12 大好きな幼馴染み
「さあ、お姉ちゃんが腕によりを掛けたお弁当よ!みんな、たんと食べてね!」
ちょうどお昼頃ということもあり、私たちは動物園内の広場スペースで昼食を摂ることにした。
来場客の殆どは、売店でお昼ご飯を買うために長蛇の列を作っているが、私たちにはなんといっても対料理最終兵器のお姉ちゃん様がいる。
今朝も早起きしてせっせとお弁当を作ってくれていたのだ。
全く感謝感謝である。
お姉ちゃんが広げた幾つかのお弁当箱の中には、食べやすいおにぎりやサンドイッチなどの軽食から、唐揚げや卵焼きなどの定番メニューに加え、ジェノバだったりボロネーゼなどのパスタ類に、デザートの洋菓子まで、多種多様な料理が揃っている。
「はい、コメットちゃんにはこれね」
別途コメットちゃん用のお弁当まで用意しているという周到ぶり。
動物園に来るというのに登山用ともいえるほど大きなバックを背負っていたのはこのためだったのだ!
我が家の一級シェフであるお姉ちゃんが作った料理の数々はこれまたやはり絶品の数々であり、よくお弁当でこれだけのクオリティが出せるなと感心するものだった。
いつも学校に行く時のお弁当もとっても美味しいけど、それとはまた一線を画する、遙かなる高みに昇ったお弁当と言っていいだろう。
「やっぱりみか姉のお弁当は美味しいわね。というかどうしてお弁当なのにこんなに温かいの?」
有栖ちゃんの疑問の通り、確かにここに並んだ料理の数々は、お弁当だというのに温かい。
というか、まるで作りたてというくらいに味の劣化がない。
本来、朝に作った料理たちが、この時間までずっと温かいなんてことは普通ないだろう。
なにか仕掛けがあるというのだろうか。
「ふふふ、有栖ちゃん、よく気付いてくれたわね!そう、実はこのお弁当箱は、入れた料理の時間を停止するという機能があるのよ!」
なんだって~!
ま、まさか、お弁当箱がタンマウォッチの役割をしていたなんて~!
まさにドラえもんの秘密道具みたいなそれが、どうしてこの世界に存在しているというのだ~!
「コメットちゃんに言って作って貰っちゃった。こういうのはちょっとズルかなって思うけど、お料理を美味しく食べられるならいいわよね」
お姉ちゃんの言葉に、コメットちゃんはピースして得意げにしている。
流石コメットちゃんだぜ、食べ物のことに関しては改変も厭わないなんて、そこにしびあこ!
「ふい~、やっぱり美歌子の料理は最高なのです」
自分専用のお弁当を作って貰ったにも関わらず、コメットちゃんは私たちの分の料理にも手をつけ始める。
「ちょっと~コメットちゃん、私たちの食べる分がなくなっちゃうよ~」
「早い者勝ちなのです。勝者は常に迅速に事を済ませるのです」
よくわからないことを言いながらコメットちゃんはバクバクと料理を食べ続ける。
「まだあんまり食べてないのに~、これじゃあ後でお腹空いちゃうよ~」
本格的に目の前の料理が目に見える早さで消えていく。
たくさん食べるコメットちゃんは可愛いけど、流石に一日中歩き回るのだしきちんとご飯は食べておきたい。
このままじゃ寝不足に腹ペコで夕方頃にぱたんきゅーしてしまうかもしれないよ。
「そ、そのね!」
有栖ちゃんがもじもじと赤面しながら鞄の中から包みを取り出す。
「こ、これ。お母さんに持ってけって言われたから仕方なく持ってきたんだけど、よかったら食べてくれない?」
その手に握られていたのは可愛いうさぎ柄のプリントされたお弁当箱。
「そ、その、みか姉に比べたら上手く出来てる自信ないんだけど。あ、無理して食べることはないから!」
「お母さんに持ってけって言われたんじゃないの?」
確かに有栖ちゃんはそのお弁当をお母さんに持ってけと言われたから仕方なく…と言った。
それならば自信がないとかどうとかいう必要は無いだろう。
本来とても賢い有栖ちゃんだけど、こういうところは詰めが甘いっていうか、すっごく素直で可愛いんだよなぁ。
「あらあら、有栖ちゃんが作って来てくれたのね」
お姉ちゃんの一言に、有栖ちゃんの真っ赤な頬がさらに赤さを増す。
どうやら図星のようだ。
「そ、そうよ!私が作って来たのよ!わ、悪い?こんなの私っぽくないってわかってるわよ!」
「そんなことないよ。有栖ちゃんがお弁当作って来てくれたの、私とっても嬉しいよ。有栖ちゃん、時々お料理の練習してるもんね。ちゃんと気付いてるからね」
「あ、あわあわわ、べ、別に詩葉の為に作って来たんじゃないし!いいから、食べちゃいなさいよ~もう~~~!」
ツンデレゲージがピークに達したのか、あわあわ言いながら大声を上げる有栖ちゃん。
ツインテールを振り乱してお弁当箱を突き出してくるのがいじらしくてきゅんきゅんする。
私の幼馴染みが可愛すぎる件について。
きゅん死する♡
差し出されたお弁当箱を開けてみると、そこには可愛らしい料理の数々が詰められている。
クリームソースのペンネや、ジャーマンポテト、ブロッコリーがごろごろとした色合いの綺麗な和え物に、一口大のスペアリブなど、王道から少し外れてはいるけれど、個性的で手間暇が掛けられていることが窺えた。
「みか姉がたくさんお弁当持ってくると思ったから、色々考えて被らないようにしたのよ。味は全然敵わないと思うけど」
有栖ちゃんは赤面した表情でいじらしくもじもじとこちらを見ている。
お姉ちゃんの料理に比べると、自分が作った料理の出来に自信がないのか、ちょっぴり不安そうにしているけど、これだけ見た目が上手に出来ているのだ、きっと味だって美味しいに決まっている。
それに私は、有栖ちゃんがたくさん考えてお弁当を作って来てくれただけでもう胸が一杯になるくらい嬉しいのだ。
その事実が何よりの調味料になる。
「有栖ちゃんの記念すべき初めてのお弁当、心して食べるね。いただきます」
そっとお弁当箱の中から、ペンネを摘まみ口に運ぶ。
ホワイトソースの芳醇な香りが口に広がり、鼻孔を爽やかに擽る。
一口二口と咀嚼すれば、作ってから少し時間が経っているからパスタそのものにきちんと味が染みていて噛む度に旨みが沁みだしてくる。
コンソメを使っているのだろうか、ちょっぴり効いたにんにくとオリーブオイルの風味と相まって絶妙なハーモニーが生まれる。
料理は科学だと聞いたことがある。
もともと賢い有栖ちゃんにとって、このあたりの風味の調整をすることはきっと、数式を解くことと同じような論理的思考を応用出来るものなのだろう。
私はこのペンネに、数学的深淵を見た気がする。
複雑ながらも、まるで和音のように美しく響き合う音階…そんな美旋律の味覚が私の口腔を刺激する。
一言で言うのなら、とっても美味しいのだ。
どの料理につけても、ほっぺたが落ちるほどに美味しい。
近頃、時々有栖ちゃんがお裾分けにと料理を持ってきてくれることがある。
お母さんが作ったんだけど、と有栖ちゃんは言っていたが、実際のところそれらは彼女が作った料理だということを、私は有栖ちゃんママから聞かされていた。
最初は確かに、まだ慣れていない様子が見受けられていたけれど、何度も回を重ねるうちにその味も見た目もどんどんクオリティが上がっていくのが目に見えてわかった。
最初からなにかを完璧にこなせる訳がない。
勿論有栖ちゃんだって、最初から料理が上手く作れる訳がなかったのだ。
だがしかし、彼女の凄いところは失敗を恐れずに努力を続けることだ。
上手くいかなくてもそれは次へ繋がる教訓であり、次の一歩に進むためのチャンスなのだと彼女は言う。
何度失敗したって、上手くいかなくたって、心が折れそうになったって、諦めずにたゆまぬ努力を続ける。
それは料理だけに限らない。
勉強だってそうだ。
有栖ちゃんはいつも努力を続けることで苦手を克服し、さらには自分の長所にさえしてきた。
彼女は努力の人なのだ。
有栖ちゃんの作ってくれたお弁当には、努力の跡がある。
あーでもないこーでもないと考えながら、必死により良いものを作ろうと藻掻き続ける精神がある。
だから有栖ちゃんの料理は、とっても美味しいのだ。
彼女がどんな風にこれを作ったのか、それが伝わってくるから心に染みる味がする。
「有栖ちゃん、とっても美味しいわよ。よく頑張ったわね」
お姉ちゃんが優しく、有栖ちゃんの肩に手を置く。
「あ、ありがと。みか姉にそう言われると嬉しいわ」
にこっとはにかみ、心から嬉しそうに有栖ちゃんは言う。
有栖ちゃんも、幼い頃からお姉ちゃんの料理を食べてきた。
その味を身をもって知ってるからこそ、そんな料理が作れるお姉ちゃんに褒めて貰えたことが嬉しいのだろう。
そもそも有栖ちゃんだって、私のお姉ちゃんのことを本当のお姉ちゃんくらい親密に思ってくれている。
そんなお姉ちゃんに褒められたら嬉しいのは当たり前のことかもしれないね。
私のことはお姉ちゃんだと思ってくれてない節はあるけど、妹くらいの感じで大切には思ってくれてると思う。(希望的観測)
「ほんとうに、ほんと~に美味しいよ有栖ちゃん!私なんだか感動しちゃうよ」
「なんで詩葉が感動するのよ!」
「ずっと一緒にいる有栖ちゃんの成長をこうして見られるだけで胸が一杯になるんだよ~はぁ、有栖ちゃんってばなんて可愛い子」
「詩葉は私のお婆ちゃんかなんかなわけ!?」
「そうじゃよ。これからはうた婆と呼んでおくれ。ほらほら、お婆ちゃんに抱きついていいんだよ!有栖ちゃんだいしゅき~!」
「もうっ!離れなさいよこの変態!詩葉もみか姉のこと言えないじゃないの~!」
マイエンジェル有栖ちゃんフォーエバー。
ラブフォーエバー。
最近の私は有栖ちゃんやコメットちゃんなど、可愛い女の子を目の前にするとおまたがきゅんきゅんしてついつい抱きつきたくなってしまうの。
ほんとに私も、お姉ちゃんのこと言えないや。
てへへ。
その後コメットちゃんや小夜ちゃんも、有栖ちゃんのお弁当を美味しそうに食べていた。
作って来てくれた量がそんなに多くなかったのと、有栖ちゃんの初めてのお弁当をたくさん食べたかったのもあって、私とコメットちゃんの鎬を削る早食いバトルがあったんだけど、結果は言うまでもなくコメットちゃんの圧勝でしたとさ。
ちゃんちゃん。
○
お昼ご飯を食べ終えた私たちは、麗らかな食後のティータイムを過ごしていた…という訳にはいかず、ちょっとお休みした後にまたすぐ動物たちを見て回っていた。
動物園というものは、思っているよりも広い。
たかが動物園と侮るなかれ、動物たちのちょっとした仕草に目を奪われていれば、あっという間に時間が過ぎる。
お目当ての動物ならばなお、時間経過というものは早くなっていくものだ。
私の場合はホッキョクグマ、お姉ちゃんの場合はライオンやゴリラ、有栖ちゃんはトラ、コメットちゃんはキバタン、小夜ちゃんはコウモリ(小獣館で見たよ)だったように、それぞれの推しというものは確実にこちらの心を魅了し、私たちから時間という大切なリソースをごっそりと奪っていくのだ。
勿論それらが、時間を消費してでも得る価値のあるだけの素晴らしい経験であることには間違いない。
可愛い動物、格好良い動物、奇妙な動物、それぞれ興味を惹かれる動物は千差万別。
しかしそれらの動物に共通して言えることは、見てるだけで幸せになれるということである。
時間を代価にして、幸せを貰える。
こんなに素晴らしいことがあるだろうか。
だからこそ、限られた時間というリソースは大切に使っていかねばならない。
ゆっくりマイペースに好きな動物を愛でることも一つの正義。
だがしかし、私は色んな動物を見て回りたいのだ!
全ての動物をコンプリートして、動物王に私はなる!
とまあ、そんな感じでやっぱり動物園に来たんだったらいろんな動物を見たいよね~ということで、私たちは広大な園内を縦横無尽に駆け回っているのだ。
夢追いかけるドリーマーなのだ。
お昼を食べ終えてからは主に園の西側の動物を見て回っている。
シマウマやカバ、サイやキリンなど、動物園おなじみのメンバーたちだ。
どこかアフリカンな気持ちになって、サファリっぽい振る舞いをしてしまうよね。
「シマウマとか…キリンの模様って不思議…どうして…あんな模様に…なったんだろう」
「確かにちょっと考えてみると、あの模様は不思議だよね」
小夜ちゃんのふとした疑問。
確かにシマウマやキリンなどの模様はとても不思議だ。
自然界であんな模様になることにどんな利点があるというのだろう。
キリンの模様はまだわかる。
サバンナの広大な大地を背景にすれば、あのあみあみ状の模様は確かに少し目立たなくなるような気がしなくもない。
首が長くなった理由だとかも加味して、そういう生存戦略をとったのだと言われれば疑問は残るが概ね納得出来る。
しかしシマウマの方はどうだ?
あんな模様をしていることで迷彩効果は果たしてあるのだろうか。
まさかダズル迷彩とでも言うのか?
シマウマは海上で砲撃戦をする生き物だったっけ?
そんな訳は当然ある筈も無く、あれでは外敵から身を守るのには些か不利な気がしてならない。
それならばなぜ彼らはそんな進化の道を歩んだというのか。
神様がそんな風に作ったから…などという間の抜けた理由で思考を停止したくはないけれど、現状私にそれを推測するだけの知識はない。
「反応拡散波、というものがあってね」
まるで機会を窺っていたかのように、我らが物知り博士有栖ちゃんが得意そうに口を開いた!
これで勝つる!
「反応拡散波、チューリング波とも言うんだけど、模様を白くする因子、黒くする因子の相互作用がまるでお互いに強めたり弱めたりする波紋のように一定のパターンを描くらしいわ。つまりは干渉波ということね。そしてそのパターンには様々なものがあるのだけど、そのパターンの幾つかが、シマウマだったり、キリンだったり、はたまた魚の斑点模様と酷似しているという研究があるの。あくまで模様形成の一説でしかないみたいだけど、結局のところ、シマウマのあの模様が表出する理由も数式で表せるんじゃないかっていう訳」
「さ、流石有栖さん…もの知り…だね」
「ま、まあ、本で読んだ知識なんですけどね。面白いと思いません?」
「うん…面白いと…思うよ」
そう言って小夜ちゃんは不器用に微笑んでいたけど、多分有栖ちゃんの言っていたことがあまり理解出来ていなかったような表情をしている。
「私、何言ってるのかイマイチよくわからなかったよ」
「わからなかった?凄くシンプルで真理に迫ったような話だと思うんだけど。私の説明が悪かった?」
有栖ちゃんは素できょとんとした表情をしているけど、たぶん私のおつむレベルでは理解出来なかっただけです。
精進しましゅ…。
「私はとても興味深い話だと思ったのですよ」
「そうよね!やっぱりコメットちゃんはわかってくれるわ!まったく詩葉ってばダメダメじゃない」
自分の話に説得力があったと自信を取り戻した有栖ちゃんはコメットちゃんと楽しそうに議論を始めた。
ぐぬぬ、なんか悔しいぞ。
私もあんな風に知的な会話に花を咲かせたい。
「有栖ちゃん、お家帰ったらその本貸して!私頑張って読むから」
「何よ、珍しく殊勝な心がけじゃないの。いいわよ。私はいつも学ぼうという姿勢でいる人のことを応援するわ。その本は他にも螺旋の描く軌跡と細胞性粘菌の関連だとか、フィボナッチ数と花の関連について書いてあってとっても面白いのよ!何だったら私の考察を書いたノートも一緒に貸すわよ」
「う、うん!よろしくね!」
やっぱり有栖ちゃんの言ってることは半分くらい理解出来なかったけど、これも知的な女の子になるための第一歩だ。
せっかくなんだから精一杯楽しんで本を読むぞ~!
普段はライトノベルだったり探偵小説みたいなものくらいしか読んだりしないけど、頑張って読めばなんとかなるよね、きっと。
○
動物園の西側もあらかた見て回ることが出来た。
カンガルーやペンギン、フラミンゴやハシビロコウなどはそれぞれみんな個性的な魅力に溢れていた。
特にハシビロコウのあの瞳はちょっと、機嫌の悪い有栖ちゃんみたいだねと、みんなして笑った。
子供動物園のふれあいスペースでは、いい年した高校生がうさぎやモルモットを撫でてきゃーきゃーと騒いでしまった。
ちょっと迷惑かけたかなぁと思ったけど、飼育員のお姉さんはにこにこと見守ってくれたし、集まってきた子供たちがお話ししてくれるのを聞けたのも良い経験だった。
天真爛漫な子供っていいよね、はあはあ。
勿論、セクハラはしてないからね!
セクハラと言えば、小夜ちゃんはスカートの中をヤギに頭を突っ込まれて慌てていたっけ。
おぱんつを食べられそうになっていたけど、ちょっと気持ちよさそうにしてる小夜ちゃんはなんだかえっちで少し前に彼女が吸血鬼だった時に耳をねちっこく舐められたことを思い出しておまたがきゅんきゅんしたことをここにご報告させて頂きます。
「そろそろ、パンダを見に行こうかしら。せっかく来たのだから、パンダの赤ちゃん見たいわよね」
「私も見たいのです!ころころしたパンダの赤ちゃんをこの目に焼き付けるのです」
「わ、私も…見たい…かな。大きなパンダさんも…可愛いし」
後回しにしていたパンダを見に行こうというお姉ちゃんの提案に、コメットちゃんと小夜ちゃんは嬉々として賛同する。
パンダはこの動物園の代名詞と言っても過言ではない。
実際のところパンダというものはごろごろしてるだけで長い間お尻を向けたりしていてあんまり見ても楽しいものではない気もするが、今回は赤ちゃんがいるのだから状況が違う。
あの愛らしくお人形さんみたいなもふもふ赤ちゃんを見ないことには帰れないだろう。
そんな状況であるからして当然、夕方の迫った現時刻でもパンダ舎の前には入場待機列が長蛇の列を為しているのだけれど、客寄せパンダという言葉もあるのだし、素直に寄せられてやろうってものだ。
しかし。
「私疲れちゃったから、ベンチで座って待ってるよ。有栖ちゃん、付き合ってくれない?」
「な!?詩葉いいの?せっかく来たのに勿体ないじゃない」
有栖ちゃんはとても驚いた顔をしているが、内心少しほっとした顔もしている。
「わかったわ。そういうことなら、うたちゃんたちはここで待っててね」
「ちょっと、みか姉!」
有栖ちゃんの制止に笑顔で手を振りながら、お姉ちゃんたち三人は私たちを置いてパンダの待機列の方へと向かっていく。
その背中がとってもうきうきして楽しそうだったから私もやっぱり行きたいなぁという気持ちにさせられなくもないが、これも有栖ちゃんを思えば仕方のないことなのだ。
「は~い、有栖ちゃん。足、見せてね」
ごねる有栖ちゃんをぎゅうぎゅうと手で押して近くのベンチに座らせ、パンプスを脱がしてその綺麗な足を露わにする。
いつもはニーソックスを愛用している有栖ちゃんの素足だ。
一日ヒールを履いてちょっぴり芳しい匂いがするのがとってもいやらしくて自ずと興奮してくる。
…いけないいけない。
そういうことじゃないのだ。
自分を取り戻せ私、変態な私に負けるな私。
「やっぱり、靴擦れしてるじゃない」
有栖ちゃんの左足のかかと部分、露わになったそこは真っ赤に腫れてちょっぴり出血さえしている有様だった。
「こんなにして、随分我慢してたんでしょ?」
みんなでのお出かけだからと、おめかしして慣れないヒールつきの靴を履いてきた有栖ちゃん。
慣れないパンプスで、しかもそれを素足で履いているのだ。
そんな状況で一日中歩き回ったら靴擦れをおこしてしまうのは当然の事だろう。
私はそれを分かっていたからずっと有栖ちゃんの様子を伺っていたのだけど、ついさっきまで彼女は痛がる素振りさえ見せなかった。
きっと本当はずっと前から我慢していたのだろう。
有栖ちゃんの性格はよく分かっている筈なのに私は楽しさにかまけて気付いてあげられなかった。
鞄から常備している絆創膏を取り出し、有栖ちゃんの傷口を覆うように何枚か貼っていく。
綿の部分が触れる度に彼女はちょっぴり痛そうにしていたけど、患部をこれ以上痛めない為なのだから仕方ない。
もっと早く気付いてあげられたらという後悔の念が募っていく。
「有栖ちゃん…私、気付いてあげられなくてごめんね」
ずっと隣にいたのに、もっとよく見てあげられていれば早く気付けたのに、有栖ちゃんに辛い思いをさせなくて済んだのに。
自責の念が心の中にぐるぐると渦巻いていくのを感じる。
みんなに楽しんで貰いたいと、有栖ちゃんと小夜ちゃんに精一杯楽しんで貰いたいと思っていたのに、私はこうして有栖ちゃんに我慢することを強いてしまった。
いつだってそうだ、私は有栖ちゃんにたくさん辛い思いをさせてしまう。
私がもっと彼女の事を想っていれば、全て回避出来た筈なのに。
「別に、詩葉が謝ることじゃないわ。私がちょっぴり靴擦れしたくらいでみんなに迷惑掛ける訳にはいかないもの。そもそも、一日中歩くってわかってたのにこんな靴履いてきたのがいけないんだわ。こんなの、私らしくないわよね」
脱いだ靴を一撫でして、有栖ちゃんは切なげに瞳をゆらゆらと揺らしている。
そんな悲しそうな顔、して欲しくなかったのに。
どうして私はいつも、彼女にこんな顔をさせてしまうのだろう。
「もう、有栖ちゃんってば。迷惑な訳ないよ。困ったことがあったらすぐ私かお姉ちゃんに言えばいいんだよ?それにね、女の子がおしゃれしちゃいけない理由なんてないよ。今日を楽しみにしてくれてたからヒールで来たんでしょ?」
いつ如何なる時だって、少しでも可愛くありたいというのが女の子の気持ちだろう。
たとえ靴擦れするかもしれないことが分かっていたとしても、好きな靴を履くことに間違いなんてある筈がない。
私は、有栖ちゃんがおしゃれをしてきてくれたことが嬉しくて堪らなかった。
それは今日という日を、みんなで一緒に遊びに出掛けることを、彼女が楽しみに思ってくれていた証拠なのだと感じて胸がぽかぽかと温かくなったのだ。
だから私は、有栖ちゃんがヒールを履いてきたことは絶対に正しかったのだと思う。
誰がなんと言おうと、私は有栖ちゃんのその心意気全てを肯定する。
ただ一つ間違いがあるとするならば、彼女が靴擦れをしてしまった事実を気取られないように隠そうとしたことだ。
有栖ちゃんは人一倍、周りの人の表情を窺っている節がある。
周りの動向を神経質に気にすることも彼女の自尊心を守る為には必要なことなのだろう。
それは彼女の優しさに繋がる個性でもあり、美点でもあるが、必要以上に気を遣って自分自身に負担をかけてしまっている側面だってある。
それがこんな風に、私たちに心配をかけないように靴擦れの痛みを我慢するような行動に如実に表れているのだろう。
彼女は私たちの楽しい時間を壊すようなことがあってはならないと、自分だけが我慢する道を選んだのだ。
それはとっても悲しいことだ。
たった一言、辛いのだということさえ憚られてしまうのだから。
「有栖ちゃんってば、気を遣い過ぎなんだよ。何でも相談してくれればいいのに」
有栖ちゃんの本心から逃げた私が、それを言ってもいいものか、ちょっぴり胸は痛んだけれど、私はどうしたって有栖ちゃんの大切な存在でいたいと思う。
優しい彼女が、本心を躊躇して言えなくなってしまう女の子だということは知っている。
いつもツンツンしたり語気が強かったりするのはそんな弱い心を気取らせないための鎧なのだということもよく知っている。
他の人に対してはそれでもいい、だけど、私たちには、私にだけはいつも素直で彼女自身でいて欲しいのだ。
「うん、ごめん。私が馬鹿だった。結果的に詩葉にすっごい気を遣わせちゃった訳だし」
「ほら~、またそういうこと言う。有栖ちゃんはもっと、素直になっていいんだよ?有栖ちゃんは私のことお姉ちゃんだとは思ってくれてないかもしれないけどさ、一応私の方が貴女より年上なんだよ?有栖ちゃんのこと、なんでも受け入れてあげるから。私は有栖ちゃんのことが、大好きだからね」
「そういう真剣な顔、ずるいわよ」
有栖ちゃんの眦に、うっすらと涙が溜まっていく。
普段は強がりの有栖ちゃんだけど結構、彼女は涙もろいのだ。
きっと心の中で様々な感情が渦巻いているのだろう。
素直になれない辛さや、自分に対しての不甲斐なさに苛まれて胸が痛んでいるのかもしれない。
それは私も一緒だ。
もっと有栖ちゃんのことをわかってあげたい。
もっと有栖ちゃんの痛みに気付いてあげたいと思いながらも、実際は全然結果が伴わない。
本当はもっと上手く彼女に寄り添ってあげたいのにという気持ちが、自らへの不甲斐なさで心がチクチクと痛む。
その涙を拭いてあげたいと思うけど、彼女が人に涙を見られるのが嫌いなことを私は知っているから、わざと気付かないふりをして空を見上げる。
本当にこれで正しいのかという疑問は絶えないけど、気がつけば辺りは夕暮れの赤に染まっていて、ベンチに座る私たちのもとに爽やかな夕暮れの風が吹くのを感じる。
もうすぐ夏がやって来ることを予感させられるその風は、髪の間をするりと抜け、高く高く空へと舞い上がっていく。
「昨日の夜のこと、覚えてる?」
「うん、覚えてるわ」
「あの時私、きちんと有栖ちゃんの気持ちを聞けなかったから」
昨晩、有栖ちゃんと隣り合わせで話したこと。
私の胸の中でつかえている、有栖ちゃんの感情から目を逸らした現実。
果たして彼女にもう一度真意を問うことが正しいことなのか、私にはわからない。
だけど今なら彼女が、きちんと私の質問に答えてくれるような気がしたのだ。
その嘘偽らざる感情を、伝えてくれると思ったのだ。
だから私は、きちんと聞かなくてはいけない。
二人きりでいられるこの時に、有栖ちゃんの、本当の想いを。
「私ね、ずっとずっと有栖ちゃんの気持ちから逃げてきたの。でもね、それは有栖ちゃんも一緒だよね?有栖ちゃんも、自分の気持ちから逃げてきた。きっと、このままじゃいられないの。ずっとこのままでいたいけど、このままじゃいられないの。だから教えて、有栖ちゃん」
有栖ちゃん、貴女は……
その問いかけを口にしようとした刹那、二人きりの時間の終わりを告げる鐘が鳴り響く。
「うふふ、やっぱり動物の赤ちゃんって可愛いものねぇ」
「うん…喜ぶ美歌子さまも…可愛い…よ」
「あらあら、お世辞言っても何も出ないわよ~」
パンダを見終わったお姉ちゃんたちが楽しげに語りながら私たちのところへ戻ってくる。
「詩葉、有栖、パンダの赤ちゃんとっても可愛かったのですよ~」
にこにこ笑顔で手を振って駆け寄ってくるコメットちゃん。
私はそれに空返事をすることしかできない。
ああ、今回もまた私は有栖ちゃんの本心を聞けなかったのか。
落胆する心と、それ以上に安心する心が萌芽するのを感じる。
私はまたこうして、逃げてしまうのだ。
有栖ちゃんからも、自分自身からも。
「ねえ詩葉?」
隣に座る有栖ちゃんが、酷く真剣な声色で私に問いかける。
私はそれに怯えて、彼女の方を見られない。
これから彼女が口にする言葉が、私たちのこれからを致命的に変えてしまう一言のような気がして身が竦んでしまう。
「詩葉にとっての私は、幼馴染みよね?」
そこに込められた真意を、私は知らない。
私はその意味を決して分かってはいけないのだ。
知らない。
知らない。
知らない。
だからいつものように、私は楽天的な自分自身を偽って言葉を紡ぐしかない。
「うん、勿論、有栖ちゃんは私の大好きで大切な幼馴染みだよ」
「そう…」
私は、冷たく呟く彼女の方を、その表情を、決して見られはしなかった。
○
楽しい一日というのはあっという間に過ぎてしまうものだ。
どれだけ惜しんでも流れる時を止めることは出来ないし、沈む太陽を逆回ししてもう一度空に浮かべることも出来ない。
だから私たちは、たくさんの楽しい想い出を携えて、電車に揺られてお家へ帰るのだ。
帰り道、お土産コーナーでお菓子やキーホルダーやお人形なんかをたくさん買ってしまったから、両手にはたくさんのお土産袋をぶら下げている。
「今日は本当に楽しかったのです。動物園というものは最高の場所なのです」
「ふふふ、楽しかったわねぇ。そんなに遠い場所でもないし、また近いうちにみんなで来られたらいいわね」
「私も…また…行きたいな」
コメットちゃんにお姉ちゃん、小夜ちゃんは、どんな動物が可愛かっただとか、また来た時にはあの動物をもっとみたいだとかいう話でわいわいと盛り上がっている。
私はそれをとても幸せな光景だと喜ばしく思う反面、有栖ちゃんとの最後の会話が胸につかえて上手く笑えずにいる。
それを心配してか、お姉ちゃんたちは私に話しかけてくれるけど、無理して脳天気を気取っても、どうにも彼女たちの心配を煽っているだけの気がする。
私の隣に佇む有栖ちゃんも、表情は繕ってはいても、いつものような覇気はなく、どこかどんよりとした雰囲気を漂わせている。
有栖ちゃんをそんな風にしてしまったのは、私だ。
私の弱さだ。
ごめんね、みんな。
私は本当は、凄く弱い子なんだよ。
ごめんね、有栖ちゃん。
私は本当に、弱い。
とっても楽しい一日だったのに、どうして私は最後まで笑顔でいられないのだろう。
みんなのことが大好きなのに、有栖ちゃんのことが大好きなのに、どうしてこんな風になってしまうのだろう。
苦しいよ。
辛いよ。
哀しいよ。
私は私のことが、こんな弱い私のことが……。
こんな、私なんて……
いなくなっちゃえばいいのに。




