セルレス(3)
落ち着け、落ち着け、落ち着け、私。
サイカーラクラは心の中で3回唱えた。大きく深呼吸する。
ただの気休めとは思っても、他にできることもない。
深呼吸したら、ますます、心臓の鼓動が大きく聞こえる。
だめだ。
だめだが、どうしようもない。
とにかく、私だけ話をしてもらえないという状況は、何が何でも打破しなければならない。
宇宙船に来てから…、サイカーラクラは生まれて初めて誰かの役に立てたという実感が持てた。
ずっと、ひとりで本を読んでいるだけだった。
読んだことを解釈して他人に話す。それが役に立つことがあると初めて知った。
でも、本の中のことだけでは、理解できないこともある。
話さなきゃいけない。
それは、サイカーラクラの前にそびえる巨大な壁のよう。
行かなきゃ。
サイカーラクラは立ち上がる。
フェースガードをきっちり隙間なく閉じた。
サイカーラクラはミィーティングルームに忍び込んだ。
タケルヒノの席の後ろに、ひっそりと腰掛ける。
自分から声をかける勇気はなかったので、タケルヒノが気づくまでずっと待つつもりだった。
いつもなら情報キューブにアクセスして時間をつぶすのだが、うっかり、のめり込んでしまうとタイミングを失う恐れがある。
サイカーラクラはじっと待った。
そうは言っても、何もせずに待つのは辛い。見るともなしにタケルヒノのコンソールに目が行ってしまう。タケルヒノは双子星の片方に住む高度文明圏に属する種族の項を読んでいた。
「あ、サイユルの…」
思わず出た声に、タケルヒノが振り向いた。
「やあ、サイカーラクラ」
タケルヒノの呼びかけにサイカーラクラは硬直した。
「サイカーラクラもサイユルに興味ある?」
――言わなきゃ、何か言わなきゃ
サイカーラクラの唇が開きかけては、また閉じる。
「そうだ、何か飲み物でも…」
言いながら、立ち上がろうとしたタケルヒノの手をサイカーラクラがつかむ。
「い、いいんです」サイカーラクラは震える声でしぼりだした「いりませんから、話を…」
「話し?」
「…セルレスの話を」
タケルヒノは椅子に戻って、サイカーラクラに向き直った。
「ああ、そう言えば、まだサイカーラクラとはセルレスの話してなかったね」
「はい…」
「サイカーラクラには胞障壁より胞宇宙について聞きたいと思ってたので…」
「セルベル!?」サイカーラクラは身を乗り出した。パチン、とフェースガードが開いて、サイカーラクラの顔がタケルヒノの前に現れる「胞宇宙は本当にあるんですか」
タケルヒノはもちろんびっくりしたが、以前の失敗もあるので、努めて平静を装った。
「あるよ」タケルヒノはサイカーラクラが顔を隠してしまわないよう、慎重に話を進めた「胞宇宙は胞障壁をはさんで接続する無限の小宇宙だ。一個の胞宇宙に無限接続された胞宇宙の全体を近接胞宇宙と呼び、近接胞宇宙をすべて集めたものが宇宙だ」
「胞宇宙があるのなら」サイカーラクラは大きく瞳を見開いた「情報キューブのお話は、あれは全部本当?」
「いまのところ、あきらかな嘘の記述はないみたいだから、疑う理由は何もないよ」
「すごい、すごい、素敵です」サイカーラクラは有頂天になって、タケルヒノの隣のコンソールを起動し、しおりのところから読み始めた「すごい、これが全部、本当のことだったなんて」
すごい、素敵、を連発しながら情報キューブを読みあさるサイカーラクラ。タケルヒノは声をかけるのすらためらわれたが、まだ大事な話が残っている。
「あのね、サイカーラクラ」
「はい」
サイカーラクラは生返事だ。
「お願いがあるんだけど」
「はい」
「胞宇宙の地図が欲しいんだよ」
「え?」
サイカーラクラはようやくタケルヒノのほうを向いた。
「地図ですか?」
「そう、地図が欲しい。個々の胞宇宙についての記述はかなり詳しいんだけど、胞宇宙同士のつながりがよくわからない。情報キューブにはこっちの胞宇宙から来た、とか、次の胞宇宙はこことここ、みたいなことは書いてあるんだけど。例えば、2つの胞宇宙があったとして、直接接続がなければ、どの胞宇宙を経由したら行けるのかがよくわからない。それがわかるような地図があれば…」
サイカーラクラは何か考えている風だったが、不意にコンソールを操作しだした。
「こんなのはどうでしょう?」
画面上に輝点が現れ、それを数十個の輝点が囲む。その内のひとつを選ぶと、赤く色の変わった輝点のまわりにまた多数の輝点が現れる。画面上の輝点のひとつを緑色に変えると、サイユルと表示され、内容が詳細ウィンドウに表示される」
「何これ」タケルヒノが驚いて尋ねた「こんなのどこにあった?」
「作りました」サイカーラクラが無頓着に答えた「情報キューブを読み進めるのに必要だったので。まだ私の読んだ分しかありませんけど、タケルヒノも必要ならもっと整備します」
「こんなのが作れるのに、どうして胞宇宙があるかどうかなんて悩んでたの?」
「だって」サイカーラクラは泣きそうな顔になった「胞障壁なんて私には理解できないんです。数学障壁とか無限級数とか可算無限個の接続とか、そんなわけのわからないものと一緒に出てくるから、胞宇宙も怖くて…」
「あ、ああ」
タケルヒノにもサイカーラクラの気持ちは、なんとなくわかるような気がした。
「でも、もういいんです」サイカーラクラは急に笑顔になった「胞障壁はタケルヒノがなんとかしてくれるから。私は胞宇宙のことだけ考えます」
それでいいんですよね、と念押しされたタケルヒノは、一抹の不安を心の奥底にしまい込み、これまたとびきりの笑顔で返した。
「もちろんだよ。胞障壁のことは心配いらない。入り口出口が別れた門のついた壁、ぐらいに思っててくれればいいよ」




