胞障壁を超えて(3)
「夢…、ですか」
部屋の隅までたどり着き、壁を侵食しだした胞障壁を見つめながら、デルボラが呟く。
「はるか昔、そう、わたしにも、あったような気がします…。茫漠として、いまとなっては、それ自体が夢だったような気さえしますが…」
「何故、重中性子体になった?」
「光子体では、ダメなことがわかっていたから」
デルボラの意識は、問うジムドナルドを通りこし、虚空に向かって語っているように見えた。
「光子体では軽すぎて、胞障壁の中で核を維持するのがほぼ不可能。彼はできると言ったが、わたしはできないと思った。あの頃、励起子体は理論の域を出ず、実用化など夢のまた夢だった。その点、重中性子体は魅力的だった。数百万年? いや、数億年の孤独にさえ耐えられれば、胞障壁を超える方法を見つけられるだろうと、根拠もなく思った」
「まだ、数万年しかたってないぜ」
デルボラは、笑った。とても寂しげな笑いだった。
「同じことだ。わたしは無限を甘く見ていた。胞障壁は無限。胞宇宙と同じ、真の無限だ。理論は無限を美しく閉じ込めるが、所詮、理屈は理屈。理論通りにたどったところで、現実の中でもがく限り無限の果てを超えることはできない。超えるには、理論ではなく、時間でもなく、天才が必要だ」
「あんたも、天才だろう。胞障壁を生み出せる」
デルボラは、静かに首を振った。
「天才も最初は、誰かの真似から入る。理論は、結局、真似の集大成だ。理論によって本質を理解すれば、同じものは造れる。だが、それは、ただの同じものだ。わたしは胞障壁を生み出せる。しかし、それは、所詮、胞障壁。胞障壁では、胞障壁を超えられない」
「超えようとしたことは、あるか?」
「超えようとしたか、だと?」
いままで、何かをあきらめたような、死んだ瞳をしていた、デルボラの顔がにわかに険しくなった。
「わたしは、何のために、重中性子体になった? そもそも、その前に、光子体になっている。2度の情報体転換をしても、届かなかった」
「胞障壁を超えるのには、情報体である必要はない」
「そうだ。だが、そのころのわたしには、そんなことはわからなかった」
「胞障壁を超えるのに…」ジムドナルドはもう一度、繰り返した「情報体であっても、何の問題もない」
デルボラの顔に戸惑いの表情が浮かび上がる。見ようによっては、すがるようにも見える、その眼で、彼はジムドナルドを見つめていた。
「最初の光子体は、胞障壁を超えられなかった。あんたもそう言ったし、何より本人がそう言ってる。だが、それがどうした? もともと光子体は胞宇宙を自由に行き来できるんだ。必要だったのは、胞宇宙間で物資を移動させることだった。情報だけではどうにもならない。最初の光子体は宇宙船を、情報キューブではなく、テクノロジーそのものの実体を他の胞宇宙に持ち込んだ。やり方はめちゃくちゃだし、泥臭くて、まあ、あのおっさんらしいと言えば、らしいが、それでも、やったんだ。それだけは、どうしたって認めなけりゃならない」
「彼は、いつもわたしの先を行っていた。彼は、わたしの夢であり、そして壁」
「胞障壁に先も後もあるかっ」
突然のジムドナルドの激高に、デルボラは驚いて、目を見開いた。
「胞障壁は時間も空間も超える。時空間のどこかにあった、ということだけが重要で、その他のことは何も関係ない。因果律さえ、前後の関連性ベクトルが消失して、ただ線で結ばれた関係性だけが残るのだ。前にやろうが、いまからやろうが、これからやろうが、そんなことは無意味だ。やるか、やらないか、それだけだ」
「わたしに、何をしろと言うんだ?」
苦しそうに顔を歪めて呟くデルボラに、ジムドナルドの叱咤が飛ぶ。
「知るか、そんなこと」
ジムドナルドは叫んだ。
「俺はな、留守番頼まれただけなんだ。そんな難しいこと、俺が知ってるわけないだろう」
言いつつジムドナルドは、虚空の一点を指差した。
そこは、部屋の天井に近く、何もない空間だった。
ジムドナルドが指差すと、粟粒のように小さな光点が現れ、それは次第に光を増した。
「聞くんなら、あいつに聞け」
穏やかな光を放ちつつ、真球を形作って膨らむ胞障壁、それに右手の人差し指を向けたまま、ジムドナルドは言った。
「あいつなら知ってる。ただ、言っとくけどな。後悔したってしらないぞ。なんてったって、あいつは、俺ほど優しくないからな」




