青年と少女
「やあ、どうも」
「……またいらしたんですか」
青年がその本屋に踏み入れると、そんな呆れた女性の声に迎えられた。
「ええ、あなたに会いに来たとも」
「本を買わないなら帰ってください」
「もちろん本も買いますよ、なんならお店ごと買ってやってもいいし」
「……」
「冗談ですよ。そう眉を寄せないでおくれ」
冗談、と青年は笑い飛ばしたが、それがただの冗談では済まされない部分もあることを彼女は知っている。なぜならこのいかにも軽そうで尊大な常連客が、この街に本社を置いたある大手企業の御曹司だと、会った初日に彼本人に自慢されたから。
点字を綴られた大判の本を閉じ、大学に行ってたら二年生になるはずの少女はカウンターの下にため息を隠す。
勿体無いなー、その甘い吐息が私に向けたものだったらどんなによかったことか――青年は密かにそう思いながらも、努めて紳士的に「今日は推理小説をご紹介してくれるかい」といつものように少女に問いかける。
少女は目を伏せたまま、あくまで営業的に言葉を発す。
「どのような推理小説がお望みで?」
「そうだな、では国内の良作を少々」
肩肘をカウンターに乗せ、半身になる。所作の一つ一つが役者じみているが、もちろん役者などではない彼自身は、あくまでそれを格好いいと思い込んでやっている。御曹司だけあってスーツも革靴もネクタイピンもが高級品で、髪のセットにも余念はなく、遠目にも目立ちやすく、なにかの撮影と間違われたこともあった。
しかしそんなポーズを決めても、この少女には通用しないことを、青年もまたよく知っている。なぜなら、いつも上下を白と黒だけで統一し、常に同じブランドの同じ型のブラウスとローグスカートのみという素朴な装いをする彼女は、辛うじて光の強弱くらいしか判断できない目を持っている人だと、会った初日に告げられていたから。
それでも常に身なりを整えて彼女のもとへ訪ねるようにしているのは、ひとえに青年は彼女のことが一目惚れで好きになったから。
少女は少しばかり思案してから、青年の問いに答えた。
「宮部みゆき先生の作品はいかがでしょうか。『地下街の雨』など、その錆びた心臓に油を差すのにちょうどいいかと」
「その方の作品なら前にも読んだことがあったな……せっかくだし、私の知らない方の作品が読みたいな――というわけでほかにおすすめは?」
せっかく、の意味するところはまったく解せないが、少女は仕事と割り切って言葉を続けた。
「白川道先生の『最も遠い銀河』はどうでしょう。あなたさまも銀河の底に消えて二度と帰ってこないでくださいというわたしの祈りもオプションとして付けますよ」
「きみの熱き思いを投影したラブレターか、これは読まずにはいられないな」
「――すみません、撤回させていただきます。あなたさまにはやはり江戸川乱歩先生の『人間椅子』や夢野久作先生の『ドグラ・マグラ』がお似合いかと思います」
「ゆめのきゅうさく?聞いたことのない作家だね」
「書簡体形式の作品で有名ですよ。『瓶詰の地獄』も素晴らしい作品ですが、やはり日本探偵小説三大奇書の一つに数えられる代表作の『ドグラ・マグラ』のほうが、心の歪んだあなたさまが読んで共感できるかと思います」
打っては響く彼女の回答は一貫して明らかな嫌味であるにも関わらず、青年は楽しくてしようがないという様子で何度も頷いた。
「いやはや、さすがはこの町ご評判、盲目の文学少女さま!」
「……差別で訴えますよ」
そう言いながら顔を背ける少女の可愛さと言ったら、青年は少しばかりずるいと思った。
もし彼女の目はなんの不自由もなかったら、きっとすぐメロメロにさせることができるのに――と青年が馳せたその思いが有り得たかどうかはさておき、その間にずっと見つけられている少女としてはとても居心地が悪いわけで
「……これ以上見たらセクハラで訴えますよ」
と言われて、青年はやっとはっとなって目を離した。
「ごめんごめん、きみが相変わらず可憐で綺麗だからまたつい見とれてしまった――やっぱり好きだわ」
「うっ」
歯が浮くセリフをナチュラルに言うのがこの青年である。わがままでお調子者で、話してることがどこまでが本気かわからない。お坊ちゃんだから女性は選り取りみどりのはずなのに、目も見えず華もない自分にこうも臆せず好きと言い放ってしまう。それは少女にとって、複雑な心境をもたらした。
本を読まない人は嫌いと言ったら本を買って読むようにした。香水の匂いが嫌いと言ったら次に来た時にはつけなくなった。店主でもある父がぎっくり腰で寝込んだ時も、どこから聞きつけたのか青年は連日仕事を手伝いに来てくれた。目が不自由だからとこれまでもいろんな人が親切にしてくれた。けれどみんなどこか、やはり自分に同情しているから、そうしなければあとから周囲に後ろ指さされるから仕方なく親切にしているという思惑の糸をちらつかせた。友達だからと、いろいろよくしてくれた同級生たちも、結局は卒業したらみんなだんだん連絡しなくなった。
だからこの青年もきっといつか、いなくなる。もともと軽薄でお金持ちならなおさらだ。こうして自分に構えているのは気まぐれで、飽きたらぽいっと背く。たとえ自分を好きになってくれる人が現れたとしても、きっとブサイクか背がちっこくて、とにかく外見にコンプレックスを持つ人だろう。決して親が口を揃えてイケメンとか好青年とか称えるほどのこの男ではありえない。
ありえないはず――なのに、少女は可能性を捨てきれなかった。ありえない、甘い、ちょろい、メルヘンだとわかっていても、少女は青年に声に答える程度には彼を完全に突き飛ばすことができずにいる。
そして今も、青年の雲のような軽いセリフにおどおどしてしまった自分を少女は必死に押さえ込んでいる。
そんな少女の姿を、青年は愛おしそうに見守る。しばらく見守ってはどうでもいい世間話を始めた。この間父の仕事を手伝った時に会ったどうしようもない部下のどうしようもない愚痴。前に一緒に遊びに出かけた男友達の馬鹿エピソード。昨日の夜に食べたカレーに入った具。先週ここで買った本を読んだ感想。
誉田哲也の『月光』は普通によかったのに、別シリーズでどうして妖怪やら都市伝説やらが登場してるんだとか、湊かなえの『告白』は新鮮だったけど、同じ形式の別作品を読でもあまり驚かなくなったとか、泉鏡花の『外科室』は本編より紹介文のほうが綺麗だったとか――まさに文学少女と言われる彼女の逆鱗に触れまくったと言えよう。
だから少女はついに我慢できず、口を開いた。
「そんなにお気に入らなかったらもう読まないでください、ついでにここにももう来ないでください」
「なーに、これしきのこと。人生はもともと平坦な道を歩めるわけではない、好きでもないものに向き合うことに慣れないと。そして往々にしてこういった逆境の先に得られるモノのほうがより素晴らしいに相場が決まっている」
「……もういいですから、さっさと本を買って帰ってください」
「おっと気が付くともうすぐ1時間経つね、まさに光陰矢の如しだ……それで、おすすめの本を全部買って行きたいんだが、取ってきてくれる?」
「あなた、前に本の整理手伝ってくれた時、本の配置をだいたい把握しているようですけど」
「でも今日はお客さまだからね、きみの仕事ぷりを楽しむのも私の権利ではないかい?」
「……にいい性格してますね」
「お、ようやく惚れてくれた?」
「まさか」
少女はカウンターから出て、店内へ向かう。しっかりした足取りで机や本棚、立ち読みのお客さままで器用に避けながら目的地へ進む。流れるその後ろ姿はまるで一流ダンサーのごとく、青年は少し距離をあけてその軌跡をなぞるように続いた。
「私がきみなら、今ので私に惚れるところなんだけどな……」
「ナルシストさんですね、ま、意外でもなんでもないんですけど」
「それは違うよ。私はただ、自分なら言われて嬉しい言葉を言っただけ――特別扱い、されたくないんじゃないかなってね」
立ち止まる少女。
しかし青年は構わずこう続いた。
「きみも、初対面でひょんな事から私と言い争いになった時、私が大手企業の一人息子だと紹介されても『だからなに』って言ってくれたでしょう?それが私にはとても嬉しかった」
だからわかる。
青年は自分がボンボンゆえに特別視されることが、表には出さないが本当うっとうしく思ったから。だからこの少女もきっと目が不自由なために特別扱いされることが嫌いと思えた。
「……どうした?」
少女は立ち止まったまま振り返らない。
またさまざまな感情が絡み合い、自分が今なにをすべきか、なにを言うべきかわからなくした。そんな中で一つだけ抜きん出て激しい感情に任せて、少女は口走った。
「べつにっ!」
そして、また歩きだす。
かつかつと大股で、床を踏み抜こう勢いで一歩一歩。
「危ない!」
「いたっ」
しかし、勢い余って、少女は本棚に額をぶけてしまった。
「ははは!」
「わ、笑わないで!」
額を摩る少女、それを遠慮もなく腹を抱えて笑う青年。
二人が寄り添うのに、もうしばらくだけ、時間が必要のようだ。