胞障壁を超えて(1)
ジムドナルドを前にしたデルボラは、不思議なことに、生気が戻ったように見えた。
「授業?」挑むようにデルボラの片眉が上がる「何の授業? 先生は誰? そして生徒は?」
「あんたが胞障壁物理学の先生で、俺が生徒。そして、俺が社会宗教学の先生で、あんたが生徒だ」
「ずいぶんと、不公平じゃありませんか」デルボラは不満を言い立てた「ここにいる人は、みんな胞障壁に詳しい人ばかりなのに、神について詳しいのは、ジムドナルド、君だけですよ」
ジムドナルドは、ちょっと振り向いて、ボゥシュー、サイカーラクラ、ビルワンジルに視線を送ると、すぐまた、デルボラに向き直った。
「神も、胞障壁も、たいした違いはないだろ?」
「君は、タケルヒノがいるから、適当なことを言ってるのではないですか?」
「あいつは神じゃない。悪癖が多すぎる」
「神にも欠点はたくさんあります」
「いや、違うな」ジムドナルドは、他のことはともかく、タケルヒノのことで譲る気はなかった「あいつの悪い癖は、数え上げたらキリがないが、中でも最悪なのが、人の頼みごとを、ほいほい聞きすぎることだ。とにかく、断る、ってことを知らないからな」
「それで、すべて解決するのだから、別にかまわないでしょう?」
「それが、いちばん悪い」
ジムドナルドは、言い切った。
「ちゃんとした神は、人間なんか助けない。自分のことで手一杯だからな。宇宙全体の整合性を取らなきゃならんのに、人類救済なんてちっぽけなことに手を出してる暇はない。人助けなんかしてるのは、全部まやかしだ」
「では、タケルヒノは、まやかしの神?」
「んなわけあるか。あいつのは暇つぶしでやってるんだ。そもそも、頼めば何でもやってくれるが、別に、あいつは、結果については拘泥しない」
「結果に拘泥しない?」
「失敗しないからな」
デルボラは声をあげて笑った。
「なんとも扱いにくい人だ。まあ、タケルヒノのことはいい。ジムドナルド、君のことが聞きたい。どうやって胞障壁を超えた?」
「俺はずっと見ていた」
「何?」
「タケルヒノが胞障壁を抜ける間、ジルフーコが胞障壁を抜ける間、俺はずっと見ていた」
ジムドナルドの話しに、デルボラは思わず身を乗り出す。ずいぶん興味があるようだ。
「何がわかった?」
「胞障壁は数学障壁だ。無限連鎖する問題をすべて解かなければ超えられない。ジルフーコは真正面から解いた。すべての正しい道を突き進んだ。あれはタケルヒノにはできない。そもそもタケルヒノは、数学障壁と言いながら、実は、数学的には、問題を解いてるわけじゃない。それをやったのはジルフーコだ。あおりを食って、完全情報体なんておかしなものになっちまったって、おまけがついたが…」
「完全情報体は、おかしなもの、ではないのですがね」
「でも、不便だろ?」
「それは、認めます」
デルボラは、何か言いたげだったが、言葉を飲み込み、ジムドナルドに話しを続けさせようとした。そっちのほうが興味深い。
「ジルフーコのやり方は、タケルヒノとは違う」ジムドナルドは繰り返した「タケルヒノ本人は無意識でやってたみたいだから、本人も、自分が何をしているのかは、よくわからなかったみたいだ。俺は両方を見て比較したから、タケルヒノが何をしているのかわかった」
「わかりましたか」
「ああ、わかったよ。複素数体の解集合の分布は、定義はできても、真と偽を有限操作では分離できない。しかも、複素数体の解集合、すなわち胞障壁の中には、真でも偽でもない部分が存在する。本来なら、問題をもっと難しくする、この真でも偽でもない部分、タケルヒノは、逆にそこを抜けていって、最終的な出口の解に飛び込んでいた」
「確かにタケルヒノなら、それができるでしょう。でも、それは、たとえて言うなら迷路の壁を乗り越えることだ。壁を乗り越えれば、確かに近道にはなるし、迷路を抜けやすくはなるかもしれない。でも、壁を越えても、そこはまだ迷路です。タケルヒノのように、何もしなくても正しい道を通れるのでなければ、また、迷ってしまう」
「そりゃあ、壁を抜けるだけなら、また迷うだろ、タケルヒノでもなけりゃな」
「それなら、その方法では、君は、胞障壁を超えられない」
「そうだよ。だから、俺は、壁を抜けずに、壁の上に立って俯瞰した。そして、迷路の抜け方を記憶して、その通りに抜けたんだ」
沈黙が降りた。
デルボラは、目を閉じ、深く静かに思考の淵に沈んだ。
再び目を開いた時、
デルボラの顔には、うっすらと、笑みが浮かんでいた。
「君が胞障壁を超えたというのは事実ですし、君の説明も一応の筋は通っています。しかし、それが真実だとすると…」
「ああ、悪い悪い、言ってなかったな」
ジムドナルドはおどけた口調で言った。
「実は、俺、天才なんだ」




