4.名前
その夜楼閣を訪ねてきた男は、困ったような顔をして、一階で茶を飲んでいた。ちょっかいをかけてくる妓女たちをどうあしらって良いものか考えあぐねていたらしい。若く美しい女たちに侍られて鼻の下を伸ばしているわけではないのだが、何か香梅は気に入らない。
さっさと追い払えば良いものを。妓女相手にもたついている男に苛ついて香梅が盛大に舌打ちする。姐姐の客だったのかと、女たちが蜘蛛の子を散らすように男の側を離れていった。
男はというと、女の顔を見てほっとしたように表情を緩めている。そんな男を見て、香梅はますます苛立った。あの男は、こんな風ではなかった。女に囲まれても顔色一つ変えることなく、無茶な要求にも当然のように応えてみせたというのに。
女は無言で二階に向かって歩き始める。背後で慌てたように男が荷物をまとめるのがわかった。大荷物を抱えてここに来るだなんて。色街の遊び方も知らずにどうやって百夜通いを続けるつもりなのか。
部屋へ入るなり、女はどこへ座れとも言わずに、さっさと気に入りの窓辺に座り込む。やはり遊び慣れていないのか、男は扉のすぐ横で立ち尽くしていた。豪華な天蓋付きの寝台が置かれているのに気がついたのだろう、耳まで赤くした男が、何やら小さく呟いて顔を覆うのが見える。
この歳にもなってねんねの相手か。女は肩をすくめながら煙管に火をつけた。甘い香りが体に染み渡る。ちらりと横目で男を見れば、煙管を吸う女が珍しいのかあんぐりと口を開けてこちらを見ていた。
女は、この男と口をきくつもりなど毛頭なかった。全くこの男の面構えときたら。いくら整っているとは言え、何の面白みがあろうか。これで女を前に緊張しているなどと言われたらさらに面倒だ。女はさっと扇を取り出し、顔の前で広げてしまう。これで男と視線がかち合うこともない。
安堵したその時だ。みゃおみゃおと鳴き声をあげて、どこからか白い猫が現れた。そのまま男の足元にすり寄ってくる。客の前には滅多に姿を現さない臆病な猫だというのに、男の足に頭をぐりぐりと押し付ける姿を見て女は驚いた。雪雪という猫の名前通り、明日は雪が降るかもしれない。
そんな足元の猫を、この男はどうするのか。階下で妓女たちに囲まれた時のように、無言でやり過ごすのだろうか。少しばかり意地悪な気持ちで見守っていた女の予想は、あっさりと外された。
「おや、そなたどこから迷い込んできた? いやに人に慣れているが、ここで飼われている猫か」
男は躊躇いもなくしゃがみこみ、無造作に抱き上げる。犬でも飼っているのか、その動きは実に手慣れていた。抱き上げる際にあっさりと性別を確認したらしい。男の唇が弧を描く。あれほど自然な笑顔を作ることができるとは。言葉遣いまで気安いものに変わっているのを知り、女は眉をしかめる。
「なるほど、楼閣にいる猫もまた女性であると。そうか、なればそなたこそが西国に伝わる白雪公主か。確かに雪のようなその毛並みも、透き通るように黒い瞳も美しい。姫、申し訳ないのだが、今は差し上げられるものは何も持ってはおらぬのだ」
すんすんと鼻を鳴らし、匂いを嗅ぐ猫にそう言いながら、男は首の下や耳の後ろを撫でてやる。男の手は、確かに武人の手をしているというのに、猫を撫でるその仕草は思った以上に優しいのだ。普段は愛想のかけらもない猫もこの男が気に入ったのか、もっともっとと男の手に頭を擦り付けている。
本当に誰も彼も気にくわない。乱暴に扇を閉じれば、思ったよりも大きな音が鳴り響いた。目を丸くした男が、こちらを見ている。猫はといえば面白がっているのか、薄暗い部屋の中で、黒い瞳がらんらんと光っていた。もしやこの猫、わざとやっているのではあるまいな。
だとすれば、こやつはきっと腹の底で笑っているに違いない。白雪公主は、西国の男たちが香梅を讃える時に使う呼称だ。文句をつけるわけにもいかず歯噛みする女をあざ笑うかのように、猫はまたみゃおみゃおと楽しそうに鳴く。
香梅は仕方なく、口を開いた。この男と口をきかないというちょっとした意地も、結局小一時間も保たなかったではないか。堪え性のない自分が憎たらしい。
「その猫の名前は雪雪。金輪際、白雪公主だなんて呼ばないで」
男は目を瞬かせた後すっとその場に立ち上がり、承知したと短く答える。その眼差しは女が想像していたよりも鋭い。さらりと長い銀色の髪は、部屋の中で降る細い雨のようにも見える。やはり雨のような男だと女は思った。
「香梅殿。わたしの名は……」
「すぐに来なくなる男の名を覚えるつもりはないわ。百夜通いが終わったなら、教えてちょうだい」
どうせできるわけがない。そう言外に伝えたというのに、男は黙って頷いた。それがまた無性に気に障って、女は窓の外に目を向ける。
「それにあなたの言葉遣いときたら。猫には普通に話しかけていたじゃない。話がしたいなら、あんな風にしてちょうだいな」
男はじっと考えこんだまま答えない。何を考えているのやら、その表情はまたいつものようにすっかり固まってしまっている。たまらず女は、続けざまに呼びかけた。
「ねえちょっと。あなたの話よ。聞いてるの」
すると男は、ぎこちなく口を開いた。片手で猫を抱いたままなのが、妙に可笑しい。
「ちょっとや、あなた、では悲しいのです。わたしの名前を知って欲しいとは言いません。どうか適当なもので良いので、この身を呼んでいただけないでしょうか」
どこか懇願するように男に請われて、女はぞくりとする。どうしてこの男は、こんなまっすぐに自分を見つめるのだろう。百夜通いを行うのも、弟が女に渡した玉璽を取り返すためのはず。急に胸が苦しくなるような気がして、あえて香梅は突き放した。
「そうすれば、その気持ち悪い話し方もやめてくれるっていうわけ?」
「わかりました。もし貴女に仮の名であっても呼びかけていただけるのでしたら、そのように努力いたします」
だから香梅は、男に名前を与えてやる。西国一の妓女にふさわしく、妖艶に、そしてどこか傲慢に見えるように笑いながら。
「じゃあ、あなたは今日から『雨仔』ね」
「雨くん」と呼ばれて驚いたのか、男は固まる。それはそうだろう、東国の人名で「月」と言えば女だし、「雲」と言えば男だ。同じように「雨」と言えば女の名前を連想する。だからこそ、女は男にその名を与えたのだから。
「『雨仔』か」
おかしくてたまらないと言わんばかりの男を見て、香梅はぎょっとする。こんな顔もできるのか。男は何がそんなにおかしいのか、片手で猫を抱えたまま、笑い続けている。そんな男を前に、香梅は少しばかりむくれて、また煙管を吸い上げた。
窓の外には、まるで笑った猫の瞳のような三日月。月牙と言うのに、牙ではなく瞳に似ているなどおかしな話だと、香梅はちらりと白い猫を見やる。女の気持ちを知ってか知らずか、猫は男の腕の中で楽しそうに喉を鳴らすばかりだ。