1.梅雨
今日も朝からしとしとと雨が降っていた。美しい妓女が一人、ぼんやりと窓辺で頬杖をついている。店の主人が奏でる箏の音色が、微かに雨音と混じっていた。
香梅は西国一の妓女である。
西国に色街は数あれど、東国街のこの店に並び立つものは他にない。その東洋的な容姿を武器に、西国の男たちを次々に虜にしてゆく。西と東の言葉を操り、それぞれの文化に精通する女たち。その中でもやはり、香梅は特別だった。
夜の闇を溶かしたような黒髪に、黒曜石のごとく煌めく瞳。しみひとつない滑らかな象牙色の肌はしっとりと吸いつき、ほんのりと色付けばまるで水蜜桃を思わせる。艶やかに弧を描いた唇は男を誘い、うっすらと開いた口元からは真珠のような美しい歯が覗いていた。鈴を転がす声で紡がれる甘い言葉は、どんな男をも蕩けさせる。
そして大胆に開いた東国衣装の胸元から、惜しげも無く晒された真っ白なまろみ。それは、男なら誰もがむしゃぶりつきたくなるような豊かさなのだ。女がひとたび歌えば小鳥は恥じて声を失い、ふわりと微笑むだけで、開いたばかりの花でさえも萎れてしまうのだと、人々は噂する。
けれど男たちは知らない。香梅の磨き抜かれた美貌も、天女もかくやと言われるほどの舞も、血の滲むような努力が必要なのだということを。女もまた、知って欲しいとは思わない。閨で交わる男たちとの関係など、吹けば飛ぶほどに軽いのだから。
箏の音色がまた、女を誘うように雨音に混じり始める。練習の大切さを誰よりも知っているはずなのに、それでも香梅は窓の前から動かない。この雨に降られて、みんな溶けて一つになってしまえば良いのに。気怠い雨音に耳を傾けるのが香梅は殊の外好きだった。
美しい彼女が、一生に一度の燃えるような恋をしたのはもう三年も前のこと。愛した男との日々は遠く、少しずつ薄れてゆく。どこか乾いた風が強く吹き付ける季節になると、不意に懐かしさがこみ上げてくる。ただそれだけである。時の流れは、ゆっくりとだが確実に女の心を癒してくれた。
香梅は頬杖をついたまま煙管をふかす。無作法な仕草だが、それがまた色っぽいのだと客たちは囁く。手持ち無沙汰を紛らわせるように、女はくるりと煙管を回した。
妓楼で可愛がられている白い猫も、朝からすっかり丸くなっている。いつもはしつこく香梅の手首にある組紐を狙ってくるというのに、今日は嘘のように見向きもしない。猫は狩りをする生き物だから、獲物が出歩かない雨の日は、体力を温存させるために眠り続けるのだ。そう教えてくれたのは、この組紐で髪を結っていた懐かしい男だったか。
まさか東国の王族だなんて思ってもみなかった。しかも予言通り、この大陸を一つの帝国に作り変えてしまったのだから恐れ入る。それがただ一人の女のためだったなんて、誰が思いつくだろう。
女は男の掌中の珠を思い出す。黒髪を肩につかぬ程度で切り揃え、翡翠色の瞳を輝かせていた美しい「若様」。女の身であることをひた隠しにし、凛々しい男装の麗人としてこの国を治めていた若き国王。
素直でまっすぐな「若様」は、視線と声だけであの男を虜にした。二人は自由を手に入れた先で、柔らかな顔をして笑っているのだろうか。男に袖にされながら、なおも恋敵との幸せを願う自分に気がついてふっと苦笑する。
西国一の妓女が、なんと腑抜けたことか。けれどそう思いながらも、二人の過ごす日々が穏やかなものであって欲しいと思うのだ。彼らが幸せであれば、男を愛し、ただひたすらに尽くした自分も間違ってはいなかったのだと思えるのだから。
誰かを愛した証が欲しい。そんなことを思ってしまう自分は、きっと愚かで寂しい人間なのだろう。あの男に出会うまでは煌めいて見えた他人の秘密もその輝きを失い、集めることをやめて久しい。少しばかり色褪せた絹紐に時の流れを感じて、女は小さくため息をついた。
そのまま、鏡台の前に立つ。緻密な螺鈿細工の小箱を開ければ、この三年の間どうしていいものか持て余した小さな包みがあった。男が礼にと寄越した品を握り締めれば、なぜかもはや思い出せぬ故郷の賑わいが耳に蘇るような気がする。
女は、紅をさしていない唇を鏡越しになぞってみた。化粧は、香梅を守る鎧。複雑な髪型も豪奢な衣装も自分のため。女たちは、艶やかに装う。傷つかないように、いっそ相手を傷つけるくらい強かになるように。
いつの間にか箏の音が止んでいた。代わりに階下で自分を呼ぶ声がする。あの柔らかでありながら、拒むことを許さない静かな声音は店の主人のもの。兄代わりの男は死ぬほど香梅に甘いくせに、時たま驚くほど強引に彼女を呼びつける。
幼い頃から店の主人に可愛がられてきた女は、兄代わりの性根をよく知り抜いていた。一体どんな手を使ったのやら、もともとこの店の男娼だったにも関わらず、あっという間に店の主人へと成り上がった男。そんな癖のある男に歯向かって敵うはずもない。
仕方なく香梅は、鏡台から小さな陶器の器を取り出した。蓋を開ければ、艶やかな玉虫色が顔をのぞかせる。薬指ですくい取り、唇に重ねてやればそれはたちまち濃い朱色に変わった。さあこれで、男に喰われるのではなく、男を喰らい尽くす夜の華の出来上がりだ。
目尻にも色を乗せると、女はぼんやりとする頭を覚醒させるかのように、深く煙管を吸い上げる。そのまま煙管を強く打ち付け、鏡の中の自分を睨みつけながら階下へと向かった。
ぎらぎらと瞳を燃え立たせる香梅の後ろ姿を、白い猫は体を丸めたまま薄目を開けて見送る。そしてどうでも良いと言わんばかりに、大きなあくびをするとまたすうすうと眠り始めた。
雨はまだ降り続いている。霧はさらにその濃さを増し、窓の外はもはや何も見えない。