壁の中の夢(5)
周囲の燦然がやわらぎ、視界が戻ってきたとき、最初は、宇宙船に帰ったのだと思った。
いや、ボゥシューがいたのは、確かに宇宙船の管制室だったのだが、
管制室は、宇宙船のものに良く似ていた。いや、宇宙船よりも小宇宙船の管制室に似ていた。
管制室には、ボゥシューしかいなかった。
いや、
操縦席に漠然とした光の塊があった。
光は宇宙船を操縦しているのだろう。
それ以外には、光がそこに凝っている理由を思いつけなかった。
光子体であろう、その光は、胞障壁の中で、外形を整えるすべを失っていたが、ボゥシューには、それが誰だかわかっていた。
光子体はボゥシューに気づかなかった。胞障壁を乗り超えることに夢中で、他の何にも注意が及ばないのだろう。だが、彼の挑戦は、望み薄だ。胞障壁は、接続された胞宇宙への可能性を狭め、いまや、クモの糸のようにか細い道しか残っていない。そして、彼は、それに気づかない。
そうやって、何度も彼は、胞障壁踏破に失敗した。幾万の失敗の果て、成功したのは数えるほどしかない。
ボゥシューは、ただ、彼を眺めているしかなかった。
どれだけ、そうして眺めていただろう。
胞障壁に時の流れはなく、それは一瞬とも、永遠とも言えた。
静寂の空間の中。
いや…?
「…チガウ、ダメ、ミチ、チガウ…」
「コワイ…、シッパイ、私、コワイ…」
小さな囁きが、光の中から、聞こえてくる。
操縦している光ではない、何かが、光の中にいる。
「もっと大きな声で、叫べ」ボゥシューは、中の声に叱咤した「そんな小さな声じゃ、ソイツには聞こえないぞ」
「ダレ?」
声は驚いて問い返した。
「この人ニハ、私ノコエ、キコエナイ。キコエル、あなた、ダレ?」
「オマエの姉だ」
何故、そんなことを言ったのか、わからない。
「アネ? オネエサン? お姉さん?」
声は戸惑いつつも、落ち着きを取り戻しつつあるように聞こえた。
「そうだ、姉さんだ」ボゥシューは、繰り返した「だから、ワタシの言うことを聞くんだ。ソイツは道を間違えている。オマエが正しい。道を…、正しい道を行け」
「お姉さん、オネエサン。イッショニ、キテ」
「それは、ダメだ」
「ドウシテ?」
突然現れた光明にすがりつくように、声がまとわりついてくる。
「イッショニ、オネエサン、お姉さんと一緒に行きたい。おねがい、お姉さんと…」
「いまは、行けないんだ」ボゥシューは、声に向かって言い聞かせる「でも、ここを抜けたら、一緒に行こう。オマエと一緒に旅をしよう」
「タビハ、イヤ。コワイ…」
「こんどの旅は、怖くない。とても楽しいんだ。ワタシもいるし友達も一緒だ。みんないい奴だ」
「トモダチ、お姉さんのトモダチ」
「ワタシの友達で、オマエの友達だよ」
「私のトモダチ?」
「そうだ、友達とオマエと、それにワタシも一緒に、とても長い旅だ。サイユルにもベルガーにも行く。とても長くて楽しい旅だ。だから…」
ボゥシューは、ここで言葉を切り、操縦席に蠢くぼんやりとした光を指差した。
「何とかアイツを引っ張って、ここを抜けるんだ。オマエが正しい。ここを抜ければ、また、会える、だから…」
「イヤ、オネガイ、イッショニ、イッショニ、オネエサン…」
どちらの胞障壁か、わからない渦に巻き込まれ、全てが白へと還元される。
気がつくと、ボゥシューは、部屋の片隅に浮いていた。
そこは夜の実験室で、壮齢の研究者が1人居残っている。
煌々と照る明かりの下、彼の見つめる机の上には、凍結アンプルが2本。
アンプルを見続けていた彼は、やがて、嘆息すると、アンプルを取り、冷凍保管庫に戻そうとした。
「それをやるんだ」
フランス語で叫ぶボゥシュー。
本来、聞き取れるはずのない声を聞いた研究者は、うろたえて、あたりを見まわす。
「それをやるんだ」
もう一度叫んだボゥシューの言葉に呼応するかのように、部屋全体が渦を巻いて回りだした。
その渦の中心で、研究者の手がアンプルを開けるのを確認したボゥシューは、聞き取れないほどの小声で、独り言ちた。
「恨むなよ、ジルフーコ。サイカーラクラには、オマエが必要なんだ」
操縦席に座るジムドナルドに、背後から近づいたボゥシューが、声をかけた。
「たいしたもんだな。ちゃんと胞障壁を超えたぞ」
まあな、と答えて、ジムドナルドは操縦系を自動に入れる。
振り向いたジムドナルドの顔は、やつれてはいたが、それなりに生気は残っていた。
「このまま、デルボラ=ゼルまで一直線だ」
「休まなくていいのか」
めずらしく気づかうボゥシューに、ジムドナルドは、豪快に笑った。
「休みたいのは、やまやまだけどな。まあ、いくら、あいつでも、そう長くはもたないだろう? できるだけ早く、事を終わらせなけりゃいけない。そうだよな」
ああ、そうだな、とボゥシューも答えた。




