2.客人
店先にいたのは、しとどに濡れた男だった。
雨の化身のようだと、男の髪色を見て不意に香梅は思う。濡れそぼった銀の髪から雫が滴り落ち、男の足元に染み込んで行く。ぴったりと肌に張り付いた布地から覗く男の体は、意外にも鍛えられているようだった。
この男、傘も持たずに店へ出向いたらしい。西国の天気は女心よりも気まぐれなもの。それにも関わらず手ぶらで出かけるとは、東国から来たばかりにしても迂闊すぎる。男が身に纏っている東国衣装を見て、女は少しばかり呆れた。二人の視線が交差する。
男の灰色がかった瞳が香梅を捉えると、不意に口元の厳しさが和らいだ。女が思わず目をそらせば、男がその瞳を僅かに大きくする。男の正体をすでに把握しているらしい店の主人は、二人の様子に大層機嫌が良い。
香梅を呼びつけることができる一見の客人。思わず爪を噛みそうになったのは、儘ならぬ身分の差を感じたから。全く、子どもの頃からの悪癖はなかなか治らない。手持ち無沙汰なのを誤魔化すように髪をかきあげれば、男が香梅に対して丁寧に頭を下げた。
「三年前、末の弟が大変お世話になりました」
その言葉で、香梅は目の前の男の正体を知った。この男が、かつて愛した男の兄だというのか。太陽のような明るさに溢れていたあの男とは異なり、目の前の男はあまりにも静かだった。まるで似ていないというのに、男の面影を探してしまった自分に気がついて、香梅は舌打ちする。
「弟から、くれぐれもよろしくと言付けられております。どうぞ何なりとお申し付けください」
いくら西国一と言われても所詮自分は妓女なのだ。にも関わらず、まるで貴族の令嬢に対するような物言い。腹の底でこちらを侮っているように感じて、女は歯噛みした。全くもって気にくわない。
「お金でも宝石でも。東国へ帰りたいということであれば、信頼できる者をつけて送り届けます。ただし、その前にお願いがございます。弟が貴女に渡した品を、返して頂きたいのです」
男の言葉に、女は目を見開いた。この男は香梅が何を受け取ったのか知っているのだ。あの男は、あれを香梅に渡したことを後悔していたのだろうか。その疑問が顔に出ていたのか、淡々と男は言葉を続ける。
「これはわたしの独断です。貴女を疑っているわけではありませんが、あれを無闇に放置することは危険すぎます」
そういうことか。灰姑娘のように、殿上人が自分を迎えに来てくれるはずもない。この男は口でなんだかんだうまいことを言って、あの男が寄越した品を取り戻したいだけなのだ。男の思惑が透けて見えて、すっかり香梅は鼻白んだ。この落とし前はつけさせて頂こう。
女は小首を傾げて微笑んでみせた。そのまま自分の胸元にちらりと視線を落とせば、目の前の男もつられて豊かな哈密瓜に釘付けになる。見ていることを隠そうともしないその様子に、自分はただ客に売られる肉でしかないのだと実感した。そのまま胸の谷間に己の手を差し込めば、無表情だったはずの男が思わず顔を赤くする。さあお楽しみはこれからだ。
「返して欲しいものは、これかしら?」
目の前でちらつかせるやいなや、男の目の色が変わる。手を伸ばされるのを感じて、さっと店の主人の背に隠れてみせた。ゆっくりと白い包みを解けば、中から現れたのは龍が彫り込まれた黄金の玉璽。
なるほど、確かに返して欲しいだろう。一介の妓女である香梅ですら、持て余していたのだ。目の前の男、つまりは西国の新しい宰相ならば、今後の憂いを断つために早急に回収してしまいたいに違いなかった。香梅は、くすくすと楽しそうに男に問うてみせる。
「ねえ、本当に何でも叶えてくれるの?」
「勿論です。ただし、いくら希望しても弟の側室にはなれないでしょう。あれはもはや、他に嫁を取る気はありません。それが形だけのものであったとしても」
未だに香梅があの男に未練を残していると思っているのか、見当外れの答えを寄越す。そんなもの自分も真っ平御免とは言わずに、香梅は笑ってみせた。
「ならば、あなたの『お嫁さん』にしてちょうだい」
西国に来たという、新しい宰相の噂は聞き及んでいた。
西国の王が、実は女であったということがわかったのが三年前。それを娶ったのがあの男、つまり東国の現国王。東国側は用意周到にも、国王の叔父の身柄も確保していた。交渉の末、西国側は最終的に、西国の元国王と東国の現国王の間の子どもを、西国の国王とすることに同意した。
もちろん生まれたばかりの赤子に政治を動かすことなどできぬのだから、その間取り仕切るのが実質西国の支配者だ。そのために東国からやってきたのが、東国の王の異母兄。未だ妻がないという。
西国の貴族たちはなんとか宰相と縁を繋ぐべく、年頃の娘を当てがおうとしているらしい。王族が有力貴族の子女を妻に迎えるのは当然のこと。そもそも妓女上がりの女が、まともに正妻として扱われるはずがない。せいぜい妾として囲われるのが関の山。
だから香梅とて本気で言ったわけではないのだ。そもそも『お嫁さん』などと小馬鹿にしている時点で、相手にもそれは伝わっているはず。男がこちらに泣きついてくれば、適当なところで手を打つつもりだったのに。香梅は男の言葉に固まった。
「わが身ひとつで礼になるというのでしたら、容易いこと。喜んで貴女の夫になりましょう。主人殿、身請けにはいかほど必要でしょうか」
思わぬ男の言葉に焦りつつ、香梅はまだ余裕だった。いくら金を積まれても、店の主人が首を縦に振らねば妓女を連れて行くことはできない。兄代わりが可愛い自分を手放すはずはない。
「すでにこの者は、年季が明けております」
当てが外れた女は、思わず素で兄代わりにすがりつく。それは二人だけの秘密だったはず。なぜ、それをこの客人の前で言うのだ。
「ちょっと大哥!」
「これ、お客様の前だよ。いけない子だね」
兄代わりの言葉に、香梅は慌てる。駄目だ、このままではこの男との結婚が決まってしまう。何が駄目なのかゆっくりと考える間も無く、また香梅の悪い癖が出る。求婚者への断り文句として、無理難題を押し付けるのはいつものこと。
「百夜通いよ! それまでは指一本だって触れさせやしないわ。雨の日も風の日も、どんなことがあっても、ここへ通うのよ。それができれば、あなたについて行く。玉璽だって返してあげるわ」
目の前にいるのは、気位ばかり高い、可愛げのない妓女だ。弟の尻拭いのためだけに来たこの男が、百夜通いなどして女に頭を下げるなどできるはずがない。東国人の男が、無駄に誇り高いことを香梅はよく知っている。
しかし香梅のその言葉にも、男は動揺しなかった。むしろなるほどとばかりに大きく頷いた。
「百夜通いで、誠意が伝わるのであればどうぞそのように」
そう言ってのける男が憎たらしくて、香梅は腹立ち紛れに、兄代わりを睨みつける。店の主人はその目を閉じたままだ。遠い昔に視力を失ったはずの男は、それにも関わらず、まるで怒り心頭の香梅の顔が見えると言わんばかりに笑いを堪えている。
「言葉には力が宿る。自分の言葉には、責任を持たねばならないのだよ」
ふわりと微笑みながら主人に念押しされ、香梅はため息をついた。
例えば、東国に伝わる先読みの水鏡を持ってきてくれたらだとか。草原の民に伝わる千里を駆ける銀の馬を連れてきてくれたらだとか。砂漠に住む民が密かに育てている黄金の棗を持ってきてくれたらだとか。
斑竹姑娘もかくやと思わせるその応え、それはつまり、お前のものになることはないという女の答えなのだ。本気で探しに行く方がどうかしている。
けれど、もしも女の望みを叶えてくれたとしたらどうするのか。問われて香梅は、思わず言葉に詰まった。そんな女を置いて、宰相である男はあっさりと帰路につく。今夜また来るという素っ気ない言葉を残して。
夜なんて来なければ良いのに。
そんな妓女になりたての生娘のようなことを思って、爪を噛む。
男が出て行った扉の向こうを覗いてみれば、すっかり雨はあがり空には青空が輝いていた。きっと今夜は星がよく見えるに違いない。