足元の灯り
灯りが一つ消えただけで、人は同じ場所につまずくようになった。
五番通路の、曲がり角。
床を横切る細い配管に、また靴先が当たった。
「そこ、出っ張ってるぞ」
ユウジが声をかけたときには、荷物を抱えた男はもう壁に肩をぶつけていた。
「先に言ってくれ」
「次は先に言う」
男は返事の代わりに荷物を抱え直し、通路の奥へ歩いていった。
ユウジは腰を下ろしたまま、消えた照明を見た。
透明な覆いの内側には、煤が薄く付いている。外した留め具は、掌の上で二つに割れた。
発光管は交換できる。だが、これでは透明な覆いを留め直せない。
工具袋を探る。
細い針金。短いねじ。径の合わない座金。
昨日まで入っていた金具の場所に、指が引っかかった。
「あの時に使ったか」
口に出すと、隣から声がした。
「何を?」
青い看板の下で、マコが店先の布を畳んでいた。
「手元の予備。水筒の蓋を押さえるのに使った」
「水筒?」
「医務区画へ持ってくやつだ。途中で漏れだしたって、トク爺が持ってきた」
ユウジは割れた留め具を、指の上で合わせてみせた。
「こいつが、あと一日持ってくれりゃ、別のを探す暇もあったんだがな」
手を離すと、二つの欠片はまたばらばらになった。
*
重力が反転して五年。
東京の地下には、昔の天井を歩く街ができた。
地下鉄や避難路をつないだメトロジェイルでは、元の照明器具が足元に残っている。
そのままでは靴に蹴られ、荷車に踏まれるので、囲いを付けたり、壁際へ移したりして使っていた。
ユウジは、そうした修理を請け負うシュウリヤだ。
五番通路の灯りも、彼が何度か直している。
曲がり角を照らし、店先を照らし、その先の段差まで、かろうじて光が届く。ありふれた灯りだが、消えると困る者が多かった。
ユウジは新しい発光管を布の上へ置いた。
交換する部品はある。配線の傷んだところも処置した。
あとは覆いを固定する金具だけだった。
「針金で留められないの?」
マコが訊いた。
「しばらくは持つかもしれん。でも、ここは荷物が当たる。緩んで覆いが外れたら困る」
「じゃあ、店の中のを見て」
ユウジはマコを見上げた。
「もう見た」
「奥の箱も?」
「底まで」
マコは口を閉じ、畳んだ布を棚へ戻した。
ざらざらとした青い金属板に、白いチョークで品物を書いた看板が掛かっている。
彼女の店には、地上から持ち帰られた品や、暮らしの中で余ったものが集まっていた。
布、水筒、針金、器。使い道の分からない部品もある。
欲しい物と差し出せる物が釣り合えば、交換が成立する。
その店に使える金具がないのだから、少し遠くまで探しに行くしかない。
ユウジは工具袋の口を閉じかけた。
通路の向こうから、小さな車輪の音がした。
布袋を載せた手押し車が、明るいところから暗がりへ入ってくる。押している女は曲がり角の手前で立ち止まり、床を覗き込んだ。
「配管は、もう少しこっちだ」
ユウジが指した。
女は車輪を寄せたが、まだ動かない。
「見えないのよ」
マコが店を出た。
車の前側を持ち、女と息を合わせて配管を越える。
「ここ、いつも通ってるのにね」
女が小さく笑った。
「暗いわよね。私だって、さっき蹴ったわ」
マコはそう言って、次の灯りのところまで一緒に歩いていった。
ユウジは、閉じかけた工具袋をもう一度開いた。
*
店へ戻ったマコは、入口の上を見た。
青い金属板の看板が掛かっている。
端が一か所、内側へ曲がって錆びていた。昔、運び込まれた荷物がぶつかった跡だ。
「ユウジ」
「なんだ」
「これなら?」
マコが指した先を見て、ユウジは眉を寄せた。
「看板だぞ」
「金属でしょ」
立ち上がり、指先で端を叩く。
厚さを確かめ、裏へ回って傷みを見る。
「使える?」
「使える。少し細工は要るが」
マコは看板を吊っている紐へ手を伸ばした。
「待て。まだ、ほかに探せるかもしれん」
「すぐ?」
ユウジは答えなかった。
心当たりのある仕事場まで歩き、相手を見つけ、箱を開けてもらう。そこにもなければ、その先だ。
マコは紐をほどき、看板を下ろした。
「どれくらい要るの」
ユウジは看板の上から指三本ぶんほどのところへ、横一文字に線を引いた。
「ここから上。細長く切って、覆いを押さえる帯にする」
「字にかかるね」
「かかるな」
二人で看板を見た。
曲がった角を避けて使うには、上の方を切るしかない。
「こっちの字を残したら?」
「そこは薄くなってる。締めたときに割れるかもしれん」
マコは裏を見て、表へ返した。
白い文字には、何度も書き直した跡があった。最後の一画だけが少し太い。
ユウジが黙っていると、マコは店の奥へ入り、品物の入った箱を一つずらした。
「ここで切れる?」
空けた作業台へ、看板を置いた。
「……いいのか」
「そこで転んだ人に、うちの水筒を割られるほうが困るわ」
ユウジは彼女を見た。
マコは看板を押さえ直した。
「手、ここでいい?」
「いや。もっと離してくれ」
*
金属を切る音が、狭い店に響いた。
途中で一度、ユウジは手を止めた。
マコが持ち方を変えるのを待ち、続きを切る。
細長い一片が外れたとき、残った看板が作業台の上で小さく跳ねた。
マコはそれを引き寄せた。
端に残った半分の文字を、親指でなぞる。
ユウジは切り出した金属を叩き、必要な形に曲げた。
青い塗装が、指に少し付いた。
「同じような板が手に入ったら、持ってくる」
手を動かしながら言った。
「いつになるかは、分からんが」
「じゃあ、青いのがいい」
「色まで選ぶか」
「看板だもの」
マコはそう言って、残った板の切り口へ布を当てた。
ユウジは作った金属を持ち、照明の前へ戻った。
発光管を収め、覆いを戻す。
円柱型の照明に、切り出した青い金属をぐるりと巻き付ける。最初は少し浮いた。もう一度外して曲げ直し、金属同士をねじで締めた。
覆いを押しても、動かなかった。
反対側から引いて確かめ、ようやく手を離す。
「点けるぞ」
マコが通路へ出てきた。
灯りが一度、短く瞬いた。
それから、白い光が床へ広がった。
配管の向こうに、細い影ができる。
擦れた壁も、荷車の車輪が残した跡も、さっきまで見えなかったところまで浮かび上がった。
マコは片目を細めた。
「こんなに明るかったっけ」
「暗いのに慣れてただけだ」
ユウジはしばらくしゃがんだまま、光が揺れないか見ていた。
覆いの下端で、青い金属が光っている。
その表面に、看板の白い文字が一画だけ残っていた。
*
店へ戻ると、足台に乗ったマコが、短くなった看板を吊り直していた。
バランスが気に入らないのか、結び目をずらす。
少し離れて眺め、また直す。
「何の店か、分からなくなったな」
ユウジが言うと、マコは振り返った。
「あんたが言う?」
マコは笑い、棚の小箱から短いチョークを取り出した。
残った文字を布で擦り消し、チョークを当てて四角を描く。
その中へ、もう一本、斜めの線を足した。
「布」
「言われなきゃ分からん」
「じゃあ、どう描くの」
ユウジは看板へ近づき、四角の端に折り返しを描いた。
マコが頷く。
「さっきよりは、布ね」
「さっきよりはな」
その隣に、マコが細長い丸を描いた。
口を付け、肩紐を足す。今度は、ユウジにも水筒だと分かった。
店の前を、小さな手押し車が通った。
さっきの女だった。
配管の手前で速度を落とし、少しだけ車の前を持ち上げる。
車輪は引っかからずに越えた。
「あら、直ったのね」
女は足元を見て言った。
ユウジが頷くと、女はそのまま進みかけ、青い看板の前で止まった。
「水筒、ある?」
「あるよ」
マコが答えた。
「蓋の合うやつが欲しいの。家のが、どうも緩くて」
「持ってきて。合わせてみましょう」
女は看板をもう一度見てから、手押し車を動かした。
ユウジは工具袋を持ち上げた。
マコは店先で、看板の空いているところへぐるぐると丸を描いている。
「今度は何だ」
「針金」
「それは分かる」
マコはチョークを止め、満足そうに頷いた。
ユウジが通路へ出ると、次の荷車が角を曲がってきた。
車輪は配管を避け、止まらずに通り過ぎていった。
誰も、足元の灯りを見なかった。
ユウジは工具袋を背中へ回し、その後を歩いた。




