8.後悔
百夜まで片手で足りるほどになった頃。雨仔は、西国産の葡萄酒を片手にやってきた。珍しくこの男、酒を口にしてきたらしい。白酒の残り香で思わず顔をしかめれば、掠れた声で謝られた。
白く透き通る葡萄酒は香梅が好むもの。まるで何かの儀式のように、男は厳かにそれを女に差し出した。口の中でとろりと広がる液体は、甘く瑞々しい。百夜を迎えた時、この男は何と言って自分を求めてくれるのだろうか。不意に男が口を開く。
「香梅殿」
男の眼差しは確かに熱を帯びている。躊躇いがちに言い淀むのを焦れったく思いながら、女は夢心地で男を見つめ返した。
「どうか玉璽を返して頂きたい」
それは、予想外の言葉だった。一瞬にして熱が冷める。蕩けていたはずの意識が、冷や水をかけられたかのごとく覚醒した。今、この男はなんと言ったのか。睨みつければ、男は静かに繰り返した。
「貴女のためだ」
身の程を知れということなのだろうか。男の心が、女にはわからない。悲しいはずなのに、涙ひとつこぼれなかった。妓楼で囁かれる愛など、所詮まやかし。一体自分は、男の何を見ていたと言うのだろう。不幸な生い立ちを話して、客の同情を引くのは自分たち妓女が使う常套手段ではないか。騙される方が悪いのだ。
「……帰ってちょうだい」
女は酒の入った杯を投げやりに置くと、男を片手で追い払う。心が触れ合っていたと思っていたのは、自分ひとりだった。情けなくて、恥ずかしくて、何より寂しくてたまらない。何か言いかけて、男はゆっくり頭を振ると部屋を出て行ってしまう。言い訳さえもしてくれないのか。
残っていた酒を一気にあおれば、先ほどは心地よく感じられた甘さがひどく気に障った。二度と取り戻すことのできない、幼い頃の夢のように。酒の味を忘れたくて、煙管に火をつけた。窓辺に座り外を見ていれば、そっと自分に寄り添う者がいる。
「信じてやらないのかね」
揶揄うように問いかける兄代わりが忌々しい。もう二度と顔も見たくない、そう言おうとした女の唇は、男の細く長い指でそっと押さえられた。そのまま主人は香梅を優しく抱きしめる。芳しい香りに包み込まれて、けれど何かが違うと女は思った。女が欲しいものはこんな風に何でもお見通しの男ではなく、どうしようもなく不器用な、雨の香りがする男の方だった。
「心にもないことを言ってはいけないよ、小梅。その言葉は、口から出てしまえば力を持つ」
ゆっくりとその手で髪を梳かれ、女は目を閉じた。ひんやりとしたあの男の手が恋しいと思いながら、女は唇を噛みしめる。また、雨が降り出した。恋しい男の気配が残った部屋でただ一人眠ることができなくて、女は幼い頃のように兄代わりの隣で眠った。
翌日のこと。部屋に戻った香梅は首を傾げていた。どこか様子の違う部屋をぼんやりと眺め、女は気がつく。鏡台に置いてある小物入れ、その中に確かに入れたはずのあの玉璽がなかった。へなへなと香梅は座り込んだ。男が持っていったのだろうか。いや、まさか。男はあの時黙って引き下がったはずだ。
「お探しのものはこれかね?」
聞き覚えのある声が、女に問いかけた。どこから入り込んだものか美丈夫が一人、女の部屋の窓辺に腰掛けている。その堂々とした姿と不遜な物言いには確かに覚えがあった。騎士団長だ。任を解かれたのが本当であるのならば、頭に「元」がつくはずだが。
「性懲りもなく、何の用なの」
女は苛立ちを隠そうともせず、男に向かいあう。勝手に女の部屋を荒らすような男だ。玉璽の使い道が碌でもないことだけは、はっきりしている。
「先日は大変世話になったので、その礼にね」
あの一件で多くのものを失ったのだろう。男は、憎々しげに女を見下ろしていた。
「あら、騎士団長を辞めて今は悠々自適にご隠居生活かしら」
「お前のような阿婆擦れのせいで!」
軽口を叩けば、男が手を振り上げた。身をかわすことも出来ずに、女の細い体があっけなく宙を飛ぶ。女の髪を無理矢理掴み上げると、男はことさらいたぶるように女の頬を打った。
「まったく忌々しい。その目をえぐり出して、お前の兄のように瞽にしてやろうか!」
口の中に広がる鉄錆の味がひどく不快で、女は男に唾を吐きかけた。すぐさま、したたかに反対の頬を打たれ、女は小さくうめき声を上げる。
「宰相殿がお前のような女に入れ込むなどおかしな話だと思っていたがね、まさかこんなものを持っていたとは。たいした女だ」
女はようやく理解する。あの夜の言葉の真実を。貴女のためだと言った男に嘘偽りはなかった。良からぬ企みを雨仔は知っていたのだろう。男は心から女の身を案じていた。
理由を話してくれていたならば。そう思いつつ、それでもきっと信じなかったであろうなと、女は反省する。圧倒的に言葉が足りない男と、乾ききった砂のように愛情を欲しがる自分。何と仕様もない組み合わせなのだろうか。香梅は、小さく笑う。その笑いをどう受け取ったのか、首を絞める男の力が緩んだ。
「あたしに、近づくなと言われていたのではなくて?」
「殺してしまえばいい話。死人に口無しとはよく言ったものじゃないか」
息も絶え絶えな女を前に、男は酒に酔ったかのように朗々と語ってみせる。
「誰があんたの言うことを信じるって言うのよ」
「信じるさ、この玉璽があればね」
ぐっと唇を噛んだ女を見て、男は楽しそうに話す。その通りだ。書類を偽造したところで、押印されているのは本物の玉璽なのだ。たとえ出鱈目な内容でも、正当なものとして処理されてしまう。わかっていたことではないか。玉璽がどれだけ重要なものなのか。
「さあこれで、あの男もおしまいだ」
女の前で、男の剣が鈍く光る。どうしてだろう、怖いとは少しも思わなかった。ただ、自分が宰相の足手まといになってしまったことが情けなかった。
「さあ、泣き喚け。下賤の分際で、逆らったことを後悔するといい」
命乞いなどするものか。女は男をきつく睨みつける。この男に跪くなど、香梅の誇りが許さなかった。剣が振り下ろされる。そう思った瞬間、男は己の背後に向かって剣を大きく振りかぶった。その一撃を受け止めたのは、雨仔だ。
「さすが東国の狗は鼻が効く」
嘲るように狗と呼んでも、顔色一つ変えない男を見て、騎士団長は苛立ちを覚えたらしい。男をえぐる言葉を探すように、ゆっくりと雨仔ではなく、香梅に語りかける。
「そこの女、知っていたかね。この男の東国での呼び名は、長兄のお小姓様だ。さぞたっぷり可愛がられたことだろうよ。偉そうな顔をして宰相などやっている男だが、用済みとなって西国に捨てられた人間さ。お前のような下賤の女に相応しい、下賤の男だということよ」
端正な雨仔の顔に朱がさした。男たちの剣がぶつかり合う。
「わたしのことは何と言われても構わないが、兄と妻を貶めたことは許せぬ。撤回してもらおう」
「撤回も何も事実を述べたまで。お小姓様も、もう少し頭が良ければ長生きができたものを」
「何を寝惚けたことを」
こんな状況だというのに、「妻」という言葉が嬉しかった。雨仔と玉璽を手に入れた男の勝負は、互角である。騎士団長を務めた男が手練れであることに加え、雨仔は女を守りながらの戦いである。どうしても防戦一方だ。
「西国はやはり西国人の手で治めるべきだ。宰相殿はこの土地の風土が合わずに、新婚のまま奥方と共にお亡くなりになられたという筋書きで、丸く収まる。なあに、東国は遠い。心配召されるな」
手前勝手な御託を並べる男が忌々しい。何より、男の足手まといになる自分が嫌だった。もう一度剣がぶつかりあう音を聞いて、扉に向かって駆け出した。男二人の叫び声が重なりあう。一瞬、鋭く稲妻が光った。
何が起きたのか、女にはわからなかった。ただ、騎士団長だった男は倒れ伏したまま、もはやぴくりとも動かない。歩き出そうとして、女はようやく自分が腰を抜かしていることに気がついた。
「怪我はないか?」
ゆっくりと苦しそうに男が這いつくばりながら、こちらに手を伸ばしてくる。どうしてこの男は、四つん這いで動いているのだろう。人間とは、二本の足で歩く生き物ではなかったか。
声も出せないまま、必死に香梅が頷けば雨仔は安心したように微笑んだ。男の瞳には、確かに女への愛情が滲んでいた。なぜこの男は責めないのだろう。今思い返せば最初に出会った時から、この男は玉璽の危険性を認識していたのだ。ちっぽけな見栄のために、玉璽を渡さなかったのは自分の咎である。
「無事で良かった」
どうして。思わず涙が溢れる。大切な宝物を愛でるかのように、そんな甘い眼差しで自分を見つめないでほしい。自分は男の想いに最後まで気がつかない愚か者だというのに。
女もゆっくりと手を伸ばす。けれど触れ合うことなく、雨仔は力なくその手を落とした。とろりとした赤い液体が、男の口から溢れている。よく見れば、男の腹には深い傷ができていた。慌てて駆け寄る女の衣に、じわじわと紅が染み込んで行く。
貴女のためだと言った男の言葉を、もう少しだけ考えてみれば良かった。いつも自分のことばかり。そのせいで大事なものは掌から零れ落ちていく。どうしてこうなってしまったのだろう。ただ、幸せになりたかっただけなのに。
確かに、愛されていた。女が気づかぬうちに、この男は柔らかな雨のような愛を女に注いでくれていた。ひび割れた心を癒す優しさに酔いしれて、その価値に気がつくことができない自分は何と浅はかだったのか。
倒れ伏した男を抱きしめたまま、女は声もなくただ泣いた。女はこんな時に呼び掛けるべき、男の本当の名前さえ知らない。
「雨仔、ごめんなさい」
女の声は、男の耳には届かない。