デルボラ(10)
――では、また後ほど
一礼すると、デルボラは振り返って、通路の奥へと姿を消した。
遠ざかるデルボラの後ろ姿を見守っていたタケルヒノは、彼の燕尾のたなびきが、闇へと溶けたのを確認して、暗号回線を開いた。
「面白がって、デルボラを挑発しないでくれ」
タケルヒノはジムドナルドに言った。
「君とデルボラが共倒れ、なんてことになったら、目も当てられない。仕事が増えすぎて、ボゥシューが爆発するぞ」
「暗号化なんて、意味ないだろ。デルボラには筒抜けだ」
「声を小さくする、っていうのが、最低限のマナーだ。実際に聞こえているかどうかなんてのは関係ない。配慮している、っていう姿勢が大事なんだ」
はいはい、とジムドナルドは気のない返事をした。
「デルボラだって、そう簡単にはキレたりしないだろ。お前の叔父さんなんかとは、程度が違う」
それはどうかな、とタケルヒノ。
「家来、っていうのは、主人に似るものだからね。タルトレーフェンにしろ、ルミザウにしろ、はじめこそ礼儀正しく振る舞おうとするが、痛いところをつかれると、すぐに逆上した。器の小ささから、彼らは真似しきれずに、すぐに馬脚を現しただけなんだが、根っこの部分はデルボラも同じだろう」
「まるっきり、無視してたから、覚えてないのかと思ってたぞ」
「無視はしてた」タケルヒノは、その部分だけは認めた「あの場には彼らしかいなかったから、無視しても問題はない。でも、デルボラに対峙するときには彼らのデータは必要だ。だから覚えている。必要なことだから」
「お前、本当に、自分のしたいこと以外は、無駄なことしないよな」
「性分だから、仕方ない」
「鳥が飛ぶように、魚が泳ぐように…、か。まあいい。だが、レウインデとゴーガイヤはどうだ? あいつらは、そんなことしないぞ」
「レウインデとゴーガイヤは、デルボラの別の面の影響を受けている。デルボラだって、会う相手ごとに態度ぐらい変えるさ」
「レウインデは、わかりやすいが、そうか…、ゴーガイヤもか…」
ジムドナルドは顔を上げ、タケルヒノを見つめた。
「だから、お前、ここまで来たのか?」
「はじまりには、どんなことにも意味がある」
タケルヒノは言った。
「小宇宙船に乗ったのが、あの人とのはじまりだ。その前にごちゃごちゃあっても、あれが始点だ。デルボラとのはじまりは木星。エウロパにいたのはゴーガイヤで、君と僕とイリナイワノフがいた。さっきまでと、まったく同じ状況だ」
ふと、タケルヒノは視線を上げた。空間の一点をにらむ。
「これは…」
真球の極彩色の闇が、小刻みに脈動する。タケルヒノは触れるか触れないかのギリギリまで、指先を伸ばした。闇は反応して、わずかに歪む。
「胞障壁だよ」ジムドナルドが笑いながら言う「お前が来る前に、デルボラが造った」
なおも、タケルヒノは胞障壁を見つめる。極彩色の闇を透かし、何かを探しているようにも見えた。
どれくらい、そうして、闇の中を探っていたろうか、
我慢しきれなくなったジムドナルドが、声をかけようとした、その時。
そうか、とタケルヒノが独り言ち、ジムドナルドを向いた。
「ちょっと、用ができた」
タケルヒノは、微笑んだ。
「少し、遠出するんだけど、後のこと、頼めるかな?」
ああ、いいよ、とジムドナルドが言うと、タケルヒノは自分のライフワイヤーを外して、その先端をジムドナルドに差し出す。
「蜘蛛の糸だよ」と、タケルヒノ「迷いの森のパンくずかな。多目的機につながってる」
ああ、わかった、と、ジムドナルドが受け取ったのを確認して、タケルヒノは、胞障壁に近づき、右腕を闇に差し入れた。
左腕も差し込み、何かを確かめるように両腕を動かしていたが、やがて、体をひねって回転させると、ゆっくりと頭から、胞障壁に潜り込んでいく。
宇宙服のブーツの爪先まで飲み込まれ、すっかり胞障壁に入り込んだ後、ぬっ、と、ヘルメットだけ再び外に出したタケルヒノは、ジムドナルドに言った。
「ボゥシューには、あまり心配しないように言っておいてくれ。すぐには無理そうだけど、ちゃんと帰るよ」
それだけ言うと、ジムドナルドの返事も待たずに、また、頭を引っ込める。
部屋には、ジムドナルドと、極彩色の闇を放って揺れる、胞障壁だけが、残った。
部屋の中。
ジムドナルドは、しばらく闇を見つめていたが、やがて、通路側に向きを変えると、おーい、と呼びながら手を振った。
「よお、ジムドナルド」
ビルワンジルも応じて、手を振り返した。
「1人か?」
「うーん、まあな。さっきまで、タケルヒノもいたけど」
「タケルヒノは、どこ行った?」
ビルワンジルの問いに、ジムドナルドは目の前の闇を指して言う。
「これ、胞障壁なんだけどな。デルボラが造ったんだ。タケルヒノは、この中だ」
「デルボラに閉じ込められたのか?」
「いや、自分で入った。ちゃんと帰ってくるから心配するな、と言ってた」
「ほぅ」ビルワンジルは思案げに腕を組んだ「で、どうする?」
「いったん帰ったほうが良さそうだな」ジムドナルドが答えた「タケルヒノが帰るまでには、全員そろえたい」
「と、なると、まず、ヒューリューリーを…、お?」
ビルワンジルが目を凝らすと、反対側の通路から紐みたいなものが流れてきた。
2人のそばまで来ると、黙ってジムドナルドの脚に巻き付く。
「あとは、おっさんか」
ジムドナルドは、珍しく、ヒューリューリーを脚に巻きつかせたまま、放っておいた。
「置いていってもいいが、それはそれで面倒のもとだな、回収しに行こう」
スラスターを起動して進みだしたジムドナルドに、ビルワンジルも並行してついた。




