胞障壁を超えて(4)
それは、最初、何もない空間だった。
無為のままに濃淡を重ねた、虚無が、発端をつかんで輝きだす。
単純な輪郭で囲まれた光球が、その境界を周囲に拡大していく。
一点の欠陥も持たない完璧な光。
光量の揺らぎもなく、ただ一様に平らな光を周囲におしなべる、完全無欠の領域。
出現した光の領域を、呆けたように見つめていたデルボラは、突然、叫びだした。
「ありえない」デルボラは、絶叫した「こんな胞障壁など、あり得るはずがない」
しかし、それは存在した。
「胞障壁は数学障壁。それは、つまり、問題の集合」
ボゥシューの声が識域下から湧きあがる。
「胞障壁の光点は個々の収束点、それが、答え。答えの連なりが胞障壁の本質。だから、一点の欠陥も持たない光点だけで構成される胞障壁は、正しい答えしかない。真値のみで構成された、正しい集合」
「そんなもの、あるわけが…、ない」
デルボラの声は次第に、弱弱しく細り、光の胞障壁に飲み込まれるようにか細く拡散した。
「でも、あるんだ。前にも同じ胞障壁を見た」
デルボラは、驚愕の眼差しをボゥシューに向ける。
「はじめてここに来た時、通った胞障壁だ。圧倒的な光、光以外、何もない。すべてが正しいのだから間違えようがない。タケルヒノがデルボラに至るために超えた胞障壁。あれは、タケルヒノの胞障壁」
ボゥシューの言葉に、デルボラが悲鳴をあげる。
デルボラが悲鳴をあげる。叫びながら両手を振り回した。両手の先から極彩色の闇が流れ出す。それは、デルボラの意地か、はたまた恐怖の裏返しか、絶対光領域に向かって、喰らいつくように伸びていく。
ちっ、と、舌打ちしたジムドナルドが壁を蹴って飛んだ。
2つの異なる種類の胞障壁がぶつかったらどうなる?
ジムドナルドにも結果は正確にはわからない。が、ろくなことにはならなさそうだった。本能的に危険を感じたジムドナルドは、デルボラの手先から伸びる二条の闇を、その手で払った。闇はいったんは軌道を変えたものの、また光球へと向かって伸びる。闇をいなしつつ、ジムドナルドは、その闇の元、デルボラを見た。自分を見失って、意味のない言葉をわめきながら、めちゃくちゃに両腕を振るばかりのデルボラ。
――こいつはダメだな
再び、うねる2本の闇の蛇に向き直るジムドナルド。
そのジムドナルドを制するように、一体の宇宙服が、前に進み出た。
――ボゥシュー?
光球と極彩色の闇の間に身を置いたボゥシューが両腕を広げると、うねる闇が新しい目標を定めて、ボゥシューにまとわりついてきた。
「おい、待て、ボゥシュー」
広げた腕の片方をつかもうと、ジムドナルドが手を伸ばす。
が、それより早く、
ボゥシューの左手をつかんだ者がいた。
その手は、ボゥシューを闇から引き出すのではなく、逆につかんだ手を頼りに、ボゥシューの腕の中に飛び込んだ。
「お姉さん」サイカーラクラは言った「私たち、ひとりでは胞障壁を超えられないかもしれない。でも、2人一緒なら…」
「ああ、そうだ」
ボゥシューは答えた。
「2人一緒なら、きっと胞障壁を超えられる」
まとわりつく極彩色の胞障壁が2人を完全に包みこみ、その姿もおぼろに奇怪な脈動を始めた時。
光球から、ヘルメットがひょっこり顔出した。
するり、と、光球から滑り出たタケルヒノは、傍らの胞障壁にちょっとだけ驚いた顔をしたが、その中身に目をやると、親しげに手を振った。
ボゥシューとサイカーラクラも、胞障壁の中から、手を振り返した。
「ちょっと、遠出する」ボゥシューはタケルヒノに言った「ワタシたちが胞障壁から出たら、迎えに来てくれ。宇宙船がないと不便だからな」
「ああ、わかった」まるで列車で出かける知人を見送るように、タケルヒノが言った「ジルフーコと一緒に迎えに行くよ。あまり、遅くならないように行くから、待っててね」
胞障壁の中の2人が、かすかに笑ったように見えた瞬間。
極彩色の闇は急激に収縮し、忽然と消えた。
「遅い」
ジムドナルドの声が、タケルヒノのヘルメットの中に割れんばかりに響いた。
「あ、すまん、いろいろ手間どってね」
小声で言い訳するタケルヒノに、ジムドナルドがかぶせた。
「とにかく、もたせたぞ。ぎりぎりだが、あとはおまえ次第だ」
ジムドナルドは、それだけ言うと、壁に身をゆだね、そのまま動かなくなった。
タケルヒノは、動かなくなったジムドナルドに声をかけようとしたが、思い直して、デルボラのほうを向いた。
デルボラは、もはや一言もしゃべらず、魂の抜けがらのように、タケルヒノの前に漂っている。
「どうも、遅くなりまして、申し訳ありません」
タケルヒノは、デルボラに向けて一礼した。
「探し物がなかなか見つからなかったのです。でも、おかげさまで、どうにか見つけることができました…」
タケルヒノの言葉に、デルボラは反応しない。
焦点の合わない目で、いましがた、ボゥシューとサイカーラクラの消えた空間を見つめ続けている。
タケルヒノは、デルボラの虚脱ぶりにはあまり興味がないようだった。返事がないのを無視して、一方的に話し続ける。
「…とは言っても、見つけたのは、僕じゃなくて、ボゥシューなんですけどね。…まあ、いいや。…ところで、あなたのほうの探し物は見つかりましたか?」




