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うぃしゃぽなすた!  作者: 上野ハオコ 
第二部 夢世界旅行記 後編
30/47

2 二人きりの世界

青々と茂る街路樹の道を、有栖ちゃんと一緒に二人並んで歩く。

いつもよりほんの少し近い距離感で、学校からの帰り道をゆったりと歩を進める。

肩がぶつかるくらい近くに、有栖ちゃんを感じる。

彼女は私よりも背が高いから、肩の位置だってちょっぴり高い。

そのちょっぴりの違いが、私にとっては心地良い。

有栖ちゃんはいつだって、私より高い視線から私のことを見ていてくれる。

それはなんだか、彼女に見守られているような安心感がある。

そりゃあ私の方が年上なんだし、有栖ちゃんを守ってあげなきゃいけないのは私の方なんだけど、そういうことじゃなくて何というか、私の横に彼女がいるだけで、包み込まれているような気がするのだ。

そういう感覚を覚えるのは有栖ちゃんと一緒にいる時だけだ。

お姉ちゃんといる時も確かに独特な安心感はあるけれど、あれは実家にいる時のような安心感っていう類いのもののような気がするし、コメットちゃんや小夜ちゃんといる時は逆に此方がしっかりしないとというような気持ちになる。

私にとって有栖ちゃんの隣というのは、唯一無二の場所なのだと思う。

だから私は、有栖ちゃんと二人で歩くのが好きなのだ。


「そういえば、今から行く洋菓子屋さんって何処にあるんだっけ?道、合ってる?」


愛の逃避行だのと言って学校を飛び出して来てしまったけど、私は目的の洋菓子屋さんの場所を知らなかった。

おそらく繁華街の方だろうということで見慣れた道に来てみたものの果たして此方で合っているのだろうか。

小説などの物語の中では愛の逃避行をする二人の前にはそれを阻む障害が次から次へと現れてくるものだけど、全くその出だしの部分から躓いてしまった感じである。

まるで駆け落ちに使う電車が人身事故で止まってしまったような。

前途多難にもほどがあるなぁ。


「大丈夫、道は合ってるわよ。というか詩葉、場所も分からないのに駆けだしてきた訳?」


「えへへ~、愛があればなんとかなると思って」


「えへへ~、じゃないわよ、もう。そんな四畳半アパートで暮らす貧困夫婦でもあるまいし」


「私は有栖ちゃんと一緒だったら何処でも暮らしていける気がするけどね。それともこのまま電車に揺られて知らない街にでも行っちゃう?」


「全くもう、そんなことしてどうするつもりよ。詩葉は今の暮らしに満足してないの?」


「ううん、満足してない訳じゃないよ。ただちょっと、有栖ちゃんと二人きりの人生ってどんなものなのか想像してみただけ」


「ふうん。詩葉はそれを、どんな風に思うの?」


有栖ちゃんは少し真剣な声色で呟く。

私は有栖ちゃんと二人きりの人生を、どんな風に思うのだろう。


毎日、お姉ちゃんが起こしてくれることから私の一日が始まる。

制服に着替えてリビングに行けば、朝ご飯を食べているコメットちゃんがいて私に優しく笑いかけてくれる。

身支度をして玄関の扉を開けば、玄関には有栖ちゃんが待っていてくれて。

学校へ向かう途中で小夜ちゃんに出会って一緒にクラスへ向かう。

なんてことない日々を過ごしてみんなで一緒に帰る。

特に面白いことは起きないけれど、大好きな人たちの笑顔に溢れていて、いつでも笑い声が絶えない。

それが私の日常。

いつもの変わり映えのしない、平穏無事な私の幸せの形。


もしも仮に、私にとっての大切な人たち、お姉ちゃんやコメットちゃんや小夜ちゃんがそこからいなくなったら。

その日常はどんな色彩をしているのだろうか。

きっと私の毎日は、灰色に淀んで味気ない日々になる。

半身を失ったような空虚さがずっとつきまとい、何をしていても空っぽの心が満たされることはないのだろう。

少し想像しただけでも身震いする。

それくらい私にとって、周囲にいてくれる人たちの存在は大きいものなのだと思う。


でもそこに、有栖ちゃんがずっと一緒にいてくれるのならどうだろう。

起きてから眠りにつくまで、ずっと彼女が横にいて笑ってくれる毎日だったら、私はその日常をどう感じるのだろう。

総ての景色を有栖ちゃんと一緒に見て、総ての感情を有栖ちゃんと共有する。

私が知らない有栖ちゃんは存在しないし、有栖ちゃんが知らない私も存在しない。

お互いがお互いの総てを共有し合い、分かり合い、分かち合い、死が二人を分かつまで、永遠に添い遂げる。

どんな場所にいても、傍にずっと有栖ちゃんがいる。

有栖ちゃんがいつも、私に微笑みかけてくれる。

私を包み込んでくれるその安心する表情で、ずっと私を見ていてくれる。

…ああ、私はその光景に、憧憬を抱いてしまう。

そこに確かな温もりを感じてしまう。

有栖ちゃんと二人の人生には、私の欲しい穏やかな安らぎが溢れているだろう。

有栖ちゃんただ一人が私の隣にいてくれれば、きっと、私はこれ以上ないくらい、幸せに満たされてしまうのだ。


ひょっとしたら私は、私が大好きだと、大切だと思う、私を見て愛してくれる人たちのことを無情にも切り捨てて、有栖ちゃんのことただ一人を選べるのかもしれない。

私に笑いかけてくれる人たちのことをみんな裏切って、有栖ちゃんと二人だけの世界に逃げ込めるのかもしれない。

有栖ちゃんさえいれば、他の人たちがいなくたって平気で生きていけるのかもしれない。

それに気付いてしまったことが、そんな酷薄な自分自身が心の裡に存在していたことが、とても恐ろしく感じる。

その現実が、酷く私の心を乱す。

私は、お姉ちゃんのことを、コメットちゃんのことを、小夜ちゃんのことを、大好きなのに、本当に大切な筈なのに、それなのに、彼女たちのいない世界でも、きっと、生きていけるのだ。

ただ、隣に有栖ちゃんが居てさえくれれば。


「えへへ。よく、わからないや」


私は嘘を吐く。

有栖ちゃんに嘘を吐く。

何よりも自分自身に嘘を吐く。

たった今私が見た幸せも、私が感じた恐怖も、戸惑いも、心の乱れも、全部全部なかったことにしてしまえ。

受け入れられない感情には蓋をしろ、見なかった振りをしろ、知らなかった振りをしろ。

私は今この日常に満足している。

大切な人たちと一緒にいられるだけで幸せなのだ。

それ以上はいらない、いらない、いらない。

私は求めてはいけない。

必要以上を求めてはいけないのだ。

何もかもいずれ失われるものなのだから。

どんなに大切な人だって、どんなに大好きな人だって、人は人である以上、死からは逃れられない。

離別からは逃れられない。

人は簡単に死ぬ。

どんなに願っても、祈っても、いとも簡単に死んでしまうのだ。

あの仄暗い病院で味わった喪失感を、自分の半身を失う悲しみを、私はもう二度と、味わいたくない。


「よくわからない、か」


「うん、イマイチ上手に想像出来なかったよ。あ、でも、有栖ちゃんのことは大好きだから安心してね」


「全くもう、詩葉はしょうがないわね」


私の嘘を、有栖ちゃんは許容してくれる。

彼女は気付いていないだろうか。

それとも、気付いているのだろうか。

どちらにしろ、彼女が呆れたように微笑んでくれているのだから、きっと今度も大丈夫なのだろう。

私は自分の気持ちから逃げ続けている。

とっくに知っている筈の感情から目を逸らして、わからない振りをずっと続けている。

自分自身に嘘を吐き続けている。

本当の気持ちに嘘を塗りたくって、何度も何度もひび割れた場所に嘘を重ねていって、やがて出来上がったのは酷くグロテスクな歪んだ愛情。

この胸の中にこんなにも歪んだ愛情を育んでいることを、貴女は知っているのかな。

今にもどくんどくんと脈打って、私を苛む負の感情の濁流を。

こんなもの、私はいらないのに。

いずれ失ってしまうのに。

どうして?


「ねぇ、詩葉」


震えた声で、彼女は呟く。


「もしも、よ。もしも。もしも私が詩葉と二人きりの人生を、夢見ているんだって言ったら、どう思う、かな?」


私はその言葉を聞いて何故だか、泣きたいような気持ちが胸の裡に湧いてくることを感じる。

どうしてこんなにも、泣きたくなるのだろう。

訳の分からない不安定な感情が、胸を占めてもやもやとする。

この感情がどこから湧き出て何処に向かっていくものなのか、私にはわからない。

この胸の、感情の震えは、一体何だと言うのだ。


「有栖ちゃん、私と結婚したいの?いいよ、今すぐ婚姻届に判子押すから!」


口から零れてくるのは、あまりにも軽薄な言葉。

それが彼女を傷つけることも分かっているのに、自分自身を傷つけることも分かっているのに、気持ち悪くて仕方ないのに、私が言えるのはこんな言葉だけ。

私は有栖ちゃんからも、自分自身からも逃げている。

逃げ続けている。


「そういうことじゃなくて!」


悲痛な叫びが耳朶を振るわせる。


私の目の前の女の子は、ただ、瞳にうっすらと涙を浮かべている。


私は何も言えないまま、彼女を見つめていた。

何よりも、彼女に伝えられる気持ちを一つだって持ち合わせていなかった。

私が切望していた、彼女の本当の気持ちに触れる絶好の機会だというのに、私は臆して、何も口にすることが出来なかった。

ただ唖然と、今にも泣き出しそうな彼女の顔を見つめることしか出来なかった。

綺麗な切れ長の瞳。

その眦に徐々に溜まっていく感情の発露を、今にも零れ落ちそうな高ぶりを、透明な雫を、掬ってあげられたのならどれだけいいだろう。

でも私には彼女に手を伸ばすだけの勇気がない。

触れれば壊れそうなそれを、外側から眺めて心を痛めることしかできない。

それは欺瞞だ。

それは私の、罪だ。


「ごめん、大きな声出して。私、近頃ちょっとおかしいのよ。ほんと、ごめん。これから美味しいお菓子食べに行くのにね。私の言ったこと、気にしなくていいから。ごめんね」


何度も何度も、有栖ちゃんの繰り返すごめんという言葉が、脳内をぐるぐると駆け回る。

本当に謝らなきゃいけないのは私の方なのに、彼女ばかりに謝らせて、私はどうして平然としていられるのだろう。

こんなにも近くにいる彼女が、何処までも遠い存在のように思えてくる。

ほんの少し手を伸ばせば届くはずなのに、まるで空に輝く星のように、その手を伸ばす前から触れることを諦めてしまうような、致命的な隔たりをそこに感じる。

或いはそれは、私の心がいつだって夜闇の中にあるからかもしれない。

いつか吸血鬼の小夜ちゃんに言われたアレは、正しかったのだろう。

「だって貴女、誰のことも信じていないし、誰のことも愛していないでしょ?」

だから私はあの時小夜ちゃんの頬を打ったのだ。

今さらそれに気付いたところできっともう遅い。


「大丈夫、全然気にしてないよ。そんなに謝らなくていいからさ~。ほら有栖ちゃん、笑って~」


気持ち悪い。

自分自身の軽薄さが、愚かさが、醜さが、気持ち悪くて気持ち悪くて仕方がない。

心の外と中があまりに乖離して、目眩すらするほどに気持ち悪い。

胸が悪くなって、吐き気すら催すくらいに気持ち悪い。

自分の歪んだ心が、彼女への不誠実さが、逃げ出す臆病さが、気持ち悪い。

気持ち悪い。

とても、気持ち悪い。

憎悪するほどに、気持ち悪い。

私は、気持ち悪い。

こんな自分が、気持ち悪い。

嫌いだ、気持ち悪い。

大嫌いだ、気持ち悪い。

こんな私は、気持ち悪い。

今すぐに、気持ち悪い。

いなくなって、気持ち悪い。

しまえば、気持ち悪い。

いいのに、気持ち悪い。


おえぇ。



満ちた潮が引いていくように、次第に胸の気持ち悪さが引いて、落ち着いた冷静な思考が帰ってくる。

私はどうにも近頃、感傷的になっているようだ。

すぐに自分自身に対して否定的な考えばかりが浮かんでくるし、昔のことを思い出して哀しい気持ちにもなる。

こんなのは峯崎詩葉の持つべき感情ではない。

峯崎詩葉は楽天的で脳天気なちょっぴりおバカな女の子なのだ。

そうじゃなければみんな、私のことを愛してくれない。

だから私は、そうあらねばならない。

きちんと、みんなが大好きな峯崎詩葉でいなければならないのだ。

私が大好きな人たちと平穏無事な日常を過ごすためには、まず私がきちんと私でいなければならない。

大丈夫、私は私だ。

何も恐れることはない。

私は上手に詩葉でいられる。


有栖ちゃんと二人、ゆったりとした歩調で進み続け、辺りの景色は人で賑わう繁華街へと変わった。

夕刻の買い物に出掛ける主婦たちや、同じく学校帰りと思しき制服に身を包んだ少年少女の姿が目に入る。

元気そうなおじいちゃんおばあちゃんが多いのも、この繁華街の特徴だろう。

といっても、今や日本全国津々浦々、何処に行ってもこういった場所はご高齢の方々で溢れかえっているかもしれない。

人生百年時代だ、元気なご老人が多いのは好ましいことだろう。

健康で長生き出来る人たちには羨望と言ってもいい感情を抱く。

私もお婆ちゃんになるまで元気でいたいなぁ。


人々の姿を見るだけで、自分の中のもやもやが晴れていくのを感じる。

人間誰しも、所属欲というものがあるのだという。

国や、地域であったり、会社や学校などであったり、もともと群れで生きることに適した動物である人間は、なんらかのコミュニティに所属することで無意識に安心するのだ。

というのならばおそらく私も、見慣れたこの街の人々の存在を目にすることで、自分がこの街に所属していることへの安心感を抱いているのだろう。

人間はどうしても、人間の中でしか生きられないのだなぁと感じる。

それを儚む気持ちはないけれど、人間に生まれたことによる宿命みたいなものがそこにあるのだなぁという気がする。

私は何処まで行っても、誰かと一緒にいなければ生きられないのだ。


自意識を改めたことで、ようやく有栖ちゃんと自然に会話が出来るようになってくる。

心の外と中の乖離がおさまり、素直な感情で世界を見渡せるようになる。

有栖ちゃんもさっきまでの雰囲気を打ち消そうと楽しい話題を振ってきてくれるのもあって、私の気分はつい先ほどまでよりもずっと明るいものとなり、本来の自分を徐々に取り戻せてきた気がする。


「こないだね、Tシャツを着た女の子のTシャツを着た女の子に会ったのよ」


「Tシャツを着た女の子?」


「違うわ、Tシャツを着た女の子のTシャツを着た女の子よ」


「ん?一体どういうこと?」


Tシャツを着た女の子のTシャツを着た女の子。

早口言葉か何かなのだろうか。

Tシャツを着た、女の子のTシャツを着た女の子。

Tシャツを着た女の子の、Tシャツを着た女の子

Tシャツを着た女の子のTシャツ、を着た女の子

何処に句点を打っても、イマイチ意味が分からない。

女の子がTシャツを着ているのはなんとなくわかるけど、有栖ちゃんは一体どんな女の子を見たというのだろう。


「Tシャツを着た女の子のTシャツを着た女の子、だなんて口で言っても、ちょっと複雑で意味は上手く通じないわよね」


私の混乱を見透かしたように、有栖ちゃんは楽しげに言う。


「私が見たのはね、Tシャツを着た女の子。その女の子の着ていたTシャツには、Tシャツを着た女の子がプリントされていたのよ。だから、Tシャツを着た女の子のTシャツを着た女の子を見たっていう訳」


「説明して貰ってもよく状況が整理出来ないや。そもそもTシャツを着た女の子っていう単語がたくさん出てくるから何処までが一つのフレーズで何処で区切ればいいのかこんがらがっちゃう」


女の子がTシャツを着ている?

Tシャツが女の子を着ている?

Tシャツが、女の子が、ゲシュタルト崩壊を起こす。

ぐるぐるぐるぐると、私の頭の中で様々な色をしたTシャツとたくさんの女の子が手を取り合ってキャンプファイアーを中心にボヘミアンラプソディー、じゃなかった、オクラホマミキサーを踊っている。

女の子を着たTシャツの女の子の着たTシャツ。

Tシャツ女の子Tシャツ女の子Tシャツ。

TシャツTレックスTバックTパックTポイントカード。

T女の子T女の子T女の子T女の子T女の子T女の子T女の子T女の子T女の子T女の子T。

ご機嫌な音楽に合わせてステップを踏むのは楽しいなぁ、うふふ、うふふ、うふふのふ。


「あはは、詩葉をからかうのは面白いわね」


けらけらと有栖ちゃんは笑っているけど、私の頭の中ではTシャツを着た女の子が広大なドームでチャリティーコンサートに出演している。

彼女は女の子だけどゲイで、エイズに罹って余命幾ばくもないのだとかなんとかかんとか。


「私が言いたかったのはね、言葉で何かを人に伝えるのって凄く難しいわよねってこと。実際、Tシャツを着た女の子のTシャツを着た女の子って言っても、詩葉に上手く伝わらなかった訳だしね。どんな事でも、きちんと論理立てて丁寧に説明していかなければ、相手に物事を理解して貰うのって困難なことなんだわ」


有栖ちゃんの言いたいことは何となくわかる。

煩雑な事象こそ、一度簡単な要素に分割して、それらを論理的かつ丁寧に紐解いていかなければ、何事も理解しがたいものだと思う。

Tシャツを着た女の子のTシャツを着た女の子というのも、それぞれの要素に分割して、Tシャツ、女の子、ボヘミアンラプソディ、フレディーマーキュリー……。


「ママ~、ウゥウウウ~♪」


「何突然歌ってんのよこの詩葉は…恥ずかしいことこの上無いわ」


流石に今日日、繁華街で突然歌い出す女子高校生というのもそんなにいないもので、悪目立ちすることこの上無いのだけれど、私の中のロックスターの部分が歌うことを求めて疼いているのだ。

街往く人々はおかしな人を見るような視線を私に向けているけど不肖峯崎詩葉そんな圧力に屈したりはしないのだ。


「私の詩葉っていう名前は、いつどこでもミュージカルのように日常の中で歌うことを忘れないような人に育って欲しいという理由でつけられたものなんだよ。だから恥ずかしいことなんてないさ!さあ、有栖ちゃんも歌おう!」


「息をするように嘘を吐くんじゃないわよ」


そりゃまあ付き合い長いのだし、当然有栖ちゃんは私の名前の由来とかも知ってる訳ですぐに嘘だってことが分かってしまうのだけれど、もうちょっとノってくれてもいいのになぁと思わないこともない。


「有栖ちゃんと一緒なら世界、目指せると思うんだよね!」


「本気で言ってる訳?詩葉、私の歌聞いたことあるでしょ?」


「うん(笑)」


有栖ちゃんの歌は個性的だ。

音程がちょっと外れている感じがするし、常人と違う独自のリズムを刻んでいるところもある。

まあ、簡単に言うと音痴なのだ。

それも結構致命的に、かなりヤバい。

どれくらいヤバいかというと、普段ヤバいという言葉を殆ど使わない私がヤバいって思うくらいヤバい。

音痴なのに声量だけは人一倍あるから、有栖ちゃんの歌を聴いた人は耳がキンキンして目眩さえすること請け合いだ。

まるでジャイアンのリサイタルを聴かされているような、そんな気分になる。


「その顔、詩葉ってば馬鹿にしてるでしょ!」


「してないのです(笑)」


「やっぱり馬鹿にしてるでしょ!あとその、なのですっていう語尾、気持ち悪いからやめなさいよ!」


「そ、そんな、気持ち悪いなんて…コメットちゃんの真似してみたのにぃ。有栖ちゃんはコメットちゃんの語尾を気持ち悪いっていうのですか!?」


「コメットちゃんは幼くて可愛いから、なのですって言ってても違和感ないけど、詩葉がなのですとか言うと怖気がするわ」


「怖気?酷い、あんまりだよ有栖ちゃん、よよよ…」


「私の歌を馬鹿にするからでしょーが。いいわよ、たくさん練習していつか上手くなってやるんだから。責任もって詩葉も練習に付き合いなさいよね?詩葉、結構歌は上手いんだから。名は体を表すってやつかしらね」


「歌を褒めてくれるのは嬉しいし、練習に付き合うのもやぶさかではないんだけど、その、手加減してね?」


有栖ちゃんは頑張り屋さんなので一度歌の練習を始めれば結構な時間を費やすことになるだろう。

その間ずっと彼女の歌を聴き続けなきゃいけないと考えるだけで少し目眩がしてくる。


「人の歌を何だと思ってるのよ、もう!」


頬を紅潮させながらぷんすこと怒る有栖ちゃんがとっても可愛い。

眉を吊り上げてじっとこちらを睨んでいるけど、そこに本当の怒りが込められている訳ではなく、それは幼馴染み故の親愛が籠もった視線のように思える。

有栖ちゃんのこの冗談っぽく怒った表情が私は大好きだ。

きりりとした眉毛も、綺麗な切れ長の瞳も、紅潮した頬も、きつく縛った口元も、揺れるツインテールも、全部が愛おしい。

よく見たらハッとするくらいに整った顔つきが、ぷりぷりと可愛く歪むのが可愛くて仕方がない。

だから私はその顔が見たくてついつい彼女が怒るようなことを言ってしまうのだ。

それを分かっていてかどうかは分からないけど、有栖ちゃんは私が欲しい時にすぐその顔をしてくれる。

これも一つの、コミュニケーションの形なのだろう。

私たちだけの、大切なやり取りの一つ。

大好きな日常の一場面。

有栖ちゃんはいつだって、私に大切なものをくれる。


「何じっと見てるのよ?」


「ううん、有栖ちゃんって本当に可愛いなって思って」


「べ、別に、可愛いとか言われても嬉しくないし」


私が有栖ちゃんに可愛いとか、大好きだとか言う度に、彼女はあわあわと視線を逸らして頬をより赤く染める。

つんつんとしてみせても、嬉しいのが丸わかりなところが不器用に可愛くて抱きしめたくなる。

私は彼女のこの仕草が、ぷんすこ怒っている時の彼女よりも更にすっと、ずーっと好きだ。

そりゃあもう、好きすぎて彼女を目に入れても痛くないどころか、彼女の事を産みたいとさえ思うくらいに好きだ。

産みたい、とはどういうことか。

それはつまり、有栖ちゃんのことを自分の中に感じて、彼女がお腹の中ですくすくと育っていく様を味わいたいということなのだ。

私は有栖ちゃんを孕みたいのだ。

自分のお腹を痛めて、有栖ちゃんをこの世に産み落としたいのだ。

私は有栖ちゃんのお母さんになりたい。

当然有栖ちゃんはすでに生まれているのだし、有栖ちゃんママは優しくて私も大好きなんだけど、もう一度有栖ちゃんを身籠もって出産したいと思うくらいには、私は有栖ちゃんのことが好きなのだ。

そして出来ることなら私のおっぱいで有栖ちゃんを育てたい。

私の小さなおっぱいでも満足してくれるかは分からないけれど、自分のおっぱいで我が子を育てたいという気持ちはきっと女の子なら誰だって抱く感情だと思う。

もし有栖ちゃんが私のおっぱいを吸って、腕の中で満足げに安らかな笑顔を浮かべてくれるというのなら、私はきっとそれだけで生まれてきて良かったと心から感じられると思うのだ。

女性は、出産をすることで一人の女から母に生まれ変わるという。

自分の為の人生が、我が子の為の人生になる。

我が子の幸せのためなら何もかも投げ捨ててもいいとさえ思える、そんな強さを得るという。

きっと有栖ちゃんを産むことで、私も一人の母になるのだと思う。

有栖ちゃんのことを思い、有栖ちゃんの為だけに生きる、母になるのだ。

だから有栖ちゃん、私のお腹の中へおいで…


私は自然と有栖ちゃんの方へ、手を大きく広げながら近付いていく。


「有栖ちゃん、おいで。私がお母さんになってあげるからね」


「ちょっと、何を言ってるの?詩葉、目が据わってて怖いんだけど!ちょっと、抱きつかないで!やめて!」


「大丈夫有栖ちゃん、怖くないよ。上手に産んであげるからね?」


「訳分からないから!だめ!近付くなこの変態詩葉!」


「あべしっ!」


ああ、この痛みこそがお腹の中に命を宿すという痛みなのか。

苦しいけど、有栖ちゃんを産めるのだから、私は耐えてみs…いや、違うや、有栖ちゃんの肘が全力で鳩尾に刺さってるだけだわ。


ぐはっ。


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