10.出梅
男が酷くうなされていた。雨仔はもう三日三晩眠り続けている。
熱がまた出てきたのだろうか。男の額に、香梅は手を当てる。一時は濡らした毛巾がすぐに温くなってしまうような有様だったので、気が抜けないのだ。香梅は男の手を取り、自分の手で包み込んでやる。できるだけ優しく聞こえるように、雨仔と呼びかけた。ゆっくりと繰り返せば、落ち着いたのか不意に呼吸が安らかになる。それを見て女は小さく息を吐いた。
こうやって眠っていると、雨仔は幼い子どものよう。寄る辺ない身の上の男は、寂しさを抱え込んで生きてきたのだろう。傷ついた男の心を癒してやりたかった。男がしてくれたように、香梅もまた無償の愛を注いでやりたいのだ。だからどうか、一刻も早く目覚めて欲しい。
化粧を施すこともなく、寝食も忘れた香梅の顔は青白い。見事に結い上げていた髪もところどころほつれてしまっている。それにもかかわらずその姿は、いっそ神々しささえあった。妓女たる香梅は確かに美しかった。しかしそれは男たちに手折られてしまえば、散るしかない花の美しさである。今、愛する者を失いかけ、ただひたすらに祈り続ける女は、その美しさを別の次元へと昇華させていた。
寝台で横たわる男が小さく身じろぎした。心配そうに覗き込む女の目の前で、男がゆっくりとその目を開ける。女と目が合うと、男はふわりと微笑んだ。まるで赤子のように無垢な笑みだった。
「泰山へはただ一人で参るものと思っていたが、まさか天女が迎えに来てくれるとは。好いた女子と同じ顔の天女と共に旅立てるのであれば、死ぬのもまあ悪くない」
声も出せず呆然としたままの女の前で、男はそんな寝ぼけたことを言い出した。泰山とは東国に伝わる、死後の行き先だ。どうやらこの男、自分が死んだものと思っているらしい。人の気も知らないで何を呑気なことを。けれど罵ろうとした言葉より先に、ぽろぽろと涙が溢れてくる。すぐに泣く女は嫌いだ。泣けばどうにでもなると思って。そう常々思っているはずなのに、涙がどうしても止められない。こぼれ落ちる涙の粒が、転々と男の頬を濡らした。
「雨……?」
濡れた感触に戸惑ったのか、男が己の顔を拭う。部屋の中で雨が降るはずなかろうに。けれど、今はそんな軽口さえ叩けない。そのままぎゅっと男の手を握り締めれば、男もまた女の温もりが現実のものと気がついたらしい。
「……香梅殿? ああ、化粧をしていないのだな。その方がずっと綺麗だ」
男は、そろそろと身を起こす。つい、衝動に任せて女は男の胸にすがりついた。女の口から嗚咽が漏れる。
「あんな目に遭わせてしまい……すまない」
あの男に打たれた傷など、気にもならなかった。全部女のせいなのに謝罪なんてして欲しくなくて、ただ男の無事が嬉しくて香梅は男の胸を拳で滅茶苦茶に叩いた。そんな可笑しな状況で、心底幸せそうに男が笑った。女をあやすように、男はすまないと繰り返す。
「こういう時はね、黙ってこうするの」
睡公主も白雪公主も、呪いを解く時に必要なものはこれだけ。
なんて言ってみたけれど、そんな話はこじつけで、本当はずっと前からこうしたかったのだ、己は。両手をゆっくりと男の頬に添えれば、きょとんと男は目を瞬かせている。こういう時は目を瞑るものだと、後から教えてやらなくては。
女と男の影が重なる。そっと唇を重ねた男は、やはり雨の匂いがした。懐かしく、愛しい、男の香り。触れ合うだけの唇がもどかしくて、舌を絡めてみる。恐々と女になされるばかりだった男の口づけが、それを合図に急に深くなった。息も出来ないようなその激しさに溺れそうになる。
「そんなに焦って貪っていては、傷が開くよ」
くつくつと喉を鳴らし、兄代わりが勝手に部屋に入り込んできた。やはりこの男、盲いたふりをしているのではあるまいか。訝しげに主人を見上げる女とは対照的に、雨仔が耳まで赤くしていた。良いところを邪魔されて、女は一人小さく舌打ちする。
兄代わりのおかげでこの男の命は助かったのだが、やはりこの男、底が知れない。どうして一介の楼主が、医術に通じ、薬に造詣が深いというのか。ただの男娼では片付けられないことがどうにも多すぎる。
「動けるようならば、自宅で養生する方が良いだろう」
部屋に入るなり、兄代わりは淡々と男に告げる。女はその言葉に、胸が潰れそうになった。どうすれば良いのだろう。自分の想いを告げようと思ったのに、いざ男が目を覚ましてみればどうしたことか、憎まれ口さえ出てこない。男はこのままいなくなってしまうのか。
「香梅を連れて帰りなさい。身の回りの世話は妻の役目だよ、小梅」
百夜通い達成、おめでとう。最後の数日はなんとも情熱的で浪漫的な日々だったね。思わぬ台詞に、香梅は兄代わりを見上げた。お見通しなのだよと、男はにこやかに笑う。準備の良いことに、この数日の間に、女の荷物はすべて男の屋敷に届けられていたらしい。言葉通り、覗き見た女の部屋はがらんどうだ。
「任を解かれたとはいえ騎士団長と共に宰相殿が行方不明とあっては一大事。荷物と一緒に、あれもこちらで適宜処理させてもらったよ」
やはりこの男は恐ろしい。兄代わりが自分の味方であって良かったと、女は心から実感する。そんな女の気持ちに気がついているのかいないのか、寝台の男は丁寧に礼を言った。
「なに、家族として当然のことをやったまで。宰相殿、小梅を頼んだよ」
雨仔はその言葉を受け取ると、一度だけ天を仰ぎ、力強く是と答えた。男の眦に光るものがあったことは、気がつかないふりをしておこう。
女はそっとその場を離れ、格子窓から空を見上げた。この店を出て行くことが怖いと思っていたことが嘘のようだ。この店は確かに自分の家であり、兄代わりは変わらず家族である。結婚とは、終わりでも始まりでもない。女の人生はこれからも連綿と続いてゆく。
梅雨は既に明けている。長く降り続いた雨はようやく上がった。これから眩しいほどに輝く、暑い夏がやって来る。久方ぶりに見上げた空はただ明るく、鮮やかな青を誇っていた。
かつて西国と言われた国は、東国の支配下におかれた後も平和を保たれたと言われている。その理由の一つに、とある宰相の存在が指摘されている。
東国から来た宰相は西国の文化を尊重し、無理な統治を図ることはなかった。当初は間接統治により始まった支配は、多文化が共生する下地をゆっくりと作り上げた。やがて文化は混じり合い、民族的な融和を果たした上で現在に至る。
偉大な功労者の当時の自宅は、今現在も大切に保存されている。一見すると質素なその建物は、派手さはないが細部にまで凝った意匠が施されている。それは贅沢を好まぬ宰相が、政治的な側面から苦慮した部分だと言われている。現在では再現不可能な技術も多用されているため、歴史的価値からこの屋敷を訪れる観光客も多い。
文化的な価値の高い建物だが、何よりも素晴らしいのは広大な屋敷の庭である。まだ冬の寒さが残る初春と、しとしとと雨が降る初夏の時期は、殊更に美しいと評判だ。屋敷をぐるりと取り囲む梅の木は、宰相が愛妻のために手ずから植えたのだと言われている。
宰相の愛妻家ぶりは有名で、この地方で「彼は結婚して雨仔となった」と言えば妻を溺愛することを意味するほどだ。
宰相を巡る逸話としては、登城を嫌がり屋敷内に宰相の執務室を作ろうとした、妻を他の男に見せたくないという理由で夜会を開かず、その結果茶会の文化が各地に広く伝わったなど話題に事欠かない。それは愛妻家である彼の行動を大袈裟に伝えているのだろうというのが、歴史学者における一致した見解である。
梅の実が雨に濡れる頃、運命の二人がその庭を歩けば、どこからともなく美しい歌声が聞こえてくるのだという。当時の面影を残すこの屋敷には、そんな伝説が今も残されている。