原点回帰(6)
「結局のところ、お前がこれから戦う相手は、人間ではないのだな」
先生は、イリナイワノフの話をすべて聞いた上で、こう問うた。
「人間というか、生物かどうかもあやしいみたい」
「ロボット、機械のようなものか?」
「それもわからない」
ふーむ、と先生はしばし沈黙し、瞑想にふけった。イリナイワノフはじっと先生の答えを待った。
「儂の技術と言うは、所詮、どう効率よく人を殺すかということにすぎん」若干の自嘲もこめて先生は言った「人でないものをどうにかせい、と言われても自ずと限界はある」
「それは、わかってる」
「判った上、と言うならば、この老いぼれにも幾許かはできることもあろう」
「ありがとう」
「お前の話からすると、銃がいちばん良いと思うが」
「銃はむこうでも訓練できるし、宇宙船の中だと使いにくい。潜水艦の中みたいなものと思って」
「宇宙船以外の場所で戦うことも考えて、用意だけはしておくように」
「わかった」
「さて、そうなると」先生はイリナイワノフをじっと見つめた「その服はいつも着ているのか?」
イリナイワノフは自分のラバースーツをちょっと見て答えた。
「そうだよ」
「そのヘルメットもか?」
「無重量区画ではかぶるけど、重力のあるところでは普段はつけない」
「なるほど、それについては、後で考えよう」
先生は、イリナイワノフの右手をとってラバースーツの表面をつまんでいる。それから、腕を曲げたり伸ばしたりを繰り返した。
「柔軟性には問題はない」先生はイリナイワノフに顔を向けて問う「当ててみても良いか」
イリナイワノフはうなずいて、軽く構えをとった。
腕、胸、腰、先生の三連打が、イリナイワノフを襲う。
「ふむ」
「動作時の柔軟性は問題なく、衝撃時だけ硬化して攻撃を跳ね返す」
「ダイラタント素材か」
「そう」
「宇宙人が作ったものなら、ダイラタント素材が使われていても、まあ不思議はない」
「一着あげようか?」
ふふ、と先生は笑った。
「遠慮しておこう、あまり儂の趣味にあう格好ではない。それに、ダイラタント素材といっても、攻撃が当たらなければ普通の服と変わらんしな」
先生は、また瞑想する。
「防御は問題ないとして、攻撃…、寝技が使えないとなると、棒術か」
「そうかな、と思って用意してきた」
イリナイワノフは腰につけていた伸縮警棒をサッと伸ばす。
「用意がいいな」
先生は訓練場のすみに並べてある棒の一本をとった。
「本気でやってよ」
イリナイワノフは、先生の棒が自分の警棒より短いのを見逃さなかった。笑いながら、先生は少し長めの棒に替える。
「まず、両足を肩幅と同じに広げて立つ」
先生もイリナイワノフと同じ姿勢で相対した。
「そこから一歩も動いてはいかんぞ」
「ケンドーじゃないの?」
「あれは、相手と自分の攻撃範囲を見切って、移動しつつ、隙を突いて、自分の攻撃だけを当てる技だ。そのへんは、ボクシングとよく似ている。ステップがしづらい狭い場所とか、ましてや無重量空間では、使いにくいだろう」
「なるほど」
「では、はじめるぞ」
先生とイリナイワノフの距離は、そのまま振れば相手に攻撃があたる距離だ。
先生の打ち込みをイリナイワノフが警棒で払う。
払って開いた脇腹を棒が襲う。
棒を体を反らしてかわしたイリナイワノフの警棒が、先生の手甲を打つ。
先生は手首をひねって、警棒を棒で受けた。
師弟の攻防はいつ果てるともなく続いていく。
夕食はパンとスープの質素なものだった。先生と二人で食べた。
それは、ほんのちょっと前のイリナイワノフの日常。いまは全然違うけど。
イリナイワノフの母は、彼女を産んですぐに亡くなっていた。父は忙しい人で、数ヶ月に一度しか会えなかった。優しい人だったという記憶はある。その父も八歳のときに死んでしまった。任務遂行中、ということだったが、幼いイリナイワノフにはあまりよくわからなかった。
先生は、もともと父の先生である。母の先生でもあったそうだ。母はなく、父もほとんどいなかったから、イリナイワノフを育てたのは先生だ。
旧ロシア、ソビエト連邦、特務機関の老教官は、こうして退官後の余生をかつての愛弟子の娘を育てることに費やすこととなった。
ただ健やかに平凡な幸せを、というのが父母ならびに先生のたっての希望ではあったのだが、こういう環境ではやはり無理があったのだろう。
言い訳めいた話をすれば、先生も普通に育てようと最初は思っていた。が、そもそも普通の育て方を知らなかった。その上、目の前にいるのは、遺伝的な素質十分の磨かれざる玉である。
先生は誘惑に勝てなかった。
イリナイワノフは10歳にして300メートル先の鳥の目を撃ち抜き、12歳の時には、先生を救うためとはいえ、軍用のドーベルマンを素手で絞め殺した。
オリンピック選手ぐらいになれれば、と教育した先生の思惑は完全に裏目に出た。彼女は、とても外には出せない娘になってしまった。
先生はとても後悔したが、後の祭りだった。
でも、暗殺技術に長けていることを除けば、イリナイワノフはとても美しく、優しい子に育った。
そして、イリナイワノフは先生のことが好きだった。




