原点回帰(1)
トロント郊外の高級住宅街、中でもひときわ大きな一軒家。
日も傾いて、明かりが灯り、家人の存在を確認してから、ボゥシューは呼び鈴を鳴らした。
「どなた?」
「マム、ちょっとだけ帰ってきたよ」
ばたばたとドアを開ける音、廊下を走る音、門が開いた途端、嗚咽とともに顔を両手で抑えた。
「娘ちゃん…、娘ちゃん…、よくまあ、無事で…、パパ、パパ、お兄ちゃん、娘ちゃんが…」
最後の方は、言葉にならない。ボゥシューはママを支えて我が家に入った。
ボゥシューの父さんは数学者で、グラフ理論の専門家だった。兄さんが生まれたころは貧乏で、あまりにも貧乏すぎて辛かったので、金欲しさに運送会社を立ち上げた。ボゥシューが生まれたころには、父さんはもう「ロジスティックスの神様」と呼ばれて、大金持ちになっていたので、ボゥシューは貧乏だったときのことは知らない。
ボゥシューのママは化学者だったが、ボゥシューが生まれる少し前に研究所をやめた。ほんとうは、兄さんが生まれる前に辞めたかったらしいが、そのころは本当に貧乏だったので辞められなかったのだ。兄さんは物理学者になった。
ボゥシューは、家ではよくしゃべる子だったが、学校では友達がいなかった。父さんとも、ママとも、兄さんとも、いろんなことを話したが、学校ではほとんど誰とも話しをしなかった。先生もボゥシューのことは煙たがったし、ボゥシューも先生と話したいとは思わなかった。
ボゥシューの家族は、ボゥシューのことを心配して、早めに大学に入れた。大学なら話し相手ができると思ったのだ。
できなかったけど。
ボゥシューはDNAが好きだったので、分子生物学を専攻した。大学は人づきあいが厄介なことをのぞけば、まあまあだった。
ボゥシューは父さんに情報キューブの複製を見せた。父さんはすぐさまコンピュータにつないで中身を確認した。ママも見た。兄さんも興味津々だった。それから、複製を作った理由、いまも連続して世界中に投下していることも説明した。
「娘ちゃんの友達は、とても頭がいいんだね」
父さんにそう言われて、ボゥシューは自分が褒められたときのようにうれしかった。
久しぶりの一家揃っての食事を満喫した後、ボゥシューは自分が何故帰ってきたのか、そしてまた出かけなければいけない理由を説明した。ママは途中で泣きだしたが、父さんが諭した。
「娘ちゃんは、地球に留まっていたら話しのできる人が3人しかいない。でも、宇宙に行けば友達が6人いる。二倍幸せになれるのだから、娘ちゃんは宇宙に行くべきだ」
数学者らしい父さんの説得だったが、ママの涙を止めることはできなかった。でも、ママは泣くだけで、ボゥシューを引き止めることはしなかった。兄さんは、驚いたことに、デザートのチョコアイスを譲ってくれた。こんなことはいままでなかったことだ。
次の日から、ボゥシューは猛然と仕事を開始した。
幸運なことに大学のアカウントはまだ残っていたので、自分のデータを回収するところから始めた。
基本的に情報キューブに収録されたデータは地球上にあるデータを質、量、ともに圧倒するが、特定の分野に関しては不足している部分もある。ボゥシューの専攻分野がそれで、地球固有の生態データは、かろうじて最先端レベルといったところだ。他星系生態データとの比較などという話になったら情報キューブに頼るしかないが、地球固有種のDNA情報などは補完の必要がある。
ボゥシューは、それをやることにした。
ボゥシューは家から一歩も出ずに毎日を過ごした。
食事は朝昼晩、ママが用意してくれる。おやつと夜食もだ。一日中、コンピュータの前に座って食べているだけでは、太りそうなものだが、頭を使っているときのボゥシューのカロリー消費は半端ない。一食抜くだけでもフラフラになるくらいだ。ママもそのことはよく知っているので、とにかく栄養補給を切らさないよう心がけた。
もちろん、ママも思うところはあったから、出す料理は非常に手の込んだものになった。
兄さんの帰宅は早くなり、父さんも三日に一度は夕食に間に合うように帰ってきた。もちろん、ボゥシューも夕食時だけはコンピュータから離れて、家族と一緒にすごした。
父さんの仕事上の都合で、個人の家宅としては異常なほど高速な回線が敷設されている。その回線をパンク寸前まで使い切って、情報漬けの毎日を送っていたボゥシューは、ある夜、いつものように、窓の外を眺めた。
昨日まで見えていた、回転しながら空を行く物体が、もう今日は見えない。
――ああ
はからずも、ボゥシューの頬を涙がつたう。
とうとう、その日が来た。




