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足元の灯り

作者: 羽月楓
掲載日:2026/10/04



 灯りが一つ消えただけで、人は同じ場所につまずくようになった。


 五番通路の、曲がり角。

 床を横切る細い配管に、また靴先が当たった。


「そこ、出っ張ってるぞ」


 ユウジが声をかけたときには、荷物を抱えた男はもう壁に肩をぶつけていた。


「先に言ってくれ」

「次は先に言う」


 男は返事の代わりに荷物を抱え直し、通路の奥へ歩いていった。


 ユウジは腰を下ろしたまま、消えた照明を見た。

 透明な覆いの内側には、煤が薄く付いている。外した留め具は、掌の上で二つに割れた。


 発光管は交換できる。だが、これでは透明な覆いを留め直せない。


 工具袋を探る。

 細い針金。短いねじ。径の合わない座金。

 昨日まで入っていた金具の場所に、指が引っかかった。


「あの時に使ったか」


 口に出すと、隣から声がした。


「何を?」


 青い看板の下で、マコが店先の布を畳んでいた。


「手元の予備。水筒の蓋を押さえるのに使った」

「水筒?」

「医務区画へ持ってくやつだ。途中で漏れだしたって、トク爺が持ってきた」


 ユウジは割れた留め具を、指の上で合わせてみせた。


「こいつが、あと一日持ってくれりゃ、別のを探す暇もあったんだがな」


 手を離すと、二つの欠片はまたばらばらになった。


     *


 重力が反転して五年。

 東京の地下には、昔の天井を歩く街ができた。

 地下鉄や避難路をつないだメトロジェイルでは、元の照明器具が足元に残っている。

 そのままでは靴に蹴られ、荷車に踏まれるので、囲いを付けたり、壁際へ移したりして使っていた。


 ユウジは、そうした修理を請け負うシュウリヤだ。


 五番通路の灯りも、彼が何度か直している。

 曲がり角を照らし、店先を照らし、その先の段差まで、かろうじて光が届く。ありふれた灯りだが、消えると困る者が多かった。


 ユウジは新しい発光管を布の上へ置いた。

 交換する部品はある。配線の傷んだところも処置した。

 あとは覆いを固定する金具だけだった。


「針金で留められないの?」


 マコが訊いた。


「しばらくは持つかもしれん。でも、ここは荷物が当たる。緩んで覆いが外れたら困る」

「じゃあ、店の中のを見て」


 ユウジはマコを見上げた。


「もう見た」

「奥の箱も?」

「底まで」


 マコは口を閉じ、畳んだ布を棚へ戻した。


 ざらざらとした青い金属板に、白いチョークで品物を書いた看板が掛かっている。

 彼女の店には、地上から持ち帰られた品や、暮らしの中で余ったものが集まっていた。

 布、水筒、針金、器。使い道の分からない部品もある。

 欲しい物と差し出せる物が釣り合えば、交換が成立する。


 その店に使える金具がないのだから、少し遠くまで探しに行くしかない。


 ユウジは工具袋の口を閉じかけた。


 通路の向こうから、小さな車輪の音がした。

 布袋を載せた手押し車が、明るいところから暗がりへ入ってくる。押している女は曲がり角の手前で立ち止まり、床を覗き込んだ。


「配管は、もう少しこっちだ」


 ユウジが指した。


 女は車輪を寄せたが、まだ動かない。


「見えないのよ」


 マコが店を出た。

 車の前側を持ち、女と息を合わせて配管を越える。


「ここ、いつも通ってるのにね」


 女が小さく笑った。


「暗いわよね。私だって、さっき蹴ったわ」


 マコはそう言って、次の灯りのところまで一緒に歩いていった。


 ユウジは、閉じかけた工具袋をもう一度開いた。


     *


 店へ戻ったマコは、入口の上を見た。


 青い金属板の看板が掛かっている。

 端が一か所、内側へ曲がって錆びていた。昔、運び込まれた荷物がぶつかった跡だ。


「ユウジ」

「なんだ」

「これなら?」


 マコが指した先を見て、ユウジは眉を寄せた。


「看板だぞ」

「金属でしょ」


 立ち上がり、指先で端を叩く。

 厚さを確かめ、裏へ回って傷みを見る。


「使える?」

「使える。少し細工は要るが」


 マコは看板を吊っている紐へ手を伸ばした。


「待て。まだ、ほかに探せるかもしれん」

「すぐ?」


 ユウジは答えなかった。

 心当たりのある仕事場まで歩き、相手を見つけ、箱を開けてもらう。そこにもなければ、その先だ。


 マコは紐をほどき、看板を下ろした。


「どれくらい要るの」


 ユウジは看板の上から指三本ぶんほどのところへ、横一文字に線を引いた。

「ここから上。細長く切って、覆いを押さえる帯にする」

「字にかかるね」

「かかるな」


 二人で看板を見た。

 曲がった角を避けて使うには、上の方を切るしかない。


「こっちの字を残したら?」

「そこは薄くなってる。締めたときに割れるかもしれん」


 マコは裏を見て、表へ返した。


 白い文字には、何度も書き直した跡があった。最後の一画だけが少し太い。

 ユウジが黙っていると、マコは店の奥へ入り、品物の入った箱を一つずらした。


「ここで切れる?」


 空けた作業台へ、看板を置いた。


「……いいのか」

「そこで転んだ人に、うちの水筒を割られるほうが困るわ」


 ユウジは彼女を見た。


 マコは看板を押さえ直した。


「手、ここでいい?」

「いや。もっと離してくれ」


     *


 金属を切る音が、狭い店に響いた。


 途中で一度、ユウジは手を止めた。

 マコが持ち方を変えるのを待ち、続きを切る。


 細長い一片が外れたとき、残った看板が作業台の上で小さく跳ねた。


 マコはそれを引き寄せた。

 端に残った半分の文字を、親指でなぞる。


 ユウジは切り出した金属を叩き、必要な形に曲げた。

 青い塗装が、指に少し付いた。


「同じような板が手に入ったら、持ってくる」


 手を動かしながら言った。


「いつになるかは、分からんが」

「じゃあ、青いのがいい」

「色まで選ぶか」

「看板だもの」


 マコはそう言って、残った板の切り口へ布を当てた。


 ユウジは作った金属を持ち、照明の前へ戻った。


 発光管を収め、覆いを戻す。

 円柱型の照明に、切り出した青い金属をぐるりと巻き付ける。最初は少し浮いた。もう一度外して曲げ直し、金属同士をねじで締めた。


 覆いを押しても、動かなかった。

 反対側から引いて確かめ、ようやく手を離す。


「点けるぞ」


 マコが通路へ出てきた。


 灯りが一度、短く瞬いた。


 それから、白い光が床へ広がった。


 配管の向こうに、細い影ができる。

 擦れた壁も、荷車の車輪が残した跡も、さっきまで見えなかったところまで浮かび上がった。


 マコは片目を細めた。


「こんなに明るかったっけ」

「暗いのに慣れてただけだ」


 ユウジはしばらくしゃがんだまま、光が揺れないか見ていた。


 覆いの下端で、青い金属が光っている。

 その表面に、看板の白い文字が一画だけ残っていた。


     *


 店へ戻ると、足台に乗ったマコが、短くなった看板を吊り直していた。


 バランスが気に入らないのか、結び目をずらす。

 少し離れて眺め、また直す。


「何の店か、分からなくなったな」


 ユウジが言うと、マコは振り返った。


「あんたが言う?」


 マコは笑い、棚の小箱から短いチョークを取り出した。


 残った文字を布で擦り消し、チョークを当てて四角を描く。

 その中へ、もう一本、斜めの線を足した。


「布」

「言われなきゃ分からん」

「じゃあ、どう描くの」


 ユウジは看板へ近づき、四角の端に折り返しを描いた。


 マコが頷く。


「さっきよりは、布ね」

「さっきよりはな」


 その隣に、マコが細長い丸を描いた。

 口を付け、肩紐を足す。今度は、ユウジにも水筒だと分かった。


 店の前を、小さな手押し車が通った。

 さっきの女だった。


 配管の手前で速度を落とし、少しだけ車の前を持ち上げる。

 車輪は引っかからずに越えた。


「あら、直ったのね」


 女は足元を見て言った。

 ユウジが頷くと、女はそのまま進みかけ、青い看板の前で止まった。


「水筒、ある?」

「あるよ」


 マコが答えた。


「蓋の合うやつが欲しいの。家のが、どうも緩くて」

「持ってきて。合わせてみましょう」


 女は看板をもう一度見てから、手押し車を動かした。


 ユウジは工具袋を持ち上げた。

 マコは店先で、看板の空いているところへぐるぐると丸を描いている。


「今度は何だ」

「針金」

「それは分かる」


 マコはチョークを止め、満足そうに頷いた。


 ユウジが通路へ出ると、次の荷車が角を曲がってきた。

 車輪は配管を避け、止まらずに通り過ぎていった。


 誰も、足元の灯りを見なかった。


 ユウジは工具袋を背中へ回し、その後を歩いた。


 

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