序章・少女は空疎を抱く 1
初めまして皆様。
今作より小説の連載を始めさせていただく、アカシア フラと申します。
今作はおおよそ単行本一冊ほどの話数にしようと考えております。
更新は不定期になってしまいますがぜひ読んでいただけると幸いです。
長文になってしまい申し訳ないのですが、質問です。
貴方とは一体何ですか?
____「人はなぜ人なのか」____
その路地を、私が見つけたのか。それとも路地が、私を見つけたのか。
今となっては、どちらとも言えない気がする。
あの日、私はあてもなく歩いていた。どこかへ向かおうとしていたはずなのに、その目的地が何だったか、もう思い出せない。春先の午後で、空は淡い水色をしていた。雲が少しあって、光が柔らかくて、影が長かった。街は静かではなかったが、騒がしくもなかった。人が歩いて、車が走って、どこかで鳥が鳴いていた。そういう、何でもない午後だった。
何でもない、と思っていた。
でも今になって振り返ると、あの日の午後には何か特別な質感があった気がする。光の角度が、いつもと少し違ったような。あるいは空気の密度が、わずかに重かったような。当時はそれに気づかなかった。気づく理由がなかった。ただ歩いていた。
目的地に向かって、あるいは目的地から逃げながら、とにかく足を動かしていた。
角を曲がったとき、路地があった。
細い路地だった。両側にビルが迫っていて、空が細く切り取られている。石畳が敷いてあって、少し湿っていた。雨が降ったわけではないのに。まるでこの路地だけ、別の気候の中にあるような。外の乾いた春の空気と、明確に切り離されたような湿り気が、そこにはあった。
普通なら、入らなかったと思う。
細い路地に一人で入るのは、理由がなければしないことだ。目的地でもなく、知っている店があるわけでもなく、ただ気になったというだけでは——普通なら、足は止まらない。
でも足は、路地の方へ向いた。
後から思えば、あれが最初の兆候だったのかもしれない。自分の意思と体の動きが、微かにずれ始めた瞬間。でもそのときの私は、ただ路地が気になっただけだと思っていた。石畳が珍しかったとか、奥に何かある気がしたとか、そういう単純な好奇心だと。自分の足を、自分で動かしていると思っていた。
路地に入ると、音が変わった。
外の音が、遠くなった。距離にすれば、ほんの数歩しか歩いていないはずだ。なのに車の音も、人の声も、鳥の鳴き声も——すべてが綿でも詰められたように、くぐもっていった。まるで水の中に潜ったときのような、音の質感の変化。
代わりに聞こえてきたのは、自分の足音だけだった。石畳を踏む、規則的な音。コツ、コツ、コツ。その音だけが、妙にはっきりと耳に届いた。
路地を進むにつれて、空気の匂いも変わった。
外では感じなかった匂いが、ここにはある。湿った石の匂いに混じって、何か甘いものの残り香のような、あるいは古い木の匂いのような——言葉にするのが難しい匂い。嫌ではなかった。むしろどこか懐かしいような気さえした。どこかで嗅いだことがあるような気がするのに、いつどこでかは思い出せない。
ーーーそして路地の突き当たりに、店があった。
小さな店だった。
間口は二間ほどしかない。
外壁は古びた煉瓦で、表面が長い年月によって丸みを帯びている。
蔦が這っていた。冬を越えたばかりの蔦で、新しい葉がほんの少しだけ顔を出していた。
窓が一つあって、その向こうにぼんやりと明かりが見えた。暖色の、柔らかい光。外の白い昼の光とは違う、夜の内側にあるような光。
看板があった。
でも文字が読めなかった。
正確には——文字が書かれている気はするのに、目で追おうとすると、するりと逃げていく。
形を持ちながら、意味を持たない文字。目の焦点を合わせようとすればするほど、ぼやけていく。
諦めて視線を外すと、また文字のように見える。
扉は木製だ。
古い木の、表面が滑らかに擦り減った扉。
どれほどの人の手が、この扉に触れてきたのだろう。
取っ手は真鍮で、長年の手の脂を吸って、鈍く光っていた。新品の真鍮の派手な光沢ではなく、使い込まれた道具だけが持つ、落ち着いた輝き。
私は扉の前に立って、しばらく動けなかった。
入るべきか、入らないべきか——という迷いではなかった。もっと根本的な何かが、そこにあった。
この扉を開けたら、何かが変わる。
そういう予感が、足を止めた。変わることへの恐れではなく、変わることの重さへの、ただの立ち止まり。人生には時々そういう瞬間がある。
大きな選択ではないのに、何かの境目に立っていることが分かる瞬間。あの交差点を渡るか渡らないかで、その後の人生が分岐するような——そういう、名前のつけようのない感覚。
深呼吸をした。
春の空気が、肺に入った。少し冷たくて、湿っていて、どこか紙の匂いがした。
この路地に入る前の空気とは違う。
もうすでに、この場所の空気を吸っていた。
私は取っ手を握った。
冷たかった。真鍮の、金属の冷たさ。
でも握っているうちに、すぐに温まった。私の体温を吸って。あるいは——もともとそこにあった体温が、私に伝わってきたのかもしれない。
扉を引いた。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。
外の春の気配が、すうっと消えた。
代わりに流れてきたのは——紙の匂いだった。
古い紙と、新しい紙と、その中間にある無数の紙の匂いが、複雑に混ざり合っている。
図書館に似ているが、図書館ではない。図書館の匂いにはどこか管理された清潔さがあるが、この匂いにはもっと有機的な何かがあった。まるで紙が生きているような。呼吸しているような。年輪を重ねているような。
温度も変わっていた。外より少し暖かい。でも暖房の熱さではなく、長い時間をかけて蓄積された温もりのような。大勢の人がここに座って、本を読んで、その体温が壁に染み込んで、今もそこにある——そういう種類の温かさ。
人の記憶が、熱として残っているような。
私は敷居を跨いだ。
店内は狭かった。最初はそう思った。入口からカウンターまで、数歩しかない。左右の壁は天井まで棚で埋められていて、本がびっしりと並んでいる。通路は人一人がやっと通れる幅しかない。でも——
狭苦しくはなかった。
むしろ包まれているような感じがした。
棚と棚の間に立って、四方を本に囲まれていると、不思議と落ち着いた。
知らない誰かの言葉たちに、静かに取り囲まれているような。図書館でも書店でもなく、もっと個人的な場所——誰かの書斎に、許可なく入り込んだときのような、後ろめたさと安心感が混ざり合った感覚。
照明は間接的だった。
どこに光源があるのか分からないが、店全体が均一な暖色に照らされている。影がほとんどない。それなのに眩しくない。目に優しい光だった。本を読むのに、ちょうどいい光。長い時間、ここに座っていられそうな光。
私はゆっくりと、棚を見た。
本が並んでいる。それは確かだ。でも——
題名がない。
どの背表紙にも、題名が書かれていない。著者名もない。出版社の名前もない。ただ無数の本が、色も厚さもばらばらに、棚を埋め尽くしている。赤い背表紙の隣に青が来て、その隣に茶色が来て、また赤が来る。統一感はないのに、雑然とした印象もない。まるでそれぞれが、ここにあるべくしてある、というように。
一冊、手に取ってみた。
薄い本だった。表紙は灰色で、角が少し擦り切れている。触れると、少し温かかった。紙の温度としては、あり得ない温かさだ。まるで誰かが今まで持っていたような。あるいは——ずっと読まれ続けてきたような。
開こうとした。
「それは、今のあなたには少し重いかもしれません」
声がして、私は振り返った。
カウンターの向こうに、人がいた。
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次回の更新は4月中となります。




