、果たしてそれが、出口の方へと進んでいるのか、それともトンネルの深部へと向かっているのかさえも定かでは無い。

後ろから唸り声を上げて怪異が近付いて来る以上、私たちは此方側へ進むしか無いのだが、もし行き着いた先が行き止まりだとすれば、袋の鼠、ただ為す術もなく怪異に追い込まれてそこで何もかもがお終いだ。

それこそがあの怪異の狙いであり、ここが怪異の狩り場であるというのであれば、私たちはこの場所にやって来た時点で命運が決められていたことになる。

その可能性に気付いても、それを考えないように努めていた。

そもそもがこのトンネルが一体何のために存在していて、どんな場所に立地しているのかもわからない。

深淵の窖を落ちてきた以上、なんとなくここが地下のような気がしてはいるが、あの竪穴が物理法則に則ったただの落とし穴ではなかったことはおそらく間違いが無いので、この場所が地上に位置する可能性だって捨てきれない。

それならばと、一度壁に穴を開けてみようか試みてみたものの、当然なんの工具も無い以上乙女の非力な腕では大した力も振るえる訳も無く、試みは失敗に終わった。


「全く、どうしろって言うのかしらね」


果ての無い道程に、流石の有栖ちゃんも焦燥を隠せない。

正しいかも分からない道をひたすらに進まなければいけないことは心に重い負荷を掛けるものであるが、今尚後ろから少しずつではあるが怪異が近付いて来ている以上、何が何でも此方の道を進まなくてはいけないのだ。

繋いだ有栖ちゃんの手の平から、冷たい汗が滲み出てくるのを感じる。

或いは私も、同じような汗をかいているかもしれない。

身体的な疲労からの汗では無い。

じっとりと滲むこれは、精神性発汗。

恐怖と焦りの身体的発露だ。

どこまでも変わり映えのしない直線路に、心身共に余裕が無くなる。

精神の疲れは身体の疲れに付随し、どんどん進む脚が重くなっていく。


「ねえ有栖ちゃん、もし帰れたらさ、きちんと二人で洋菓子屋さんへ行こうね」


思考を苛む恐怖を払い除けるように、楽しいことを考える。

この場所から帰ることが出来たら、今度こそ二人で洋菓子屋さんへ行くのだ。

そしてたくさん甘いものを食べて、たくさん有栖ちゃんと一緒にお話しをする。

今私たちが直面しているような非日常の恐怖とはかけ離れた、幸せな日常の光景。

それを胸に抱くだけで、少し勇気が出る。


「それ、死亡フラグってやつじゃないの?」


冗談めかして微笑む有栖ちゃんの表情を見れば、何が何でもこの場所から逃げ果せて、大切な日常を取り戻さねばいけない気持ちが湧いてくる。


「死亡フラグなんかじゃないよ。先取り約束機みたいなものだよ。帰ったら必ず二人で洋菓子屋さんに行きますって約束する代わりに、今その時の幸せな気持ちを先取りしてるんだよ」


「それで未来からやって来た私たちが助けてくれるって訳?」


「そうそう、そういうこと!流石有栖ちゃん分かってる!」


「そりゃあね、あれだけ何度も見せられれば嫌でも覚えるってもんよ」


幼い日、有栖ちゃんと何度も見た数々のドラえもん映画。

その中でも特に大魔境は私のお気に入りと言うことで有栖ちゃんも一緒に飽きるほど見ている。

あの映画の中では、先取り約束機に約束した未来ののび太くんたちが自分を助けにやって来る。

私たち二人を助けに来てくれる私たちはいないけれど、今この状況を打破しなければ未来は絶対に開けない。

だから諦めず、この先に希望が待っていることを願って、歩き続けるしか無いのだ。

私は弱虫だけど、私の心の中のちっぽけな勇気と有栖ちゃんの勇気を合わせれば、勇気が少し大きくなるんだ。


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