超えられぬ壁(5)
「ダー、また、止まっちゃったね」
イリナイワノフは、ダー、ケミコさんのボディの前でしゃがみこんで心配そうにのぞき込む。
「だから、俺のせいじゃないって、言ったろ?」
「それはもう、わかった、って言ったじゃない」
軽くいなしたつもりのジムドナルドに、イリナイワノフが突っかかる。どうも胞障壁は気が立っていけない。
その時、ジムドナルドの意識は、イリナイワノフに向いてはいなかった。
管制室のすみにうずくまる、闇。
不定形に蠢くそれに、ジムドナルドはその一点に集中していた。
「おい」
ジムドナルドは、闇に向かって声をかけた。
「何か用か?」
闇は、一瞬、小刻みに鳴動したが、突如、膨潤すると、室内いっぱいに声を響かせた。
「バカ者どもめ、このワタクシを管制室に入れるようなヘマをしおって、もうこの宇宙船はワタクシのものだ」
「へぇ、そう」
槍を手に、構えようとしたビルワンジルを押しとどめ、ジルフーコが、言った。
「じゃあ、やってみれば?」
「つくづくもってバカ者め、あらゆる電子機器を自由に操作できる光子体の力を知らないな」
「知ってるよ」ジルフーコは鼻梁に手をやりメガネを直した「だから、やれば?」
闇―タルトレーフェンは、上下左右に伸縮しつつ、闇の胞子を周囲にまき散らした。
「何も起こらんようだな」
間延びした口調で、ジムドナルドがけしかける。
「バカな、何故? えいっ、エイッ。…、何故だぁ」
タルトレーフェンからは、黒の胞子が吹き出されるが、それは、力なく四散していく。
「宇宙船の電子装置は、胞障壁対策を施した特別仕様だよ。並みの光子体が干渉できるような代物じゃない」
「なんだと?」
淡々と説明するジルフーコにかみつくタルトレーフェンだったが、こんどはジムドナルドから揶揄が飛ぶ。
「お前なあ。他人の宇宙船のことより、もっと心配することあるだろ?」
「なンだと?」
同様に言い返したつもりのタルトレーフェンだが、何かがおかしい。
「お前、いま、自分がどんな状態なのか、わかってんのか?」
ジムドナルドは、状況ではなくて、状態と言った。
たぶん、タルトレーフェン、のようなものは、その時はじめて気がついた。
焦って人間体をとろうとするものの、紡錘形を形作るのさえやっとのようで、気づくとあやふやな不定形の闇となる。光を発することさえできない。
「胞障壁ではプラズマシールドの効果がなくなる」ジルフーコが言った「数学障壁の中では、物理障壁が無意味と言ったほうがいいかな。とにかく、胞障壁の入り口、プラズマシールドの切れる瞬間が最後のチャンスだった。そこで余計なことを考えずに逃げ出してればね。残念だったね」
「何故だ?」
闇が咆哮を上げた。
「何故、ワタクシがこんな姿に?」
「光子体は周りの環境にとても影響を受けやすいのです」
抑揚のない口調でサイカーラクラが、申し渡した。
「ここは胞障壁。無限の情報が覆いかぶさる壁。この中で己を保ち得ることができた光子体は、第一光子体のみです」
「何が、第一光子体だ」
タルトレーフェンは、いきなり人型を形成した。だが光はない、闇のまま。
「あの老いぼれが、ピス・リーニアであるわけがない。ワタクシが、ワタクシこそが、最高の、光子体なのだ」
ザワディが、タルトレーフェンの真横を無造作に横切る。
ザワディの移動線にかぶる、タルトレーフェンの稜線が崩壊した。
「こ、この、ケモノ、四足風情が、この、ワタクシの…」
「でも、あなた、ザワディ以下ですよね」
そう言ったのはヒューリューリーだ。操作盤も叩かず、身をよじることもない。胞障壁では、意思そのものが通る。
「ザワディは、胞障壁でも、ちゃんとしています。あなたは、そうじゃない」
「下等ッ、下等な先駆体が、偉そうな口をきくなぁ」
いったん、まとまりかけた闇が、茫漠の濃淡へと散っていく。
「ワタクシ、ワタクシこそガ、至高ノ、ソンザイ、宇宙コウテイも、レウイんデも、ぴす・リーニあ、も…、クソクラエ、せるれス、いヤ、せルれ…」
黒い綿帽子のような欠片が、力なく震え、散った。
「リーボゥディルを帰しといて良かったよ」
ボゥシューが、ぽそり、と言った。
ん? と振り向いたジムドナルドが言う。
「リーボゥディルは、あんなザマにはならんだろ。不完全とはいえ、最初の光子体の血筋だ」
「あんな、無様なもの、子供には見せられん」
ああ、とジムドナルドは肯いた。
「確かに、あれは、ちょっと酷いな」
「何かありました? 皆さん、お疲れのようですけど」
胞障壁を超え、再起動したダーが、開口一番に問うた。
「いや、たいしたことは無かったと思いますよ」
タケルヒノが答えたが、なにかちょっと、気まずそうだ。
「実は、胞障壁を超えるのに夢中で、他のことにはあまり気が回らなかったので」
タケルヒノは、念のため、皆に向かって尋ねた。
「胞障壁を超えている間、何かあったかい?」
「いや、何もなかったぞ」
ジムドナルドが答えて、皆も肯いた




