デルボラ(17)
「ボゥシュー」
イリナイワノフがボゥシューの傍らに来た。
「いつもと違うよ、ボゥシュー、でも…」
イリナイワノフはダーを見やる。ダーは落ち着いた笑みを浮かべたまま、凍りついたように動かない。
「ダーが、止まってるんだから、もう、胞障壁なんだよね?」
「そうだと思う」
胞障壁なのは間違いないのだろう、とボゥシューも思う。
ボゥシューは、操縦席のジルフーコと、その後ろに立つジムドナルドに視線を向けた。
「あの2人なら、いま、いつもと何が違うのか、わかってるのかもしれないが」
そう言うと、ボゥシューは、眼差しをイリナイワノフに戻した。
「ちょっと、いまは、聞けるような雰囲気じゃないな」
「…そうだよね」
イリナイワノフも肯いた。
「あの、おじさんに聞いても、わからないよねえ」
イリナイワノフは、エイオークニのことを言っているのだろう。さっきからヒューリューリーと話し込んでいるが、ブシドー、が、どうとか、漏れ聞こえてくるので、あまり関わらないほうがいいかもな、と、ボゥシューは思った。
「とても長く感じる」
イリナイワノフが言った。
「いつもは、もっと、ぐるぐるしてるから、気がつかないだけなのかもしれないけど、この胞障壁は、長いよ」
「ワタシも、そう思うぞ」
ボゥシューは言ったが、ふと、思いついたようにつけ足した。
「この胞障壁のほうが、ほんとうの胞障壁なのかもしれない」
え? とイリナイワノフが小さく問いかける。
「ほんとうの胞障壁、って?」
問われたボゥシューは、少し、笑ってごまかす。
「戯れ言だ」ボゥシューは言った「なんとなく言ってみただけだよ」
「大丈夫なのか?」
問われたジムドナルドは、声の方を向きもせずに言った。
「何がだ?」
「ジルフーコ、がだ」
そこで、やっと、ジムドナルドは、ビルワンジルに向いた。
「わからん」ジムドナルドは、それだけ言うと、また視線を操縦席に戻す「胞障壁を超えられるか? と、いうことなら是だ。ジルフーコが出来るといった。それ以外のことは、わからん」
「危険なのか?」
「ダーですら超えられない数学障壁だぞ。普通の方法じゃ、まず無理なはずだが…、ジルフーコはそれで抜ける気だ。それに、信じられんことだが…、ここまでは、正しい」
「わかるのか?」
ビルワンジルが驚いて尋ねた。
「わかる」ジムドナルドは言った「胞障壁は数学障壁だ。ジルフーコは、胞障壁を超えるのに、言わば、数学の問題を真正面から解いている。これは、タケルヒノのやり方とは違う。その証拠が外の風景だ」
「風景?」
「外の宇宙を見ろ。普段の宇宙と変わりない。実は、これが胞障壁の本来の姿だ。ジルフーコは正しい答えだけを選んで進んでいる。だから、外の景色が普通の宇宙のままなんだ」
「じゃあ、タケルヒノは間違ったところを抜けていた、と?」
「それも違う」
ジムドナルドは、よく見ると、操縦席ではなく、操縦席のその先の、ジルフーコも見つめているはずの、真の虚空を睨んでいた。
「数学には正しい解と、間違った解があるが、それ以外にも、正しくもなければ間違ってもいない解がある。タケルヒノは、その間違いでも真実でもない部分を抜けていく。現実と非現実のどちらでもない、夢の様な部分、それをタケルヒノは通っていたんだ」
「オレには、オマエが、何を言ってるのか、まるでわからない」
「わからなくていい、ビルワンジル、お前は、胞障壁を壊した。胞障壁を破壊することと、超えることとは、実は、まったく同じことなんだ。だから、お前が胞障壁を破壊したとき、デルボラはあんなにも驚いたんだ。もう、お前には出来たのだから、理解などする必要はない」
「正しい道を通っているのなら」ビルワンジルは重ねて問うた「いったい、何が問題なんだ」
「何の問題もない」ジムドナルドは答える「だが、胞障壁は数学障壁であると同時に無限障壁だ。胞障壁を超えるには、無限の問題を解かなければならない。ダーは、第2類量子コンピュータは、ある種の無限を有限に変換できる。そのように設計された。だから、自分にあった胞障壁なら有限時間で踏破できる。だが、ジルフーコは違う。無限の問題を、真正面から解いていく気だ」
「そんなことは、不可能だ」
「いや、不可能ではない」
ジムドナルドの声は、もはや絶叫に近く、その一声で、管制室を震わせた。
「無限個の問題を解くには、無限回の操作が必要だ。だが、ひとつひとつの問題が無限小時間で解けるなら、最終的には、有限時間で胞障壁を踏破できる。問題を無限小時間で解くとは、すなわち、無限大の情報処理能力を有するということ、ジルフーコは、いまそれをやっている。そのために、あいつは、励起子体になった。無限大の速度で問題を解くには、人間の体は脆すぎる」
「そんな、無茶な」
「いいえ、無茶では、ありません」
ダーが機能を再開した、第一声がそれだった。
「たったいま、ジルフーコは胞障壁を超えました。だから、無茶ではないのです」
ずっといままで、副操縦席で、死人のように黙りこくっていたサイカーラクラの顔に、たちまち歓喜の表情がわき起こる。
「すごい、すごいです、ジルフーコ」
サイカーラクラは、操縦席のジルフーコにむしゃぶりついた。
「私、本当に、心配で…、でも、ジルフーコならできるって、ジル…?」
抱きついた感触が、サイカーラクラの予期していたものと、まるで違った。
驚いて、離れたサイカーラクラの目の前で、ジルフーコの体が、ゆっくりと操縦席から浮いた。
そのまま、わずかな慣性を保って、ジルフーコは管制室の中央へと流されていく。
サイカーラクラの悲鳴が、管制室にこだました。




