10 パジャマパーティ
「はいは~い、それじゃあ宴を始めるわよ~」
とてもご機嫌そうなお姉ちゃんの号令により、本日の夜宴は始まる。
お風呂上がりでぽかぽかな私にコメットちゃん、それにお隣さんの有栖ちゃんまで集まって、私たちはパジャマパーティーを開催する。
洋菓子や紅茶などを持ち寄ってわいわいする、不定期開催のとっても楽しい会である。
既に時刻は二十二時を回っていて、乙女としてはお腹のお肉を増やさないためにも食べ物を口にするのは控えた方が良いかもしれない。
しかし、夜中に食べるお菓子はとっても美味しいし、みんなと一緒にお話をしながらごろごろするのはヒジョーに幸せなのだ。
だから私たちは、次の日の事なんて気にせず騒げるような、今日みたいな金曜日の夜に度々この会を催す。
まあ、早いところが、みんなで夜更かしするの最高に楽しいよねということなのです。
「んん~~~~!このタルト、美味しいわね」
目を輝かせながら有栖ちゃんはフォークを口に運んでいる。
度々、紅茶の注がれたティーカップを啜りながら、お上品に手を添えて食べる様子はなんだか気品さえ感じさせられるものだ。
「それ、こないだ言っていた新しく出来た洋菓子屋さんのチーズタルトなのよ。とっても美味しいでしょ?こっちのフィナンシェなんかも美味しいんだから」
「へぇ~、流石みか姉、そういう情報には耳聡いわね。ん、良い香り~」
有栖ちゃんはチーズタルトを手元に置きながら、フィナンシェにも手を伸ばす。
彼女の真面目な性格からして、こんな時間にお菓子を食べたり夜更かしすることを良しとはしないような気がするが、意外や意外、彼女は率先してこの会に臨んでいる。
結構有栖ちゃんは、甘いものに目がないのだ。
同じくお菓子好きのお姉ちゃんとともに、甘いもの談義をしていることは珍しくない。
「有栖ちゃん、チーズタルト一口頂戴~」
「はいはい、いいわよ。あーんしなさい」
いつもはツンツンな有栖ちゃんも、甘いものを食べればたちまちあまあまヘブン状態になる。
あまあまヘブン状態の有栖ちゃんなら、こんな風に容易くあーんなんて事もしてくれるのだ。
私も当然甘いものは大好きだし、こうして有栖ちゃんの使っているフォークで食べさせて貰えると考えれば、幸せ×幸せ=超幸せというものだ。(QED)
デレデレ有栖ちゃんマジ最高、大好き。
「うわぁ、美味しいねぇ。有栖ちゃんが食べさせてくれたから余計に美味しく感じるよ~」
「ふん、別に私が食べさせたからって味が変わるもんじゃないわよ」
「そんなことないよ、フォークに残った有栖ちゃんの唾液成分がお菓子に沁みることによって美味しさが通常の三千倍に跳ね上がるという研究結果があるもん!私調べだけどね」
「まったくしょうがない詩葉ね。いいから他のお菓子も食べちゃいなさいよ。コメットちゃんが食べると凄い勢いでなくなっちゃうんだから」
有栖ちゃんの言うとおり、私の隣に座るコメットちゃんはもの凄いペースでそこら中のお菓子を平らげていた。
夕飯もお姉ちゃんの料理を鱈腹食べていたというのに、本当に彼女の食欲というものは底知らずのようだ。
「ブラウニーも、マドレーヌも、パウンドケーキも、シュークリームも、洋菓子というものはどれもこれも私の心を掴んで離さないのです。はあ、人間の作った食べ物というものは実に興味深い…」
うっとりとした表情でコメットちゃんはどんどんお菓子を口に運んでいく。
私たちの食べる分はなくなっちゃうけど、これだけ幸せそうに食べてくれるんだったら全部あげてもいいかなって言う気分になる。
食べ物を美味しく食べてくれる女の子って魅力的だよね。
それが美幼女だというのならもう、鬼に金棒ならぬ幼女にお菓子というやつだ。
「お待たせ~コメットちゃん、追加のお菓子焼けたわよ~!」
いつの間にかパジャマの上にふりふりのエプロンを纏ったお姉ちゃんが大きなトレーの上に様々なお菓子を乗せてやって来る。
まだ湯気さえ立ち上る、正真正銘作りたてのお菓子。
お姉ちゃんお手製の洋菓子たちはとても良い香りを漂わせている。
この夜宴では市販のお菓子ばかりではなく、このようにお姉ちゃん手作りのお菓子も提供されるのだ。
料理の腕前がピカイチなお姉ちゃんの作ったお菓子は、これまた当然のごとく美味しい。
どれもこれもプロが作ったものに比肩するほどのクオリティを誇っていると私は思う。
「はわわ~流石美歌子のお菓子なのです!どれもこれも、もがっ、さいこ、う、なのです!」
運ばれてきたお菓子に最初に飛びついたのはやはりコメットちゃん。
彼女はお姉ちゃんの料理の大ファンであり、ある意味お姉ちゃんの料理を神格化さえしている。
目をキラキラと輝かせているその様はまさに甘いものを前にした純真な幼女という感じで、見ているだけで胸が満たされるような気がする。
「まあまあコメットちゃんったら、まだ焼いてるから落ち着いて食べるのよ~」
それを見ているお姉ちゃんも、満足そうににこにこと笑みを浮かべている。
コメットちゃんに手料理を振る舞うのがお姉ちゃんにとっての一つの生き甲斐のようなものになっているような感じもある。
「うたちゃんもほら、あーん」
「ありがと。あーん」
差し出された焼きたてのカップケーキにかぶりつくと、鼻孔を爽やかなシトラスの香りが通り抜ける。
まだ温かな生地が口の中でほくほくと解けていくのがとても美味しい。
「美味しい?」
「うん、美味しいよ、お姉ちゃん」
「うふふ、よかった~」
エプロンをつけてお菓子を焼くお姉ちゃんは、そりゃもうお嫁さんにしたいくらいに可愛い。
こうやってみんなのために率先してお菓子を準備してくれる女子力の高さは見習いたいところだ。
「ああ、私の作ったお菓子がうたちゃんの身体に吸収され、血となり肉となっていく…それは私の身体の一部がうたちゃんの中に取り込まれていくかの如し、毎日私の料理を食べているうたちゃんの身体は、全て私で出来ていると言っても過言ではない!ああ、愛しいうたちゃん!私の大好きなうたちゃん!いっそのことお姉ちゃん自身を食べてもいいのよ!さあ、さあ!お姉ちゃんの初めてをあげる~~~!」
「お願い、こんなところでおもむろに服を脱がないで!みんな見てるから!だめ!」
「いいじゃない、見せつけてあげましょう!お姉ちゃん、そういうの嫌いじゃないわ!」
「あ~~~!ほんとにもう、お姉ちゃんはこれが無ければ最高なのにぃ!」
乱心し生まれたままの姿に戻ったお姉ちゃんを捕縛し、有栖ちゃんと一緒に無理矢理服を着せていく。
暴れながらも気持ちよさそうにしているお姉ちゃんに正直ちょっと引いたけど、まあいつものことだし仕方ないかもなぁと納得してしまう自分が怖い。
どうして私のお姉ちゃんはこんなに変態なのだろう。
本当に、変態なところ以外は最高のお姉ちゃんなのになぁ。
とほほのほ。
○
お姉ちゃんのいつもの発作が落ち着いてからは、お菓子もあらかた食べ終わって自ずとみんなで会話を楽しむような空気になった。
お菓子の大半はコメットちゃんが食べていたことは言うまでも無いだろう。
他愛もない話で盛り上がり、どんどん夜が更けていく。
私はこんな風に大切な人たちと会話をすることが大好きだ。
話している内容にそれほど意味がなくても、ただ会話をしているだけで何だか満たされたような気になる。
自分の話をするのも好きだけど、人の話を聞くのはもっと好きだ。
特に、有栖ちゃんのする話は聞いていると勉強になる。
有栖ちゃんは賢いから色々なことを知っているのもあるが、何より彼女は多種多様な物事に興味をもってアンテナを向けているようで、たくさんのジャンルの話が出来る。
きっと有栖ちゃんの目には、世界がキラキラして見えているんだろうな。
まあ、私だってみんなのおかげで日常がキラキラしてるから良い勝負になると思うけどね。
「それでね、その漫画の作者さんの著作を調べてみたら、以前読んだことはあったんだけど記憶が朧気でどうにもタイトルが思い出せなかった作品があったのよ!何だかその時、運命とか縁みたいなものの存在を感じたわね!」
有栖ちゃんは少し興奮しながら、好きな漫画の事を語っている。
彼女は自分の好きな話題のことになると、子供みたいに熱狂してとても楽しそうにお話しをしてくれる。
この時ばかりはツンツン有栖ちゃんは鳴りを潜めてわくわくした瞳をキラキラ輝かせている。
私はそんな有栖ちゃんを見るのが大好きだ。
「自分の好きなものって、案外昔から変わらないものよね。どこまで行ったって私の好みというものは一本筋が入っているというか、本質の部分は決して変わらないんだと思う」
「昔から有栖ちゃんは頑固だもんね」
「うるさいわよこの詩葉。頑固って結局自分の意志を貫くだけの度量があるってことでしょ。別にいいじゃない」
「悪いなんて言ってないよ~。私はどんな有栖ちゃんも大好きだからね」
「ふ、ふん。大好きとか言われても別に嬉しくないから!」
やっぱり有栖ちゃんはツンデレでした。
ぷくーっとほっぺたを膨らまして赤面してる有栖ちゃんがとっても可愛いよ。
はぁ、抱きしめたい。
おっぱいむぎゅうってしたい。
「ところで私、コメットちゃんに聞きたいことがあるのよ。コメットちゃんって、所謂漫画や小説でいうところの高次元の存在な訳でしょ?次元だとかの話にはやっぱり詳しいの?」
「はい、私の次元への知識はこの世界の科学とかは遥かに凌駕したレベルだと思うのです」
「やっぱり、そうなのね!」
再び、有栖ちゃんの瞳が光り輝く。
どうやら、有栖ちゃんの気になるスイッチが入ったようだった。
「それじゃあ聞きたいんだけど、超弦理論だとか、M理論ってやつは結局どの程度正しいの?九次元とか、十次元とか、十一次元とか、はっきりいってどうにも信じがたいのよね、あれって、数学的に正しくするために高次元と仮定しているわけでしょ?本当にそれだけの次元が存在しているのかしら」
「結論から言うと、三次元よりも高次元の世界は確かに存在しているのですよ。その辺りの話、詩葉にした時はちんぷんかんぷんそうな顔をしていたので途中までしかしませんでしたが、有栖になら色々と教えても楽しそうなのです。今宵は世界の真理を解き明かす夜にしましょう」
「いいわね!たくさん聞かせて!」
その後有栖ちゃんとコメットちゃんは次元についての話に火がついて、とても白熱した議論を交わしていた。
端から聞いている限り、話が難しすぎて何のことか全然理解出来なかったし、そもそも次元についての話なんてちょっと聞いただけでも頭がパンクしそうになるけど、二人が楽しそうに会話をしているのを見ると、こっちまで楽しい気持ちになってくる。
きっと有栖ちゃんにとっては、コメットちゃんの観測者であり調停者である知識というものは何物にも代えがたい程興味を惹かれるものなのだろう。
時に驚愕の表情を浮かべてみたり、感嘆のため息をついていたり、歓喜の声をあげたりしていた。
ころころ有栖ちゃんの表情が変わって楽しいのか、コメットちゃんもまた全身を使って自らの知識を丁寧に説明している様子だった。
勿論私はぜんぜん理解出来なかったけど。
「お姉ちゃんはあれ、理解出来る?」
隣でこれまた楽しそうに二人の会話を眺めているお姉ちゃんに尋ねてみる。
「ううん、さっぱりね。私も学校のお勉強は得意な方だけど、有栖ちゃんほどのレベルになると全然ついて行けない感じがするわねぇ」
「そっか、お姉ちゃんでもそうなんだ。話の内容についていけてないの、私だけかと思ってた。やっぱり有栖ちゃんって凄いんだなぁ」
「ふふふ、そうね。有栖ちゃんの凄いところはね、やっぱり好奇心が旺盛なところだと思うわ。何に対しても貪欲に知ろうという姿勢で向かうのって簡単な事じゃないもの。本当に、尊敬できる女の子よね」
そう語るお姉ちゃんの瞳はとても優しく、そこに心からの親愛が込められているような気がする。
お姉ちゃんのこういう表情を見る度に、本来彼女はどこまでも愛情に溢れていて、人のことが大好きなんだなと実感することが出来る。
私に対しての変態行為だって、その愛が深いからこその感情の発露なのだと思う。
もう少し自重して欲しいのは山々だけれど、お姉ちゃんの愛情深い部分は大好きだ。
そこだけはずっと変わって欲しくないし、これからも私たちのことをその優しい瞳で見つめて欲しいと思う。
やっぱり私は、お姉ちゃんがいないとダメだなぁって、最近よく思わせられるんだ。
こないだ有栖ちゃんと小夜ちゃんのことを相談した時みたいにね。
○
有栖ちゃんとコメットちゃんの白熱した議論がひと息つく頃には、すでに時計は午前二時を指していた。
いくらなんでもそろそろみんな眠くなってうつらうつらと瞼が重くなってくる頃合いであるし、そろそろ今日の楽しかったパジャマパーティはお開きということになった。
パジャマパーティの後、有栖ちゃんは我が家にお泊まりするというのが通例になっている。
お隣さんな訳だし、お家に帰るのだってそりゃあ一瞬なのだけれど、せっかくの夜更かしの雰囲気をそのまま最後まで味わう為にはやっぱりお休みまで一緒がいいよね。
有栖ちゃんのご両親は門限とかちょっぴり厳しめだけど、我が家にお泊まりする時だけはその辺り甘めに見てくれる。
まあ、ずっと一緒にいるんだし今さら心配とかないだろうしね。
私の部屋に有栖ちゃん用のお布団は常備されている。
お姉ちゃんとコメットちゃんとはいつも別の部屋で寝ているので、自然、今夜も私と有栖ちゃんの二人きりでお休みということになる。
有栖ちゃんと一緒に寝るなんてことは小さな頃からよくあったことだけど、高校生にもなってこうして隣並ぶというものはちょっぴり気恥ずかしさなんかもあったりして、だけどそれよりもずっと、わくわくというか、どきどきというか、そんな気持ちで胸が一杯になるんだ。
まるで旅行に出掛ける前の日のような、少しそわそわするけど楽しみで楽しみで仕方がなくてなんだか興奮して寝られなくなってしまう、あんな気持ち。
お泊まりという手軽に演出できる非日常に浮き足立つ気持ちは止められない。
隣に寝ている有栖ちゃんも、同じような気持ちでいてくれてるのかな?
「ねぇ、有栖ちゃん」
灯りを消した暗い部屋、カーテンの間から差し込む月明かりだけが仄かに陰影を際立たせる中、すでに目を瞑って眠りの体勢に入っている有栖ちゃんに声をかける。
「なによ」
有栖ちゃんはちょっぴり不機嫌そうに、だけどほんの少しの楽しさを感じさせる声で返答する。
「まだ起きてる?」
「そりゃあ返事してるんだから起きてるでしょうよ」
「ふふふ、そうだよね」
「有栖ちゃん?」
「だからなによ」
「えへへ、呼んでみただけ」
「もう、バカップルじゃあるまいし」
「私はバカップルでもいいけどね」
こうして暗い部屋の中、こそこそと小さな声でなんてことない意味のないやり取りをするだけでも、ちょっぴりイケナイことをしているみたいな気分になる。
大人たちの目を盗んでイタズラをする子供のような気持ち。
少しの後ろめたさが含まれた、懐かしい感覚。
「明日のお出かけ、楽しみだね」
来たるべき週末。
以前から何処かへ出掛けようと相談していた通り、明日はみんなで集まって遊びに出掛けることになっている。
有栖ちゃんと小夜ちゃんの仲を取り持つのも一つの目的ではあるが、単純にみんなで遊びに行けるということが嬉しい。
「そうね。一日がかりで何処かへ行くのは久しぶりだものね」
「最近はずっと放課後は小夜ちゃんのお屋敷掃除だし、週末は疲れてだらだらしてることが多いもんね」
「そうね」
その呟きの後、しばらくの間、部屋の中の空気を静寂が占める。
唐突にやって来た静寂に、私たちは無言のままただ時が流れるのを待っていた。
どちらかが先に口を開くのを期待していたのか、或いはこのまま睡魔に身を任せようとしていたのか、時計の秒針の音だけがやけに煩く感じる。
有栖ちゃんと小夜ちゃんの関係性。
一体有栖ちゃんがそれをどのように考えているのか。
結局今の今まで聞けずにいる。
もし有栖ちゃんが、小夜ちゃんのことを本当に嫌いなのだったらどうしよう。
小夜ちゃんと仲良くなるつもりがなかったらどうしよう。
これまでずっと嫌な思いをしていたのだとしたらどうしよう。
そんなことばかりを考えてしまって、本当の気持ちを聞けないでいるのだ。
人の気持ちを聞くっていうのは、それ相応の覚悟がいるものだ。
そこに期待しない答えがあるかもしれない、そう考えるだけで窮してしまう。
どれだけ大好きで近くにいる人の気持ちであっても、その本心を窺うということは、本来触れられることのない心の柔らかい領域に踏み込むということだ。
それを曝こうとすることで、触れようとすることで、お互いに傷つけ合ってしまうことだってあるかもしれない。
その傷はきっと、じくじくと痛む容易に消え去ることのない性質の痛みだ。
心の深いところについた傷は簡単には治らない。
そんな傷をつけてしまう可能性があることを思えば、どうにも二の足を踏んでしまう。
臆病な私は有栖ちゃんの本当の気持ちを聞くのがとても怖い。
もしそれを聞くことによってこれまでの関係に罅が入るなんてことになってしまったらと、不安な気持ちばかりが心を占めてどんどん有栖ちゃんの本音を聞くことに臆してしまう。
だけど逃げてばかりじゃいられない。
私が有栖ちゃんと小夜ちゃんの仲をより良いものにすると決めたのだ。
怖くても、向き合うしかないじゃないか。
「最近さ、とっても楽しいよね。有栖ちゃんがいて、お姉ちゃんがいて、コメットちゃんがいて……小夜ちゃんがいて。みんなで一緒にいられることが私、楽しくて仕方ないんだ」
「うん」
「コメットちゃんに初めて会った時さ、私、何が何だかわからなくてこれは夢の出来事なのかもしれないって思った。だって空から女の子が降ってくるんだよ。そんな、漫画や小説みたいな出来事信じられる訳ないし」
あの夜、いつものように真夜中の散歩をしていて、突然空からコメットちゃんが降ってきた時の衝撃は今でも克明に思い出せる。
思えばあの時から、私の日常は大きくその色を変えたのだ。
それはきっと、有栖ちゃんにとっても同じで…。
「だけどね、コメットちゃんのお話しを聞いて、私はこの子の力になってあげたいって思ったの。この世界の観測者や調停者、だとか言っていたけど、私から見たら迷子になって心細い女の子みたいだったからね」
「どっちかっていうと、捨て猫を拾ってきたって感じだったけどね」
「確かに。コメットちゃんってば猫ちゃんみたいだもんね」
会ったばかりのコメットちゃんを、行き場のない彼女を家に連れて一緒に暮らそうと決めたこと。
あの朝、有栖ちゃんは信じられないものを目にしているような表情をしていたっけ。
お姉ちゃんはたじろぎもせず堂々としていたな。
私の拙い説明を真剣に聞いてくれた二人は、コメットちゃんのことを思ったよりもすんなり受け入れてくれた。
それは、どうしてだったのだろう。
「有栖ちゃんはさ、どうしてコメットちゃんが人間ではない存在だってこと、あんなに簡単に信じてくれたの?簡単に受け入れられたの?」
確かにコメットちゃんは私たちの前で着ている服を一瞬にして改変する様子を見せてくれた。
それは人間業ではなかったけれど、有栖ちゃんは見たものをそのまま信じるような性質じゃない。
もっと疑ってかかっていてもおかしくはなかったはずだ。
そもそも有栖ちゃんは、最初からさほどコメットちゃんを疑ってかかっていなかったような気もする。
容易く受け入れられたコメットちゃんと、今尚受け入れきれない小夜ちゃん。
その両者の間にある隔たりとはどのようなものなのだろう。
「あの朝も、詩葉とみか姉は色々と凄いことになっていたじゃない。なんかそういうのでパニックになってて自分自身よくわからなくなってたのよ」
そういえばあの朝のお姉ちゃんは、私と一緒に寝ているコメットちゃんのことを見た途端にいつもの変態発作を起こしていたんだっけ。
そりゃあまあ、あんなものを目にしたらわけもわからなくなるよね。
「悪魔の証明って言葉があるでしょ?超常の存在、怪異や幽霊…コメットちゃんみたいな存在の実在を完全に否定することは出来ない。いくらそんな現実では信じられないようなものたちが存在しないって声高に叫んでも、世界の全てを同時に見通すことは出来ない。だから、私の見えない場所に悪魔がいるっていう可能性を完全に消し去ることなんて出来ないのよ」
悪魔の証明。
どこかで聞いたことのある言葉。
きっとこんな風に、有栖ちゃんから聞いたんだろう。
それは果たして、彼女のいうような意味だったんだっけ?
「私もね、目の前に見えてる悪魔の存在を否定したりはしないわ。まあ、コメットちゃんは悪魔っていうよりも天使っぽいけどね」
「うん、見た目も中身もまるっきり天使だよね。有栖ちゃんも私にとっては天使だけど」
「うるさいわよ、もう。それにね、これはみか姉も言っていたことだけど」
一瞬、言おうかどうか迷ったような間を開けて、
「詩葉の信じたものだから、それを疑うのはなんか違うなって思ったのよ。それだけ」
恥ずかしそうに早口で、有栖ちゃんはそう言った。
「そっか、それはとっても、嬉しいよ。ありがとう、有栖ちゃん」
有栖ちゃんがコメットちゃんを受け入れてくれた理由。
私が信じたのだからそれを疑うべきではないと、有栖ちゃんは思ってくれていた。
本来どれだけ疑っても足りないような、現実離れした漫画や小説の中の出来事のような現実を、彼女は容易く受け入れてくれた。
私が信じているから、ただそれだけの理由で、非現実の存在を迎え入れてくれた。
ぽかぽかと、胸が温かくなっていくのを感じる。
どれだけツンツンしていたって、有栖ちゃんは私のことを信じてくれているのだ。
それだけのことで、涙が出るくらいに嬉しくなってくる。
大好きな人に、信頼して貰っているということ。
こんなに幸せなことが他にあるだろうか。
この気持ちさえ知っていれば、何を恐れることがあるのか。
今こそ私は、有栖ちゃんの本当の気持ちに触れよう。
果たして彼女が小夜ちゃんのことをどんな風に感じていて、どう思っているのか。
それをきちんと、聞かなくてはいけない。
「ねぇ有栖ちゃん、真剣な話をしようと思うの」
横にいる有栖ちゃんのことを見つめる。
これから聞かなくてはいけないことは、きちんと有栖ちゃんのことを見て話さないといけないような気がしたから。
気付けば彼女も何かを感じたのか、真面目そうな表情で私の方を向いていた。
「私勇気が出なくて聞けなかったの。けどきちんと聞かなきゃいけない。ずっと先延ばしにしてきた問題。…今もこうやって要らないこと言って誤魔化しちゃってる。だから、ね。有栖ちゃん。私、ちゃんと言うから」
否が応にも、鼓動が早くなる。
今すぐに有栖ちゃんから目を逸らして、寝てしまいたい気持ちが湧いてくる。
もう逃げちゃいけない。
きちんと聞くんだ。
聞かなきゃダメなんだ。
甘美な静寂を打ち破るように、私は、
「有栖ちゃんはさ、その、えっとね。小夜ちゃんのこと……どう思ってる?」
「どう…って……?」
質問の内容を予見していたのか、有栖ちゃんはさほど驚くでもなく、だけれど言いにくそうに、気まずそうに、唇を二度三度と震わせる。
私は彼女のその様子を見ているだけで、全身の毛穴から冷や汗が流れ出すのを感じる。
聞かなければよかった。
何も知らないふりをして目を逸らしていればよかった。
何も行動なんて起こさずに、ただ流れる時に身を任せていればよかった。
何も考えず、何となくなあなあにしてしまえばよかった。
そんな風に考えたって、一度発した言葉は取り消せない。
私はこの期に及んで、有栖ちゃんの本音を聞くのに酷く怯えている。
このまま聞かなかったふりをして、有栖ちゃんが眠ってしまえばいい。
そうすれば、有栖ちゃんが思っている本当の事を聞かなくたって済むのに。
「さっき悪魔の証明の話をしたでしょ?」
有栖ちゃんの口から語られたのはあまりに想像とかけ離れた言葉で、私はきょとんとしてただ彼女の言葉に耳を傾ける。
「あれってね、本来の意味とは違う意味で使われてる、誤用の一つなのよね。本来の意味は別なのに、言葉のイメージだけが先行して全然違った意味で使われるようになってしまったの。まあ、その間違った意味の方も詭弁っぽさはあるけど哲学的で私は嫌いじゃないんだけど」
「有栖ちゃん?」
「それって、私たちみたいだって思わない?」
彼女が私に伝えようとする想い。
その言葉に込められた真意を、私は知っている。
「ごめんね詩葉。私、とっても眠いの。もう寝るから、おやすみ」
有栖ちゃんは呟くと、もう語ることはないからというように背中を向けてしまった。
その背中は幽かに震えていて、私はどうしようもないくらいに胸が苦しくなる。
有栖ちゃんのその態度が、全てを物語っている。
きっと有栖ちゃんはずっと、ずっと……。
有栖ちゃん、ごめんね。
おやすみの一言も掛けられないまま、私は静かに目を閉じた。
目の前の現実を見ないようにと、固く目を閉じたのだ。
暗闇に木霊する、啜り泣くような音声を、ただ背中越しに聞いていた。
気付いていたのに、聞こえないフリをした。
私はこんなにも弱くて、狡いんだ。
大切な人の涙も拭いてあげられない私に、彼女の隣を歩く資格があるのだろうか。
きっと明日の朝になったら全部全部何もかも何事もなかったかのように、私は彼女に笑いかけるのだろう。
重要な問題から目を逸らして、さも知らなかったように振る舞うのだ。
いつだって私は、逃げ続けてきた。
そのせいで有栖ちゃんが、苦しんで涙を流している。
知っていたのだ。
ずっとずっと前からその気持ちに気付いていたはずなのに、私は、私は。
どうしてこんなにも、上手くいかないんだろう。
その気持ちを受け入れれば、貴女の涙は止まるの?
こんなに近くにいるのに、どうしても私は貴女に触れられない。
触れたら全部壊れてしまいそうで、私は貴女にも、自分にも嘘をつき続けている。
これは罪なのだ。
だから私は、罰せられなければいけない。
私は、この苦しみから、この苦しみだけからは逃がれられない。
ああ、こんな私なんて……




