藍鉄
ーなんで、あんたなんかが部長だったのよ。
ーあんたじゃなかったら、もっと上を目指せたのに・・・・
中学三年の東関東大会、私の全国への道は終わった。全国は固いという前評判をいとも簡単に裏切ってしまった。その失態は想像以上のものだった。責任のすべてが私に重くそして深くのしかかった。
橙を帯びたアスファルトに着地する足。夕焼けに照らされた高架下に五線譜から流れる音符。それを肌で感じることだけがわかる。風に吹かれて少し茶色がかった短めのポニーテールが川と同じ速さでなびいている。知らない制服に身を包んだ彼女が奏でるホルン。
「うわー、音が鈍くなってる・・・」
彼女はなにやら小さく、つぶやいた。
「・・・・・・・・あの」
自分のホルンの音に聞き惚れていたのか、俺に背を向けたまま彼女はこちらを見向きもしなかった。
「・・・あの!」
俺の声に反応した彼女はその時初めて俺にそのつぶらな瞳を見せた。
彼女は同窓会で昔の友人を思い出すように必死で考えていたようだったがそんな無理な答えが見つかるはずもなく俺に尋ねた。
「あの・・・以前、どこかでお会いしましたか?」
彼女の顔はなんだか渋かった。
「いや、その・・・・あまりにも綺麗で・・・音が」
俺から話しかけたのにもかかわらず、なぜか俺のほうが渋い顔をしていたのはなんだか斬新だった。
彼女は唖然と突っ立ち、俺は呆然と立ち尽くしている。この絵は第三者から見たらとても異質な光景にしか見えなかっただろう。その沈黙の中では、目の前で行われているサッカーのボールを蹴る音しか耳に入らなかった。
「・・・いや、なんでもないです。失礼しました」
気まずさと照れ隠しのため、俺は、いそいそとその場を立ち去ってしまった。その時はジョギングのペースをすっかりと乱し、荒れ狂った心臓の律動よりも速かったかもしれなかった。
「・・・いや、なんでもないです。失礼しました」
そう言って彼は走っていってしまった。私の音色が綺麗?そんなまさかとは思っていたが、こんなに単刀直入に言われるとあまり悪い気はしない。今まで私は上手い人の中で演奏を聞いたり、弾いてきた影響であまり自分の音が綺麗だとか優しいだとか気に留めたことはなかった。そう考えると、自分の演奏というものを客観的に捉えていなかったのかもしれない。
「逆光で顔までは正確には分かんなかったけどそれにしても、さっきの彼、すごく顔真っ赤だった」
私はクスッと小さく笑い、陽が落ちるまで練習に励んだ。
玄関を開けるとそこには母がいた、そして母が作ってくれたホカホカのご飯が出来ている。くだらない話で盛り上がったり、笑いあったりする。父とは海外勤めだが今時、携帯のひとつでもあれば海外であろうがなんだろうがすぐに繋がる。声を聞きたい時に電話をかけ、そして話す。こんな私のワガママも父は嫌な顔ひとつはしてるかもしれないが、電話越しで付き合ってくれる。そんな家族との時間が私には特別のものだと思っている。
「お風呂沸いたから、先に入っちゃいなさい」
「はーい」
私はお風呂から戻るとまず真っ先にホルンの手入れを行った。手入れといってもそんなたいそうなものではなく、ただ表面の汚れを落としたりオイルを塗ってピカピカに保つと、野球のグローブとかと変わりはないように感じる。もちろん野球はやったことはないが以前同じクラスの野球部員がそうしている所を見かけたことがある。
ホルンは金管楽器に分類されるのだが、木管楽器とは違い野外で吹くことができるのだ。普通、木管は日光に当てると木の部分が折れてしまうこともあるため、河川敷なんかで楽器を演奏してる人は金管が多い。しかし、どうしても外に持っていかざるをえないときには楽器にタオルなどを巻いてその場を対処する。
「あ、しまった・・・」
「オイル学校に忘れてきちゃった」
「まあ、明日学校に着いてからでいっか・・・」
「今日は汚れ落としだけにしとこ」
私はため息交じりに”マイホルン”をいつも以上にピカピカにした。
「あ、部活ノートも取らないと」
そんな今日の欄には嬉しいこともあった半面、今後の厳しさを物語るような出来事もあり、結局、複雑な心境だけを書き連なることになった。
鍵が開く音だけが俺の目の前に広がる。
脱ぎっぱなしの靴、
鬱蒼としたリビング、
一人にしては広すぎる自分の部屋。
そんな日常も俺の生活の一部となっていた。
もちろん楽しいと言えば嘘になるが決して文句の言える立場ではないことも重々承知していた。
母は今日も夜が遅いのだろう。ここ何日か母とまともに顔すら合わせていない気がする。
シャワーを浴びながら俺は淋しさを身にしみさせていた。
そこに置いてあるシャンプーもボディーソープもいつもとは何も変わらない光景なはずだったのに。
真っ暗の自分の部屋に明かりをつけ、一応勉強机には向かう。これでも、一応受験生だから形だけでもしないといろいろまずい。積まれた参考書の山を見てそう感じた。
「さっき、紺野にも言われたし。頑張るか」
虚しさを紛らわすために、声を出してみたがさほど効果がなかった。
「あの制服初めてみたな、この辺の学校じゃないのかな」
気がつくとさっきの女の子のことをふと考えてしまう。
「それにしてもさっき弾いてた子の音、綺麗だったな」
自分でもそれほど心に留めておいた自覚はなかっただけにさすがに驚いてしまった。
そのとき、なぜかその子が演奏していたメロディーが頭から離れなかった。
「あの曲はなんだったんだろう?」
淋しさや虚ししさを感じていたはずの自分がいつの間にか頭のなかで流れるその旋律に合わせて鉛筆を紙に走らせていた。
今日の課題を終えた俺は次に部活で大島に取ってもらった映像をテレビでフォームチェックをした。上半身の使い方や足の着地点など全体のバランスを意識することが主だ。中距離と言っても、バランス面で言えば、チェックする箇所は短距離や長距離などとたいして変わらない。一日一日が勝負の時になるので、こういう小さなことでも厳かにはしなかった。外は点々とした明かりが灯、暗がりのリビングを照らすテレビの前でたった一人でスパイクを磨きながらそう思った。
勉強もあまり手につかないまま就寝することにした俺は布団の中でも部活のことを深く考え込んでしまった。自分が周りからどう見られたいか、他の部員の信頼を得るにはどうすれば良いのか。
なにより、部長のような存在に近づくためには・・・・
結局、その夜はあまり眠れなかったがあの曲を思い出すとなぜだかあまり眠いとは感じなかった。
「また・・・・・・・会いたいな」
この時期にしては珍しく、朝霧が立ち込めていた。
冬時期なら何度か見たことはあったけど、十七年間生きてる私でもさすがに五月にこんなことは初めてだった。この日は五十メートル先に視界を合わせることが精一杯だった。鳥のさえずり、川が流れる音、車が跳ね飛ばす小石の音。視界がおぼつかない中、その日はいつも聞かない音が駅までの道のりをロマンチックに彩っていた。
「おはよー、ミナモ」
視線の先には目元にくまを作った源がローターに油をさしていた。
「ぁー、早希。おはよぉー」
「どうしてそんな眠そうなの?」
彼女は顔の半分くらいを占めそうな大きなあくびをした。
「どうしてぇってぇ、あんた。来週中間だよ。そりゃ、寝不足にもなるわ」
彼女の言葉ですっかり思い出してしまった。三年になって最初のテストだ。普段の授業はノートを適当に取りとり、家に帰ってもまともに勉強なんかしてこなかった。そのつけがいま回ってきたようだった。
「・・・・・・どうしよ」
古びた譜面台よりも、私の心はガタガタだった。冷静になればなるほど今自分が置かれてる、立場をまじまじと押し付けられる。
「ていうか早希は推薦で音大志望でしょ。いいんじゃないのテストの一個や二個くらい?」薄く伸びた目をこすりながら早希は言った。
「よくないよー。内心だって関わってくるんだから」
ミナモは相変わらずの調子で、私の話を聞いているのか寝ているのかはっきりしなかった。
私は楽器に注す油を取りに音楽準備室へと向かった。
ガラガラと扉を引くと中から、小さな木管のケースを持った部長が出てきた。今はもうすっかり朝霧は消えてしまったが、この人ならば何メートル先にいても見つけられるような気がした。
「すみません」
私がとっさに謝ろうとするよりも一拍早く、彼女は頭を下げた。
「いえいえ、私の不注意ですから」
慌てて私も頭を下げた。苦笑いを顔に貼り付けたまま、彼女と軽く目で会話をしてその場を立ち去った。
音楽室に戻ると部長が中心となって合奏の準備が施されていた。私は部員をかき分けながら、自らの席に戻った。
「もうはじまるよ」
すっかり、眠気も吹っ飛んだ様子のミナモはホルンに手を掛けた。
「うん」
私は晴れない気持ちを胸に秘めたまま、ピカピカにしたホルンに映った自分の冴えない顔とにらめっこした。
「今日はここまでです。ありがとうございました」
顧問がいなくなってから既に十日、部長はそつなく部長業をこなし、私を含めた三年生も上手く取り巻いている。大会まであとそんなに日数があるわけではないが、徐々に私達の気持ちに余裕が出始めていた。
「いや〜、やっと落ち着いてきたね。一時はどうなるかと思ったけどね〜」
「ほんと・・・・・よかったよ」
「早希どしたん?腹でも痛いんか?」
なんで、なまってるのか聞く気にもならいほど私は心身ともに疲弊していた。
「いや、別に」
四時間目の終わりを告げるチャイム。本来この時間から昼休みなのだが、私は訳あってこの時間にお昼ごはんは食べない。といっても、朝練で疲れ切って午前中に早弁をする習慣が根付いただけなのだが。私はクラスの友達からかき集めたノートを片っ端から写していた。
「また!?早弁したの?」
「夜までもたないでしょ?」
またもや購買で買ったと思われるヨーグルトと複数のおにぎりを両手で不安定そうに抱えたミナモの口が半開きになっていた。
「そっちこそ。よくそんなご飯で足りるね。どっかのOLじゃあるまいし」私はまだ一科目を写している最中で彼女の話はそっちのけだった。
彼女は早速一つ目のおにぎりを食べ終えようとしていた。
「双葉さん。頑張ってるよね〜、まあ他人事じゃあなんだけどさ。見てて結構無理してる感じするのよね、顧問がいなくなってからさらに一層」
最後の一口を飲み込むやいなや彼女は言った。
「あー、なんかわかるけど、あの人ってそういう所って前からだしなんか正義感強いみたいな感じ。別にいつも通りみんなを上手くまとめると思うよ。私達は今できることをしっかり果たす。それだけだよ」
「うわー。まっじめー」
彼女はヨーグルトに付いてるプラスチックスプーンをくわえながらつぶやいた。
そして私は白紙のノートにひたすら自分の鉛筆を動かした。
「おはよう!剛士!」
その覇気のある声は俺に限らず、他の部員の眠気をぶっ飛ばすにはもってこいだった。
「やけに、上機嫌そうだね。お!なんかいいことでもあったか?」すかさず彼は目を大きく見開いた。
「いや、特に何も」
「この間はあんなに落ち込んでいたからどうなることかと思ったけど。今日のお前を見る限りはそんな感じでもなさそうだね」彼は俺に親指を立ててニッコリと笑った。
本当に上機嫌でもなく、むしろ寝不足で体調不良の部類に入るのではないのかと感じる程だった。
しかし、部室の鏡が写した俺の姿には笑みがこぼれていた。
そんな自分と対面してみると、自分の感情なんてあてにならないことがよくわかった。
そんな想いを部室に置き去り、朝霧が立ち込めるグラウンドへと駆けてゆく。
ラスト一周の合図がかかる。これを聞くと体が勝手に反応してしまうようになった。入部したての時はこの合図が嫌で嫌で仕方がなかったのに、わずか三年間でここまで慣れるとは自分でも驚きである。
「徐々に調子戻ってきてるんじゃないか?」
大会を間近に控えているということもあり、柴田先生もあまり選手を不安にさせないように努めているのがその柔らかい表情でよく分かった。
「いえいえ。まだまだですよ」
自分でも少しづつではあったが上がってきたことに自覚はあったが、上がりきった息を懸命に抑えて先生を一瞥してそう伝えた。
「まだまだじゃあ、困るだろうよ」
先生もそれに気づいたのか、柔らかい顔を崩さずに冗談めかして言った。
そんな顔もつかの間で「三年だし、お前には特に頑張ってもらいたいからな」先生はスパイクのピンのような鋭い目つきだった。
俺は三年間、特に目立つことなくここまでやってくるつもりだった。
あの二年前のあの出来事さえなければ・・・
* * *
俺が高校入学したばかりの頃、小中共に一緒だった喜多嶋に誘われて入部したのが陸上だった。もともと彼とは親しく、幼い頃から何をするにしてもいつも一緒だった。学校の休み時間や放課後遊ぶ時でも常に俺の隣には喜多嶋がいた。
俺なんかより、頭も運動神経も良かった喜多嶋がなんでこんな近くの平凡な公立高校を選んだのか謎だった。本人曰くやる気がなかったと言っていたが本当のかとはわからない。
彼の実家は父親が開業医で病院を開いていた。二人兄弟の上の兄はもうすぐで医学部を卒業するらしく家はその後の進路で毎日話題が尽きないらしい。
俺と喜多嶋は入部直後に三千メートルに希望した。これも、俺ではなく喜多嶋からの勧誘だった。彼いわく短距離よりもトラックに入れる時間が長いからということだった。今考えるとこの選択が俺の未来を大きく狂わせたものだったのかもしれない。
当然運動神経の良い喜多嶋は一年の頃から頭角を現し、夏頃には三年生とも渡り歩くほどにまで成長した。一方の俺はそれまで運動なんて放課後に公園でサッカーや野球くらいしかしたことがなく、中学も部活動には入っていなかったため、まともに練習すらついていけなかった。
「いやー、辛いわ。まいった、まいった」彼は平然な顔で弱音を吐いた。
その当時の記憶だが、俺は初めて、つらさを通り過ぎると弱音さえも出せないことに気がついた。
弱音を吐いた彼を見ても俺はつくづくカッコイイと感じるようになった。
そんな夏が明けた頃だっただろうか、柴田先生が異様なまでに喜多嶋に肩を入れるようになったのは。そのため、その種目の他の上級生たちが喜多嶋のことをよく思うはずもなく、いじめには発展しないまでも雰囲気としてはあまり良いものには感じられなかった。俺は彼と同じ種目でも立場上の問題で何も言えず、ただそれを見つめている毎日だった。
「なんか俺、先輩たちから嫌われてるみたい」
とある帰り道、彼は反応に困る話題を嬉しそうに話した。
「・・・そうかもね」
「でもさ、それって要は俺が強いってことの証でもあるじゃん」
彼は周りの目なんかよりいつも自分が強くなることを考えていたのだとその時初めて俺は感じた。
「俺、喜多嶋のそういうとこ結構いいなって思うよ」
「そういうとこ?」彼は不審そうな顔つきでこちらを見つめた。
「前向きでガンガンいくとこだよ。言わせんなよ」
俺は照れるのを隠しながら、彼の肩を軽く叩いた。そんな毎日が卒業まで続くものだと思っていた。
そんな十月上旬のある日だった。いつも通りの喜多嶋との帰り道、住宅地に生い茂っている金木犀のいい香りが落ちかけた夕陽に混じってなんだか幻想的に感じられた。
「ちょっと、付き合ってもらっていい?」喜多嶋の口は小さくではあったが確かにそう動いた。
「あ、ああ。もちろん」
俺は戸惑いながらも彼の要望に答えた。喜多嶋は俺にこんなことを聞く子だったのかと俺は少し彼を疑った。
着いた先は、草がすっかり刈り取られてしまった河川敷だった。まだ少し青々しい匂いを残してはいるが、いつもより歩道が二倍近くに広がったように感じた。
俺と喜多嶋は刈りたてで刺々しい新芽の上に腰を下ろし、目の前で繰り広げられていた少年サッカーの練習をただ漠然と眺めていた。
「どうしたんだ、急に?」
「いや、たまにはこういうのもいいかなって」
いつも何事も完璧にこなし、何一つ苦労を見せて来なかった彼の表情には今日に限ってなぜだか余裕を感じられなかった。
「いや、俺さ。部活続けらんねーみたいなんだ」
俺は間に口を挟める時間も与えないほど彼は瞬時に言った。
「・・・・・え?」
それは俺の心から絞り出した精一杯の声だった。
「なんで、どうして?」
「うちの兄貴がよ。今年で卒業何だけど、海外で医者やるみたいで向こうで免許取るみたい。もちろん親は大反対だったよ、まあ俺はどっちでも良かったんだけど。正直どうでもいいじゃんそんなこと。決まったもんはしゃーないけどよ」
「どっちでも良かったって・・・・」
「別にここにいようが、向こうにいようが、俺は与えられた場所で最大限の力を発揮することだから」
「いや、そうじゃなくて」
「部活とかの未練はは全然ないよ」彼の冷血な声が俺の芯まで響いてきた。
その時なんだか、一段と川の流れが速まった気がした。
今までの俺と過ごした時間はなんだったのか、それを今の一瞬ですべてを否定された感じがした。
この時俺の足は少し震えていた、寒さや緊張ではない。
間違いない。
怖かったのだ。
今、自分の置かれている状況と向き合うのが。
恐らく喜多嶋は俺が感じているほど、俺に対してはなんとも思っていないし、ましてや部活に対しての想いもさらさらないのだと、そう確信した。
彼はこれまでの人生を作業のみたいに扱ってきたように感じた瞬間、俺は今までの彼と共にした記憶が走馬灯のように蘇ってきた。
彼と教室で過ごした記憶
彼と校庭で遊んだ記憶
彼と放課後共にした記憶
数えればきりがなかった。
そして、彼と高校で部活をした記憶。
それらの思い出の欠片が消えた頃には金木犀の厭わしい香りだけが鼻についていた。
* * *
スパイクをコンクリートの地に落とす。
いつも以上に跳ね返ってくる音が大きく聞こえた。
『お疲れ様でした』
帰り際の後輩に一応頭を下げ、部室に戻った。
部室はもぬけの殻だった。どうやらみんな早々と帰宅したようだった。辺りは汗と制汗剤のキツイ匂いが充満していたが俺は気にせず少々すり減ったスパイクピンを取り替え、ローファーに履き替える。
そして、ワイシャツ姿に着替えた俺の心のなかにはあの日から埋まらない空間があった。
鏡が写しているのは俺であって俺ではなかった。