ジムドナルドの冒険(19)
「ねえ、先生、見て、この子かわいいでしょう?」
最近のラーベロイカはいつも上機嫌で、とは言っても、もうラーベロイカではなくてラーブドナルドなのだが、ジムドナルドは出張中ということにして勝手に婚姻届け届けを出してしまっていたのだ。
「ええ、まあ、そうね」
アグリアータは、今日何度目かの気のないあいづちをうった。
もちろん、ラーベロイカの産んだ子はとてもかわいらしいのだが、他人の子だし、そう熱気をもって何度も褒めそやすほどでもない。それに、アグリアータには、もっと気になることがあった。
「地球でこの子を産んでよかったわ。ねぇ、先生、知ってる? 地球では、子供にお父さんと同じ名前をつけていいの。だからこの子もジムドナルドなの」
「名前が同じだとまぎらわしくない?」
「そんなことない。子供にはね。ジュニアってつけるの。だからこの子はジムドナルドジュニア。地球って面白い。私も名前が変わっちゃった。でも、この子をジムドナルドにするためには、そんなことどうでもいいの。ね、ジュニア」
ラーベロイカ――ラーブドナルドは、自分のベッドからベビーベッドにむかって手を伸ばす。その腕は枯れ枝のように細く、みずみずしさこそ失ってはいないものの、どうかすると途中で折れてしまいそうな、そんな手だった。
「きれいだ。本当にきれい」うっとりとした表情で、ジュニアの金色の巻き毛を指にからめるラーベロイカ「ジュニア、あなたの髪の色が金色で本当によかった」
「あのね、ラーベロイカ…」
無駄とは思いつつ、今日、5度目の諫言をアグリアータは口に出した。
「あなた、やっぱりきちんと診察を受けたほうがいいわ」
「どうして?」
嫣然と笑むラーベロイカの顔は、雪の精のように白かった。
「私、どこも悪くないよ」
ラーベロイカは先駆体世代、アグリアータの後輩として、ずば抜けて優秀ではあったのだが、またとてつもなく頑固な性格だった。なにくれと、故郷、ライザケアル先駆体の育成に携わってきたアグリアータのことを、ラーベロイカは先生と呼ぶ。
ラーベロイカとアグリアータは、世代として数千年の隔たりがあるから、多少の意見の食い違いがあるのはしかたない。それでもラーベロイカのアグリアータへの敬愛の念は一時も揺らぐことがなかった。ところが、この生徒、いままで一度も先生の言うことをきいた試しがない。そのうえ、アグリアータは何故かラーベロイカには甘くて、いつもラーベロイカのわがままに折れてしまう。
先駆体の遺伝的な隔離状況を考えれば、先生と生徒と言うよりは年の離れた叔母と姪、それも激甘の叔母、というのが彼女らの関係にいちばん近いかもしれない。
――いま、こんなことを言うぐらいなら…、あのとき、きちんと止めていればよかったのだ
それぐらいのことは、アグリアータにもわかっている。
ラーベロイカが宇宙船に乗りたい、と言ってきたあのときに止めておけば…
後悔はしてみるものの、この愛おしく小生意気な先駆体世代を、一度も御すことのできなかったアグリアータには、所詮、無理なことではあった。
「それにね」
アグリアータの気持などおかまいなしに、ラーベロイカはさも可笑し気に笑う。
「私の体はボゥシューにしかわからないから、他の人に診てもらっても無駄だと思うよ。…ボゥシュー、いないんでしょ?」
「いま、タケルヒノが探しているから、もうすぐ見つかるから…」
「じゃあ、見つかってからでいいね」
ベビーベッドの赤ん坊は、泣くでもなく、小さな口を開け、アグリアータに、お、と言った。
――もう少し、この子が大きくなれば、味方になってくれるのに
なんの根拠もなく思いながら、アグリアータは、重ねてラーベロイカに勧めてみた。
「せめて、ジムドナルドに連絡…」
「駄目よ」
人が変わったように、ラーベロイカの表情が険しくなった。
「ジムドナルドにだけは絶対に言っては駄目」
「どうして? ジムドナルドだって、この子に会いたいでしょう?」
「この子が大きくなったら、自分でお父さんに会いに行くと思う。彼の子だからそれぐらいのことはできる」
「そりゃ、そうかもしれないけど」アグリアータにはラーベロイカの言う意味がわからない「ジムドナルドが来るほうがずっと簡単でしょう? 知らせれば彼はすぐに…」
「だから駄目なの」
このやせ細った身体のどこからそんな声が出るのか、アグリアータが驚くほどの毅然とした声だった。
「ジムドナルドは…、もちろん、この子のことを知ったら、すぐここにやって来る。だってジムドナルドは、優しいから。でも、駄目なの。ここに来ては駄目」
「どうして?」
「ジムドナルドは自由でなきゃいけないから」
ラーベロイカは、無理に半身を起こし、ベッドの上に座った。
「私はずっとわがままだった。いまもそう」
ええ、そうね、とアグリアータは言い、ラーベロイカは力なく笑った。
「私は、私のわがままでジュニアを産んだ。ジュニアには悪いことをしたのかしら? それはよくわからない。でも、もしそうでもこれから頑張る。私、頑張る。ジュニアは頑張って育てる。ジュニアのこととても好きだから…、でも…、ジムドナルドは駄目。ジムドナルドはいつも自由に翔んでいなければ…、ジムドナルドの自由な翼を折ることは、私にはできない」
「でも…」
「お願い、先生」
ラーベロイカは触れられぬ光子体の体にすがるような視線をむけた。
「やがて、ジュニアも大きくなれば、父親のように自由に胞宇宙を駆け巡るでしょう。そうすれば、いつか、父親、ジムドナルドにも会える。そうすれば、2人とも自由に宇宙を翔べる。そうなってほしい。だから、駄目なの。ジムドナルドはここに来ては駄目」
わかったわ、とはアグリアータは言わなかった。実際、ラーベロイカの理屈はむちゃくちゃで意味がぜんぜんわからなかった。でも、これ以上は埒があかない。何より、ラーベロイカの身体に障るのは明らかだった。
「また、来るから」
それだけ言うとアグリアータの体は光の泡となってかき消えた。
アグリアータが帰ってしまうと、ラーベロイカはそのままベッドに倒れこむ。
身体は火のように熱く、全身が錆びた蝶番のようにきしむ。
我が子を襲うはずの毒を子宮がすべて受け止めてくれた。ライザケアル人の母親の体液は、地球人であるジュニアにとっては生体不適合を起こす。それをボゥシューが止めるよう処置した。いま、その毒が、回りまわってラーベロイカを苦しめている。
――私、馬鹿だ。
いつもそっけないふりをしているが、本当は、先生が来てくれるのがとてもうれしい。
昔、ラーベロイカはアグリアータのようになりたいと思っていた。それは子供のころの憧れで、その思い自体はいまでもそれほど変わっていない。もっとほしいものができただけだった。
わがまま、というより欲が深すぎるのだろう。
ベビーベッドでむずかる声に、ラーベロイカはあわてて身を乗り出し、ベッドの縁から赤ん坊をのぞき込む。
ジュニアはラーベロイカの顔を見つけて落ち着いたらしい。すぐ目を閉じて眠ってしまった。
――きれい
ラーベロイカは部屋の照明ですら散らして輝く、我が子の金色の髪を見つめていた。
その父親ゆずりの金の髪をはじめて見とめたときに、
ラーベロイカは、もう、それ以上、けっして何も望むまいと心に決めたのだ。
ラーベロイカは、落ち着いた我が子の寝息を聞きながら、本棚に目を向けた。
――お願いの魚の話し
ジュニアがまだおなかにいた時に、生まれたら読んであげようと買った絵本だった。
読んで後悔した。
水面から顔を出したかわいらしい魚の絵に惹かれて買ったのに、中身はとても恐ろしい話しだった。
ある日、魚は漁師の網にかかってしまう。助けてくれたら何でも願いを叶えましょう、と魚は漁師にむかって言った。
漁師に助けられた魚は、約束通り、漁師に乞われるまま、と言うよりは、漁師の女房の意のままに願いを叶えていく。
あばら家はたちまち御殿に変わり、広大な領地と、王としての地位を得た女房は、最後に太陽を昇らせ、そして沈める力を望んだ。
その最後の願いが仇となり、漁師と女房の栄華は露と消え、もとのあばら家に戻る。
あの女房は私だ。ラーベロイカは自分の欲深さが彼女以上なのを知っている。先駆体史上最高とうたわれた実績に飽き足らず、宇宙を翔ける男の胤を望んだ。そして自分もまた胞障壁を超えて、愛する人の故郷へと旅してきたのだ。
欲することがすべて叶うなどあり得ない。
しかし、ラーベロイカはいつも望む以上のものを手に入れてきた。こんなことはあり得ない。絶対にこのままですむはずがない。
ジュニアの金色の髪。
それを見たとき、ラーベロイカは、それこそが彼女への最後の贈り物で、そして最大の警告なのを知った。
金色に輝く細びきの髪の毛。
それは、ラーベロイカが常に心の奥底に欲していたもので、この世界で2番目に彼女自身が欲しかったものだ。
それさえあれば、
もしかしたら、自分も普通の少女として、素晴らしい幼年期を過ごせたかもしれない。唯一彼女に欠けていた、その金髪を持って息子は生まれた。
これ以上を望めば、本当にすべて駄目になる。
だから彼女は1番目をあきらめた。
漁師の女房のあばら家に戻る前に踏みとどまったのだ。
体が瘧のように震え、耐え切れずにラーベロイカはベッドに伏した。
痛みと熱は激しかったが、それは耐えられる。
耐え切れそうにないのは…
――あいたい
ラーベロイカが封じ込めた1番の望みが、彼女を苛んでいた。
――ジムドナルドに、あいたい
ラーベロイカは、ベッドの傍らの小物入れからおまもりを取り出した。
ジムドナルドにもらったペンダントを、ラーベロイカは大事にしまっていた。我慢できなくなると、こうやって取り出しては眺め、気をまぎらわす。
ラーベロイカはペンダントを裏返した。
――ボタン
困ったら押せ、とジムドナルドは言った。
ただの冗談だ。
こんなものを押したところで、胞障壁を隔てて別の胞宇宙にいるジムドナルドがやってこれるわけがない。
離れ離れになる恋人へのせめてものはなむけだったのだろう。
軽く指を押しあててみる。
いつもなら、ここでやめる。
だが、今日は、どうしてもボタンから指を離すことができない。
もう、ラーベロイカは我慢できなかった。
押したところで何が変わるわけではない。
でも、あきらめはつくかもしれない。
ほんのわずかの希望、それがいままでラーベロイカを支えてきたのは事実。
ボタンを押すことで、その希望が消えれば、それはそれで、また新しい明日がはじまるのかも知れない。
ラーベロイカはボタンを押した。
――ほら、何も起こらない
ラーベロイカは可笑しくて、体の痛みも忘れて笑い出しそうになる。
風が吹いた。
閉め切った母子だけの部屋に、
それは、ありえない風だった。
「ばっかだなあ。もっと早く押せよ。間に合わなかったら、事だぞ」
扉から抜ける風にジムドナルドの金の前髪が揺れた。
「すごいな。こんなちっちゃいのに、指がちゃんと動くんだ」
ジムドナルドはベビーベッドをのぞいて、赤ん坊に声をかけた。
ジュニアは父親の呼びかけに答えるように、両手の指をわきわきと動かした。
ラーベロイカは…
ラーベロイカはベッドの上に座って呆然としていた。
目を見開いて、ジムドナルドを見つめるも、焦点すら定まっていない。
「よくがんばったな。えらいぞ」
ジムドナルドはラーベロイカの細い身体を壊さぬようにかき抱く。
「そして、ありがとう。俺が来たんだ。もう大丈夫だ。何も心配することはない」
その言葉がずっと聞きたかった。
ラーベロイカの口から言葉にならない声がもれ、涙がそれを押し流した。




