2 日常の帰還
「ねえ、ねえったら」
私を現実へと引き戻す、聞き慣れた声。
「詩葉ってば、何ぼおっとしてるのよ?」
聞くだけで心から安心する、大好きな人の声。
「何だか馬鹿みたいな顔してるわよ?大丈夫?」
「馬鹿みたいって、それはひどいよ、有栖ちゃん…」
流石の私も、馬鹿みたいって言われるのは少々傷付くわけで、私の目の前で不思議そうに顔を覗いている少女に抗議の視線を向ける。
綺麗な黒髪をツインテールに纏めたとても可愛い女の子。
同じ高校に通う一つ年下の、大好きで大切な幼馴染み。
制服の上からでも、そのスタイルの良さがよくわかる。
特にお胸の辺りは非常に自己主張が激しくて、彼女の勝ち気な性格とも相まってこちらを挑発してくるようだ。
もともとつり目なその瞳をさらに吊り上げて、彼女、有栖ちゃんは言う。
「悪かったわよ。でも正直ちょっと心配しちゃったわよ?詩葉、こないだ一時的にでも吸血鬼になってしまった訳だし、その後遺症が残ってるんじゃないの?何かあってからじゃ遅いんだから、その、私にだって頼ってくれていいんだからね」
本当に心配そうな表情で見つめてくれるのが、なんだか気恥ずかしくもあり嬉しくもあり、少しむず痒いような気持ちになる。
いつもは少々乱暴な扱われ方をするというか、そもそも年上である私のことを呼び捨てにしているような有栖ちゃんだけれど、こんな風に時々優しさを見せられてしまったら否が応にも胸が高鳴るというものだ。
「有栖ちゃんまじ天使」
「はあ?何を馬鹿なこと言ってるのよこの詩葉は」
「いつもはつんつんなくせにこういう時に優しさを見せてくれる有栖ちゃんが大好きだよ~。ああ、まさにこれぞジャパニーズツンデレの極地!様式美!いつだって有栖ちゃんは私のエンジェルだよ~」
「ちょっと!離れなさいよ!」
心からの愛情表現で抱きつこうとするも、有栖ちゃんの膝蹴りが私の鳩尾にめり込む。
ニーハイソックスとスカートが織りなす絶対領域。
そのさらに内側に潜んだ秘密の花園がちらりと見えたことに圧倒的感謝の念を抱く。
「その純白は乙女の純情…ありがとう、ぱんつの神様…」
有無を言わさず頭上から肘鉄砲が降ってくるが、私はこれを甘んじて受ける。
ツンデレ少女の暴力とは、それ即ち愛である。
彼女らは、心に秘めた想いの強さの丈を自らの拳に込めるのだ。
大好き、だけれど大嫌い…相反する二つの想いの渦巻く心が、素直になれない自分自身を平手に乗せる。
この気持ちに気付いて…そんな切実な感情が蹴りとして放たれる。
彼女たち、ツンデレ少女は、ただひたすらに不器用なのだ。
壊れるほど愛しても1/3も伝わらない。
純情な感情は空回りし続けちゃってる感じなのだ。
私を見下ろす有栖ちゃんの瞳は酷く冷たく、虫けらを見るような色彩をしていたけれど、それさえも愛情の裏返しなのだ。
そうだったらいいなって思う。
切実に…(吐血)
「もうとっくに、みか姉たちも来てるんだからね。あんまり待たせるもんじゃないわよ?」
現在、時刻はすでに夕刻さえも差し迫っている。
普段通りの学校での一日が終わり、これから下校しようという時間。
私たちはいつものように昇降口の前で待ち合わせをしていた。
みんなが揃っても、なかなか待ち合わせ場所に現れない私のことを心配して有栖ちゃんは探しに来てくれたらしい。
そしてここ、今私たちが話をしているこの中庭で、彼女は私のことを見つけた。
「だいたい、詩葉はとろいのよ。いっつも人のこと待たせてさ」
「へへへ、ごめんね」
「全然反省してないじゃない」
ぷんすこと頬を膨らます有栖ちゃんが可愛い。
ふりふりと揺れるツインテールは感情を色濃く表現するわんこのしっぽみたいだ。
「でもまぁ、今日は随分待たせちゃったみたいだね。何でこんなに遅れちゃったんだろ?」
「それはこっちが聞きたいわよ!中庭でぼおっと突っ立ってて、ほんとにおかしくなったんじゃないかって心配したんだからね」
有栖ちゃんの言う通り、私は学校の中庭で一人きりぼおっと突っ立ってていたようだ。
その直前に誰かと話していたような気がするのだけれど、どうにも記憶に靄が掛かっていて思考がはっきりとしない。
「さっきも言ったけど、吸血鬼になったりだとか、改変されたりとかの影響が出てるんじゃないでしょうね?」
「それは、どうなのかな…」
二週間ほど前、紆余曲折あって私は吸血鬼になっていた。
人ならざる怪異。
本来ならばこの世界には存在するはずもない異様な化け物に私はなり果てた。
一人の少女に魅入られたことにより引き起こされた異変。
私の前に突如として訪れた非日常。
観測者であり調停者である少女、コメットちゃんの尽力により私は元の人間へと戻ることが出来たけれど、その時の影響が身体に残っていないとは言い切れないだろう。
私の巻き込まれた状況は当然、普通の人間がまず巻き込まれるような状況ではなかった訳だし、いくらコメットちゃんが超常の不思議パワーを持ってして元通りに戻してくれたと言っても、幽かにその残滓が残っていることもあるのではないだろうか。
胸の中に、仄暗い気持ちが去来する。
私はいまだに、吸血鬼の呪いから解き放たれてはいないとでもいうのだろうか。
「とにかく、まずはみんなのとこへ行こうよ。随分待たせちゃってる訳だしね」
不安な気持ちを拭うように、あくまで気丈に私は言い放つ。
平穏無事な日常を送ることを人生の第一目標に掲げる私にとって、日常が非日常に染められていくということは、一抹の恐怖さえも感じさせられる。
自分がいつも通りの自分でなくなってしまうことが、普通ではいられなくなってしまうということが、怖くて怖くて仕方ないのだ。
だけれど、そんな感情を有栖ちゃんに気取られる訳にはいかない。
彼女の前では、私は脳天気な女の子でいたいと思う。
そうあらなくてはいけないのだ。
それは遠いあの日に誓ったこと。
彼女の瞳を、不安と悲しみに曇らせる訳にはいかない。
「全く、待たせてるのは詩葉でしょうが!」
有栖ちゃんの様子を見るに、どうやら私は上手く笑えているらしい。
大切でかけがえのない存在に嘘をついているという現実に、その罪悪感から胸が少しちくりとするけれど、私はもう彼女を絶対に泣かせないと誓ったのだ。
だから彼女の前では、うた姉ではなく、ただの詩葉であり続けられることを願う。
どうかこの願いだけは……。
願いを聞き届けてくれるような流れ星は今この場所には存在していないけれど、青い空を見上げてそんなことを祈る。
本当に叶えたい願いは口にしてはいけないんだっけ。
有栖ちゃんがこないだ言っていたような気がする。
彼女が胸に秘める想い、私が胸に秘める想い。
それらがどうか報われることを、願わずにはいられない。
○
なんだか感傷的な気分になりながらも、私と有栖ちゃんはすでにみんなが待ってくれているという昇降口へと向かった。
もう随分と待たせてしまっているみたいだし、出来るだけの早足で辿り着いたそこには、有栖ちゃんの言うとおり、いつものみんなが揃っていて。
「あらうたちゃん。ようやく来たのね」
階段に腰掛け、通学鞄を胸に抱きながら、私の双子の姉である美歌子お姉ちゃんがにこやかに声を発する。
「ごめんね、待たせちゃって」
「ふふふ、いつものことだもの。お姉ちゃんは全然平気よ。それに、うたちゃんに待たされていると考えたら、何だか焦らしプレイをされてるみたいで気持ちよくさえなってくるわ!もっと私を焦らして…!」
「ははは…」
スタイルの良い肢体を身もだえさせながら頬を朱色に染めるお姉ちゃんは、今日もやっぱり独自の世界観を貫いている。
昨日も今日も明日も、きっと私のことを大好きでいてくれるであろうことはとても嬉しいけど、まだここは学校の敷地内な訳だし、あんまり目立つような行為や言動は避けて欲しいんだけどな…。
彼女の奇行を見ないふりをし、私を待ってくれていた他の二人にも改めて声をかける。
「コメットちゃんも、小夜ちゃんも、待っててくれてありがとうね」
ご機嫌そうにスティック状の食べ物をもぐもぐと食んでいるコメットちゃんは無言でサムズアップしてくれる。
彼女はいつでも食べ物を口にしている気がするが、それでいて体型には全く顕れないのだからちょっぴりずるい。
起伏の少ない小さな身体に、銀色に輝く艶やかな髪が特徴的な姿はいつ見ても愛らしく、その少し眠たげな青い瞳と柔らかそうなほっぺたは思わずつんつんしたくなるように庇護欲を掻き立てられる。
お姉ちゃんの影に隠れるようにして身を小さくしている小夜ちゃんも、こちらに微笑みを向けてくれた。
妖しく光る紅い瞳は蠱惑的にこちらを見つめているし、流麗な長い黒髪も凜然とした美しさを伴っているが、はにかみ笑顔がとても可愛く彼女がまだあどけない少女であることを物語る。
私、有栖ちゃん、お姉ちゃんにコメットちゃんと小夜ちゃん。
ここ最近はこの五人で行動をともにすることが常になっている。
五人も人間がいると歩き回るだけで道を占領してしまうし、どこにいっても目立つ集団にはなってしまうが、それもまた楽しみの一つであるような気さえしてくる。
みんな私の大切な家族や友人だから、そんな人たちに囲まれることがとても幸せなことのように感じる。
昔から一緒にいる有栖ちゃんやお姉ちゃんは勿論、近頃出逢ったコメットちゃんも、小夜ちゃんも、今では私にとって掛け替えのない存在と言えよう。
この五人で過ごす事こそ、今の私の日常であり、平常であり、平穏なのだ。
「小夜ちゃんは、そろそろ久しぶりの学校にも慣れてきたかな?」
五人連なって学校からの帰路を往きながら、私は小夜ちゃんに問いかける。
「うん…。まだ少し慣れないけど、なんとか…」
小夜ちゃんはしばらくの間学校を休んでいた。
それは体調不良であったり、吸血鬼化であったりという原因からであるが、しばらくの間一人で家に引き籠もっていたのだ、久しぶりの集団生活というものには随分と気疲れするものだろう。
もともと人付き合いが得意ではなかった彼女にとって、学校に通うという行為そのものが、酷く勇気のいることである。
中学時代は、いじめのようなものに逢ってさえもいたようだし、なおさら彼女にとって学校生活は辛いものになり得るものだと思う。
私は、彼女の友達になった以上、そんな彼女の不安を少しでも共有したいと思う。
彼女の内向的な性格は、個性であり、すぐさま変える必要もなければ、無理して外交的になる努力をする必要もないと思う。
だけれど、あくまで高校生で在る以上は、必要最低限の人間関係の構築は避けて通ることが出来ない。
ずっと自分の内側だけに籠もっていた彼女が、他人とのコミュニケーションを取ることはきっととても恐ろしいものだと思うけれど、避けては通れない以上、私はそれを全力でサポートしたいのだ。
「今日も少し、先生と話せていたもんね。偉いよ小夜ちゃん」
小夜ちゃんの人間不信は、とくに大人の人間に対して顕著だ。
周囲に大人がいることだけでも少々萎縮してしまう嫌いがあるし、なるべく目さえ合わせないように振る舞っているところがある。
だけれど今日彼女は、担任の教師と少し話すことが出来ていた。
私たちにとっては簡単なそれでも、小夜ちゃんにとってはなかなかどうして難しいことの筈だ。
彼女自身、少しずつではあるが、分厚い心の壁を開く努力をしてくれていることが嬉しい。
私の想いが少しでも彼女を変えていると考えるのは、余りにも自惚れが過ぎることかもしれないけど、私との出会いによって彼女が少しでも変わる努力をしてくれるのだとしたら、それはとても幸せなことのように思えてくる。
「担任の先生は…少し優しいから、なんとか…大丈夫」
「あの人、普段は適当だけど意外と優しいところあるもんね。小夜ちゃんが大人慣れするには打って付けの人かもね」
「うん…少しずつ、慣れて行けたら…いいな」
「ふふ、そうだね。私がいつでも力になるからね!何か頼りたいことがあったら気軽に言ってくれていいんだよ!」
「ありがとう、詩葉さん…。それなら…ええっと……」
小夜ちゃんは気恥ずかしげに目を伏せる。
彼女は会話の途中でこうして言葉を紡ぐことを躊躇することが儘ある。
それはきっと彼女の頭の中で色々な思考が巡っていて、上手く言いたいことを整理し切れていないのであろう。
優しい彼女は、発する一言一言に凄く気を使ってしまう癖があるようだ。
それがわかっているからこそ、急かさずにじっと、彼女が次の言葉を話すのを待つ。
「その…手、繋いでもいい?」
上目遣いで私を見つめる紅い瞳がゆらゆらと揺れている。
こうして一緒に帰り道を歩くことも、小夜ちゃんにとっては外界に晒される恐怖や、人目に触れることの不安を伴うことなのかもしれない。
それならば、彼女の手を握ることで少しでも彼女の不安をぬぐい去れればと思う。
「勿論、一緒に手を繋いで帰ろうか」
小夜ちゃんの白魚のような綺麗な手をそっと握る。
恐る恐る握り返してくる彼女は、そわそわと落ち着かない様子ではあったが、その横顔には喜色を湛えていたように思える。
小夜ちゃんが喜んでくれるならば、こうして手を繋いで歩くことさえもなんだか心をぽかぽかと温かくしてくれるような気がしてくる。
「ずるいわ。お姉ちゃんとも手繋いでよ~」
小夜ちゃんの手を優しく握った私に、少々嫉妬した様子のお姉ちゃんが近づいてくる。
流石に、あまり広くはない住宅街の歩道で人間三人が横並びになるわけにもいかないので、お姉ちゃんとまで手を繋ぐような余裕はない。
「小夜ちゃんは特別だもんね。ね?」
私はお姉ちゃんに見せつけるように、イタズラっぽくそう小夜ちゃんに問いかける。
「は、はわわ…」
顔を真っ赤にして下を向いて照れる小夜ちゃんがとっても可愛い。
こんなに可愛い女の子となら、いつだって手を繋ぎたいなぁなどというすけべ心が心の中でむくむくと起き上がるのを感じる。
「それなら私、有栖ちゃんと手を繋いじゃうわ!」
むくれたお姉ちゃんは、横を歩く有栖ちゃんの腕に抱きつく。
いつもは私にべったりのお姉ちゃんの突然の行動に面食らうが、お姉ちゃんにとっては有栖ちゃんだってずっと一緒に過ごしてきた妹のようなものだろうし、手を繋ぎたい対象になり得るのだろうか。
「ちょ、ちょっとみか姉、やめてよ恥ずかしい!」
腕に抱きつかれた有栖ちゃんも、少しまんざらでもなさそうな表情をするものだから何だか大切なものを奪われたような気持ちになってくる。
「お姉ちゃんちょっと!私の有栖ちゃんを取らないでよ!」
思わずぎゅっと小夜ちゃんと繋いだ手にも力が入る。
私以外の女の子と手を繋いでるお姉ちゃんが気に入らないのか、有栖ちゃんが私以外の女の子と手を繋いでいるのが気に入らないのか、或いはその両方か。
私の心の中には嫉妬のような情念が渦巻く。
私自身、小夜ちゃんというとっておきの美少女と手を繋いでいるのだからそれだけで満足しなくてはいけないような気もするが、どうやら私は大好きな人たちから一番の愛情を捧げられないと満足できないようなお姫様体質だったらしい。
「ふふ~ん、有栖ちゃんは今日からお姉ちゃんのものなんだから~。それが嫌なら私とも手を繋いで?」
「ぐぬぬ、人質を取るとはお姉ちゃん…戦場の悪魔め…」
「私は誰のものでもないんだけど!」
小夜ちゃんと手を繋ぐ私と、有栖ちゃんの腕に抱きつくお姉ちゃんの間で、謎の緊張感が生まれる。
誰と手を繋ぐか、そんなちっぽけな理由で感情のやり取りが行われ、事態は依然膠着状態である…。
「それならば私は、ここでコメットちゃんに抱きつく!」
「むがっ、苦しいのです、離れるのです!」
「もう~うたちゃんったら!私に抱きついてよ~~~!」
私たちのおバカなやり取りを愉快そうに眺めていたコメットちゃんさえも当事者に巻き込んだことによって、事態は大混乱を招いていくのであった…。
お互いのことを思い合う少女たちの感情が錯綜するこの場所で、果たして戦況は、どこへ向かっていくのか。
乞う、ご期待。(続かない)
姦しい女子高生の会話を、街往く人々は微笑ましげに見守ってくれていたけれど、うるさくしちゃってごめんなさいという気持ちが胸の中に湧き上がるのだった。
もうやらないとは言ってないけどね。




