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礼似  作者: 貫雪
10/10

10.別れ

「K大病院から入院中の妹さんの件で、電話があったんだけど」

 礼似は一樹に携帯を渡しながら言った。

 一樹はやや顔色を変えたが

「その事ならずっと断ってる。気にしなくていい」と言った。

「でも妹さん、深刻な状態らしいじゃないの。必ず連絡してくれって言ってたのよ」

「あいつの面倒は施設が見ている。任せときゃいいんだ」

「そう言う問題じゃないでしょ? たったひとりの肉親なんだから」

「俺みたいなのはいるだけ邪魔だよ。もう何年もあってないんだ。今更連絡が来るなんて思わなかった。このまま放っておけば、そのうち死んだと思ってあきらめるだろ」一樹はやや投げやりな言い方をした。

「あきらめてないから連絡があったんでしょ。それに、本当に深刻だって言ってたのよ。精神的な事にもかかわるから、ぜひ、肉親に来てほしいって。たまたま電話に出ただけの私にそこまで言うなんて、よっぽどの事なんじゃないの?」

 直接電話口からの緊迫感を感じ取っていた礼似は、思わず食い下がった。

 一樹はしばらく考えていたが

「解った。とりあえず病院には行く。妹に会うかどうかは医者の話次第だ」と答えた。


 以前、一樹の事を調べて妹が唯一の肉親であることは解っていたが、その後、その事はすっかり忘れてしまっていた。あの時は連絡先さえつかめなかったし、病院に入院中だなんて、全く知らなかった。

 おそらくは妹の身を案じて、わざと連絡を絶っていたのだろうが、向こうも必死で一樹の連絡先を探していたのだろうか?

 それとも、やはり肉親の情は濃くて、いざという時の連絡先は妹だけには残していたのだろうか?

 一樹が何も語らないだけに、礼似は色々と気をもんでしまう。


 肉親の情


 こればかりは礼似には、もう手にする事の出来ない物だ。礼似が肉親の情を感じた、ただ一人の人は死んだ祖父だけだった。その祖父でさえも礼似に真っ直ぐには向き合ってはもらえなかった。いつもそこはかとない遠慮の陰の向こうから、優しさだけで礼似に接していたような祖父だった。その祖父ですら、もうこの世にはいない。


 しかし一樹にはただ一人の肉親がいた。今はどんな関係になっているのかは解らないが、確かに血を分けた肉親がこの世にいるのだ。

 自分には、もう手にする事の出来ない物だが、一樹にはまだチャンスが残されているのだ。


 もしかしたら、一樹は足を洗えるかもしれない。

 今まで連絡を絶っていたにもかかわらず、こうして連絡が付いたということは、妹の方でも一樹と会いたがっているんじゃないだろうか? 身寄りのない身で入院しているのなら、心細さは格別だろう。

 一樹だってもう前の一樹じゃない。人を憎んでひねくれるだけじゃない、真っ直ぐに前を見る事の出来る生き方を出来るようになろうとしている。

 それならこの世界で生きるよりも、足を洗って妹と生きる方が一樹は幸せになれるかもしれない。

でも……その時、自分はどうする?


 自分はこの世界から離れて生きられるだろうか?



 翌日、さっそく一樹は医者から話を聞いてきた。

「どうやら、両目とも失明する可能性が高そうだ」一樹は暗い声で言った。

「周りも気づかなかった上に、本人も、遠慮した上に軽く考えていたらしい。目の奥にできた腫瘍が、あまりにも長く眼球を圧迫し続けていたようだ。良性か悪性かは手術しないと解らないが、どの道、圧迫されていた眼球の回復は難しそうだ」

 あまりの事に、礼似は声も出ない。

「腫瘍を取り除く手術には同意してきた。今は施設の担当者が事実上の保護者になっているから、その人が同意している以上、手術は確実に行われるだろう。どの道、腫瘍は取ってしまえば問題ない。後は視力が回復できるかどうかさ」

 一樹は事実だけを淡々と話す。

「妹さんにはあったの?」

「いや、会わなかった」一樹はあっさり答えた。

「何故? 今、会わなかったら、一樹の姿を見れなくなるかもしれないのよ」


「今の俺の姿を見せて、どうするんだ?」一樹は逆に聞き返してくる。

「何年も放っておいて、今更のこのこ顔を出すだけでもいい面の皮だ。さらにこんな事態になってる事さえ気付かずにいて、見えなくなる前に会いに来た。なんて言えるもんか。しかも俺はまっとうな人間じゃ無いじゃないか」

「それでも会うべきよ。妹さんはいくつ?」

「たしか十六になったはずだ」

「まだ十六なんでしょ。その年で視力を失うのよ。相当動揺しているでしょうに」

「まだ失うと決まった訳じゃない。どの道俺にはどうしようもない事さ。医者に任せるしかない」

「手術はいつなの?」

「一週間後だ」


 それからの一週間は随分長く感じられた。やはり一樹はこの世界にいる自分を妹に見せられずにいる。 それでも時は待ってはくれない。手術の前日、礼似はとうとう一樹を病院まで引っ張っていった。

 礼似は病室にはいかなかった。ここからは身うちの話し合いだ。

 一樹を待ちながら礼似は思った。


 そろそろ潮時かもしれない。


 一樹が迷っている間、礼似も自分がこの世界から離れて生きていけるか考えていた。しかしいくら考えてみても答えは一つしかなかった。


 自分はこの世界でしか生きられない。


 一樹と上る事を夢見る間に、礼似はこの世界を走り抜ける心地よさを知ってしまった。母と父の血がそうさせるのかもしれないが、自分がここで生きる力がある事をもう知ってしまった。とても他の生き方で満足できるとは思えない。

 しかし一樹にはこの世界から離れて、守るべき人がいる。きっと私よりも必要としている人だ。

 私が一樹から離れて、初めて一樹は本当に解放されるんじゃないだろうか?


 病室から戻った一樹は何も言わなかった。礼似も何も聞かない。聞く必要はないような気がした。


 手術は無事に済んだ。腫瘍は幸い良性で、命にかかわる心配はない。後は視力の回復の見込みだけだが、そちらは殆んど望みがない事が解った。

 一樹は毎日病院に通っていた。妹との関係も回復しているのだろう。礼似は何も聞かなかった。必要なのは一樹の意思じゃない。自分の覚悟だと解っていたから。



「一樹、あんた、足を洗った方がいいわ」ついに礼似は切り出した。

「俺が? 今さらか?」一樹は笑う。しかし礼似は続けた。

「そうよ。あんたは今なら足を洗えると思う。私とは違う」礼似は一樹の目を見て言う。

「あんたは守るものがある。今まで私を守ってくれたように、今度はあんたが妹さんの目になる番よ。あんたなら出来る。今まで私を守ってくれた実績があるんだもの。あんたは人を守る力があるのよ」

「お前がいたからだよ。言ったはずだ。お前が俺の希望になったんだって」


 そうだ。一樹はそう言ってくれた。そこまで言ってくれた一樹だからこそ、私は解放したい。


 礼似はあの銃を上着のポケットから出した。そして銃をそっとなでる。いつかの一樹のしぐさだ。

 そして銃を握る。一樹は驚きもせずに見つめている。

 いつか一樹は自分が礼似の重荷になったら、これで一樹を撃つようにと言った。礼似はそんな日は来ないと思っていた。

 礼似はその銃を自分のこめかみに当てる。一樹が目を見張った。


「あんたは足を洗うのよ。今すぐ」

「礼似……」

「あんたはこのまま妹さんの元へ行くの。二度とここに戻らないで。じゃなきゃ、私、引き金を引くわよ」

「本気で言っているのか?」

「勿論本気よ」

「だったらお前も一緒に来ればいいじゃないか」

 そう言ってくれると思っていた。それがどんなに難しいか一樹も解っているはず。それでもその言葉が聞けて、十分だと礼似は思う。

「それは出来ないわ。私はここでしか生きていけない。そういう風に生まれついているのかもしれない。親の血もあるけれど、これが私の生き方なのよ」

「お前をこの世界に連れて来たのは俺だ」

「違うわ。いつか私はここに来る事が決まってたんだわ。それでも私はあんたに出会ってよかった。あんたと上を目指せてよかった。そしてあんたは私を解放してくれたんだわ。今度は私が一樹を解き放つの。この世界と、私自身から」


 礼似は目に力を込めた。こめかみに、より、銃を強く押しつける。

「行って」

「お前を置いて行けって言うのか?」

「そうよ。あんたが行くならば私は何があっても生き続けるわ。あんたを見届けるためにね。あんたが人生をあきらめるなら、私はここで引き金を引く。これが私が選んだこの銃の使い道よ」

 礼似はほほ笑んで見せた。

「行って、今すぐ背中を向けて。そして振り返らないで。じゃなきゃホントに引き金を引くわよ」


 一樹はついに背中を向けた。

「俺はお前のおかげで救われたんだ」背を向けたまま一樹が言う。

「それは私も同じ。お互いさまよ」礼似も答えた。


「お前に出会えてよかったよ。憎んでいた時も、憎めなくなった今も」

「私も出会えてよかった。あんたも私も悪くはないの。ただ、出会い方が悪かっただけ」

「俺に一人で行けって言うのか?」

「一人じゃないでしょ、一樹は。私も見守っているわ。たとえ二度と会う事が無くても」


 礼似はこめかみに銃を押しあてたまま、一樹の背中を見ていた。これ以上ためらっていたら、本当に引き金を引いてしまいそうだ。

「行って、早く。お願いだから」

 そう言われて一樹はついに歩きだした。一歩一歩ゆっくりと。

「ありがとう。礼似」一樹が最後につぶやいた。礼似は返事が出来なかった。もう、声が出ない。

 そのまま礼似は一樹の姿が見えなくなるまで、その背中をじっと見ていた。


 一樹は去った。いや、礼似自身が一樹を解放したのだ。これから自分達は互いの思い出を胸に自分達で歩いて行くのだ。二人が乗り越えるべきものは、この、別れだったのかもしれない。


「さよなら、一樹」


 礼似は銃を下ろして、一人、つぶやいた。



 礼似は会長室で、一樹に足を洗わせた事を告げていた。事後報告をわび、一樹を自由にする事を頼んだ。

 会長はしばらく黙っていたが、結局は承諾した。

「礼似、前にお前は一樹がいなくなればここには残れないと言ったな。今、お前はどうしたい?」

 会長が聞いてきた。

「ここに残らせて頂きたいです」

 礼似は静かに答えた。

「一樹に手を出させないためか?」

 礼似は首を横に振った。

「いいえ、私自身のために。私がこの世界で生きていくためにです。一樹に負けないくらい」

 そう言って礼似は笑って見せた。




 礼似は事務所のあるビルから出ると、空を見上げた。良く晴れて、青い空だ。

 そして、あらためて思う。

 私はここでしか生きられない。一樹がいても、いなくても。もしかしたら最初から決まっていた事なのかもしれない。

 だったら私はここで生き抜いて見せる。親の血を越えて、運の悪ささえも越えて。一樹を手放したに値する人生を送って見せる。


 あんな男、二度とは出会えない。


 だからこそ、それに値する手ごたえのある生き方をして見せるわ。

 見ていてね、一樹。私はくじけやしないから。

 あんたも妹と、今度こそくじけずに、世間を乗り越えて見せるのよ。


 一樹、あんたなら出来るわ。


 礼似は心からのエールを一樹に送り続けていた。



                                                                完


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