計算迷宮(10)
「ザワディは、どちらにしますか?」
ケミコさんは、ザワディの前に、肉とミルクの皿を置いた。
ザワディは、しばらく、ふんふんと匂いを嗅いでいたが、食べだすとあっという間で、肉もミルクも、骨片も残さずになくなってしまった。
ザワディはケミコさんに対して警戒すること無く、傍らに侍らしていた。食事が終わると擦り寄ってきて、ぺろぺろと舐める。
「もっと欲しいですか?」
ザワディは、あぉん、と短く啼いた。いつも見慣れているからというだけではなく、このケミコさんには特別親近感を覚えるらしい。
もちろん、ケミコさんはおかわりが大好きなので、いそいそと空の皿を下げてとなりの部屋へと向かう。
ザワディもついてきた。いなくなったら困ると思ったのだろう。
調理室の大きな冷蔵庫を開けて、ケミコさんが生肉を取り出すと、もうザワディは我慢できない。ケミコさんにまとわりついて、鼻をくんくん鳴らす。
ケミコさんも甘いので、おやまあ、しかたありませんねえ、などと言いながら、その場で皿に載せてザワディにあげてしまう。
ケミコさんはザワディの食事風景を眺めていたが、ふと気配を感じて入り口のほうを見ると、中を覗きこんでいる顔があった。
「あのぉ…」
ケミコさんと目があった、イリナイワノフは、おずおずと申し出た。
「ちょっとだけ、お話いいですか?」
「はい、いいですよ」
ケミコさんはイリナイワノフのほうに進み出る。ザワディは肉に夢中でケミコさんのほうには寄ってこない。
「隣でお話しましょうか」
ケミコさんはイリナイワノフを先導して隣の部屋に入った。
イリナイワノフの前のテーブルにホットミルクのカップを置いたケミコさんは、辛抱強く彼女の言葉を待った。
「あの…」
イリナイワノフは臆していたが、思い切るよう、一気呵成に言った。
「サイカーラクラを連れて行かないで欲しいの」
――え?
もし、ケミコさんに顔があったら、かなりおかしな顔をしていたと思う。
でも、イリナイワノフは真剣だった。
「あなた、いい人だし、お料理も上手だから、サイカーラクラも一緒に来て、って言われたら、たぶん、行っちゃうんだと思うんだけど、それは、サイカーラクラもそのほうが幸せなのかもしれないし、あたし、バカだからよくわかんないんだけど…、でも、サイカーラクラにはどっか行ったりしてほしくなくて、だから、あたし…」
ケミコさんはこの世に出来てから一番くらいに困ってしまった。
イリナイワノフは話し続ける。
「サイカーラクラ、ってヘンな子だけど、あたしの友達、っていうか、あたし、ほんっと友達いなくて、あとボゥシューだけど…、とにかく、あたしたち3人。あたし…、サイカーラクラは迷惑かもしれないけど、サイカーラクラ好きで…、だから、サイカーラクラの気持ちはわからないんだけど、それであたしたち3人、これはボゥシューも一緒だけど、それで、ずっと一緒にいるんだと思ってて…、だから、あたし…」
「サイカーラクラは、どこか別のところにいったりはしませんよ」
「ほんと?」
半ベソのイリナイワノフは顔をあげてケミコさんを見た。
「サイカーラクラ、どこにも行かない?」
「ええ、あなたとずっと一緒だと思います」
「でも、サイカーラクラだけ呼んだよ?」
「タケルヒノとヒューリューリーも呼びましたよ。それに来れるなら他の人もいらしてください、って言いましたし」
まさか全員来るとは思わなかったので、第2類量子コンピュータだって驚いたわけだが。
イリナイワノフはなにか腑に落ちない顔で思いを巡らせているようだったが、何かに思い当たったらしく、みるみる顔が真っ赤になった。
「あのっ、ごめんなさいっ、あたし、てっきり、あなたがサイカーラクラ連れてっちゃうと思ったから」
「大丈夫ですよ。そんなことしません」
良かった、よかったぁ、イリナイワノフは跳ね跳んで部屋の外に出て行った。
ケミコさんは、しばし呆然と部屋にひとりたたずんでいたが、ふと入り口のほうを見ると、最初と同じようにイリナイワノフが顔だけ出して、中の様子をうかがっている。
「今の話なんだけど…」
これまた、さっきと同じように、おずおずとイリナイワノフが口に出す。
「サイカーラクラには黙っててくれる?」
「はい」
「ボゥシューにも?」
「誰にも言いませんから。約束します」
イリナイワノフの顔が入り口から消え、ダダダッと駆け出す音が廊下の向こうにした。
ザワディが、のそり、と部屋に入ってきた。
「まあ、ザワディ」ケミコさんは言った「いまとても面白いことがあったんですよ。でも言えないんです」
ザワディは悲しそうな声で、きゅぅん、と啼いた。
「そんな顔してもダメです、ザワディ、わたし約束したんですから」
ケミコさんは言い、また調理室のほうに向かった。ザワディもついてくる。
「ザワディ、あなたのお友達はみんな面白いですね。そして、とっても素敵です」
あぅん、とザワディは答えた。そんなこと知ってるよ、とケミコさんには聞こえた。




