計算迷宮(9)
「こんにちは、ヒューリューリー」
ケミコさんは天板に花蜜水のグラスを載せてやってきた。
「ありがとうございます」
ヒューリューリーは頭の先端をグラスに入れ、3分の1ほどを一息に飲んだ。全部飲み干すのは、もったいなかったのだ。
「おかわりありますから、遠慮しないで」
「はい、ありがとう」
ヒューリューリーは、もう一度礼を言いながら頭をもたげた。そして、その聞き覚えのある声に向かって、あらためて呼びかけた。
「私を胞障壁から呼んでくれたのは、あなたでしたか」
「はい、そうです」ケミコさんは答えた「でも、わたしが声をかけたのはあなたが胞障壁を超えてからです。わたしの声は胞障壁の中には届きませんから」
「そうなんですか?」
「そうですよ。わたしの声が胞障壁に届く、わたしの力が胞障壁に及ぶなら、とうの昔にわたしは胞障壁を超えているはずですから」
「でも、あなたの声で、私は胞障壁を超えられたのです」
「いいえ、あなたは自分で頑張りましたよ。タケルヒノもそう言ったでしょう?」
「それは、確かに、そうですが…」
煮え切らないヒューリューリーに、ケミコさんはおかまいなしに言葉をぶつける。
「正直、あなたが胞障壁を超えてきたのには驚きです。サイユルはもう少し時間がかかるのだと思っていたのです。袋小路を抜けさえすれば、ベルガーのほうが早い、と、わたしは考えていました」
「それは光子体になって、ということですか?」
「そうです」
ケミコさんの声は、そう言ってから、次の言葉が出るまで少し遅れた。
「生身のまま、胞障壁を超えるのはタケルヒノしかできませんよ」
「やはり、そうなのですか?」
「やはり、そうなのです」
第2類量子コンピュータはヒューリューリーの言葉をオウム返しした。
「そもそも、タケルヒノの能力というか、あれは、とんでもないものです。しばらくは胞障壁超えることができる、ということで取り沙汰されるでしょうが、本来、あの能力は胞障壁を超える程度のことに用いるには過剰すぎます」
「どういうことですか?」
驚いて尋ねるヒューリューリーに、しかし、第2類量子コンピュータは言葉を濁した。
「それは、わたしにはちょっと…。」
「タケルヒノ本人に聞くしかないということ?」
「タケルヒノに聞いても答えてくれるかどうかわかりませんし、強いてあげればジムドナルドぐらいでしょうか、答えられるのは」
「ジムドナルドですか?」ジムドナルドと聞いて、ヒューリューリーは思い出したことを口に出した「私はサイカーラクラにジムドナルドには相談するな、と言われたのですが」
「ああ、あの子なら、そう言うでしょう」
「サイカーラクラが? どうしてです?」
ヒューリューリーの問いに、ケミコさんは遠慮がちに言葉を選んで回答した。
「あの子は有限論理を超える考えには抵抗を示します。ある意味、しかたのないことですけど」
「論理を超える考え、ですか? ジムドナルドは意外に論理的に見えますが?」
「まあ、そうですが、ジムドナルドは論理の外にいるので、論理も扱える、ということです。そして彼は論理以外のことも扱えるので、サイカーラクラとしては、そこが無理なのです」
「ジムドナルドはそんなに凄いのですか?」
「そうですね」
「タケルヒノより?」
「いいえ、違います」ケミコさんの中身は言い切った「タケルヒノは論理とか非論理とか、そもそもそういうものとは関係ありませんから」
「意味がよくわかりません」
「そうですね。第2類、とは言っても、わたしも計算機ですからね」
ケミコさんは笑った、ような気がした。
「連続体密度の無限論理束を扱えても、所詮、論理は論理です。論理を超えたものは扱えません。うまく説明できないのはそのせいです」
「ジムドナルドなら説明できるのですか?」
「説明というか。俺を信用しろ、とか言うだけなんでしょうけど」
「タケルヒノは?」
「そこが難しいところです」
ケミコさんに表情がないというのは、こういうときに本当に困る。ヒューリューリーは、ケミコさんが発する言葉をすべて鵜呑みにできないことぐらいはわかっていたが、さりとて、具体的に反論できるような材料があるわけでもない。
「ようするに」ヒューリューリーは体を振ったが、いつもよりキレが悪い「あなたにも、よくわからないことがある、と、そういうことですか?」
「そういうことです」
第2類量子コンピュータは言葉尻を取るのが気に入ったようだ。
「極端な話をすれば、わたしには、わかることと、わからないことを区別することぐらいしかできることはないのです。わかることはわかるけれど、わからないことはわからない。すべてがわかっているのはタケルヒノぐらいです」
「そこがいちばんわからない」
ヒューリューリーは身悶えしながら体をくねらせた。
「そうでしょうね」
第2類コンピュータは、あっさりとヒューリューリーの主張を肯定した。
「でも、そのことについては、わたしだって、わかっているわけではないのです」




