紺鼠
「気を付け!礼!」
そんな紺野の野太い号令が 、グラウンドに降り注ぐ五月中旬の太陽の熱さにさらに拍車をかけた。
『お願いします』
「今度の記録会は県予選前最後だ。もちろん三年生は最後だが、一、二年生も今秋や来年につながる走りをして欲しい。みんなが自分の満足する走りを目標にやっていって欲しい。あとはコンディション維持に努めておくように。以上だ。」顧問の柴田先生はそう締めくくった。
俺のいる高校は決して陸上強豪校でもなければお金がある私学でもない。ただ、近いからという不純な動機で入学した。この時期になると当然部室の蒸し暑つさが男の匂いと制汗剤の匂いを包み込んだ。
おい剛士。すでに着替えを終えたマネージャーの大島が俺の隣に座った。「なんだ、元気ないじゃん」彼は俺と同い年だが、運動が得意でもなければ体格が大きいわけでもなかった。むしろ小さい方だった。
しかし、彼は部の中でも盛り上げ役として同級生や下級生の選手を毎日鼓舞している。
「そうか?」
あると言えば嘘になる。正直、不安だらけの毎日だ。大島のあとにしゃべるとなんだか俺が気分が乗っている人でも落ち込んでいる風に捉えられそうなくらいだった。彼がいると部の雰囲気が不思議と和むのだ。彼が振りまくその不気味なほどの優しい笑顔がきっと苦しいはずの選手達に元気を与えているのだろう。しかも、選手一人一人の体調管理も疎かにはしない。
「そうだよ!何年一緒にやってきたと思ってんだよ!」
「ほら、なんでもいいから話してみぃ」
彼のその黒い肌に浮かび上がる歯が一際白いことだけは分かった。ここまで周りの人に気配りが出来て、優しそうな性格がにじみ出てる人間はこれまで見たことがなかった。
「俺・・・上手く・・・走れるかな」
俺の口から出た言葉は自分にとって心にも思っていないことだった。
大島に相談したいことはそんなことではないと、自分でも分かっていたはずだった。同級生だから、なにより大島相手だからこその相談を・・・無論、彼は嫌な顔ひとつ見せずに真剣な表情だったが。
「上手く・・・・か」
彼にしては珍しく深く考え込んでいた。俺としては嘘でもハッタリでもなんでも適当に答えて欲しかった。部屋の中には先程よりも男臭さが増し、さらに鼻につくように感じられた。
「正直なところは・・・・・わからん!」
今の沈黙を取り払うかのように彼は声を張り上げた。俺は励ましの言葉の一つでも貰えるものだと思っていたから普段は感情を表にしない俺でもこの返答には流石に呆気にとられた。それでも、こういうところで本音が言える大島が本当に強く、そして大きく見えた。
「でも一つ言えるのは不安とか悩みを抱えたまま走ったら絶対ダメ!」
「後悔する!」
間髪を入れずに彼は助言してくれた。俺はその言葉に圧倒されながらも小さく頷いた。
「サンキュー・・・な」
俺は自身の素直に感謝しきれない部分に無性に腹が立った。
気がつくと部室には俺と大島だけだった。
「お前も早く帰れよな」
開けたドアから差し込む光よりも彼の白い歯のほうが今の俺には眩しく感じた。
そして、俺は解きかけのスパイクの紐に手を伸ばした。
ピピピッと鳴り出したスマホのアラームを寝起きで覚束ない視界のなか、懸命に停止ボタンを探した。
私の朝は早い。吹奏楽部の朝練は毎朝六時三十分からである。なぜそんな中途半端な時間からかというと、顧問の発案で部員の全員が始発に乗って間に合う時間がその時間だったからだそうだ。午後練は八時までという予定が組まれていた。私は吹奏楽の推薦で私学の強豪校に入学したため、片道は最低でも一時間半は必要だった。それゆえ、家ではこの三年間ほぼ寝るだけという生活になってしまった。もちろん、一年生の頃はこんな生活に慣れるまで結構苦労したもので、数分遅刻しただけでその日の練習に出さしてもらえない日なんかもあった。始まる時刻はきっちりしているのに、終わる時間刻が適当なのは日本の部活の悪いところである。
「いってきます」
お母さんを起こさないように小さくつぶやきそっと玄関から出て行く。世間でいうところのゴールデンウィークは終わり、外はもう太陽が新しい日差しを与えようとしている。
タイミングとはいつも悪いもので、こういう遅刻しそうな時に限って信号に足止めをくらったりするものなのである。しかし、遅刻しそうになれば走る。そうすれば、朝眠っている肺を強引に起こさせることができる。吹奏楽の基本は肺活量と腹式呼吸だ。どちらも基礎中の基礎だが、とても大事なことだ。そんな言い訳まがいの事を考えながら、私は薄暗さを残した河原に架かる橋駆け抜けていく。
下駄箱から走って音楽室まで来たから、身だしなみどころではなかったが。あらためて、音楽室の扉の窓を見ると”女子力”の欠片もなかった。髪はぐちゃぐちゃ、目の下にはクマがあるし、挙げ句の果てにはスカートの後ろ側がホルンのケースに引っかかって少し釣り上がっていた。実のところ私はそんなものとは縁もゆかりもないのだが。吹奏楽部は清楚で女子力の塊みたいな風潮があるがそんなのはただの迷信のような気がする。
「おはようー、早希。あんた、あいかわらずだねぇ」
「パートリーダーがこんなんでどうすんのよぉー」
苦笑いを交えながら譜面台の高さをセットしているのは、同じパートの源文代だ。本人曰く名前が昭和臭くてあまり好きではないようで、周りからは名字で呼ぶように言っている。
「いやー、ミナモ。ごめん、ごめん。電車一本乗り過ごしちゃって」
上がった息を押し殺すようにゆっくりと話した。ちなみに私は彼女のことをミナモと呼んでいた。個人的にはそっちの方が何かのゆるキャラみたいで親しみやすかったからだ。
「というか、よくそんな朝から身なり整えられる暇あるよねー」
私は冗談まじりで少々皮肉っぽく言った。
「いや、私ってこっから家近いからさ。家から歩いて二十分もあれば着いちゃうのよ」
彼女に格の違いを見せつけられたところで後輩達が次から次へとあいさつに来た。
私達の吹奏楽部は八十名ほどの部員が在籍しており、朝練は顧問の先生しか来れないので、基本はパートごとに分かれて練習する。というのがうちの学校のやり方だ。
「先輩、ここからここまでの音のコントロールが少し難しいんですけど・・・」
パート練ではこういう個人的な練習に重きを置き、合奏などに備える。私は自分を含む三年生は自分の役割を見つけてしっかり果たす。そういう一つ一つの積み重ねが団体競技には欠かせない。
「音のコントロールって音がこもるとか音程を保つとかかな?」
「そ・・・そうです」
「少し、見ててね。ここは、こうやって」
確かにこの部分は少し複雑だった。私も一度、つっかかった箇所だっただけに今度は自信を持って吹けた。
「こんな感じ?」
今私ができる最大限の役目を果たしたが、後輩がどう感じ取ったのかは分からなかったので、内心かなりビクついていたが、それを後輩に悟られまいと少し顔をこわばらせた。
「す・・・すごく・・・柔らかくて素敵な音です」
彼女はあまり人前で話したりするタイプではなかったが、嘘はつかない子だった。そんな素直な感想を聞いた私は今日の記録欄は少し活気がつくような気がしたので笑みがこぼれた。
「ありがと」
それにつられて彼女の顔も少し緩んだ。
今日の放課後、部活の前にパーミー(パートミーティングの略)だって。購買で買ってきた惣菜パンを手にしたミナモがけだるそうに言った。なぜかミナモの方がパートリーダーの私よりも、情報が早かった。
「なんで、またこんな時期に?」
「知らないよ。パートリーダーでもあるまいし」
じゃあ、なんでこの情報を知っているのかツッコミを入れようとしたその時だった。
「北条さん。少し、いい?」
私のクラスの後側のドアにたたずんでいたのは、部長の双葉 逞良だった。教室に吹き込む風が彼女の純白のYシャツとその長い黒髪をなびかせていた。清楚で可憐でその美しさに加え、誰も近寄せない圧倒的なオーラを発していた。
「あの・・・どうしたの?」つい声が上ずってしまった。
近くで見るとその澄んだ黒目は観るものを寄せつけないように感じた。私とはまるで正反対で雲の上のような存在だった。
私は心許なく、質問させてもらった。
「ごめんなさい。急に呼び出したりなんかして、今日の放課後部活の始まる前にいつものところで少しパートリーダーだけで話し合いたいの。それだけだから。ありがとう」
彼女のオーラや雰囲気は私に踏み込ませるだけの隙も見せなかった。そして、彼女は颯爽と廊下の人混みの中へと消えていった。そして窓に映る自分はまだ少し髪に癖がついていた。
私は六限目が終わると、机に乗っていた教科書やプリントをなりふり構わず、かばんに押し込んだ。
「うわー、なんでこういう時に授業延長しちゃうかなー」
私は、小走りでパーミーが行われる、部長の教室へと向かった。
扉を開けると、もう他のパーリー(パートリーダー)達はすでに集まっていて和気あいあいとした雰囲気だった。
すいません。私は、それだけ言って自分の席に着いた。
「まあ、ずいぶんな格好ね」
部長は口の端を引きつらせながら、そう言った。それもそのはず、乱れた髪の毛はともかくカバンから少しはみ出したプリントが強烈なインパクトを与えたようだ。神様というのは皮肉なもので、そういうときに限って席が隣だった。
「・・・・すみません」
うつむいた時に、私の頬に熱が帯びてくるのがわかった。
うちの学校のパーミーでは部長が司会と書記を兼用していた。三年生のなかでも、部長の存在は別格だった。その可憐な見た目とは裏腹にどんな些細なミスでもきつく叱りつける。それがたとえパートリーダーや初心者でも。そんな部長をあれこれ指図する者なんかこの学校では見たことがなかった。もちろんそんな些細なミスもせずに自分の役割をきっちり果たしているからこそみんなから尊敬されているのだろう。
「単刀直入に申します。顧問の奥野先生が持病を悪化させたとのことで急遽入院することになりました。」
教室がざわつき出したところで、部長がパンパンと両手を軽く叩いた。
「いつごろ、退院できそうなの?」
私はつい気になったことをそのまま口走ってしまった。
「私も今朝知ったことだったので、申し訳ないです・・・・」
彼女はあたかも自分の失態をさらしてしまったかのように謝った。
『どうして、部長さんが謝るんですか』
『成るように、成るしかないですよ』
他の人達からも次から次へと気遣いの言葉が飛んだ。しかし、私は頭の中がごちゃごちゃし過ぎてそれどころではなかった。しかし、彼女がこの状況の深刻さ一番感じていることはそばにいて肌で感じた。顧問がいないその期間の大会や練習はどうなるのか。統率力が多少なりとも下がり、部の士気も当然下がる。なによりも不安で頭が一杯になってしまう。もちろん部の全員でカバーし合う必要はあるのだが、それだけでも足りないのである。
「・・・なので、今日はこの後みんなに事情を話してその後に解散という形にしようと思います」
部長は平然をよそおって、今度は優しい笑みを浮かべて今回のパーミーはお開きとなった。
こんな明るい時間に帰れたのは本当に久しぶりだった。先程の事情を聞いた人の中で慌てているものもいれば、呆然と立ち尽くしているものもいた。
「よりによって、この時期とはねー」
ミナモは淋しさと呆れが混ざったような声で言った。彼女はどちらかと言えば先程の前者にあたる方だった。
「ホントだよ。でもしょうがないから、明日からに備えるしかないよ」
「そうだね、深く考えても仕方ないか。よおぉぉし!明日もがんばるぞい!」
「なんじゃそりゃ」
「いいじゃん。なんでも」
私たちは毎日こんな中坊くらいのやり取りをしていた。
今日は少し吹き足りないないから、河川敷でもいくか。そう言って私は近所の河川敷に足を運んだ。
『部長は凄いよ』
”今日も夜は遅くなるので、温めて食べてください。 母より”
物心がついたときには俺の隣にはいつも母がいた。父とは俺が生まれてすぐに離婚したため、俺は顔も知らない。母は朝から晩まで仕事に明け暮れる毎日で最後に一緒に出来たてのご飯を食べたのはいつだっただろうか。それでも、そんな母に育てられて何一つ不満はないと言ったら違うかもしれないけど、俺にはそんな生活で満足だった。
”でも一つ言えるのは不安とか悩みを抱えたまま走ったら絶対ダメ!”
”後悔する!”
その言葉を思い返してみると、大島に貰いたかったアドバイスは走りに対してのものではなかったのかもしれない。そして、電子レンジの音がこの鬱蒼とした部屋をこだました。
雨が降っていない時に限っては俺は毎日、クールダウンを兼ねてストレッチとジョギングをすることが日課になっていた。いつもは暑くて陽が上がっている時はなかなか行けないので、陽が落ちたのを見計らって行くようにしている。でも、今日は昼間とは打って変わって、だいぶ涼しかったので、いつもよりも早く家をでることにした。
公園につくとまずは準備体操ではやらないような静止系のストレッチから始めて、公園に備わっている健康器具類を使って軽く体をほぐす。そして河川敷を通って帰ってくるという距離にしておよそ五キロくらいのコースだ。まだ明るかったこともあり、幼稚園児くらいの子連れの親から中学生くらいの男の子達の姿も見えた。
一通りのメニューをこなし、河原に行ってみると残念なことに雑草が伸び切っていただけの殺風景だった。この辺りは本来この時期になると、菜の花が綺麗にみえるはずの場所だった。
「おい剛士か?」
振り返るとそこには紺野が立っていた。普段のタンクトップ姿からうっすらと見える腕の筋肉も今日は見事にコーデされていた”テーラードジャケット”で隠れていた。
「おお・・・・紺野か」
「どうしたんだよ、こんなとこで?」
俺はこの近辺で知り合いにあったことは一度もなかった。そんな場所だから密かに気に入っていた部分もあった。
彼はお前の方こそどうしたんだ?という不思議そうな顔を浮かべていたが、そんな素振りも一切見せずに淡々と話してくれた。
「練習か、偉いな。俺は今から塾行かないと、これでも一応受験生だからさ」
彼は神妙な顔つきで苦笑した。
「練習も大事だけど、くれぐれも怪我とかには気をつけろよ。大会控えてるんだし。あと勉学の方もな」
彼は冗談めかしてそう言って立ち去ってしまったけれど、いつも他人第一に考えてくれていることは他の人とは一線を画していた。
伸び切った雑草、鼻につく菜の花の匂いそれらにつられるかのように走る人々。高架下の段差には学校のカバンや空っぽのホルンのケースが荒く置かれていた。
私はまだ少し不安を残していた。今だって、どのパートもパート内でまとめるのが一杯一杯だしこんな時だからこそとか言ってる人もいたけどあまり現実的ではなかった。部長はなにを考えて行動しているのかあまり読めないし、かといって無理やり踏み込んでいくのも違う気がする。違う方向に向かわなければいいのだが。
高架下に吹き抜ける風と共にチューニングB♭の音階が空に向かって飛んでいった。
見えない壁。俺はそんなものを感じる。自ら作ってしまっているのか、それとも部長があえて作り出しているものなのかは分からなかった。穏やかに流れる川のスピードに走りを合わせながら考えた。
そこにふと、菜の花の独特な匂いに乗って、一つの旋律が耳に入ってきた。その音はこの荒れ果てた河川敷を色付け、俺の気持ちをも包み込んでしまうようなそんな柔らかくてやさしい音色だった。