計算迷宮(22)
「ダー、そろそろです」
宇宙服に着替えたサイカーラクラが、ダーを呼んだ。
「はい、いますぐ、いえ、ちょっと待って下さい」
ダーはいろいろ迷っていたのだが、船外作業用のボディに交換し、バーニヤスラスターを低出力のものにするという無難なところに落ち着いた。無重力区画であれば妥当な線だ。イリナイワノフにもらったリボンをきちんと結ぶ。
ダーが、サイカーラクラと一緒に管制室に着いたときには、他の乗組員は、全員集まっていた。もちろん、ザワディもだ。
「毎回、こんな感じなのですか?」
「だいたいこんな感じです」
ダーの質問にサイカーラクラは答えたが、さて、何をもって、だいたいなのか? そもそも最初の胞障壁はどんな感じだったのか、考えると、頭のなかにもやがかかったように判然としなくなる。
「どうしました? サイカーラクラ?」
ダーの声に、はっ、と我に帰ったサイカーラクラは、そのままの気持ちをダーに伝えた。
「胞障壁は苦手です」
「得意な人もあまりいないでしょうからね」
ダーは知っている。サイカーラクラには第一光子体と超えた最初の胞障壁の記憶が無い。何度かさりげなく会話してそのことは確認している。第一光子体が成功した28回の胞障壁突破。その最後の28回めで、サイカーラクラを連れてダーから地球への胞障壁を超えたのだ。
以降、第一光子体は宇宙船を使った胞障壁突破をやめてしまった。他の光子体のように、自分だけがきままに胞宇宙の間を渡り歩く。最近、第一光子体の行方が判然としないのも、このへんの事情が絡んでいる。
女の子たちは自然とザワディのまわりに集まる。ザワディはいつも人気者だが、胞障壁突破のときは、特にそうだ。ヒューリューリーもザワディに巻き付いている。
ダーはジムドナルドのそばまで飛んでみた。
「いつも、こんな感じですか?」
「さあなあ」
ジムドナルドは腕を組んだ。
「まだ胞障壁じゃないからなあ。胞障壁の前はこんなもんだが、胞障壁になったら変わるかもしれん」
「胞障壁に入ったらわかるのですか?」
「俺にはわからんが、ジルフーコがタケルヒノと操縦を代わるから」
「ジルフーコでは、胞障壁を超えられないのですね」
「入口くらいまでは来てるのかもしれんが、タケルヒノも胞障壁と通常空間の境目はわからないらしいしな」
「それで正解です。胞障壁はそういうものです」
「まあ、これで3度めだが、俺には何だかぜんぜんわからん」
「わたしにもわかりません。タケルヒノはいつも自信満々ですか?」
「自信満々? そんなタケルヒノは見たことがないな」
「タケルヒノも自信がないのですか?」
「自信も何も、あいつにとっては普通のことだからな。俺だって、自信満々に昼寝したり、自信満々に廊下を歩いたりしない。胞障壁を超えるなんてのは、タケルヒノにとって、ごくごく普通のことなんだ」
「鳥が飛ぶように、魚が泳ぐように?」
「うまいこと言うな」ジムドナルドは笑った「まあ、そんな感じなんだろ」
「言ったのは、わたしではなくて、タケルヒノです。タケルヒノが、わたしに…」
突然、ダーの目の前に顔がふたつ現れた。
「…説明しようとして、話した喩え話…」
いままでジムドナルドと会話していたはずが、眼前5センチにサイカーラクラとイリナイワノフの顔がある。
「動いた」
イリナイワノフが叫ぶ。
「大丈夫ですか? ダー」
サイカーラクラはその場を動かず、心配そうにダーをのぞき込んでいた。
「ダーが動き出したよ。代わろう」
「そうか、もう抜けたか、じゃあ、よろしく頼む」
宇宙船の操縦をジルフーコと交代したタケルヒノが、ダーのところにやって来る。
「胞障壁は抜けましたよ、ダー」
目の前に立ったタケルヒノは朗らかな笑顔でダーに話しかけてくる。
「胞障壁にいた間、わたしはどうしていました?」
「ずっと止まってましたよ」
「わたしは胞障壁をまったく認識できませんでした」
「認識できないのなら、このタイプの胞障壁は超えられなくて当然ですね」
「それが、答えですか?」
「まあ、当面はそうですね」
「わたしの答えですね?」
「あなただけの答えなんてありませんよ」タケルヒノは笑った「答えはみんなのものです。ほら」
タケルヒノの指さしたほうには、イリナイワノフとジムドナルドがいた。
「だって、ジムドナルドがダーを壊しちゃったんだと思ったんだもの」
「だから、違う、って、ずっと、言ってたろう?」
「だって、そう言ってる間は、ダー、動かなかったもん、いまは動いてるけど」
「あのなあ、そもそも、俺がダーを壊すとか、そんな難しいことできるわけないだろ。タケルヒノじゃあるまいし」
「あたしは、誰が何できるとか、わからないもん。でもさ、割れたコップがあって、その前にジムドナルドとタケルヒノがいたら、普通はジムドナルドが割ったと思うじゃない?」
「どういう理屈だそれは、そんな理屈がまかり通る宇宙なんぞ、俺は認めんぞ」
2人の言い争いを聞きながらビルワンジルが嘆息を漏らした。
「凄いなあ。ジムドナルド相手にぜんぜん負けてない」
「そりゃそうだろう」ボゥシューは言う「ジムドナルドは勝つ必要なんかないからな。負けもないが、別に勝とうとも思ってない」
「そういう味気ないこというなよ」ビルワンジルが言った「それを言うなら、勝つ必要のあるやつなんてこの宇宙船にはいないだろ」
「宇宙船の中にはな」ボゥシューの目は寂しげだ「宇宙船の外には勝たなきゃならんヤツらばっかりだ。光子体の楽園、それがパラレスケル」
「本当に心配したんですよ」
サイカーラクラは何度もダーに言う。
「ダーが急に止まってしまうから、とても心配したんです」
「それは、申し訳ないけど」ダーの声は心なしか上機嫌に聞こえる「わたしは、サイカーラクラ、あなたが心配できてとてもうれしい」
サイカーラクラはとても変な顔をした。ダーの言う意味がよくわからなかった。
「もう、あなたの望みは叶ったのだから、もっと嬉しそうな顔をなさい、サイカーラクラ」
「どういうことですか?」
「あなたは、わたしの認識できない胞障壁を感じられる、もう十分にわたしより賢いのです」
「何か、だまされているような気がします」
サイカーラクラはとても不満げだ。
「猜疑は真理に続く道の第一歩です。もちろん片足だけでは前に進めないから、猜疑心だけではだめですけど」
ダーは笑った。たぶん、そんな気がする。
「ねえ、サイカーラクラ、わたしはとてもうれしい。娘が成長するというのは、なんて素敵なことなんでしょう」




