3.兄妹
とんでもない客の後ろ姿を呆然と見送ると、香梅は店の主人を自分の部屋に引っ張り込んだ。店の主人にこんなことをして許されるのは、香梅だけだ。店の者も二人のやりとりには、口を挟まない。
誰も見ていない部屋の中で、香梅は兄代わりをきつく見据える。眦をつり上げ、顔を薄桃色に染めた女の姿は、それでもなお美しい。豪華な簪が、傾きかけた日の光を浴びてきらりと光った。
「どうしてあんなことを言ってしまったの。もうおしまいよ、何もかも全部終わり……」
最初の勢いとは裏腹に、最後の言葉は掠れて消えかかっていた。迷子の子どものような声で女はほろほろと言い募る。あの気位の高い香梅のこんな姿を見ることができるのは主人の特権。男は笑うばかりで、何も言わない。怒り、戸惑う香梅をよそに、主人は煙管に火をつけた。自身が好んで吸うものとは違う香りに包まれて、くらりと香梅の視界が揺れる。
色街の店は女たちを縛る檻。けれど同時に外の世界から女たちを守るものでもある。年季が明けたり、身請けされた妓女たちが、外の世界で必ずしも幸せになれるわけではないことを賢い香梅はよく知っていた。高嶺の花であり続けたのは、己の矜持を守るため。あの金色の瞳をした男に恋をした時でさえ、その先を夢見ていたわけではないのだ。あの時欲しかったのは、男が「若様」を見る一途な眼差しだけ。
「大哥だってずっとこの店にいるじゃない。なんであたしは駄目なの。ただの雑用でもいい、この店に置いてくれたっていいじゃない!」
女の言葉をどこ吹く風と聞き流しながら、男は柘植の櫛を手に取った。習慣とは恐ろしいもので、怒っているはずの香梅もつい鏡台の前に座ってしまう。光を失ったはずの男は、こうやって何事もなかったかのように、香梅の艶やかな黒髪を梳いてみせる。煌びやかな簪を引き抜けば、思ったよりも長い黒髪が床にこぼれ落ちた。
兄代わりは愛おしそうに女の髪の一房に唇を寄せた。男もまた美しい黒髪をしていて、香梅は、どこまでが自分の髪で、どこからが男の髪なのか一瞬わからなくなる。
「大哥もあたしとおんなじくせに……」
男は女の言葉を聞いて心外そうだ。客に今でも言い寄られる主人の美しい顔が、少しばかり悲しそうに歪められる。その酷くわざとらしい動きは、余計に女を苛立たせた。ほら見てみるがいい、この男の口元は微かに笑みを浮かべてはいやしないか。
「私もね、足を洗うつもりがないわけではないのだよ。ただ、あれと約束したからね。この店で待っていると。鈍臭い子だから、私がこの店からいなくなったら見つけられないのではないかと心配でね」
うっすらと笑う兄代わりは、とても楽しそうで女ははっと息を飲む。この男は今でも待っているというのだろうか。自分が盲目になる原因となった恋人のことを。今は高級妓楼の主人とはいえ、一度は男娼に身を落とした男のことを、元の恋人が本当に迎えに来ると思っているのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。そう言い切ってしまうことが、なぜだか香梅にはできなかった。恋人のことを語る兄代わりの顔は、蕩けるように甘い。香梅は確かにこの男に一等可愛がられてきたけれど、この男の恋人は香梅とは別次元で愛されているのだ。それがどうしようもなく悔しくて、女はまた言わなくて良いことまで言ってしまう。
「瞽になって男娼までやったくせに。そんなの、迎えに来るわけないじゃない!」
けれど男が怒ることはない。駄々をこねる子どもを見るかのように、少しだけ困った顔をするばかり。仕方のない子だね。ゆっくりと自分の瞼をなぞりながら、女に言い聞かせるように男は呟く。
「小梅、あの子は必ず私を迎えに来るよ。足も遅くて要領も悪いけれど、泣きそうな顔で懸命に涙をこらえて歩いているのがわかるのだよ」
柔らかな声音は本当に嬉しそうで、なぜか女は背筋がぞくりとする。三年前、あの男を助けるためなら何をしても構わないと香梅はがむしゃらだった。兄代わりであり、冷徹な店の主人である男が女を止めなかった理由が、今ならわかるような気がするのだ。
「自分のせいで瞽になるどころか、男娼までさせてしまったと言って泣くのだよ。金色の髪を揺らしながら震える姿が本当に可愛くて……」
昔あれが飼っていた兎などより、本人の方がよほど小動物のようだと男は笑う。あれに想われるだけで私は幸せなのだよと嘯く男を見ながら、悪い男に愛された気の毒な恋人について思いを馳せた。遠く離れてなお、この男にがんじがらめにされた恋人は、果たして幸せなのだろうか。
「さあ昔話はおしまいだよ。もうすぐ店が開く。記念すべき百夜通いの第一夜なのだから、綺麗にしてあげよう。いい子だから、じっとしていてごらん」
男の手で丁寧に梳かれた髪は艶やかで、それだけで輝くよう。繊細に複雑に結い上げられた髪にいくつもの簪をさしていけば、鏡に映るのは嫦娥もかくやと言わんばかりの美しい女だ。そういえば男女のいろはを教えてくれたのはこの男だったと、なぜか不意に香梅は思い出す。
いつの間にか唇を強く噛み締めすぎていたらしい。そっと男が白く長い指で、女の唇をなぞった。そのまま目尻に溜まった涙を拭われて香梅は目を閉じる。どこかしなやかな獣を彷彿とさせる男の仕草は、昔から変わらない。兄代わりの正確な齢さえ知らないけれど、誰よりも信頼しているのはやはりこの男なのだ。
男は無駄なことを好まない。それをよく知っている香梅は、小さくため息をついた。兄代わりには何か目算があるのだろう。そうでなければ、さきほどの客人に女の秘密を漏らす必要などないのだから。
「幸せにおなり」
呪いのように、兄代わりは笑う。けれど香梅には、やっぱり何が幸せなのか少しもわからない。自分には何が足りないのだろう。
目の前に差し出された「自由」はあまりにも途方もなくて、ただ戸惑うことしかできない。それに、忘れてはいけない。あの男は、弟が香梅に渡した玉璽を回収することが目的なのだ。男の言葉を本気にすれば、自分が傷つくだけ。何度も言い聞かせるように、香梅は念じ続ける。その裏にある柔らかな心と、芽吹いた何かにはそっと目をつぶったままで。
窓の向こう側は、もうすっかり茜色。夜はすぐそこまで来ている。