7.過去
騒動の後も、男は今までと変わらぬ調子で香梅に会いにやってくる。
薔薇の花を渡す以外、「好きだ」とも「愛している」とも言わない。そのくせ当然のように女の好みを把握していて、けれども会話の運び方がどうしようもなく色事に不向きで、女はこの男の不器用さに笑った。
ある夜、男は店に来るなり女に手土産を押しつけた。中身はと見てみれば、西国では滅多に手に入らない茘枝だ。その昔、東国の王の寵愛を受けた美女が好んだという南方の果実。何よりそれは、白い薔薇以外で男が持ってきた初めての贈り物だった。
「お好きだと話していたでしょう?」
穏やかな声で、男が声をかける。あまり表情の変わらない男だが、このところ女を見る目が妙に優しい。「妻」と言われたことを思い出して、女は顔が熱くなった。
「そうね、嫌いじゃないわ」
初夏が旬の茘枝は、甘く芳醇な香りで女を誘う。どうしても我慢できなくて、黒々とした茘枝の皮につぷりと爪を立てた。瑞々しい水晶色の果実を口に入れる。皮を剥いた時に滴った果汁が、女の手を濡らした。
あえて無作法に舌を使って指を舐め上げてみれば、男がごくりと喉を鳴らす。少なくとも男が香梅に欲を感じているのは間違いないのだ。この男の余裕のない顔が見たいと思う。もっと求められたかった。愛されているという証が欲しかった。玉璽以上の価値を妓女に見出して欲しいだなんて、怖いもの知らずもいいところだけれど。
「まったく、私の小梅は素直じゃないねえ」
兄代わりは、隣で鮮やかな赤を誇る桜桃を摘まんでいる。そのまま女の口内に入れようとするので、香梅は顔を軽く背けた。今は茘枝を味わっているのだ、別の味で台無しにしたくはない。
桜桃を持て余した店の主人は、まるで雨仔に見せつけるように、香梅の唇から柔らかな胸元にかけて、そっと指を這わせた。やわやわと胸の膨らみが形を変える。その手を打つ女の横で、西国の宰相は顔を赤くした。そのまま目を反らす男が不甲斐なくて、女は顔をゆがめたままその場を後にする。本当にこれがあの立ち回りをやってのけた男なのか。香梅は小さくため息をついた。
この国に宰相として男が来たのは、「兄」に言われたから。香梅に会いに来たのは、「弟」に言われたから。贈り物を持って来たのは、「義姉」や「義妹」に言われたから。この男の行動理由は、基本的に他人のもの。百夜通いをすることになったのだって、香梅がそう言ったからなのだ。
そんな男が、わざわざ自分に雨上がりの白い薔薇を持ってくる理由を聞きたかった。玉璽のためでなく、本当に女を好いているのだと言ってはくれまいか。
そう思いながら、男がいくら言葉を尽くしたところで、信じられない自分がいるのもまたよくわかっている。何よりそんな言葉をねだるには、女はこの店に来る男たちの嘘を嫌という程見すぎていた。誰よりも愛が恋しくて、誰よりも愛の脆さを知っている。それが妓女という生き物。
「どういう風の吹き回しかしら?」
窓辺ではなく寝台に腰かけると、香梅は男に尋ねた。そのまま手持ち無沙汰げな男に、茘枝を剥くように命じる。西国で採れない果物は、金銀財宝に並ぶ貴重品だ。それだけ大切に想われていると信じて良いのだろうか。
「嫌いな人間に貰っても、食べ物であれば問題ないでしょう。味は変わりませんし、食べれば目の前から消えて無くなりますから」
何を拗らせればこうも自己評価の低い人間が出来上がるのだろう。言葉に詰まった女の様子をどう解釈したのか、男は申し訳なさそうな顔をした。その間も黙々と茘枝を剥く手は休めない。本当にこの男は、器用なのか、不器用なのか。
「貴女が弟に想いを寄せているのは十分存じておりました。だからこそ百夜通いを要求された時は、嬉しくてたまらなかったのですよ。思わぬ幸運が転がってきたとね」
あなたの真意がどうであれと言われ、さっと女は顔を赤らめた。そんな香梅の横で、ふわりと男が笑う。男の笑顔に、女は一瞬見惚れた。
「妻にするならば、強い女性が良いと思っておりました」
最初から香梅のことを妻にするつもりだった。そうともとれる男の言葉に、女は首を傾げた。そんな女の口に男は、そっと茘枝の実を差し入れる。男の指は、決して女の唇に触れることはない。女は何も言わずに男を見つめる。香梅は、貧民街の出身だ。食うに食われぬようになって、西国に新天地を求めた東国人の成れの果て。男の考えることなど理解できない。
「わたしと弟はちっとも似ていないでしょう。東国の先の王は色狂いでしてね、美しいと聞けば誰彼構わずに寝所に連れ込んだのです」
あえて父とは呼ばずに、先の王と呼んだ男は静かな目をしている。
「わたしの母は、年端もいかぬ侍女でした。戯れに王に弄ばれ、捨てられた。気がついた時にはどうしようもできなかったのです。産褥熱だなんて、わたしが殺したようなものだ」
自分ばかりでなく、兄や弟も強い女性に惹かれたのは、あんな父を見て育ったせいかもしれないと男は嘯く。図体ばかり大きくなって、この男は子どもと同じなのだ。唇の端をひくつかせて、眦は無理に弧を描いている。こんなになるまで泣くのを我慢して、全く馬鹿な男だこと。そう胸の中で悪態をつきつつ、そんなところさえ可愛く思えてならないのである。
認めよう、きっとこれは愛だ。香梅は目を閉じる。この男の弟に感じたような燃え上がるような恋の炎ではないけれど、この男に感じる想いもまた愛に違いなかった。
「だから、貴女がわたしに触れられたくないというのなら、その約束はお守りしましょう。わたしは貴女を傷つけたくありません。一生女性を知らずとも生きていける。それにもしも貴女が母のように命を落としたら、わたしはきっとおかしくなってしまう」
最後に呟かれた言葉が、あまりにも哀れだった。きっと誰よりも家族を欲しているはずなのに。この男が思っていたよりもずっと純粋だったことを知り、思わず目眩がした。ああ、どうして。
「あたしは、あんたのこと嫌いじゃないわ」
柔らかな胸元に男を抱き寄せてやれば、男の肩がぴくりと震える。それに気がつかないふりをして、女はとんとんと男の背中を優しくたたいた。まるで幼子を眠りにつかせるように。
「指一本触れるなと……」
おずおずと尋ねる男に、女は蕩けるような笑みを見せてやる。あたしが触るぶんには良いのよ。そんな高飛車な言葉も、優しげな声音で言われればずっと別の意味合いを持つのだ。
「雨仔、この世の中に生まれてこない方が良かった人間なんていないわ。世の中の汚いところをうんと見てきたあたしが言うんだから、信じなさい。きっと疲れているのよ。このまま眠りなさいな。朝が来たら大丈夫、笑って起きられるわ」
よく見れば、男の眼の下にはうっすらと隈ができている。百夜通いの時間を捻出するために、無理をしたのだろう。仕事の手を抜くことなんてできやしない。そういう男なのだと、女はよくわかっていた。香梅は、そっと男の頬に自分の頬を寄せる。性的な香りなど一切ない、母のように、姉のように、優しい仕草だった。
本当は、この男に今夜身を任せるつもりだった。けれど、女の体を知ったところで、この男の孤独は埋まらないだろう。だから女は、ただ子守唄を歌ってやる。男が少しでも良い夢を見られるように。天女のようだと褒めそやされる甘く柔らかな声は、とろりとした眠気を連れてきた。ぎしりと寝台が軋む音がする。
部屋を覗いた店の主人が、煙管を片手にくつくつと喉を鳴らした。聞こえてくるのは穏やかな寝息。男女の睦みあいなどなかったことなどわかっている。部屋に立ち込めているのは、ただただ家族のような温かさだった。
「おまえの『嫌いじゃない』が、『大好き』だなんて知ったら、その男は卒倒するだろうよ」
主人の独り言は、夜の空気に溶けて誰の耳にも入らない。
ただいつもの寝床を奪われた白い猫だけが、不満そうにじっと主人を見つめていた。