6.騒動
騒動が起きたのは、香梅が店の主人から白い薔薇の意味について教えてもらった翌日のこと。慌てふためく少女に呼ばれた香梅は、階下へ行って目を丸くした。
東国街は治外法権の地。西国の騎士団は客としてしか立ち入らない。にもかかわらず、派手な制服に身を包んだ西国人たちが店を取り囲んでいる。その中でも特に位が高そうな年嵩の美丈夫が、馴れ馴れしく雨仔に声をかけていた。黙りこくったままの男の手には、白い薔薇が一輪握られている。
「今宵は、夜会が開かれております。何度お声をかけても都合が悪いとの一点張り。このようなところへお越しいただく時間があるのでしたら、城へお戻りになり、今からでもご出席くださいませ」
このようなところで悪かったなと思いながら、女は事の成り行きを見守る。店の主人が何も言わないのであれば、それに従うまでだ。銀色の髪をした男は、騎士の言葉をまるで他人事のように聞き流していた。
「仕事熱心なのは素晴らしいことですが、後継を残すことも高貴なる者の大切な役目ですよ」
なるほど、香梅に求婚しているこの男は宰相なのだ。赤子である国主が不在の今、国の最高権力者である。この男との縁を求める貴族たちにとっては、男抜きの夜会など大層味気ないものに違いない。全く、素知らぬ顔で夜会でも何でも出てくれば良いのだ。百夜通えとは言ったが、抜け道などいくらでもあるというのに。
雨仔の格好を上から下まで舐めるように見て、騎士は眉をひそめた。いかにも芝居がかった仕草が鼻につく。
「どうぞ早くお戻りを。そのようなお衣装では困ります。お召替えにもある程度時間がかかりますので」
その言葉に、ぴくりと雨仔が反応する。
「生憎だが、夜会には参加しない。服装を改める気もない」
騎士に合わせたのだろう、男の返事もまた流暢な西国語だ。けれどいつもの柔らかな物腰とは異なり、物言いは吐き捨てるように冷たい。男の態度が意外で、女はその手をぎゅっと握りしめた。言い含めるような芝居がかった騎士の仕草がやけに鼻につく。
「夜会には、この国の由緒正しい家柄の子女たちが集まっております。みな貴方にお会いするのを楽しみにしているのです。それを袖にして、まったく何と嘆かわしいことか。いくら美しいとはいえ所詮はどこの馬の骨とも知れぬ女たちではありませぬか」
雨仔を前に男は、明らかに香梅たちを軽んじた。他の男たちもにやにやと好色そうな顔で、女たちを品定めしている。この店の誇り高い女たちは、店の主人の面子を慮り、表立って文句を言うことはしない。そっと悔しさをおし殺すだけだ。
それは香梅とて同じ。いくら白雪公主などともてはやされたところで、所詮金で買われる女に過ぎないことは自分が一番よくわかっている。唇を噛んだ女の隣に、雨仔が並んだ。女の肩に手を回そうとして、指一本触れないという約束を思い出したのか、はっと手を引っ込める。この朴念仁め!
男の様子を見て、騎士団長はうろんな眼差しを向けた。じろじろと値踏みされるような視線を受けて、女はあえてとびっきりの微笑みを見せる。店の中のざわめきが消えた。白い雪が降り積もる中で、清らかな香りを漂わせる紅梅のごとく、女の笑みは男たちから言葉を奪う。男が口を開いた。
「もうすぐわたしの妻になる。側室を持つ予定はない」
「まさか、ご冗談を!」
泡を食った美丈夫が顔色を変えると、そのまま香梅と雨仔の間に割り込んだ。
「妓女風情に、貴族の奥方など務まりますまい。ましてや、貴方は西国の宰相であられます。相応の相手をお選び頂かなくては」
そのまま香梅の腕を無遠慮に掴むと、軽くひねり上げた。もう一方の手で、白く細い首をぎりぎりと締め付ける。
「この淫売め。どうやって宰相殿をたらし込んだ」
あまりの言い草と痛みで顔を青ざめさせた女は、次の瞬間世にも面白いものを見ることになった。
鞘から刀身を抜かぬまま、男が剣で騎士の喉をしたたかに打った。血こそ出なかったものの、あまりの衝撃で息をすることも忘れたのだろうか。西国人の男は鶏が絞め殺されるような声をあげたきり、ひゅうひゅうと空気の漏れるような音を漏らすばかりだ。
女はようやく合点がいった。
例えば男の弟なら、香梅が罵倒される前に、ことを片付けていただろう。笑いながら煙に巻き、うまいことやり過ごすのだ。そもそも騎士団長がここに来るような事態にもならなかったかもしれない。あれはそういう男だ。
目の前の男には、それができない。真面目で、誠実で、融通がきかない不器用な男。けれど、そこが良いのだと思ってしまう自分は一体どうしてしまったのだろうか。
「何か勘違いしているようだが」
雨仔は、倒れ込んだ男の鳩尾を蹴り上げながら言い捨てる。この男は必要とあらばこういうこともやってのけるのだと、女はどこか静かな心持ちで眺めていた。
「どこの国が、この国を支配しているのかその足りない頭でよく考えた方が良い」
ただ慣れていて楽だからという理由で東国の服を身に付けているわけではないのだと、男は言外に告げる。
この西国において、東国人の宰相が西国の服を着ていたならば、彼らはきっとこの国の現状を忘れてしまうだろう。事実、男が西国語を話すというだけで、すっかり自分達の都合の良いように話をすり替えて捉えてはいなかったか。
どんなに温厚な顔をしていても、男は西国を支配する東国側の人間なのだ。言葉や文化を無理に奪えば反発が生まれるから、この国のやり方を尊重しただけのこと。
「貴方の代わりなどいくらでもいる。騎士団長の任を解こう」
そこにいるのは、冴え冴えとした瞳で騎士を見下ろす男だ。自分の親ほども歳の離れた人間を足蹴にしながら、後悔の念など一欠片も感じさせない。女の知らない男が、こんなすぐ近くにいる。
足元の騎士が何事か言い募ろうとしているのを見て、さらに男は言い添える。念押しのつもりか、今度は剣先を向けた。
「まだわからぬか。二度とわたしの前に姿を見せるな。もう一度同じ話を聞かされたなら、しつこい貴方の娘御ごと叩き斬ってしまいそうだ」
この騒ぎを見守っていたはずの店主が、楽しそうに倒れ込んだ男の耳に囁いた。穏やかに微笑みを浮かべた兄代わりとは裏腹に、何を言われたものか、騎士はみるみるうちに顔色を悪くする。
そういえばこの男の声に聞き覚えがあると思ったが、いつぞや店の主人をしつこく口説いていた男ではなかったか。恥ずかしいことをしているという自覚はあったのか、店を出入りする際には珍妙な仮面をつけていて、よっぽど目立っていたのを思い出し、女は吹き出しそうになった。
先ほどまでぎらぎらとした殺気を放っていた宰相は、香梅の側に駆け寄ると女に手を伸ばしかけ、そのまま固まった。どこか困ったような顔で、赤く擦れた傷跡をじっと見つめている。
「申し訳ありません……」
伏し目がちで謝る男を見て、香梅は口もとを綻ばせた。そっとその手を握り礼を告げれば、信じられないと言わんばかりに、男が女の顔を見つめ返す。女は打ち捨てられていた白い薔薇を拾い上げ、少しばかり気取って男に笑いかけてみせた。
そういえばこの男の弟は、どのような西国語を話していただろうか。思い返そうにも耳をよぎるのは、目の前の男の声ばかりだ。