1 白昼夢
「人間原理というものがある」
ある晴れた昼下がり。
徐々に気温も上がってきて、夏の様相さえ感じさせられる晩春。
澄んだ蒼穹の下、時折吹く風が心地良いこの学校の中庭で、私はぼおっと彼女の話を聞いている。
浮かされたように白く霞んだ意識でもって、その聡明そうな凜とした声色に耳を傾ける。
「それは、この世界が人間に則して出来上がっているだとか、知的生命体に観測されるべくして宇宙は構築されているだとか、そんな話だ」
透明な碧い瞳で、彼女は私のことを見透かしたように睨めつける。
まるで心の中まで丸裸にされたような、じっとりとした嫌な気分が素肌に張り付く。
「詩葉くんは、どう思う?」
「どう思う、ですか?」
彼女の言う人間原理というものについて私は何か知識を持っている訳ではない。
有栖ちゃんなんかだったら知っているかもしれないけれど、生憎私はそんな考え方についてはたった今知ったばかりだ。
そのことについて、明確な意見というものを私は持たなかった。
ふうん、そうなんだ、と、それくらいにしか考えられない。
特別それ以上の感想を抱きはしなかったし、某かの感慨を得もしなかった。
乱暴な言い方をするのであれば、正直どうでもいい。
私にとっては、彼女の発した言葉はその程度の興味しか湧かないものであった。
「なるほど、詩葉くんにはあまり興味の湧かない話題だったかな?」
質問に沈黙を返したことにより、彼女は苦笑いを浮かべる。
ウェーブがかった金色の綺麗な短髪を手で掻き上げると彼女は続けて、
「ボクはね、人間原理なんていう都合のいい理論、クソ喰らえって思うんだよ」
碧い瞳を歪めて彼女は。
「だってそうだろ?それじゃあまるで、人間は生まれるべくして生まれたみたいじゃないか」
まるで人間には生きている意味がこれっぽちも存在していないように、人間なんていうものは取るに足らない価値のないものであるかのように、やけに歪んだ瞳が、太陽を背景にぎらりと輝く。
その色は見る者を竦ませるような一種の狂気をも孕んでいた。
「それは全く、この世界への冒涜だと思うんだよ。人間程度の存在を生み出すためにこの世界が存在しているだなんて余りにも滑稽じゃないか」
怒りすら感じさせる語気に、私はただ彼女の言葉をじっと聞いている他無い。
「何故、どのようにしてこの世界は生まれたのか。如何にしてこの世界は存在しているのか。この世界は何処に行き着くのか。始まりは、終わりは一体何処に在るのか。そんな根源的な疑問の数々を、たかだか人間程度が理解出来るはずもないんだ。この世界に存在している者は深淵の一端に触れることさえ叶わない。だからこそ世界は残酷でこれ以上ないほどに美しい」
恋した乙女のように蕩けた表情で彼女は熱っぽく語る。
「だからね、ボクは証明したかったのさ……」
その一言には、そこはかとない失意と、一抹の悲しみが込められていた。
私はどうして、彼女の話を聞いているんだっけ。
何故学校の中庭でこんな風に、彼女に対峙しているのだろう。
私と同じ制服に身を包んだ、金髪碧眼の美少女。
白磁の澄んだ肌に、すらりとした長い手足が怜悧な雰囲気を印象づける。
凜とした顔立ちながらも、その表情に邪悪さを貼り付けたような少女。
…いや、それはある意味純粋でどこまでも無邪気な悪意だったかもしれない。
彼女は一体……。
「だけれど、ボクは識ってしまったのさ。受け入れ難い現実を、どうしようもない真理というものを」
ギラギラと光る彼女の瞳が、暗い色に翳る。
まるで日蝕のように、冒涜的かつ天体的な驚異がそこにあることを感じる。
肌をぞわりと粟立てるような不気味さが確かに秘められていた。
「ID論なんてものを肯定するつもりは到底ないけれど、ボクの識ってしまった真理から考えればそれが自然な気もしてくる。ボク自身実に馬鹿馬鹿しいと思っているけれど、気付いてしまった事実を受け入れる他なかった」
この人は何を話しているのだろう。
一体彼女は、私に何を伝えたいというのだろうか。
先ほどから彼女が話している内容は余りに支離滅裂で、他人に何かを理解させようという気が感じられない。
或いはそれは、ただの独白だったのかもしれない。
彼女は自らの感情をただ吐き出すことを目的に言葉を紡いでいるのだろうか。
きっとその話を告げる相手は私じゃなくたって構わない。
彼女にとっては話相手がいるだけで良かったのだろう。
私は物言わぬ人形の役目を演じているだけなのだ。
ただ彼女の話を聞くことだけを求められただけでしかない。
「ボクは気に入らないおもちゃ箱をひっくり返す、ダダを捏ねる子供なのかもしれない」
だけれどきっとその代わりに、とても綺麗なものが見えるからと、彼女は笑って見せた。
やけに冷め切った声色が、耳朶にべたりと張り付く。
「ごめんね、詩葉くん。引き留めてしまって」
申し訳なさそうに、彼女は目を細めて手を合わせてみせる。
そこには謝罪の気持ちなんて一切込められていないような、傲岸不遜さが見て取れる。
物言わぬ私は、さぞかし彼女にとって都合のいい存在であったのだろう。
彼女の瞳には、一種の喜色さえ漂っている。
それは言いたいことを吐き出せたことへの喜びか、或いは…。
「さあ、君を呼ぶ声がするよ」
彼女が言うとおり、私を呼ぶ声が聞こえる。
それは私が大好きな音色で、いつも私の傍にいてくれる人の声。
とても大切な、かけがえのない音声。
「それじゃあ、またね。きっとそう遠くないうちにまた会うだろう。その時はどうぞよろしく」
結局彼女は、私に何を伝えたかったのだろう。
私に一方的に言葉を投げかけるだけで、きちんと対話をする気はなかったように思える。
それは果たして、彼女にとってどんな意味を持つのか。
どんな意図でもって、彼女は言葉を紡いでいたのだろうか。
彼女はその瞳にこれ以上のない純粋な悪意と、何らかの喪失の感情を、悲しみの揺らぎを湛えていた。
それだけは感じることが出来た。
確かに認めることが出来た。
やはり彼女はその想いを、誰かに聞いて貰いたかっただけのだろうか。
想いを吐露することで、その胸に犇めく感情の波を少しでも和らげたかったのだろうか。
彼女が語った言葉たちは、彼女自身を傷つける凶器そのもので、その狂気でもって私の前で自傷行為に勤しんでいたのかもしれないと、そんな風な突飛な考えが脳裏に浮かぶ。
じくじくと痛む傷口を他人に見せつけて、私はこんなに傷付いているのだと、必死に訴えていた?
それならば私は、彼女に何か言葉を掛けるべきだった?
彼女の痛みを、少しでも和らげてあげるべきだった?
彼女はそれを、私に求めていたのだろうか。
貴女は間違っていなかったと、貴女は正しかったのだと、ただ肯定してあげるべきだったのか。
今となっては、全てが曖昧で、たゆたう自我をこの場に留めていくことさえ困難になっていく。
ぼおっとした脳味噌がさらに靄がかり、これが夢なのか現実なのかもよくわからない。
青空の下の白昼夢。
一陣の風が辺りに吹き、そしてまた私を呼ぶ声が聞こえてくる。
金髪碧眼の美少女……果たして彼女は私にとってどんな存在だったのか、怪しく笑いながら手を振る彼女の名前を、終ぞ思い出すことは出来なかった。




