プロローグ
おーい丘村。そう後ろから言われれば嫌でも振り向かざるをえない。
「仕事も早く終わったし、ちょっとこの後付き合ってくれよ」
俺の後ろには、長身でほどよい筋肉を身にまとった同期の高田が立っていた。一方の俺は細身で色白といういかにもパッとしない典型みたいな人物だった。
俺とは全く違う人生をこれまで送ってきたことは、オーラや風格、なによりその自信に満ちた瞳を見れば一目瞭然だった。それが良いことなのか悪いことなの分からないが、今はこうして同じ会社の同期として生活しているわけだから何が正解なのか俺にはよく分からなかった。
「明日も朝早いからなー。ごめん。また、今度誘ってよ」
そう言って俺は一人で帰った。
俺はこういう人付き合いが昔からあまり得意な方ではないし、自分自身でもそれは充分に自覚している。そのため、あまり集団生活に上手く溶け込めなかった。朝は満員電車に潰され、帰りは帰宅ラッシュに巻き込まれる。大人になったらいつも見えている街並みがもう少し澄んだ景色に見えるのではないかと、期待を膨らませていた昔の自分がなんだか惨めになってくる。帰り道、夕日に染まった川の上に架かる橋を横切るのことをなにもいとわなかった。この川も散った桜の木も刈りたての草も今となってはもうただの”風景”でしかなかったからだ。
しかし、七年前あの日この場所で聞いた音色によって作られた”景色”は一度も忘れない。
「丘村!ラスト!ラスト!、上げろ〜!!」
校庭の脇から見守る同級生や後輩の激が酸欠で倒れそうな俺の耳に届いた。
「二着;丘村剛士」
顧問の柴田先生の乾いた声がトラックにとどろいた。
残ってるすべての気力を使い切った俺はその場に倒れ込んでしまった。
薄っすらだったが、部長の紺野が鬼の形相で駆け寄ってきてくれたことだけは分かった。
目が覚めると俺は保健室の一室で寝かされていた。付き添いとして、俺よりもさらに小柄な長距離専門の後輩の二年生が一人いただけだった。彼はまだ二年生だったが実力も人間性もしっかりしており、来年の主力であることには間違いなかった。
「あ、起きましたか。あんまり、無理しないでくださいよ先輩しばらく安静ですよ。まだ県予選控えてるんですから。いま先輩に怪我されちゃうと今年うちの三千mの枠ありませんからね」彼は口の端をつりあげ、苦笑しながらそう言った。
「あぁ・・・・」
そう返答したものの、俺は三年生唯一の三千m走者だし、人柄上あまり他人に心を開くことはなかったからこういう一人でどうしようもなくなった時には凄く不安だったし、ましてや最終学年になってから思うような結果がついてこず県予選を突破できるかどうかも怪しかっただけに後輩からもよく思われていないのではないかとも思っていた。最近になってようやく復調の兆しは見えてきたがそれでも突破が精一杯だろうと自分でも少し負い目を感じていた。
「・・・・・部長は?」
俺は唐突に話を変えてしまったことなんか気にならなかった。
「あんな部長初めて見ました。凄い必死で先輩を保健室まで運んでいったんですから。ほんと凄かったんですよ」彼は俺が信じていないかのようにつぶやいた。
俺は相槌を打つのが精一杯で、内心嬉しくて言葉が出てこなかった。
「・・・・ありがとな」それが、部長にに対する敬意でも後輩に対して感謝の気持ちでもなかったように感じたのは俺自身がまだ未熟だったからだろう。それだけ言うと、俺はまた少し眠りについた。その一言を後輩の子はどう捉えたのかはわからなかったが、俺としては心身ともに少しだけ癒やされた気がした。
家の玄関を開ける頃にはもうすっかり陽は落ちきって一戸建ての我が家の光が一つの目印のようになっていた。
「おかえりなさい。遅かったわねー」
そのお母さんの声と共に夜ご飯の香ばしい匂いが漂ってきた。
「部屋に戻ったらお風呂に入っちゃいなさい」
この年になると清潔さよりも食欲が勝ってしまう。正直、いますぐにでも夜ご飯を食べたいくらいだ。
「はーい。わかった」
私は不満げな返事を返して浴室へと向かった。
「それで、どうなの部活の方は」
お母さんは興味津々そうに聞いてくれていたが私は目の前に広がるご飯があまりに美味しすぎてそれどころではなかった。もともとお父さんは単身赴任で海外務めで、日本に帰ってくるのは一年に一度くらいだ。そんな生活を始めてもう四年は過ぎる。
「あーうん、普通だよ」
「本当に?」
お母さんは訝しげにそう言った。
実のところを言うと、全然普通じゃないなと私が言ってからまじまじと思った。
まとまりはないし、一人一人の意識も低い。そろそろ最後の大会も控えているのに・・・
「ごちそうさま」
ご飯の時間だけが私の悩みを忘れさせる唯一の時間だった。
部屋に戻った私はその日の部活の出来事をノートに記録することを日課にしている。
しかし、最近の記録にはネガティブ要素でぎっしり埋め尽くされている。
頭が痛いな・・・本当に。どうやったら上手くいくのかな。毎日、悩みの連続で頭が割れそうだ。
そんな冴えない私、北条早希の顔をホルンが映し出していた。