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掌編作品集

ぎゅってして

作者: 空ノ

「ぎゅってして」

 甘い声で唯の胸に飛び込んできたのは、四つ歳の離れた妹だった。

「あんた来月から高校生でしょ? その甘えん坊体質、直さなきゃダメよ」

 夜十時過ぎ。自室での読書中を狙い撃ちされるのは、いつものことだった。逃げることもできるが、あえてそうしないのは、こんなふうに懐いてくる妹が可愛くて仕方がないからだ。

 唯は、幸せそうに目をつむる妹をぎゅっと抱きしめ、赤ん坊に接するようにして髪を優しくなでる。

「お姉ちゃんだって、瀬名さんと二人きりの時はおんなじことしてるでしょ?」

 唐突な問いに手が止まった。

 瀬名。唯の恋人だ。

「するわけないでしょ。私はあんたみたいに子供じゃないの」

「えー、瀬名さんかわいそう」

「かわいそう?」

「だってそうだよ。あなたを信頼してます、あなたといると安心します、あなたのことが好きです。甘えるっていうのはさ、相手にそういう想いを伝えるための手段なんだよ。それがまったくなかったら瀬名さん、きっとすごく不安だよ?」

 胸にちくりと針が刺さったようだった。

「……はいはい。さ、もう寝なさい。明日早いんでしょ」

 軽く流すと、妹は頬を膨らませて不満をあらわにする。そのふっくらとした表情は小動物のように可愛らしく、心が和んだ。



 ◆



 三月も半ばを過ぎ、春の香り漂う夜時。海浜公園へ続く大通りは、その両端を早咲きの桜が彩っていた。寄り添うようにして並んだ街路灯が桜の木を照らし、幻想的な雰囲気を作り出している。

 吹いた一陣の風に揺れる繊細な栗色の長髪。ナチュラルなメイクが映える端正な顔立ち。すらりと伸びる儚げな唯の細身は、美しく佇む夜桜と絶妙なコントラストを奏でる。

 恋人との待ち合わせ場所へ向かう途中、唯は昨日の妹の言葉を思い出していた。

 ――甘えるっていうのはさ、相手に想いを伝えるための手段なんだよ。

 唯は、妹の意見が正しいと理解していた。甘えるという行為は素直な自分をさらけ出すことに等しく、そのようにして頼られた相手がどういう気持ちを抱くのか。いつも妹に甘えられている唯が、それを知らないはずがない。

 けれど、唯の心はすでに折れかけていた。甘えることができない自身の性格にほとほと嫌気がさし、諦めに近い感情が渦を巻いているのだ。

 恋人である瀬名との、ある種特異な関係が、それを物語っている。

 大学入学早々に告白を受け、付き合い始めて一年弱。

 一線を越えたことも。唇を重ねたことも。抱き合って互いの愛を確かめ合ったことさえも。

 唯には、なかった。

 こんな関係が果たして恋人同士と言えるのか。その答えは人それぞれではある。

 しかし、唯は違う。貞操を守りたい、そんな高尚な考えなど唯の頭にはなく、ただただ、絶対的に奥手なのだ。

 早くも足元がぬかるんでくるのを感じ、逃げるように歩を進めた。



「ごめんなさい、待たせちゃって」

「俺も来たばかりだよ。寒くないか?」

「平気」

 公園の奥側にある砂浜は、静かな波うちの音を辺りに響かせていた。唯は瀬名の顔を見上げる。

 気持ち高めな身長に張り付く淡白な面立ち。天然パーマのかかった髪の毛は相も変わらず散々としているが、その色が茶から黒へと変わったのは、ごく最近のことだ。

「黒髪には慣れた?」

「んー、まぁぼちぼちかな」

 瀬名はあと二週間と経たずして、社会人の仲間入りを果たす。苦笑いする瀬名を一瞥し、唯は言葉を繋ぐ。

「懐かしいね、ここ」

「そう、だな」

 目を合わせずに頬を掻く瀬名。唯はクスリと笑う。

 瀬名に告白されたのは、サークルに入ってすぐのことだった。まだメンバーの顔と名前すら一致しないその時期に、頬を真っ赤に染めた瀬名から告げられたのだ。一目惚れしました。付き合ってくれませんか、と。

 あまりのことに驚いた唯だったが、そこは冷静に対処した。友達からお願いします、と。表情には出さず、なるべく大人っぽく、対等な関係を築けるように。

 それからの一年弱、唯はその極度の奥手ゆえ、瀬名に対して手を繋ぐことすら許さなかったが、それでも彼は不満ひとつこぼさず、どんなときも笑顔で接してくれた。

 そんな瀬名に、惹かれないわけがなかった。

 二人は月光を反射する水面を脇にして、並んでゆっくりと歩きだす。

「なぁ、唯。大学で会えなくなって、寂しいとか思わないか?」

「うん、特には……」

「そっか。まぁ、そうだよな、はは」

 顔をそらしたまま笑う瀬名を横目に、唯は地面が少しだけ沈むのを感じた。

 ただの強がりだった。

 今まで毎日のように並んで講義を受けてきた日々が消えるのだ。寂しくないわけがない。

「あのさ、唯」

「ん?」

「俺は、その……なんて言ったらいいかな」

「なに、その真剣な表情。らしくないじゃない」

 唯はふと気づく。

 さっきからずっと、彼は私のことを見ていない。なにか言いにくいことがあるんだ。

 瀬名の癖を知る唯が抱いた疑問は、滑車が下りるようにして不安へと姿を変えた。

 恋人同士にしか与えられない特権のすべてを拒否してきた事実。人生のターニングポイントである、学生から社会人への転向。それらが導き出す答えは、一つしかないのではないか。

 心に落ちる不安は一層色濃くなり、鼓動が胸を揺るがす。

「今までいろんなことがあったよな。一年なんて短いと思ってたけど、全然そんなことなかった。映画も見たし、海にも行った。ドライブなんて何回したか覚えてないくらいだ」

「……瀬名?」

「けどさ、俺、このまま先に進んじゃダメなんだと思った。こんな中途半端な関係で四月を迎えることはできないって」

 立ち止まり、今日初めて、瀬名と瞳が交差した。その澄んだ眼差しに偽りはない。唯には、それが断言できてしまう。

 ――別れよう。

 ほんの一瞬だけ、唯は未来を垣間見た。いつ飛び出してもおかしくないその言葉への恐れに勝てず、震える声を絞り出す。

「そ、そうね。私もそう思ってた。きっとダメね、私たち」

 まるで心が分離しているようだった。こんな重要なときでさえ素直な感情を表に出すことができない自分に、思わず下唇を噛みそうになる。

 瀬名は否定せず俯く。

 その様子は、唯にとって決定的な答えを連想させるものだった。

 引いては寄せる波は、悲壮を連れた冷ややかな海風を運んでくる。言葉のない空間が時間に重みをもたせ、それに押しつぶされるように唯の両足はどんどん深く沈み込んでいく。

 甘えることへの恥かしさ。

 素直に応えることへの抵抗。

 寂しい、悲しいなどという弱い心を見せたくない気持ち。

 それら全部、まったく不要なプライドであると、唯は認識していた。なのに。

 私はこれから先、ずっとずっと先まで、それこそ生涯を終えるまで、捨てることはできないのかもしれない……。

 そう思ったとたん、視界が一気にぼやけた。慌てて瀬名に背を向ける。

「唯?」

「だ、大丈夫。ちょっとくしゃみ出そうになっちゃって……」

 おどけて言いながら、唯はハンカチを鼻へもってくる。

 溢れた涙は次々に頬を伝い、ハンカチへ染み込んでいく。

 寂しい、悲しい、そういった形のないものを見せることにさえ抵抗を抱く唯にとって、泣いているところを見られるなど、もってのほかだった。

 どうしたらいいのか、わからない。鼻をすする音を聞かれていないか。嗚咽に合わせてびくりとなる肩に気付かれていないか。そんなことばかり考えた。

 本心は、今すぐにでも瀬名に想いを告げよと警告している。

 それでも。それでもダメだった。唯は振り向けない。言葉が出てこない。それが自分の生まれ持った性格なのだと、そう諦めざるを得なかった。

 目を強くつむり大粒の涙が流れたところで、いきなり右手を引っ張られた。思わず振り向きそうになったが、すんでのところでこらえる。

「唯、目を見て伝えたいんだ。だから」

 瀬名の言葉に被せるようにして、唯は大きく首を振る。流れ続ける涙が、いくらか外へ弾かれた。

 少しの時が流れ、そして。

 震える右手薬指に、ひんやりとした感触が伝った。

 突然のことに涙も忘れ、唯は振り向く。

「え……?」

 指輪だった。

 クロスする二つの環の接点に埋め込まれた小さな石が、月明かりを浴びて煌めいている。

 泣きはらした瞳を瀬名へ向けると、彼は自分の右手を見せながらやさしく微笑んでいた。

「おそろいだ。ペアリングってやつだよ」

 唯の頭はもう真っ白に染まっていた。掴まれた腕を気にしながら、おろおろと落ち着きを失っている。

「唯、大好きだ。付き合ってほしい」

 解放された腕は、ハンカチを握った左手と一緒に力なく下がった。

「なんで……? 私たちもうずっと付き合ってるじゃない。どうして今さら」

 あ、違う。

 ――友達からお願いします。

 私はまだ答えてない。

 そう、唯は一度だって自身の想いを伝えてはいないのだ。

 瀬名の視線は唯の瞳を一心に捉えて離さない。

 唯は小さく頷いた。

 重荷が下りたように安堵する瀬名とは反対に、唯は必死に葛藤する。

 気持ちを伝えるには今しかない。明日になれば、また間違いなくいつもの慣れ親しんだ雰囲気に戻ってしまう。そうなってしまったら、もう一生言えない気がした。

 でもどうすれば……なんて言えばいいの?

 ――お姉ちゃん。

 そのときふと、妹の声が響いた。


 ――あなたを信頼してます、あなたといると安心します、あなたのことが好きです。甘えるっていうのはさ、相手にそういう想いを伝えるための手段なんだよ。


 意を決めた唯は、俯いたまま瀬名へ近づく。

 そのまま両手を瀬名の胸に添え、瞳を閉じて顔をうずめた。


「ぎゅって……して」


 トーンの高い、甘い声だった。

 背中に触れる瀬名の手が震えている。

 私だけじゃない。瀬名も緊張してるんだ。


 初めて経験する、胸元のほどよい体温と落ち着く匂い。

 自分と瀬名、交わる二つの鼓動を聞きながら、唯は眠るようにその身をゆだねた。


もう半年以上前に書いた作品ですが、このころから自身の成長が止まっている気がします……orz

上達している実感が欲しい今日この頃です。

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