9.再生
寒い、冷たい、息苦しい。
ああ、またか。銀色の髪をした男は一人嘆息する。自分が何をしていたのか欠片も思い出せないけれど、これが夢なのだということだけは理解できた。ここは後宮にある蓮池。その昔、側室の子らから虐めを受けた場所。
まだ幼い少年の姿で、男は溺れている。東国人が好む可憐な白い蓮の花は、泥中にしか咲かない。だから、突き落とされる池の中は暗く澱んでいて、もがくことしかできないのだ。空の青は遥か遠く、ただ己の白い腕が見えるばかり。
ああ苦しくて、たまらない。水の中は酷く冷たくて、凍えてしまいそうだ。いっそこのまま死んでしまいたい。そう思う一方で、自ら死を選んではならぬのだと頭を振る。母の命と引き換えに産まれた己に、その命を捨てる権利などあろうはずもない。
王の落とし胤とは言われるものの、後ろ盾さえない子ども。整った容姿は余計に反感を買った。大丈夫だ、いつものように息を潜めてじっとしていればいい。泥水を飲んでも、死ぬことはないのだ。抵抗さえしなければ、この残酷な遊びもすぐに終わる。死んだ鼠を猫が捨て置くように。
もがくのをやめて己の腕で体を強く抱きしめてみれば、その温もりをどこかで教わったような気がした。自分を抱きしめてくれる人間などこの世界のどこにも存在しないというのに。誰かの名前を呼びかけて、男は口をつぐむ。自分を助けてくれるのは兄ではなかったのか。
あの酷く狭い世界の中で、男を認めてくれたのは次期東国の王と目されていた一番上の兄だった。そんなに血の繋がりが心配ならと、気に入りの英雄譚のように兄弟の契りを交わしてくれた好漢だ。
夢の終わりに出てくるのは、兄が差し出す逞しい手。それをもう何度も繰り返してきたというのに、いつまで経っても救いの手は伸ばされない。常とは異なる様子に、男は胸が苦しくなる。もしや、自分は兄にも見捨てられたのではあるまいか。不安が広がる。
ふわり。突然、目の前を赤い金魚が通り過ぎた。男は首を傾げる。実際の蓮池でも、夢の中でも、金魚や鯉の類などついぞ見たことがない。一体、何が起きているのか。
よくみればそれは、白くたおやかな小さな掌だった。目の前に現れたそれには、爪紅で染められた美しい爪が生えている。誰だ、この掌の持ち主は。指先を彩る赤い爪は、ゆらゆらと金魚の尾のように揺れる。男を誘うように、何かを乞うように。
この掌を知っている。不意にそんなことを思い、男は困惑した。人を愛した記憶もなければ、愛された記憶もない。たおやかな女の手など、知り得るはずもないというのに、どうしてこうも胸が騒ぐのだろう。
まるで自分を探すように動く女の手。おいでおいでと、掌は揺れる。ゆらり、ゆらり、ゆらり。
「雨仔」
鈴の音を転がすような、涼やかな声だった。
「雨仔」
何度でも聞いていたくなるような、愛しい声だった。
「雨仔」
三度そう呼ばれて、男は全てを思い出した。
気の強い女だった。そして凛と咲く紅梅のように、鮮やかな輝きをその身から放つ、美しい女だった。
女の力強い目を見て、男は一目で女が気に入った。女人はこれくらい気が強い方がいい。男を頼らねば生きていけぬご令嬢などより、男など踏み潰すような強かな女の方が男は好きだった。
だからこそ男はこれ幸いに、女の要求を受け入れた。弟がこの女になびかなかったことが男には不思議でならなかった。そして、女を手に入れる幸運を素直に喜んだ。
女はいつも怒ってばかりいた。自分はすべて女の要求に応じているというのに、それは結果的に火に油を注ぐことになるのだ。けれど、毎日女の顔を見るだけで幸せだった。縮まらぬ距離をもどかしく思いつつ、少しずつ増える会話に心が弾んだ。
つんとそっぽを向いて拗ねてみせるのも、苛々するとつい爪を噛んでしまう癖も、気怠げに煙管を吸う仕草も、すべてが愛おしかった。
先ほど己の腕に懐かしさを感じたのは、女に一度だけ抱きしめてもらったからだ。指一本触れるなと言っていたはずの女に優しく抱きしめられた時、男は初めて許された気がした。母を殺す原因となった己であっても、この世界で生きていて良いのだと言われたように感じたのだ。
男には女の気持ちはわからなかった。たとえ、末弟のことを好きなままでいても構わないと思った。あれは兄である自分から見ても良い男である。長兄を見ても末弟を見ても、男にはまぶしすぎるのだ。女が望むならば、清い結婚でも構わない。隣で女の笑顔を見ることができるならば、それ以上の幸福はないと思った。
雨仔と自分を呼ぶ女が愛しかった。聞きたくもないと捨て置いた男の名前を、半分当てていると知ったならば、女はどんな顔をしただろう。言ってみたくて、けれどそれを知れば、女は二度と「雨仔」という自分の愛称を呼ぶことはないだろうと容易く想像できて、男は名前に関して口をつぐんだままでいた。
男の名は、「雨涵」という。正直に言えば、まるで女のような名前であり閉口していた。下世話な勘ぐりをされることもしばしばで、名前で良い思いをしたことなどない。
けれど、母が考えた名前だったから共に生きてきた。母の生まれ故郷は、王都よりもさらに乾燥した土地だと聞く。そんな場所で雨は何よりも尊く、恵みの象徴だった。
雨のように涵し、涵す。愛情を与えられないはずの子どもに、愛が降り注ぐように、そして人を愛せるようにという願いを込めた母を想う。何も知らないまま、自分のことを「雨仔」と呼んでいたなんて知ったならば、女は何と言って怒るだろうか。
最後に見た女の顔は、泣き顔だった。こんなはずではなかったと言わんばかりの顔は、うっかり東国の執務室をめちゃくちゃにした義姉の飼い猫に良く似ていた。泣き顔さえも愛おしくて、男は女が無事で良かったと心から安堵した。
もっと玉璽の危険性を説明していれば良かったのだろうか。けれど詳しい情報を知ればまた、逆に女の身を危険に晒すことになっただろう。手をこまねいているうちに、結局こんなことになってしまった。貴女のせいではないのだと、伝えられたなら良かったのに。女の心を傷つけ、きちんと謝れなかったことだけが心残りだった。
香梅、愛している。
女はいつか自分のことを忘れるだろうか。それが女にとっての幸せだと知りつつ、覚えていて欲しいと切に願う。不器用な自分だったけれど、女に捧げた愛は心からのものだった。想いの証がこの命であるならば、今までの言葉足らずもまた贖えるように思う。
男は心を決める。目の前で揺れる白い手をとった。きっとこの手の先には、泰山が待っているのだ。魂魄だけになっても、女を見守れるならありがたい。
いつの間にか、男を取り囲む澱んだ池の水は何やら暖かい物に変わっていた。先ほどまで少年の姿をしていたというのに、今は最後に女に会った時の格好のままだ。腹に受けたはずの傷は、何とも都合の良いことに見当たらない。
とろりとしたそのぬるま湯のような水の中はとても温かくて、自分をひどく安心させる。母親の胎の中というのは、このようなものなのかもしれない。視界は先ほどまでと同じく暗いままだというのに、今ここにあるのは、ただただ柔らかな微睡みばかり。
とくとくという規則正しい音を耳にして、男の意識はとろりとまたとろけてゆく。収束していた思考はばらばらになり、もう何も掴めない。
ふわりと薄闇が集まって、女の顔になる。泣き顔に、怒り顔、くるりくるりと表情を変えて、柔らかな微笑みを浮かべた。最後に見るのが初めて愛した女とは、運命もまた粋なことを。冷たい蓮の池で死ぬことを思えば、僥倖ですらある。
男は小さく息を吐いた。
柔らかな夢は終わりだ。暗い世界は、ゆっくりとその形を崩してゆく。まるで夜明けのように、白い光が男の世界を満たしていった。