第八話 ~狂気の夢~
阿求が消え、部屋で独りきりになったエルミーは、ただ呆然と天井を見上げていた。
思い出したくもない、ずっと心の奥に封じ込めていた記憶。今はもう、どうでもよかった。どうでもいいと思っているのに、なぜこんなに胸が締め付けられるような・・・。
もう考えるのは止そうと、痛む傷に気を遣いながら布団に潜り込み、目を閉じる。しかし、何も考えまいとすればする程、エルミーの心に次々と浮かんでは消えていく物があった。体では庇えても、心には庇っても庇いきれない瑕があった。
過去を話した。ただそれだけの筈なのに、今までにないほど心が重い。大福が食べたいなどというのは嘘である。ただ、2人の心と、場の空気があまりにも重すぎて耐え切れなかったのだ。
過去を話した。自分が一番よくわかっていることなのに、分かっていても涙が出てくる。なぜあんな事になってしまったのだろうか。自分の何がいけなかったのだろうか。
過去を話した。私の、呪われた、過去を・・・
ふと、真っ暗な瞼の裏にあの記憶が映し出される。
◆◇◆◇◆◇
あるひとりの少女が人里で生まれた。ごく普通の家で、ごく普通の人間として。両親はとても喜んでいた。初めて授かった命にこれまでにない愛おしさを感じていて、子供を何よりも大事に育てた。
彼女は元気で活発な子だった。明るくて、楽しくて、皆の人気者だった。毎日、里の友達と遊んだり、寺子屋で勉強したり、平凡で、幸せな日常を送っていた。
それから数年して、エルミーが生まれた。人里から遠く離れた、ある場所で。しかし、親など最初からいなかった。捨てられた、という事ではなく、エルミーに血縁上の父や母はいなかった。しかも彼女は、その時から既に普通の人間ではなかった。人を殺すために生まれ、人を殺すために生きる。その事を知っても、不思議と心の中は穏やかだった。だけど、本当はその気持ちが、悲しむことよりも、絶望するよりも恐ろしいものであることを、彼女は知らなかった。
ところ変わって、同じ年のある日のことだった。
少女のいた里は、突然ある妖怪達により滅ぼされた。
人々はみんな死んだ。けれど、運良くその少女は生き残った。けれど、皮肉なことに生き残ってしまったことが彼女とエルミーの人生をより残酷なものにしてしまうのであった。今の幻想郷でその事を知っているのは、エルミーと、大月。そしてある妖怪の一族だけだった・・・
◆◇◆◇◆◇
戸の開く音が聞こえる。目を開くと、女中とおぼしき女性がそこにいた。
「失礼します。阿求様を見られませんでしたでしょうか?」
「あっきゅん・・・?私は見てないけど」
「そうですか・・・」
それだけ言うと、女中は「失礼しました」と言って部屋を出ていった。
「あっきゅん、どうかしたのかな・・・?」
よく考えてみれば、買い物に出てから時間が経ちすぎている。いくら何でもこんなに掛かるなんておかしいと、エルミーの脳裏にはかすかに警鐘が鳴り響く。
何があったのだろうか。道にでも迷っているのだろうか。いや、それなら阿求のことだ。誰かに道を聞いているに違いない。知っていてわざわざ教えないような輩も、この里にはそうそういないだろう。ますます分からなくなる。エルミーの脳に響く危険信号は、徐々に強く、激しくなっていく。
暫くは阿求のことを考えていたが、暫くすると、エルミーはそのまま眠っていた。
◆◇◆◇◆◇
「いいだろう。そんなに会いたいのなら会わせてやるよ。来い、エルミー」
男の声が暗闇に響く。すると、奥からは、一人の少女がゆっくりと歩いてきた。
身長はやや低く、金色の髪。身にまとった服には、大小様々な血痕が付いていた。やや黒ずんでいたそれは、彼女が今までどれだけの人を殺してきたのかを物語っていた。
「エルミー!」
少年が叫ぶ。その少年は、全身を縄で縛られ、床に正座させられていた。頭や口から血を流し、焦点の定まらないやや虚ろな目でその少女―――――エルミーを見つめていた。
エルミーはその叫び声に反応さえせず、ゆっくりと少年に近づく。
「どう―――たの、―――ミー?僕だ―――樹だよ!」
何を言っているのかはよく聞こえない。ただ、少年を泰然と見下ろしながら、ゆっくりと、ゆっくりと歩み寄る。その瞳に感情というものは感じられない。まるで人形のように、
彼女には『心』が無かった。
僕だよ、目を覚ましてよ、と何度も叫ぶ少年の声も心を失ったエルミーには届かず、彼女は右手に持った短剣をゆっくりと少年に突きつける。その瞬間、ある事を悟り少年の表情が変わる。目から光は消え、恐れるような目でエルミーを見る。
「そんな・・・やめてよ、エルミー・・・君はそんな」
勢いよく、短剣を突き出す。その刃は少年の口の中へ潜り込み、喉を通り脳幹を貫く。口から大量の血を吐き、少年は力なく項垂れる。そのまま短剣を下に引き、喉を裂いて胸元を魚を料理するように真っ二つに開く。声もあげないまま少年はそのまま床に伏し、上質な木材で作られた床板に真っ赤な血だまりが広がっていく。
「クックック・・・全く、影でコソコソと嗅ぎまわるからこうなるんだよ。あの時点で大人しく逃げていれば良かったものを」
エルミーの後ろに立つ男は、さも愉快そうに笑っている。それも当然だろう。エルミー一人さえいれば、彼は何もかもが意のままだ。まさに彼は、幻想郷を手に入れたつもりでいた。
あれ、私は何をしているの・・・?目の前にいるのは・・・!
なんで?どうして死んじゃったの?ねえ、目を覚まして、お願い!
誰なの?誰が殺したの!?なんで、死んでるのよ・・・
目の前で、大切な人が死んでいる。なぜ、誰が殺したのか・・・ ああ、そっか。最初から分かっていたんだね。
私が、殺した。
私が、彼を殺した。
私が、彼をこの手で殺した。
私が、殺した。私が・・・ハハッ、アッハハハハハハアハハ!
殺しちゃった。私が、大好きな彼を、この手で・・・
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
無我夢中で、部屋を飛び出した。追いかける人を振り切り、目の前に立ち塞がる者を蹴散らし。
ただ、今は逃げたかった。残酷な現実から。自分の犯した罪から。だって・・・
私が殺しちゃったんだ。
ごめんね。本当に、ごめんね。本当の本当に、謝っても謝りきれないくらい、
ごめんなさい。